く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<小浜市㊦> 空印寺境内に八百比丘尼入定の洞窟

2019年12月19日 | 旅・想い出写真館

【小浜城は小浜湾を望む全国屈指の水城だった!】

 若狭地方最大の秋祭り「放生祭(ほうぜまつり)」で有名な八幡神社のすぐ西側、空印寺(曹洞宗)の境内に〝八百比丘尼(はっぴゃくびくに)入定(にゅうじょう)の地〟といわれる洞窟があった。空印寺は小浜藩主酒井家の菩提寺。八百比丘尼の不老長寿伝説は人魚伝説の一つとして全国各地で語り継がれており、ある研究者の調べでは全国約120カ所に残っているという。そのほとんどの伝承に若狭の地名が登場するそうだ。

 小浜に伝わる物語は――。昔、地元の長者が竜宮に招かれ土産として人魚の肉を持ち帰る。これを口にした娘はそれからというもの、いくら歳を重ねても年老いることがなく若さと美しさを保ち続けた。120歳のとき剃髪し比丘尼(尼さん)になって全国を行脚した後、故郷に戻ってこの洞窟に籠り静かに死のときを待った。後世の人々は800歳まで生きたこの娘を「八百比丘尼」「八百姫」などと呼んで敬った。

 

 洞窟の入り口右手には柔和な表情の比丘尼の石像。洞窟内の観覧は自由で、手を合わせ中に入らせてもらった。大きさは高さ2m、幅1.5m、奥行き5mほど。壁面の岩は実に巨大で、一瞬「石舞台古墳」(奈良県明日香村)の光景が頭をよぎった。一番奥には「八百比丘尼」と彫られた石碑が立っていた。人魚伝説に因んで、ここから北へ約400m、小浜湾に面した「マーメードテラス」には2体の人魚像が飾られていた。人魚の像は小浜駅前商店街の郵便ポストの上にも置かれていた。

 

 小浜城跡は北川と南川の間にあり西側に小浜湾を望む場所に位置する。関が原の後若狭に入国した京極高次と忠高が2代30年余をかけて築城、その後、藩主として入城した酒井家14代237年にわたる居城となった。全国屈指の水城で別名「雲浜城(うんぴんじょう)」とも呼ばれた。1871年に改修中、本丸櫓から出火して大半を焼失し、今は城郭の石垣を残すのみ。本丸跡には藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社が鎮座する。

 その一角にも八百比丘尼にまつわる痕跡があった。赤屋根で覆われた古い井戸の前に置かれた平たい「古呂美橋(ころびばし)の石」。かつて現在の小浜市鹿島区と浅間区の間にあった石橋の石という。小浜藩儒(藩主に仕えた儒学者)千賀玉斎(1633~82)著『向若録』にはこんな内容が記されているそうだ。「八百比丘尼がこの場で倒れたまま起きずして死す。故に名付けて古呂美橋という。京極家の地領の時にこの本丸に移す」

 

 小浜は明治時代に与謝野晶子とともに『明星』で活躍した歌人山川登美子(1879~1909)の出身地。生家が記念館として公開され、小浜公園には歌碑が立ち、観光案内標識などにも登美子の歌が記されていた。旧茶屋町「三丁町」の標識の側面には与謝野鉄幹の歌「君なきか若狭のとみ子しら玉のあたら君さえ砕けはつるか」。ただ山川登美子記念館は訪ねた火曜日が運悪く定休日だった。明治時代の芝居小屋を移築・復元した「旭座」も火曜定休で入れなかったのが少々心残りだった。

 

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