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く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「カタツムリの謎」

2015年09月05日 | BOOK

【野島智司著、誠文堂新光社発行】

 表紙上部の「日本に800種!」の下に赤字で「コンクリートをかじって栄養補給!?」。えっ、ホント? カタツムリは雨の日、ブロック塀に集まって二酸化炭素を含んだ雨水がわずかに溶かし出すコンクリートを食べるという。カタツムリの殻の主成分は炭酸カルシウム。カタツムリは殻づくりに必要なカルシウムを、石灰石を主原料とするコンクリートから摂取するというわけだ。

      

 カタツムリには天敵が多い。とりわけ繁殖期の野鳥にとってカタツムリは貴重なカルシウム源。野鳥の卵殻は成分の約95%を炭酸カルシウムが占める。「土壌中のカルシウムが少ない地域ではカタツムリも少なく、その結果、野鳥の卵の殻も薄くなる」という傾向があるそうだ。オサムシの仲間で日本固有種のマイマイカブリはカタツムリを主食とする。頭が小さく首(正確には前胸部)が長くて、楽器の琵琶に似る。だから別名「琵琶虫」。カタツムリの殻の入り口から頭を突っ込み、口から出す消化液で溶かして食べてしまう。

 トカゲは敵に襲われたとき、自ら尻尾を切る〝自切(じせつ)〟で相手の気をそらして逃げる。カタツムリの1種イッシキマイマイはヘビに噛まれると同じような行動を取る。尻尾はトカゲ同様、しばらくすると元に戻るという。ノミガイという小さなカタツムリは鳥に食べられてもフンの中に潜んで生き延び生息地を広げているともいわれる。実にしたたか!

 その生態には他にも不思議がいっぱい。ツノ(大触覚)の先にある眼はものの形を見ることができず、光の明暗を感じる程度。雌雄同体で、おとなになるとツノの間に頭瘤(とうりゅう)というコブができる。このコブから性フェロモンを出しているらしい。交尾は2匹が「8」の字を描く形で行う。そのため構造的に右巻きのカタツムリは右巻きのカタツムリと、左巻きは左巻きとしか交尾できない。

 殻の表面には無数の微細な溝があり、雨どいのように水が流れることで汚れが浮き上がって落ちやすい。その殻の応用研究から、汚れにくい外壁用タイルや台所、トイレなどが生まれている。常に体を地面に密着させて動くカタツムリの移動方法を応用したロボットの開発も進んでいるそうだ。これまで知らなかった様々の謎に触れて、デンデンムシがより身近な存在に思えてきた。

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<BOOK> 「石牟礼道子全句集 泣きなが原」

2015年08月30日 | BOOK

【石牟礼道子作、藤原書店発行】

 水俣病の実態をあぶり出した『苦海浄土』で知られる石牟礼道子は詩人、俳人でもある。句作は北九州を拠点に活躍した現代俳句作家、穴井太(1926~97)との出会いが契機となった。句誌「天籟通信」を主宰する穴井は1971年、戸畑の自宅に文学学校「天籟塾」を開設、その講師陣の1人として石牟礼を招いた。これをきっかけに俳句への関心を高め自らも句作を始めた。

       

 その15年後の1986年、穴井の手によって石牟礼の作品を収めた句集『天』が刊行された。本書にはこの『天』掲載の初期の作品41句や、学芸総合誌『環』(季刊)に2000年7月から今年5月にかけて毎回2句ずつ投稿した『水村紀行』の118句など、40年余にわたる作品213句を網羅する。

 タイトルの「泣きなが原」は大分県九重町の草原の昔の呼び名で、地元に伝わる「朝日長者」伝説に因む。九重町は穴井の生まれ故郷。石牟礼は穴井と九重高原を訪れ、そのススキの草原の美しさに魅入られた。「祈るべき天とおもえど天の病む」「死におくれ死におくれして彼岸花」。その頃の作品について穴井は『天』の編集後記にこう記した。「ふかい溜息のように一句を紡ぎ、紡ぐことによってわずかに己を宥める、まるで己の遺書のごとくに」。「泣きなが原」を織り込んだ句もある。「おもかげや泣きなが原の夕茜」。

 全句集の出版を藤原書店に働きかけたのは俳人の黒田杏子(ももこ)。黒田は解説『一行の力』の中でお気に入りの作品として2句を挙げる。一つは「祈るべき天と……」、もう一つは「さくらさくらわが不知火はひかり凪」。「この一句をお守りとも杖ともして、そののちの約十年……俳句修行者として、沖縄から北海道までこの列島の満開の櫻にまみえる『行』を重ねることができた」。

 解説では社会学者上野千鶴子との対談などでの石牟礼の発言も紹介している。上野の「3・11のときに何を感じたか」という質問にこう答える。「あとが大変だ、水俣のようになっていくに違いないって、すぐそう思いました」。上野の「水俣と同じことが福島でも起こる、と」には「起こるでしょう。『また棄てるのか』と思いました。この国は塵芥のように人間を棄てる」。

 東日本大震災と原発事故が起きた2011年の作品に「列島の深傷(ふかで)あらわにうす月夜」「毒死列島身悶えしつつ野辺の花」。俳人としても評価が高い石牟礼だが、自身の句作は「もともと独り言、蟹の吐くあぶくのようなもので、自分のことを俳人などとは露思ったことがない」そうだ。

