く~にゃん雑記帳

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<浄瑠璃寺九体阿弥陀像> 「まず中尊像が造立され、残り8体はその後に追加」!

2013年03月03日 | 考古・歴史

【帝塚山大学公開講座で井上英明・佐川美術館学芸員】

 奈良市の帝塚山大学で2日、「浄瑠璃寺九体阿弥陀像について」をテーマに市民公開講座が開かれた。講師は井上英明・佐川美術館学芸員。九体阿弥陀像は阿弥陀信仰が盛んだった平安時代に競うように造立されたが、浄瑠璃寺(京都府加茂町)の9体は平安期作としては現存唯一のもの。その制作時期については主に永承説(1047年)と嘉承説(1107年)が唱えられてきたが、井上氏は「まず中尊像が造られ、その後に追加する形で8体が造られたのではないか」との説を披露した。

  

 浄瑠璃寺は本堂に9体の阿弥陀如来坐像(国宝)を安置することから「九体寺」ともいわれる。真ん中の中尊は高さが約2.2mで、その左右にやや小ぶりの脇侍が4体ずつ並ぶ。制作年代については寺伝「浄瑠璃寺流記事(るきのこと)」の永承2年と嘉承2年の記述などを基に、2つの説を中心に論じられてきた。

 井上氏はまず永承説について、「先本堂…一日ニ葺之」と僅か1日で屋根を葺いたとの「流記事」の記述から、その規模から見て9体を安置するのは無理と判断。さらに寺名が薬師如来の居所「東方浄瑠璃世界(浄土)」に由来することから、この本堂に安置したのは阿弥陀像ではなく本尊の薬師如来とみる。嘉承説についても、嘉承年間になぜ9体を造って本尊を変更したかの説明に説得力を欠くなどとして疑問を呈した。

 平安後期に多く造られた九体阿弥陀堂の発願者・造立者は「天皇家、摂関家といった上級貴族、あるいは院近臣と呼ばれる受領層が中心」。浄瑠璃寺阿弥陀堂より前に造られたものに藤原道長が極楽往生を願って建立した法成寺無量寿院(1020年)がある。浄瑠璃寺には1150年、奈良・興福寺から恵信が入山した。恵信は摂関家の出身で祖父が藤原忠実、父が藤原忠通。その経済力を背景に恵信は苑池の整備や西岸での本堂建立などに取り組み「再興本願」とも称された。「法成寺のように池を挟んで彼岸と此岸を再現する浄土式伽藍配置を考えていたのではないか」。

 井上氏によると、阿弥陀像9体はそれぞれの作風から「中尊と他の8体は様式的な差、時代的な差もある」。さらに寺伝の記録や平等院鳳凰堂など同時代の阿弥陀像との比較から、「まず中尊が嘉承2年(1107年)に独尊像として造られ、残り8体は恵信が入ってきて本堂を西側に移した保元2年(1157年)に造られたのではないか」とみる。制作時期に半世紀の隔たりがあるというわけだ。ちなみに浄瑠璃寺の四天王立像も多聞天(毘沙門天)が最初に造られ、他の3体はその後に造られたそうだ。

 では阿弥陀像9体のうち中尊だけ大きく、他の8体がやや小さいのはなぜか。井上氏は「恵信も全て中尊と同じ〝丈六〟で造りたかったが、莫大な費用がかかるため〝半丈六〟になったのでは」と推測する。8体もそれぞれ衣文など文様が微妙に異なる。この点については「本来なら統一すべきだが、各仏像の制作を担当した〝小仏師〟の采配で少しずつ変わったのではないだろうか」とみる。


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