【奈良市埋蔵文化財調査センターの鐘方正樹所長が講演】
「赤田横穴墓群」(奈良市西大寺赤田町)は大和西大寺駅の西北約1.2キロに位置する。これまでに直近の8基も含め24基の横穴墓が確認され、大小様々な陶棺や木棺、副葬品、埴輪などが出土した。赤田の北側に位置する秋篠町でも4年前に飛鳥時代の横穴墓4基が見つかり「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」と名付けられた。奈良盆地北西部で横穴墓が多く出土するのはなぜか。陶棺や埴輪はどこで造られたのか。そんな疑問に答える講演会(せいぶ大和学講座)が3月10日奈良市学園南の西部公民館で開かれた。
講師は奈良市文化財埋蔵調査センター所長の鐘方正樹氏、演題は「『赤田横穴墓群』の謎―佐紀古墳群と土師氏と陶棺」。同センターでは「春季発掘調査速報展」で新たに見つかった横穴墓8基の陶棺や埋葬品などを公開中。鐘方氏は「横穴墓群が西側の住宅地域(の地下)にも続いている可能性が大きい」と指摘する。これまでに出土した亀甲形陶棺は横幅が2m以上のものから1mほどの小さなものまであった。古いものは大きく、新しいものほど小さくなっていく。(写真は赤田17号墓から見つかった亀甲形陶棺。登り窯に入るように真ん中で切断して焼いた)
陶棺は突帯と呼ぶ紐状の模様や分布域などで大きく「北大和」と「南河内」の2つの系統に分類される。北大和系は製作集団が奈良盆地北部中心に分布し、格子状突帯・蓋に突起がない・脚部を倒立して製作する――といった特徴を持つ。同じ北大和系でもさらに「a」と「b」の2系列に分かれるそうだ。一方、南河内系は大阪府南部に分布し、波状突帯・蓋に突起がある・脚部を正立して製作する。いずれも埴輪生産遺跡から陶棺やその破片も出土している。
赤田横穴墓群に近い所に4世紀後半の宝来山古墳(垂仁陵)築造に伴って営まれた集落跡「菅原東遺跡」がある。この遺跡からは古墳時代後期6世紀の集落と埴輪の窯跡も見つかった。近くから陶棺の破片も出土している。使われた土が埴輪と同じことから陶棺もその埴輪窯で作られたようだ。(写真は菅原東遺跡の埴輪窯跡=2021年2月20日、奈良市横領町「菅原はにわ窯公園」で)
古墳時代前期~中期に巨大古墳が集まる佐紀古墳群への埴輪の供給を担っていた「東院埴輪窯」が役目を終え、埴輪供給の中心地が「菅原東埴輪窯」に移ったとみられる。鐘方氏はそこで作られた埴輪が秋篠川を下って大和北部一帯に造営された中小古墳群に供給されたとみる。
“埴輪の祖”といえば天覧相撲で当麻蹴速と戦った野見宿禰。垂仁天皇の后日葉酢媛(ひばすひめ)が亡くなったとき、陵墓に殉死の代わりに埴輪を立てるよう進言、その功績によって「土師」の姓を賜った。続日本紀は「土師氏に四腹有り」と記す。「四腹」とは北大和の「菅原」「秋篠」と南河内の「古市」「毛受(もず)」の4つの支族を指す。
奈良市の菅原、秋篠の地名も土師氏一族が居住地を基に姓を菅原、秋篠に改めた名残。南河内には藤井寺市に「土師ノ里」、百舌鳥古墳群がある堺市にも「土師町」という地名が今も残る。土師氏一族はそれぞれの地に集落を構え窯を築いて古墳の造営に貢献したわけだ。赤田横穴墓に眠るのも土師氏の後裔ではないかと考えられている。