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<BOOK> 「かわら版で読み解く 江戸の大事件」

2015年08月20日 | BOOK

【森田健司著、彩図社発行】

 著者森田氏は京都大学経済学部卒業後、大学院に進学し博士号(人間・環境学)取得。現在は大阪学院大学経済学部で准教授を務める。専攻は社会思想史、日本哲学。著書に「石田梅岩―峻厳なる町人道徳家の孤影」などがある。本書のテーマは江戸時代に大衆の間で人気を集めた安価な情報媒体のかわら版。「はじめに」の冒頭で「かわら版を知ることは、江戸時代の民衆の心を知ることである」と記す。

       

 「かわら版は江戸のタブロイド紙」「江戸の日本は怪異がいっぱい」「天災地変で大騒ぎ」「かわら版から読み解く江戸庶民の嗜好」「異国人と異国文化 そして崩れゆく幕府」の5章構成。29項目を立て50枚余のかわら版を紹介しながら、妖怪や化け物、大地震、庶民が熱狂した心中事件、敵討ちなど多彩な出来事の背景を読み解く。

 最も古いとされるかわら版は大坂夏の陣を報じた「大坂卯年図」と「大坂安部之合戦之図」の2枚という。天変地異を速報した最古のかわら版は1783年に起きた浅間山の大噴火に関するもの。「朝間山大やけの次第」のタイトルで、火口からもうもうと立ち上がる噴煙の様子を描く。最も多くの種類のかわら版が発行された出来事は1855年の安政江戸地震。なんと600種類以上もあったそうだ。

 かわら版全盛期の江戸後期に庶民の関心を集めたのは心中と敵討ちと歌舞伎俳優の話題。「読売心中ばなし」と題したかわら版(1847年)は若い女性3人の隅田川心中事件の経緯を上下2枚摺りで詳しく紹介する。江戸末期に発行された「忠孝仇討鏡」は87件の敵討ちを相撲の番付のようにランク分けしたもの。東は筆頭の大関が「伊賀越仇討」、関脇が「宮本武蔵仇討」、西は大関が「忠臣蔵仇討」、関脇が「天下茶屋住吉」となっている。

 「神田橋外二番原辺にて敵討一件の瓦版1」は父を斬殺された武家娘による敵討ちをイラストとともに紹介する。このうら若き女性による敵討ちは江戸で大評判となり、他にも多くのかわら版が出回ったそうだ。森鴎外はこれを題材に1913年、短編「護持院原の敵討」を発表した。「江戸浅草 御蔵前女仇討」と題したかわら版は父の敵討ちのため道場に通って北辰一刀流の剣客となって悲願を果たした女性を取り上げる。

 江戸末期になり黒船が現われ始めると、泰平の世も終わりが近づく。かわら版屋はそれまで役人の目を恐れ幕府批判と受け取られそうな政治的な話題を極力避けてきた。だが、その心配もなくなってくると、ありのままに書くように。季節の分かわれ目を指す「節分」というタイトルのかわら版は鳥羽伏見の戦いを風刺的に描く。添えられた絵には顔面が徳川家や薩摩藩、長州藩など様々な家紋になった人物が描かれている。

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<BOOK> 『平城京の住宅事情 貴族はどこに住んだのか』

2015年06月24日 | BOOK

【近江俊秀著、吉川弘文館発行「歴史文化ライブラリー396」】

 著者近江氏は1988年、奈良大学文学部文化財学科卒。奈良県立橿原考古学研究所主任研究員を経て、現在、文化庁文化財部記念物課埋蔵文化財部門に籍を置く。著書に『古代道路の謎―奈良時代の巨大国家プロジェクト』『道が語る日本古代史』『古代都城の造営と都市計画』など。

       

 藤原京から平城京への遷都に伴って、役人には身分の高い順に宮に近い一等地を与えられ、低くなるほど宮から離れた小さな場所を割り当てられた――これが従来の通説。これに対し、著者は宮との距離という単純な理由だけでなく、もっと様々な事情が考慮されたのではないかという疑問から、多くの史料や発掘調査結果を詳細に分析、検討を重ねてきた。

 冒頭のプロローグ「平城京の住人」で早々と結論を示す。「血縁や地縁などによって結びついていた伝統的な氏族社会が次第に解体され、律令制度に基づく官僚制へと脱却していくようすが見えるとともに、相対的に高まっていく天皇の権威が見える」。平城京の宅地は「次第に変化していく当時の社会情勢そのものを反映している」というわけだ。

 まず長屋王邸をはじめ舎人親王の邸宅、藤原氏や大伴氏の邸宅などを取り上げながら、宅地の位置や規模、相続の有無、大規模宅地と水路の関係などを紹介する。その結果、遷都時の位階が高いほど平城宮に近い宅地を与えられたとは限らず、基幹水路の整備をはじめとするインフラの整備状況などが宅地の班給(はんきゅう)の際にも考慮されたとみる。

 新田部親王邸と推定舎人親王邸は宮と少し距離が離れていたが、秋篠川・佐保川・東堀河といった基幹水路に面していた。長屋王邸をはじめ宮南面の大規模宅地の集中地点も水運に利用された東一坊大路西側溝といった基幹水路があった。遷都時に河川改修が行われた範囲は大規模宅地の分布範囲と合致するという。

 平城京では国が宮の範囲だけでなく、その外側の土地の一部も買い上げていた可能性があり、その範囲と目される場所では宅地の状況がめまぐるしく変化するという傾向があった。それらの宅地は職務に応じて貸し与えられた〝公邸〟だったとみられる。平城京では個人の宅地は基本的に子孫に相続され自由に売買もできた。だが〝公邸〟は売買できず没収されることもあった。

