く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<大阪自由大学> スポーツ事件の裏の裏「ヒットラーとベルリン五輪」

2016年07月15日 | スポーツ

【玉置通夫氏「メディア史上、画期的な大会だった」】

 大阪自由大学主催の連続講座「スポーツ事件の裏の裏―その真相を探る」の第4回講座が14日、大阪市中央区本町の「おおさかシニアネット」で開かれた。講師は大阪スポーツマンクラブ会長の玉置通夫氏(元毎日新聞編集委員)。1936年のベルリン・オリンピックはドイツのヒットラーが〝好戦国家〟としての疑念を払拭するため政治的に最大限利用した大会といわれるが、玉置氏は現地でのテレビによる実況中継や史上初の記録映画の製作など「メディア史のうえで画期的な大会でもあった」などと語った。

   

 ヒットラーは最初、開催に否定的だったが、側近ゲッペルスらの忠言を受け入れ開催を決めたという。「周辺国が警戒を強めていた中、好戦的な姿勢をカモフラージュするうえで格好のイベントだった」。ベルリン大会では新基軸として聖火リレーが初めて採用され、現地ではテレビによる実況中継も行われた。女性監督を起用して「民族の祭典」「美の祭典」という2部構成の記録映画も製作された。また設備や運営面でも参加選手らに好印象を与えたという。

 日本選手の活躍はめざましいものだった。日本の〝お家芸〟といわれた三段跳びでは前々回(アムステルダム)の織田幹雄、前回(ロサンゼルス)の南部忠平に続いて田島直人が世界新で優勝し三連覇。競泳では200m平泳ぎの前畑秀子や葉室鉄夫らが優勝し、マラソンでも孫基禎が金メダルをとった。そのベルリン大会では日本で初めてラジオによる実況中継も実現し、「前畑、がんばれ」の絶叫に多くの国民が熱狂した。河西三省アナウンサーは生前当時を振り返って「冷静に放送しないといけないのに応援団になってしまった。アナウンサーとしては失敗作。絶対に聞きたくない」と話していたそうだ。

 日本の新聞社の報道合戦もすさまじかった。各紙は初めて特派員団を結成し、一流の作家や文化人も送り込んだ。朝日は武者小路実篤、毎日は横光利一、読売は西条八十……。ベルリン大会は「オリンピックとメディアの関係が新たな段階に入った記念すべき大会でもあった」。五輪開幕前日にはIOC(国際オリンピック委員会)の理事会で、4年後の1940年の開催地が東京に決まった。だが、日本は1937年の日華事変(日中戦争)の勃発を機に戦争に突き進む。ドイツも39年ポーランドに侵攻する。そうした中、日本は東京五輪の開催を返上し「東京に向け準備をしていた多くの選手がオリンピックの夢を断たれた」。

 戦時下の1944年も五輪は開かれず、48年になってようやくロンドン大会が開かれた。だが戦争当事国の日本とドイツは参加が認められず、日本の五輪復帰は52年のヘルシンキ大会まで待たねばならなかった。ベルリンから実に16年もの空白。「この間にピークを迎えた選手たちにとっては大きな痛手だった」。世界新を連発し〝フジヤマのトビウオ〟とまでいわれた古橋広之進でさえ、ヘルシンキでは400m自由形決勝で最下位に終わった。4年前のロンドンに出ていたら金メダルはほぼ確実だった。ロンドン大会の競泳決勝に合わせ同じ日に行われた日本選手権。古橋が400mと1500m自由形で出したタイムは世界新に相当し、ロンドンの金メダリストの記録も上回っていた。

 ◎次回以降の同講座の開催日とテーマは以下の通り。第5回=9月8日「東京五輪フィーバー」、第6回=10月13日「大相撲界最大の騒動、春秋園事件」、第7回=11月17日「力道山の死」、第8回=12月8日「南海ホークス蔭山監督の急死」(いずれも午後6時半~8時「おおさかシニアネット」で、参加費は1000円)

 

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