【立命館大学国際平和ミュージアムで回顧展開催中】
波乱の人生が米国映画にもなった反骨のホームレス画家、ジミー・ツトム・ミリキタニ(三力谷勤、1920~2012)の回顧展が、京都市の立命館大学国際平和ミュージアムで開かれている(20日まで)。第2次世界大戦中は米国で日系人強制収容所に送られ、戦後はニューヨークで長く路上暮らしを続けたジミー。回顧展には得意とした猫のほか、収容所や9.11同時テロ、故郷広島の被爆などを描いた作品30点が並ぶ。
(㊧「猫とレッドスナッパー」、㊨「カニ」)
米国生まれのジミーは生後まもなく家族と共に日本に戻るが、18歳の時、画家を志し市民権を持つ米国に渡り、シアトルの姉の嫁ぎ先に身を寄せる。しかし、1941年の日米開戦で生活は一変。ジミーは他の日系人同様〝敵性外国人〟として強制収容された。米国への忠誠と従軍の意思を問う「忠誠登録」に同意せず、市民権放棄にも応じたため、戦後も48年まで収容され続けた。
(㊧「ツール・レイク1」、㊥「ワールド・トレード・センター2」、㊨「原爆ドーム」)。
その後、NYの裕福な老人宅で長く住み込み料理人として働く。だが、その老人の死によって職と住居を失ったジミーは、1980年代の終わり頃から路上生活を余儀なくされた。同時多発テロが起きた2001年9月11日もいつものように路上で絵を描いていた。その姿が映画監督リンダ・ハッテンドーフの目に止まった。リンダはジミーの数奇な半生を映画化し06年「ミリキタニの猫」として公開した。その映画は米トライベッカ映画祭で観客賞、東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門で最優秀作品賞を受賞している。
回顧展の展示作品は1999年から2006年にかけて描かれたもの。戦中3年半にわたり強制収容されていたカリフォルニア州のツール・レイク収容所を描いたスケッチが4枚あった。人間の尊厳を否定した不当な扱いに、ジミーは亡くなるまで我慢ができなかったのだろう。同時テロで崩壊するワールド・トレード・センターや原爆ドームを描いた作品はいずれも真っ赤な炎に包まれている。
(㊧「コリアンタイガー」、㊥「猫と静物1」、㊨「秋の陽を浴びる猫」)
こうした激しい作品とは対照的に、猫や花、自然の風景などを描いた作品はいずれもカラフルで優しい。作品の中には「日本画一位画家 川合玉堂」「木村武山 佛画 師事」などと記したものが目立つ。よほど両氏に心酔していたのだろう。「広島縣人」と記したものもあった。晩年は「雪山」の雅号も使った。その雅号はコロンビア大学に日本文化研究所を設立した角田柳作(1877~1964)から贈られたという。角田はドナルド・キーン氏の師として知られる。
ジミーは82歳の頃、強制収容されて以来、生き別れになっていたシアトルの姉と50年ぶりに再開することができた。映画監督リンダの尽力による。晩年はNYマンハッタンの高齢者用アパートに住み、2年に1回、強制収容所の跡地巡礼ツアーに参加した。1年前の2012年7月にもツアーに参加し、同時に作品展も開いたが、その3カ月後に亡くなった。享年92だった。
平和ミュージアムでは「丸木スマ展―生命(いのち)をみつめて」も同時開催中。丸木スマ(1875~1956)は70歳だった1945年に被爆し、翌年夫を亡くした。その後、「原爆の図」で知られる長男、丸木位里と俊夫妻の勧めで絵を描き始め、81才で亡くなるまで描き続けた。展示作品は「海の幸」「猫の家」「あじさい」「ピカの時」「ピカゆうれい」など12点。被爆した時、周りの人が「運命と思ってあきらめましょう」と慰めるのを聞いて、スマは「これは山崩れや地震とは違う。原爆は人が落とさにゃ落ちてこん」と反論したそうだ。