 長屋王邸や藤原不比等邸などは長屋王事件や藤原仲麻呂の乱などの後、官衙や寺など他の施設に姿を変えていく。不比等邸は法華寺に、新田部親王邸は唐招提寺になった。「それは、天皇の宮と諸臣との距離を段階的に隔絶させていった結果と見ることもでき、次第に天皇の地位が向上していくさまを読み取ることができる」。

 著者は藤原京と平城京での高位人物の宅地の場所の共通点にも着目する。藤原京の高市皇子(長屋王の父)の邸宅は宮の南東にあったとみられ、平城京の長屋王邸の位置関係と類似する。また藤原不比等邸も藤原京と平城京の場所が似ているという。こうしたことから「藤原京の宅地を調べることは、平城京の宅地に関してもなんらかの情報を与えてくれる可能性があり、今後はふたつの都を比較しながら、居住者の検討を行う必要がある」と指摘する。

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<BOOK> 「比較ミツバチ学 ニホンミツバチとセイヨウミツバチ」

2015年06月17日 | BOOK

【菅原道夫著、東海大学出版部発行】

 著者菅原氏は1968年、岡山大学理学部生物学科卒業。大阪府立高校で教諭を務めた後、サントリー研究センター、京都学園大学の研究員などを経て現在、神戸大学大学院理学研究科生物学専攻生体分子機構講座研究員。2013年に「捕食者スズメバチに対する日本ミツバチの防衛行動」などの論文で神戸大学から博士号を授与した。専門は動物生理・行動学。

     

 在来種ニホンミツバチはトウヨウミツバチの1亜種とされ、北は下北半島から南は奄美大島まで広く分布する。大昔から日本列島に生息していたのだろう。そう考えたいところだが、どうもそうではないらしい。それは①日本書紀の皇極天皇2年(643年)の「百済太子余豊がミツバチを奈良の三輪山に放して飼育した」という記事②ニホンミツバチは遺伝子的に韓国のトウヨウミツバチに極めて近い③アジア~ヨーロッパのミツバチ分布域に広く生息し、ミツバチを専門に捕食する「Bee wolf」と呼ばれるハチが日本列島には存在しない――などの〝証拠〟による。

 セイヨウミツバチの3亜種のうち世界で広く養蜂に使われているのがイタリアン種。蜜を集める能力に優れ、日本国内で見られるのもほとんどがイタリアン種という。これに比べるとニホンミツバチはやや小さく体色が黒いのが特徴。営巣の場所や形態も両者で異なるが、ニホンミツバチにとって特に大切なのが巣の入り口の大きさ。それは天敵のオオスズメバチが生息することによる。著者が市街地で見つかった巣249カ所を調べたところ、その多くが入り口の幅が5cm以内と小さかった。

 ミツバチは気温が高くなると、巣の入り口で翅を震わせて巣を冷やす。この扇風行動はニホン、セイヨウの両ミツバチに共通するが、その方法は対照的。ニホンミツバチは入り口で頭を外側み向けて翅を震わせるが、セイヨウミツバチは反対に頭を入り口に向ける。さらにニホンミツバチは巣の中に風が通りやすいように、ハチたちが巣の外に出る。この行動を〝ハチの夕涼み〟と呼ぶそうだ。ただ、ハチが水を飲み巣内に打ち水をして温度を下げる行動は両者に共通するという。

 ニホンミツバチの巣の中から驚くほど多くのオオスズメバチの死体が見つかることがあるそうだ。1匹のミツバチがスズメバチに挑みかかるのを合図に一斉に飛びかかって取り囲み蜂球を作る。蜂球は30分以上持続するが、著者の調査ではスズメバチは10分以内に死んでいたという。蜂球内の最高温度はほぼ46度、炭酸ガスの濃度は4%に達した。「ニホンミツバチはエネルギーを大量に使い、発熱し、高体温の体内から相対湿度90%以上、4%の炭酸ガスを含む呼気を排出しスズメバチを殺しているのです」。ミツバチには熱耐性があり、致死温度は50度超という。

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<BOOK> 『「辺境」の誇り アメリカ先住民と日本人』

2015年06月05日 | BOOK

【鎌田遵著、集英社発行】

 著者鎌田氏は亜細亜大学専任講師、専門はアメリカ先住民研究。高校卒業後に渡米し、23年間にわたって度々アメリカ先住民や非合法移民と寝食を共にしてきた。訪れた先住民居留地は100カ所以上に及ぶ。その体験を基に、先住民はアメリカ発展の陰で長きにわたって「エコサイド」に苦しめられてきたと指摘する。「生態系や環境、そこで生活する人たちの健康や暮らし、文化や伝統までをも根本から破壊する、人間がつくりだした文明の暴力だ」。

      

 2011年の東日本大震災後、被災地や避難所を回って被災者の話に耳を傾けた。そんな中でこのエコサイドという言葉を反芻した。辺境に追われて生きるアメリカ先住民と、放射能によって故郷を追われた福島の人たちが重なり合った。「奪われたのは、先祖から受け継いだ土地で紡いできた文化そのものなのだ」。それは両者に共通する。

