く~にゃん雑記帳

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<平城宮跡資料館> 「地下の正倉院展 式部省の木簡の世界」

2016年10月21日 | 考古・歴史

【奈良時代の下級役人も厳格な勤務評価で管理されていた!】

 今年も奈良国立博物館(奈良市)で正倉院展(10月22日~11月7日)の時期を迎えたが、国立文化財機構奈良文化財研究所の平城宮跡資料館でも秋恒例の「地下の正倉院展」が一足早く15日から始まった。10回目の節目に当たる今回のテーマは「式部省木簡の世界~役人の勤務評価と昇進」。式部省は役人の管理・養成を担当した役所で、平城宮の東南端に位置した。今年は式部省の木簡群が大量に発見されて丸50年。その一部180点余を11月27日までの会期中、3期に分けて展示する。

 

 奈良時代の初めには式部省が役人の人事・勤務評価を一手に受け持っていた。当時の長官は長屋王。だが、長官職は後に藤原氏の手に移り、人事も文官は式部省、武官は兵武省と分担するように。今回展示する木簡は主に「東西溝SD4100」(下の写真㊧)と呼ばれる長さ約50mの溝跡から出土したもので、奈良時代後半の天平神護年間から宝亀元年(765~770年)のものが大半を占める。

 

 これらの木簡群は①点数が1万3000点と厖大なこと②その大半が削り屑だったこと③削り屑のほとんどが役所に勤務する下級役人の勤務評価の際に作られた木簡を削ったものだった――という特徴を持つ。位階五位以上の貴族に対し、六位以下が下級役人と呼ばれた。勤務評価には毎年の評価と、毎年の評価を一定年数分総合して位階の昇進を決定するものの2種類があった。前者は「考選木簡」、後者は「選叙(せんじょ)」と呼ばれ、両方合わせて勤務評価を「考選」、そのための木簡を「考選木簡」と呼んでいる。

 木簡の新品は厚さが2~3cmあったとみられ、その側面の上部に穴を開けて使い始め、勤務評価が終わると表面を削って再利用した。木簡には個人カードとして官職・位階・姓名・年齢・本貫地8本籍地)が記載され、考選の木簡には最上部に前年の評価と今年の評価、最下部に出勤日数などが書き加えられた。考課は常勤か非常勤かなどで9段階評価と3段階評価のものがあった。また選叙の木簡には各年の勤務評価の内訳や昇進の判定結果などが記された。(下の写真は㊧勤務評価に使われた木簡の完形品と穴から下部を折ったり切ったりしたもの、㊨勤務評価に使われた木簡を別の用途の木簡に再利用したもの)

 

 非常勤役人の場合、3段階評価の「中」を6年間続ければ一階昇進、3年「中」・3年「上」で二階昇進、6年連続「上」で三階昇進。1年でも「下」が付くと、他の年の「上」で相殺できないと昇進できなかった。当時の位階は最下位の「少初位(しょうそい)下」から最上位の「正一位」まで30段階。下級役人が無位からスタートし、仮に30年間毎年「中」や「中中」の評価をもらってもやっと八位に到達できるだけだった。当時の役人は考課と選叙による勤務評価によって厳格に管理されていたわけだ。勤務評価は5位以上の貴族も対象だったが、位階は「勅授(ちょくじゅ)」として天皇の決定に委ねられた。

 

 木簡には特別の昇進などがあった場合、その旨が註記された。政争に巻き込まれて役人としての道を絶たれたケースも。上の写真㊧の右側の木簡には「仲万呂支党除名」と記されていた。藤原仲麻呂の乱後の連座が下級役人にも及んだことを示す。「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清道」(写真㊨)と記された木簡も。「破斯」はペルシャ(波斯)のことで、出身国名をそのまま氏名としている。この木簡の記述は当時ペルシャ人が式部省の役人養成機関である大学寮に勤めていたことを示している。

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