仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

最近の書物から:ディスホミニゼーションを鍛えるために

2008-06-29 11:15:10 | 書物の文韜
ディスホミニゼーションについての思索を深められるかどうかということで、ここのところ幾つか手に取ってみた本がある。

まずは中沢新一の新作2冊。『折口信夫 古代からきた未来人』(ちくまプリマー新書)は、昨年中沢新一がNHK教育で出演した「こだわり人物伝」に新稿を加えてまとめたもの。高校生にも読める内容ということで分かりやすく、相変わらず文章もうまい。しかし、いい意味でも悪い意味でも評論的である。折口論としての新しさ、あるいは重く訴えかけてくるところがない。テレビ放映時、中沢新一を昔からよく知るひとに、「これまで一度も、彼から折口の話なんぞ聞いたことがなかった」という話を聞いた。今回の新書の冒頭で、中沢は「ぼくは30年来の折口読みだ」といったことを書いているが、本当だろうか。真偽のほどは不明だが、どうも今回は、シャーマンとしてのシンクロ率、もしくは憑依具合が浅かったようだ。
ところで、先日冥界観を扱っている特講で川本喜八郎氏の『死者の書』を流したのだが、学生の反応はあまり芳しくなかった。仕方のないことだが、やはり眠ってしまう子もチラホラいる。想像力を限定する「説明」は極力省きたかったのだが、難解さを知の糧に変える力を培ってほしいと念じるばかりだ。
『狩猟と編み籠』(講談社)も期待して読みたい本だが、まずその体裁と価格に驚いた。芸術人類学叢書ということで、2000円前後の立派な研究書が幾つも出るらしい。さすが中沢新一の神通力。デザインもよい。問題は内容だが、映画を通じて対称性人類学の思考を語るもののようだ。以前にもここで書いたが、史学科におけるフィルムスタディーズの可能性について考えているところなので、目的とするところはピタリとはまった。とりあえず、ドメスティケーションの問題を扱っている『ベイブ』の章を読み始めているが、とにかく対称性人類学による前置きが極めて長い。また、以前に批判したように、どうもこの論理は、画期以前/以後といった諸情況、野生/家畜といった諸概念の二項対立を実体化する傾向が強いようだ。それが一次資料に基づく構築ではないところが、さらに危なっかしい。自分にとって都合のよい事例ばかりを、出典も不明確なままに抜粋して根拠とするところも、個別から普遍へ議論を拡大するうえで致命的な欠陥を帯びる。学界と社会とを幸せな形で繋ぐ中沢新一の重要性、必要性は了解しているし、そのマクロな視野から刺激を受けることは多々ある。上の指摘もいわずもがなのことなのだが、どうも最近気になってしまう。

もうひとつ触れておきたいのが、『ディスポジション-配置としての世界-』である。世界を主体の構築する表象と捉える近代的な「自我の形而上学」を批判し、存在する様々な要素の関係の総体とみる視点という。関係論だが、構造主義の基盤となったような認識論的関係論ではなく、実体を前提とした存在論的関係論ということになろう。アフォーダンスのような概念も念頭にあるようだ。まだ柳澤田実氏の序論を読んだだけなのだが、前日の記事に書いたような「存在を語る方法」を彫琢するうえでは参考になりそうである。ただし、表象論の名著であるフーコーの著作が異なる位置づけで採り入れられていたりするので、ルプレ学派などへの批判がどう行われているのか、それは蓋然性のあるものなのかなど、確認しなければならないことは多い。
ところで、この本を手にとって多少感慨深かったのが、編者の柳澤氏をはじめ、すべての執筆者が1970年代以降の生まれであることである。ついにこの日が来たか。もちろん「新たな時代が来た」などとはまったく思わないが、自分の世代が若手ではなくなったことを実感するとともに、いろいろな分野で戦っている同朋たちにしばしシンパシーを感じたのだった。
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