 アメリカ西部沿岸部の先住民マカ族。もともと捕鯨が貴重な食糧を得る手段で、宗教儀式にも欠かせない営みだった。しかし鯨資源の回復を機に捕鯨を再開したところ、反捕鯨団体などの圧力によって中止に追い込まれた。一方、和歌山県太地町。「捕鯨は太地町の歴史と文化の根幹をなしている」。だが、イルカの追い込み漁に焦点を当てた映画「ザ・コーヴ」の公開以来、欧米の反捕鯨団体による執拗な妨害が続く。

 アメリカには「White Man Syndrome(白人男性症候群)」と名付けられた病があるそうだ。その主な症状は自分の知識が常に他人より圧倒的に優れていると確信するあまり、人の話を聞けなくなるという。バージニア大学で教鞭を執る白人男性は「ザ・コーヴ」を典型的な白人男性症候群の産物と指摘し、「白人男性がアジアに行き、正義の味方のように振る舞うのを見ていて恥ずかしくなる」と著者に語った。

 紀伊半島の南西端に位置する太地町はかつて原発反対運動で揺れたことがある。一方、マカ族の居留地も半島の突端という辺境に位置し、原発の誘致を打診された。だが「自然との共生」を掲げる部族政府は断固反対を貫いた。太地町はかつて大量のアメリカ移民を送り出した町でもある。2011年に再結成された「在米太地人系クラブ」には約120人が集まったという。

 「ザ・コーヴ」は2010年、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を獲得した。著者は「あまりに一面的で排他的な反捕鯨や反イルカ漁を主張するプロパガンダ映画」にその賞が与えられたのは「残念なこと」と指摘する。ただ太地町の町長は「ピンチはチャンス」「映画は町の宣伝になっている」と前向きにとらえているそうだ。その心意気に救われる。

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<BOOK> 「生類供養と日本人」

2015年06月02日 | BOOK

【長野浩典著、弦書房発行】

 著者は大分市の私立大分東明高校の教諭で郷土史研究部の顧問。約10年前の2006年、学校のそばの神社に海亀の墓があることを知ったのを機に、生徒たちと大分県内に動物の墓が何種類あるのか調べ始めた。その成果を翌年の全国高等学校総合文化祭で発表し奨励賞を受賞。長野氏はその後も各地の動物の供養塔や墓を訪ね歩き資料収集を続けてきた。本書はその集大成である。

     

 取り上げた〝生類〟は猪、鯨、イナゴ、熊、海亀、魚、牛、カイコ、鶴、馬、鹿、犬の12種類。鯨は確認できただけで全国に80基以上の墓や供養塔があり、うち10基が大分県内にあった。臼杵市大泊集落にある「大鯨魚寶塔」は高さが2.5mもある。建立は明治4年(1871年)。当時の大泊村は港の修築で大きな借金を抱えていたが、港に迷い込んだ鯨を捕獲することで借金を返済することができた。塔はその報恩供養ために建てられた。地元の人たちは今でも「鯨さま」や「お鯨さま」と呼ぶそうだ。

 カイコに関する供養塔なども各地に分布する。天然繊維として最高級の生糸を作り出してくれるカイコも、所によっては「おカイコ様」と呼ばれ神聖視された。同じ臼杵市にある「蚕霊供養塔」(高さ約3m)は佐志生(さしう)村養蚕協同組合が人のために「悲惨タル炮烙ノ最期」(碑文)を遂げるカイコたちの霊を弔うため大正15年(1926年)に建てた。

 生類供養には地域性があるという。熊の供養塔や熊塚は圧倒的に九州に多く、馬は東日本が中心、鯨は太平洋側に多い。一方で虫塚やカイコの供養塔は全国に広く分布する。この地域性は「第一には生業、第二には動物の分布状況に大きく関わっている」。供養塔の多くは江戸時代中期以降になって建立され始め、明治以降、とりわけ戦後の高度経済成長以降、盛んになった。「大量生産と大量消費がさまざまな供養塔を生み出している」。

 動物供養の目的は「その生命を絶っていただくことについての罪悪感を消去することにある。と同時に生類の『タタリ』を恐れ、それを『鎮める』という意味合いも大きかった」。また「輪廻転生という、仏教的観念の精神への浸透も生類供養という習俗を拡散させた」。供養塔には日本人の宗教観や自然観が示されているというわけだ。

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<BOOK> 『高崎山のベンツ 最後の「ボスザル」』

2015年05月21日 | BOOK

【江口絵理著、ポプラ社発行】

 「シャーロット」命名騒動が大きな話題を呼んだニホンザルの王国「高崎山自然動物園」(大分市)。ベンツはその高崎山で3つあったサルの群れのうち2つのグループのボスザルとして君臨するなど数々の伝説を作った。その波乱の生涯を綴ったノンフィクション。

      

 つい表紙の写真に見入ってしまう。赤ら顔、白髪、鋭い眼光……。その表情には自信と風格が漂う。名前のベンツも高級車メルセデスベンツに因むらしい。1978年生まれ(推定)でB群の中で育ってトップまで登り詰める。ボスザル就任時はまだ9歳。高崎山で知られる限り史上最年少の若さだった。ところがベンツはC群のメスザルに夢中になって群れを離れる。1週間ほどして戻るとベンツに居場所はなかった。

 「女性問題で失脚したサル」。不名誉なレッテルを貼られたベンツはやむなくC群に加わる。ただ新参者だけに最下位グループからの再出発。「ベンツは地位の低い若いオスにもいじめぬかれ、子ザルが横を通りすぎただけでもこわがって泣きっ面をしていた……恋に生きたベンツ。でもその代償はあまりにも大きなものでした」。しかし、ベンツは少しずつ順位を上げていく。

