く~にゃん雑記帳

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<奈良の〝僧房酒〟>技術革新で誕生 興福寺などお寺の貴重な財源に!

2012年06月24日 | 考古・歴史

【奈良大学公開講座「奈良の酒造り」】

 奈良大学で23日、「奈良の酒造り」をテーマにした公開講座があった。講師は清酒「春鹿」で有名な今西清兵衛商店(奈良市)の今西清悟会長。奈良日仏協会会長も務める文化人だ。「漫談を聞くようなつもりで気楽に聞いて」という言葉で始まった講義は、ユーモアを交えながら日本酒発祥の「奈良酒」の歴史を分かりやすく解説してくれた。以下はその要旨。

 酒造りの歴史は古い。日本書紀の神代の巻にはスサノオノミコトが8つの甕を酒で満たし、ヤマタノオロチに飲ませて退治する場面が出てくる。平城京でも造酒司(みきのつかさ)という役所が設けられ、盛んに酒造りが行われた。平城京からは酒造用の井戸の跡も発掘されている。酒造の目的は祭祀や外交(渡来人の接待)など。一般の民衆は飲酒を禁じられていたが、平城京で働く役人は例外だった。〝役人天国〟は奈良時代からあったわけだ。

 当時の酒造法は主に鰮(魚偏を酉偏に。読みは「しおり」)方式。蒸し米と米麹、水で最初の仕込みを行い、得られた薄い酒にまた蒸し米、米麹を仕込んで発酵させる。これを4回繰り返して高濃度の酒を造る。平城京で本格化した朝廷の酒造りは都が京に移っても続けられた。一方、南都の寺は官寺として待遇(収入)が減少、大勢の学問僧や僧兵、雑務に携わる寺人らを養うために、酒を大量に造って一般大衆への販売を始めた。これが「僧坊酒」の始まりで、興福寺やその末寺が積極的に取り組んだが、中でも正暦寺で造られた「菩提泉」は最高の美酒といわれた。

 僧坊酒はそれまでの酒造法を大きく改めた。従来は玄米を使って仕込んだが、それを精白米に切り替えた。これを諸白(もろはく)造りと呼ぶ。同時に酘(とう)方式という画期的な方法を編み出した。まず少量の蒸し米、麹、生米、水で酵母培養基(菩提もと)を造り、それを母体にして3回に分けて蒸し米、麹、水を加えていく。この醸造方法は今日の日本酒醸造法の根幹を成す。フランスのシャンパンもキリスト教のベネディクト会の修道士によって画期的な方法で造り出された。その人の名は「ドン・ペリニヨン」。洋の東西で、お坊さんが酒造りの技を編み出したところがおもしろい。

 寺での酒造りは次第に民間に広がっていく。興福寺塔頭の多聞院日記(1478~1618年)にも、興福寺の寺男が請われて酒造業者の指導に活躍する様子などが記されている。僧坊酒と酒屋は最初のうちは共存していたが、次第に酒屋の勢いが増す。隆盛を極めた奈良酒だが、江戸には陸路を馬で運ぶしかなかった。流通コストの面で神戸の港から船で大量に運ぶ灘や伊丹の酒にはかなわず、日本第一の名酒の地位を明け渡すしかなかった。

 江戸に送られた酒は「江戸下り酒」と呼ばれた。上方から江戸に下っていくわけである。下り酒は品質の良い酒。一方、関東周辺の酒はうまくないため「下らない酒」といわれた。そこから価値のないことやつまらないことを意味する「下らない」という言葉が生まれた。ところがJRはいつの間にか「下り」を「上り」に変えてしまった。それによって言葉の文化を破壊したわけである。本日は下らない話を最後まで聞いていただいてありがとう。

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