く~にゃん雑記帳

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<鯖街道熊川宿> 宿場町の面影を残す約1キロの町並み

2019年12月15日 | 旅・想い出写真館

【東の端に番所、街道沿いには勢いよく流れる水路「前川」

 〝鯖街道〟として知られる若狭街道は日本海側の小浜を起点に朽木、花折、大原を経て京都に至る。その街道随一の宿場町として栄えたのが熊川宿(福井県若狭町)。16世紀末、若狭の領主となった浅野長政が交通・軍事の要衝として着目して町並みを整備、海産物を運ぶ人の往来でにぎわった。往時の歴史的景観を残す熊川宿は1996年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、さらに4年前の2015年には「御食国(みけつくに)若狭と鯖街道」が日本遺産に認定された。専門家が選ぶ「訪ねてみたい風情あふれる宿場町」(10月26日付日本経済新聞「NIKKEIプラス1」)でも妻籠宿(長野)や大内宿(福島)、馬籠宿(岐阜)などに続いて10位にランクインしている。

 熊川宿の町並みは小浜側から下ノ町(しもんちょ、約300m)、中ノ町(なかんちょ、約300m)、上ノ町(かみんちょ、約400m)と続く。重伝建保存地区の広さは約10.8ヘクタール。街道は一直線ではなく緩やかにカーブを描き、下ノ町と中ノ町の境目は「まがり」と呼ばれ直角に折れ曲がる。熊川宿を訪れるのは今回が初めて。JR京都駅から湖西線で今津近江に向かい、駅前からバスに揺られること約30分、道の駅若狭熊川駅に降り立った。

 

 道の駅の一角に設けられた「マンガで知る鯖街道ミュージアム」を見学後、早速上ノ町へ。まず出迎えてくれたのが復元された「熊川番所」。江戸時代にはここで「入り鉄砲に出女」と呼ばれるように往来が厳しく取り締まられ流通物資への課税も行われた。2体の役人の人形が番所内から通りに目を光らせていた。その近くに鎮座する権現神社は再三大火に見舞われたことから村人が防火を願って建立した。〝権現さん〟として親しまれてきたそうだ。

 

 中心部の中ノ町には熊川宿で最も古い町家「倉見屋荻野家住宅」をはじめ趣のある建物が多い。倉見屋は当時の問屋の形式をよく残しているとして5年前、国の重要文化財に指定された。「勢馬清兵衛家」も「菱屋」という旧問屋で、整然とした格子が美しい。「旧逸見勘兵衛家住宅」は伊藤忠商事2代目社長伊藤竹之助(1883~1947)の生家。約20年前に大改修が行われたが、外観は昔ながらの町家造りになっている。その近くに明るい青い壁の「宿場館(若狭鯖街道資料館)」があったが、訪ねた日は残念ながら定休日だった。元々は昭和前期の1940年に熊川村役場として建てられたとのこと。

 中ノ町には神社仏閣も多い。松木神社は江戸初期に厳しい年貢の引き下げを訴え続けて28歳の若さで磔の刑に処せられた義民松木庄左衛門を祀る。鳥居のそばに銅像が立ち、境内には遺徳を顕彰する義民館も。参道を上って境内に入ると、お尻が真っ赤なサル2匹が森に向かって逃げていた。白石神社は地元の氏神で、毎年5月3日の祭礼では京都の祇園祭に模した豪華な見送り幕(県指定文化財)で飾られた山車が曳き回されるという。得法寺は徳川家康が織田信長に従って越前の朝倉義景を討つため敦賀に向かう途中に泊まったといわれ、境内には翌朝出陣の際に座ったという〝家康腰かけの松〟の跡が残っていた。

 

 下ノ町には街道の歴史や食文化を紹介する「村田館」、木工や陶芸を体験できる「熊川宿体験交流施設与七」があり、西側端の山側には「孝子与七の碑」が立つ。与七とその妻は約270年前、貧しい暮らしの中で父母にご馳走を食べさせるなど孝行を尽くし、時の藩主は米数俵を与えて褒め称えたそうだ。熊川宿の街道沿いには前川と呼ばれる幅1m強の水路が走り、家々の前には水路に下りる「かわと」という石段の洗い場が設けられていた。この前川は2008年、環境省の「平成の名水百選」に選ばれている。

 

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