 C群1位のゾロは仲間思いで、群れからの信頼が厚かった。一方、2位となったベンツは生来気性が荒く、他の群れに対してにらみが利いた。「この対照的な二匹のトップ体制は十年以上も安定して続いた」。この間、ベンツは寄せ場(餌やり場)でA群を威嚇し続け、ある日「たった一匹で、(A群の)八〇〇匹のサルを追い払ってしまった」。それ以降、A群のサルがまとまって寄せ場に現れることはなく、事実上A群は消滅してしまった。

 そして2011年、ゾロの後を継いで713匹という大きな群れのC群トップに就任する。このときベンツ32歳。ニホンザルの寿命は25~30歳といわれており、ベンツの歳を人に当てはめると既に100歳以上という高齢だった。2位はゾロの弟ゾロメ。ベンツはその後も前代未聞の話題を提供する。2013年9月行方不明に。その半月後、高崎山から直線距離で7キロ離れた市街地で発見・保護される。

 群れを半月も離れた高齢ボスは復帰できるのか。しばらくして寄せ場に放たれたベンツ。その傍らにゾロメが座る。そしてベンツの毛づくろいを始めた。ベンツが不死鳥のようにボスとして蘇った瞬間だった。「ゾロメはベンツが自分の兄のゾロと二人三脚で長くC群のトップを守り、A群を消滅させるほどの武勇をほこったのをずっと間近で見てきました……まるでそのお返しに、今度はゾロメがベンツを支えているようにも見えます」。だがベンツはその2カ月後、寄せ場で目撃されたのを最後に姿を消す。1カ月後には死亡と認定された。

 ベンツにはその後「名誉ボス」の称号が贈られた。高崎山の入り口には寄せ場の指定席だった切り株に座ったベンツのブロンズ像が飾られている。ところで高崎山では一番地位の高いメスは「メスガシラ」や「婦人会長」と呼ばれるという。メスガシラには上位のオスたちも一目置くので、力の強いオスに対しても遠慮なく振る舞うそうだ。話題のシャーロットはいつの日かメスガシラになることができるのだろうか。

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<BOOK> 「ラオス 山の村に図書館ができた」

2015年05月05日 | BOOK

【安井清子著、福音館書店発行】

 著者安井さんは東京都出身で「ラオス山の子ども文庫基金」代表を務める。ラオスでの子ども図書館づくりは今から30年前の1985年、NGOのスタッフとしてタイのラオス難民キャンプでモン族の子どもたちのための図書館活動に携わったのがきっかけ。モン族はラオスの山岳民族。安井さんは長老から贈られた「パヌン・リー」というモン族の名前を持つ。そのこと1つをとっても、安井さんがいかに現地の住民の中に溶け込み慕われてきたかを示す。

     

 2001年夏、ベトナムとの国境近くにあるゲオバトゥ村を再訪したとき、テレビ番組の撮影スタッフの1人、武内太郎さんと初めて出会った。だが、太郎さんは翌年10月、パキスタンでNHK特別番組の取材中、車が崖から転落し亡くなってしまう。享年28。ニュースで事故を知った安井さんはゲオバトゥ村取材時に撮った太郎さんの写真をアルバムにして仙台在住のご両親に送った。

 それが安井さんと太郎さんの母親桂子さんの交流の始まりだった。大学の図書館に勤めていた桂子さんは安井さんの活動内容を知ると「ゲオバトゥ村に図書館を建てられないか」と提案する。こうして「たろうの図書館」と名付けた子どものための図書館づくりが実現に向かって動き出した。

 2005年11月、安井さんは桂子さんを現地の建設予定地に案内する。桂子さんは地元住民の歓迎の席でこう挨拶した。「息子が初めての海外で来たのがこの村だったのですが、家に帰ってきた時『いい村だったよ。あんな村だったら、年とったら住んでもいいな』と言っていました……安井さんに会って話しているうちに、ここに図書館を建てたら、太郎がそこで生きていてくれるような気がしてきたのです」。

 そして村人総出による共同作業で建設が始まった。完成したのは2007年2月。オープニングにはもちろん桂子さんも出席した。安井さんはモン語とラオス語で、多くの出会いと協力があってできたこの図書館には2つの目的があると村人たちに話した。目的の1つは子どもたちに絵本やお話を通して新しい世界を広げてほしいということ、もう1つはモン族の文化や大切なものを次世代に伝えるために役立ててほしということ。

 2012年、電気のなかったゲオバトゥ村にようやく電気がつながった。「たろうの図書館」はすっかり村の風景に溶け込み、学校の昼休みや放課後には子どもたちでにぎわっているという。昨年春には図書館の隣に村のコミュニティーセンターも完成した。本書には図書館の建設風景や村人の日常の様子を撮った写真も満載。土壁に使うワラを運ぶ子どもたち、石運びを手伝ってくれた小学生、絵本が入った箱を運ぶ男の子……。そのキラキラと輝く子どもたちの笑顔が印象的だ。

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<BOOK> 岩波新書「現代秀歌」

2015年04月26日 | BOOK

【永田和宏著、岩波書店発行】

 歌人で細胞生物学者(京都大学名誉教授)でもある著者が独自の視点で「今後100年読まれ続けてほしい」と願う戦後の歌人100人の100首を選んだ。2013年出版の「近代秀歌」の姉妹編。関連する短歌も多く収録しており、それらを含めると優に250首を超える。第1章の「恋・愛」から第10章の「病と死」まで10章で構成。各章から1つずつ挙げると――。

