【60年間にわたる平城木簡出土の足跡を辿る】
奈良文化財研究所の平城宮跡資料館で秋恒例の特別展「地下の正倉院展」が始まった。平城宮跡で1961年に初めて木簡が出土してから約60年。この間に膨大な量の木簡が見つかった。今年は平城宮跡の史跡指定から100周年、奈文研も設立70周年。節目の年に当たることから、今展では「平城木簡年代記(クロニクル)」をテーマに、代表的な木簡を通じて木簡出土の足跡を辿る。
平城宮跡と平城京跡から出土した木簡の総数は30万点を超える。そのうち「大膳職(だいぜんしき)推定地出土木簡」など3184点が2018年に「平城宮跡出土木簡」として国宝に指定された。さらに2020年には「長屋王家木簡」の一部が重要文化財に指定されている。今展では各年代を代表する木簡56点(国宝8点、重文6点を含む)を2期に分けて展示する。会期は前期が10月15~30日、後期が11月1~13日。
初の木簡(上の写真)が出土したのは1961年1月24日。復元された第1次大極殿のすぐ北側、後に「大膳職」(給食センター)跡と推定される場所で見つかった。発見者の第一声は「タクサン! ナンカ字ィ書イタルデー」。木片の木簡が古代の筆記具として使われていたことを示す大発見だった。「タクサン」とは発掘担当者で、後に奈文研所長を務めた故田中琢(みがく)氏のこと。その記念すべき木簡は腐食が激しく判読が難しいが、書き出しは残画から「謹啓 請…」と読めることから、何らかの依頼文とみられる。この出土場所からは40点の木簡が見つかった。
2年半後の63年夏、今度は平城宮の北端近くの今は「内裏北外郭官衙(かんが)」と呼ばれる場所の廃棄土坑から約1800点の木簡が出土した。これらの木簡は最初に見つかった木簡とともに国宝に指定されている。今展ではその中から「西宮」を警備する兵衛(ひょうえ)の木簡(上の写真)なども展示中。さらに66年には平城宮東南隅の長大な東西溝から約1万3000点もの木簡が出土した。大半が下級役人の勤務評定に関するものだったことから、付近に役人の人事を掌る「式部省」があったことが判明した。
1970年代を代表する木簡は3点を展示中。その中に東西楼閣のことに触れた木簡がある。「里工作高殿料短枚桁二枝」と書かれたもので、高殿(重層の建物)の部材のうち短いもの2本を里工(徴発された民間の工人)が加工したと記す。今年4月、第1次大極殿院南門の復元完成に続いて東楼復元工事が始まった。現在は巨大な素屋根で覆われており、2025年竣工を目指している(下の写真)。
1980年代の最大の発見は「長屋王家木簡」(約3万5000点)。88年に百貨店建設予定地の調査区域から外れた重機掘削現場で、念のためと目を光らせていた調査員が厚い木屑堆積層の存在に気づいた。これをきっかけに急遽本格的な発掘調査が始まったという。この百貨店建設に関連した調査では「二条大路木簡」(約7万4000点)も出土した。それらの木簡の分析から長屋王没後、旧長屋王邸の地が一時期、光明皇后の皇后宮として利用されていたことが明らかになった。(写真は「二条大路木簡」の出土状況=展示パネルから)
1990年代出土のものは「春宮坊(とうぐうぼう)」(皇太子の家政機関)の存在を示唆する木簡など3点、2000年代では巻貝の荷札など4点が展示されている。2010年代以降の展示中の木簡は6点で、最も新しいものは美濃国からの米の荷札(下の写真)。昨年11月25日に平城宮西北部の調査で出土したもので、まだ保存処理中のため水溶液に漬けた状態での展示になっている。後期にはこれよりもっと新しい12月3日出土の木簡も展示される予定。