【感涙「化粧が流れ落ちパンダになったかもと目元を拭った」】
33年前のこの日、1990年3月3日「第4回マリア・カラス国際声楽コンクール」のファイナル(最終選考)がイタリア・ヴェネチアで行われた。約400人の応募者から第1次、第2次選考を勝ち抜いたのは12人。そのファイナリストの中で最難関のソプラノ部門(応募280人)で優勝を飾ったのが、なんと日本人の中丸三千繪(当時29歳)だった。新聞やテレビが大きく報道し、週刊誌も特集記事を掲載していたのが、つい先日のことのように思い出される。
マリア・カラス(1923~77)といえば20世紀最高のソプラノ歌手として名高い。その名を冠したこのコンクールは世界最高峰の声楽コンクールといわれ、3年に1度開かれていた。コンクールの模様は中丸が自ら綴った『スカラ座への道 マリア・カラスコンクール』に詳しい。中丸はピアニスト横山修司からコンクールの前こう声を掛けられた。「マリア・カラスコンクールといえば、日本でいったら美空ひばりコンクールというものだよ……。美空ひばり賞をイタリア人にやるかな。日本人がマリア・カラスコンクールで優勝するなんて、世界がひっくり返ってもありえないよ」
ところがコンクールが始まると耳の肥えた聴衆から高い評価を得る。前年の12月、12日間にわたって行われた第1次をパスすると、翌年1月末の第2次(セミファイナル)も突破。この間、2匹の猫を飼っていた中丸は「自分へのささやかなプレゼント」としてもう1匹飼うことにした。第2次では歌い終わるや拍手が鳴り止まず、舞台に4回も引き戻されることに。「コンクールなのにカーテンコールなどしていいのだろうか」ととまどった。「ビス(アンコール)!」の声まで掛かった。
ファイナルは3月3日午後8時にスタートした。中丸は第1部でヴェルディの『海賊』を歌ったが、ここでも拍手が鳴り止まなかった。「いままで歌った歌手のなかで、カーテンコールがあったのはミチエだけだよ」。誰かからこう耳打ちされた。ところがその後の衣装替えで、銀色ドレスの下のペチコート紛失騒ぎが起きる。中丸は「私のペチコート!」と叫びながら劇場内を駆け回った。お針子のおばさんが劇場衣装と間違えて持ち去ろうとしていたのだ。それでも無事に第2部を迎えてシャルパンティエの『ルイーズ』のアリアを歌い終えた。すると、またカーテンコールが3回も。
第2部が終わったのは日が替わって午前零時を過ぎていた。審査員9人は劇場内の密室に移動し、しばらくして審査結果の発表があった。「テノールとバリトン、バスおよびモーツァルト賞は該当者なし」。続いてメゾソプラノ部門、そして最後にソプラノ部門が発表された。「第1位ミチエ・ナカマル!」。大きな歓声と拍手。中丸はその時の心境をこう記す。「確か自分の名が呼ばれたような気もしましたが、自信はありません。『そんなはずはない』という気持ちもありました」
そのとき「地球が四角にでもなったかと思うような状態」だったとも表現する。「審査員からの抱擁とキスの嵐で、私は少しずつ正気を取りもどしていきました。泣いて化粧が流れ落ちて、まさかパンダのようになってしまったのではないかと、目元を拭ったりもしました」。発表では「ミチエ・ナカマル」という前に「審査員全員一致で」という言葉も添えられていたが、中丸は聞き漏らしていたという。
この後、レストランで大勢の祝福を受けた中丸はホテルに戻って茨城県の実家に電話をする。2年前1988年の第3回「ルチアーノ・パヴァロッティ・コンクール」で優勝した時には母や姉も現地で喜びを共有した。だが今回は家族を呼んでいなかった。それは第1回審査員の「優勝はイタリア人以外にありえない」という発言が頭に残っていたせいでもある。国際電話が繋がって母に「お母さん、優勝したのよ」と呼びかけた。だが、母は「またお前そんな冗談いって、本当はどうだったの」と信じない。「本当よ」と繰り返すと、「本当? 本当に? お父さん、たいへん!」。そのやり取りが目に浮かぶようだ。寝た頃には午前6時になっていた。
優勝を機に、中丸は世界的なソプラノ歌手として引っ張りだこになった。直後に凱旋帰国した中丸は大阪・鶴見緑地で開かれた「国際花と緑の博覧会」の開会式で君が代を歌った。6月には小澤征爾指揮のチャイコフスキー『スペードの女王』で悲願のスカラ座デビューを果たす。その後も欧米の歌劇場からオファーが相次いで、数々の有名オペラのプリマ・ドンナを務めてきた。