     

 「恋・愛」―河野裕子『たとへば君ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか』▽「青春」―寺山修司『海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり』▽「新しい表現を求めて」―奥村晃作『次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く』▽「家族・友人」―島田修三『立つ瀬なき寄る辺なき日のお父さんは二丁目角の書肆にこそをれ』▽「日常」―高瀬一誌『うどん屋の饂飩の文字が混沌の文字になるまでを酔う』

 「社会・文化」―道浦母都子『ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく』▽「旅」―佐藤佐太郎『冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ』▽「四季・自然」―山中智恵子『三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや』▽「孤の思い」―浜田到『死際を思ひてありし一日のたとへば天體のごとき量感もてり』▽「病と死」―上田三四二『死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ』

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<BOOK> 「シベリウスと宣長」

2015年04月23日 | BOOK

【新保祐司著、「港の人」発行】

 都留文科大学教授で文芸評論家でもある著者が、愛してやまないフィンランドの国民的作曲家シベリウスの音楽の背景に潜む精神と思想に深く切り込む。タイトルにある「宣長」はもちろん江戸中期の国学者本居宣長。その宣長にシベリウスの音楽がどう結び付くのか。ちょうどシベリウスの「カレリア組曲」を繰り返し聴いていたこともあって興味をそそられ手に取った。

     

 序曲「純粋な冷たい水」に続いて第1曲~第19曲、そして終曲「屹立する巨岩」で結ぶ。シベリウスの代表曲といえば、やはり「交響詩フィンランディア」だろう。著者はこの曲を聴き終わった時「ああ、これは本居宣長の『敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜ばな』のような音楽だ、とふと思ったことがあった」という。そこで、この曲を取り上げた第11曲の見出しがそのまま本書のタイトルとなった。

 第12曲「無限と沈黙」では「風景画家という呼び方を思い浮かべるならば、シベリウスは『風景音楽家』といってもいい人である」と指摘。さらに「フルトヴェングラーがさすがに的確に道破しているように、シベリウスの音楽はシベリウス個人の表現というよりも、シベリウスという個人を通して表出された『祖国』、あるいは『北欧』の『国のささやき』であった」とシベリウス音楽の神髄を表現する。

 第13曲「東山魁夷の耳」ではこの日本画の大家が1962年に訪れた北欧の印象を綴った『白夜の旅』の中で、「私の耳にシベリウスのシムフォニー二番が響いていた」とあるのを受けてこう記す。「私の耳には東山魁夷の傑作『白夜光』を見ていると、『シベリウスのシムフォニー』の第六番の第一楽章アレグロ・モルト・モデラートが響いてくる」。また同じ日本画家川合玉堂と比較しながら「東山魁夷の日本画は、美と崇高の絶妙な平衡の上に成り立っている。それは西欧、そして北欧を通過したことによって可能であった」と分析する。

 最終第19曲は「葬送のための音楽」。評論家福田恆存が選んだ自らの葬送曲はベートーヴェンのチェロソナタ第3番、作家の八木義徳もベートーヴェンのピアノ協奏曲弟4番だったという。ある音楽家の追悼式でベートーヴェンの交響曲第3番第2楽章がかかった。第3番といえば通称「英雄」、その第2楽章「葬送行進曲」である。筆者によると、その時「身の程知らずといった批判が起こった」そうだ。ベートーヴェンとブルックナーを得意とした指揮者朝比奈隆でさえ「これはナポレオンみたいな、えらい人のためのもので、私のようなものは云々」と言っていたそうだ。

 その朝比奈が生前「私が死んだらかけてくれ」と希望していたのはベートーヴェンの第7番第2楽章。お別れの会ではその遺志通り、息子千足さんの指揮でその曲が演奏された。筆者自身が考えているのはもちろんシベリウスの曲で、シベリウス自作自演の「アンダンテ・フェスティーヴォ」という。2001年発売のCD「シベリウス名演集」に収められている1曲で「聴くうちに胸に強く迫るものがあり、涙がにじんできてしまった」そうだ。さて、クラシックファンのあなたが選ぶお別れの曲は?

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<BOOK> ものと人間の文化史シリーズ 「椿」

2015年02月24日 | BOOK

【有岡利幸著、法政大学出版局発行】

 法政大学出版局が1968年にスタートした百科叢書「ものと人間の文化史」シリーズの168件目。著者有岡氏は1937年岡山県生まれ。56~93年大阪営林局で森林の育成・経営計画業務などに従事、その後、(財)水利科学研究所客員研究員などを務めた。著書に「森と人間の生活―箕面山野の歴史」「松と日本人」などのほか、同シリーズでも「松茸」「梅Ⅰ」「梅Ⅱ」「秋の七草」「春の七草」「檜」「桃」「柳」など多数執筆している。

    

 「記紀・万葉時代の椿」「近世初期に大流行した椿」「神仏をまつる社寺と椿」「近・現代の椿事情」など8つの章で構成する。日本原産のヤブツバキは学名が「カメリア・ジャポニカ」。椿は有用材として古くから様々な形で利用されてきた。約5000年前の縄文時代の鳥浜遺跡(福井県三方町)からは赤い漆塗りの櫛や石斧の柄などが出土している。樹種別の加工品の遺物件数では杉、樫、ユズリハに次いで多い。

 わが国でツバキに対して椿の字を当てたのは万葉集が最初。坂門人足は「巨勢山のつらつら椿つらつらに……」と詠んだ。万葉集には椿のほか万葉仮名の都婆伎や海石榴などの表記も。椿油や種子は遣隋使や遣唐使によって中国にも運ばれた。ところが、その椿も平安時代の和歌や随筆、物語にほとんど登場しない。椿が再び注目を集めるのは茶道の茶花として。江戸時代には「寛永(1624~44年)の椿」など一時期園芸ブームも起きた。

 しかし「明治維新で近代となると、椿は古いものだと見捨てられ、愛好者がほそぼそと楽しむにすぎなくなった。この傾向は昭和初期の終戦直後まで続いた」。一方、江戸時代シーボルトらによってヨーロッパに紹介された椿は「冬のバラ」としてもてはやされ、熱狂的な栽培ブームが巻き起きた。そんな世相を反映し小デュマの小説「椿姫」が生まれ、ヴェルディによってオペラ化された。米国で全国組織のツバキ協会が発足したのは1945年。欧米での流行に刺激されて、本家日本で日本ツバキ協会が創立されたのは8年後の1953年だった。

 海石榴をツバキと読むのは「遣唐使によって中国に渡ったツバキがかの地でこう記されていたからで、中国では海をわたってきた石榴に似た実をつける樹という意味で海の字が頭についた」。古代、三輪山麓にあった市場「海石榴市(つばいち)」の読みは「ツバキイチがツバイチに転訛したもの」。その名の由来は「三輪山にたくさん生育している海石榴や周辺の山地に生育しているツバキの種子を、あるいは種子をしぼったツバキや、椿の木を燃やした灰を商品としていたことに因んだものと考えられる」という。本書は椿の品種や全国各地の椿にまつわる昔話・民俗、ゆかりの神社なども詳細に紹介している。

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<BOOK> 『「朝敵」と呼ばれようとも 維新に抗した殉国の志士』

2015年02月19日 | BOOK

【星亮一編、現代書館発行】

 明治の初め、新政府軍と旧幕府勢力が1年半にわたって繰り広げた戊辰戦争(1868~69年)。「朝敵」「賊軍」という汚名を着せられた佐幕派は〝負け組〟としてこれまで光が当てられることが少なかった。本書に登場する14人もその多くが一般には広く知られていない。だが、彼らの中にも先進的な思想の持ち主で国の将来を真剣に考えていた人物が多くいた。

    

 編者の星亮一氏は仙台市出身で「戊辰戦争研究会」を主宰する。本書はその研究会の会員と関係者14人が綿密な取材を基に、騒乱の時代を駆け抜けた「殉国の志士」の姿を生き生きと描く。星氏は「はじめに」に記す。「彼らは何を考え、この戦争に突入していったのか。それぞれに事情があり、目標も異なったが、掲げた理想は誇り高きものがあった」。

 仙台藩士・玉虫左太夫の『航米日録』は今も一級資料として名高いという。1860年、日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米した時の様子を全8巻にまとめたもの。鳥羽・伏見の戦いが起きると、玉虫は新政府のやり方への不信感から新政府打倒と会津藩救済に動く。奥羽越列藩同盟が成立すると、自ら理想とする「人心一和」の理念を盛り込んだ建白書を記した。その後、箱館での理想の国づくりに思いを馳せるが、蝦夷の地に渡る前に捕まって死刑に。

 松岡磐吉は長崎海軍伝習所で学んだ後、1860年に玉虫と同時期に咸臨丸で渡米した。松岡も蝦夷共和国建設を目指す榎本武揚に同調し、軍艦「蟠龍」の艦長として行動を共にする。しかし榎本軍の降伏後、江戸に送られて赦免となる半年前に獄死。中島三郎助は1853年のペリー来航の際に日本人として最初に乗船して接触、日本初の洋式軍艦の建造にも尽力した。中島の元には吉田松陰の紹介で長州藩士桂小五郎(木戸孝允)が造船術を習うため弟子入りしたという。中島はその後、長崎海軍伝習所出向を経て軍艦操練所教授方に就任。その後、箱館で戦死した。

 他に猛将として勇名を馳せた会津藩士で後に警視庁の大警部となった佐川官兵衛、箱館戦争の宮古湾海戦での戦いぶりを東郷平八郎が賞賛した甲賀源吾、坂本龍馬が暗殺された近江屋事件の犯人の1人ともいわれる京都見廻組の桂早之助、桑名藩の全責任を負って切腹に追い込まれた森弥一左衛門陳明(つらあき)らも登場する。その森の辞世の句「うれしさよ尽くすまことのあらはれて君にかはれる死出の旅立」。 

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<BOOK> 「鳥獣害ゼロへ! 集落は私たちが守るッ」

2015年02月10日 | BOOK

【日本農業新聞取材班著、こぶし書房発行】

 鹿やイノシシなど野生鳥獣による農作物被害が深刻度を増している。2012年度の被害金額は約230億円。4年連続して200億円を超えた。本書は農業専門紙「日本農業新聞」が2013年度年間キャンペーン企画として昨年3月まで連載した「鳥獣害と闘う」をまとめたもの。このキャンペーンは「農政ジャーナリストの会」主催の第29回農業ジャーナリスト賞を受賞した。

     

 第1章「招かれざる隣人」でまず全国各地での農業被害の実態を覗く。その隣人とは鹿、イノシシのほか猿、ヌートリア、アライグマ、カラスなど。北海道では鹿の侵入防止柵が東部を中心に数千キロに及び〝万里の長城〟と呼ばれているという。だが「列島を縦断するほど長い柵も管理が行き届かず、被害軽減の決め手に欠く」。山口県のある集落では高さ1.2mの柵を設置した結果イノシシ被害はなくなったが、最近は鹿がその柵を跳び越えて侵入し、若い芽を根こそぎ食い荒らす。

 第2章以降で各地での創意工夫の対策を取り上げる。静岡県富士宮市は「シャープシューティング」という方法で鹿の駆除に成果を上げているという。米国で始まった狩猟方法で、鹿を餌付けして集め銃で一気に仕留める。同じ鹿でも奈良公園の鹿は春日大社の創建以来、守るべき大切な神の使い。たまにドングリを与えたりして癒されているだけに、少々可哀想なやり方にも思える。だが深刻な被害に直面する農林関係者にとっては、苦慮の末に辿り着いた方法ということだろう。

 広島県庄原市の集落では地区全員が獣害対策の情報を共有し学ぶ場として共同畑を設けた。大分県では「有害獣と戦う集落十箇条」を作るとともに、鳥獣害対策に重点的に取り組む50集落をモデル地区に指定、半数以上の27集落が3年間で被害をゼロにすることに成功した。宮崎県は現場目線で被害対策の指導・助言を行う「鳥獣被害対策マイスター」の育成に力を入れる。

 兵庫県丹波市のある集落では農家以外の住民も含め全戸で当番制を敷いて鳥獣害防護柵の点検や管理を徹底。福井県小浜市も防護柵設置時に維持管理を義務とする協定を住民と結ぶ。香川県さぬき市の集落は野生獣の侵入を防ぐ電気柵に軽トラックも通れる幅5~10mの管理道を併設することで、イノシシ被害の撲滅に成功した。

 最終第8章では各界の識者が被害克服のためのコメントを寄せている。宇都宮大学農学部教授の大久保達弘氏は「鳥獣害対策と里山再生は地域農業振興の両輪。鳥獣害対策は地域がまとまる機会にもなる。被害軽減がゴールではなく、里山再生のスタートとすべきだ」と主張。JTB常務で日本ジビエ振興協議会顧問の久保田穣氏は「鳥獣害対策を好循環させるためにはしっかりした出口対策が必要。ジビエ(野生鳥獣肉料理)は一つの鍵になる。ジビエを活用する際には肉の品質、安全基準のチェック体制を地域一丸でつくり、慎重かつ丁寧に進めるのがよいのではないか」と指摘する。 

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<BOOK> 『地方官人たちの古代史 律令国家を支えた人びと』

2015年02月02日 | BOOK

【中村順昭著、吉川弘文館発行】

 歴史学を中心とする専門出版社吉川弘文館が出している「歴史文化ライブラリー」シリーズの1冊。著者中村順昭氏は1982年、東大大学院人文科学研究科博士課程中退。文化庁の文化財調査官などを経て、現在、日本大学文理学部教授(文学博士)。著書に『律令官人制と地域社会』など。

    

 古代の律令国家を支えた班田収授制。国が戸籍に基づいて6歳以上に口分田を与え、収穫に応じて租税を徴収する。その8世紀の戸籍が今も奈良の正倉院に残されている。戸籍の作成や租税徴収といった実務を担っていたのは郡など地方の役所。本書では古文書や木簡などを基に地方官人、とりわけ郡司に焦点を当てて当時の地方行政の実態に迫る。

 8世紀には全国が60余りの国に分かれ、約550程度の郡があった。地方の役所は古代の史料では「郡家(ぐうけ)」と呼ばれた。郡家と推定される遺跡は中心となる正殿とその南側の東西の脇殿が「コ」の字形に配置されていた。その近くには穀物を保管する倉庫群の正倉院もあった。正殿には郡司の代表である大領や少領が座り、脇殿で下級役人が事務を執っていたらしい。

 郡司の定員は「養老令」で郡の規模に応じ細かく規定されていた。国司には中央官人が任じられたが、郡司は全員、現地の人の中から採用された。これが州の官人も県の官人も中央から派遣された唐の地方制度との大きな違い。「郡司のあり方は律令制度を唐から取り入れるにあたって、現地で実際に民衆を支配していた豪族の力に頼らなければならなかったことを表している」。郡司の下には稲の徴収・管理に当たる税長や書記官の書生など「郡雑任(ぐんぞうにん)」と呼ばれる多くの下級職員がいた。

 郡司の中には中央貴族と直接つながりを持つ者もいた。長屋王家木簡の中にあった荷札の「宗形郡大領鯛醤」は筑前国宗像郡の郡司のトップから直接物品が送られていたことを示す。他に「案麻郡司進上」という木簡もあった。郡司クラスの地方豪族から中央官人となった人もいる。その代表として挙げるのが和気清麻呂。清麻呂は備前国藤野郡の出身で、姉広虫が采女だったと推定されることから郡司の家柄だったとみる。

 8世紀後半から9世紀にかけて諸国の正倉院では「正倉神火事件」と呼ばれる原因不明の火災が頻繁に起きた。火災の原因として主に2つが考えられた。1つは国司・郡司が保管していた穀物を使い込み、隠蔽するため空の倉庫を焼いた。もう1つは次の郡司を狙う人が現職の郡司の失脚を狙って放火した。「続日本紀」によると、国はその対策として官物焼失の場合は郡司全員を解任すること、また郡司失脚目的で放火した者は次の郡司の選考対象外とすることを命じたという。 

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