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ハトとたんぽぽ

和子の気まま日記

2016年2月14日(日)、母の告別式

2016年02月20日 16時37分04秒 | 冠婚葬祭
 夕べから春の嵐か、風と雨にたたき起こされたようで、朝方早くから目が覚めてしまった。

 朝方暗い内に、近くのコンビニでサンドウィッチを買ってくると、雨が止み始めてきた。

 9時に喪服に着替えていると、着付けの方が来て、帯をきれいに着せてもらう。

 司会の方がどんな母だったか聞かせてほしいというので、義妹と一緒に話をしていると、
自慢できることや楽しいこと人のために一生懸命っだたことばかりが浮かんできました。 

 つくづく偉大な母だったことを思い知りました。





 今日の告別式も通夜来れなかった人たちも来てくれ、火葬場や初7日にも、40人の人が残ってくれました。
母はたくさんの人に見送られて、終わりよければ、皆よい幸せな95年の人生でした。

 今日の万歩計は、3,787歩でした。

  
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2016年2月13日(土)、母の通夜

2016年02月17日 16時51分32秒 | 冠婚葬祭
 夫と娘の運転で、豊田に到着。母に会い、お参りをすると、「肺気腫 われも生きたや 95歳」と俳句を詠んで、
「ばあさんに元気をもらった」とつぶやいていた。

 午後から兄や姉もやってきて、一緒に「納棺式」を行い、体をきれいにみんなで温かいお湯で拭いて、固くなっていた手をほどいて、
結婚式に着ていたお気に入りの着物を着せてもらい、お化粧をすると、母がこんなにもきれいだったのかと思うほどきれいになって、
20歳ほど若くなりました。思わずカメラのフラッシュの嵐でした。

 4時から「メグリアセレモニー前山ホール」に母と一緒に行き、花づくしの祭壇は母らしい華やかに安置してもらいました。



 次々従妹や孫や曽孫や親戚の人が弔問に来てくれ、一番うれしかったのは、久しぶりに母の末の弟(86歳)を甥が連れてきてくれました。
杖を曳きながらも、12月まで入院生活でリハビリをして、ゆっくり歩くことができるようになった。

 戦争で亡くなった兄たちの分も長生きしなきゃと頑張っているとのこと。「母の95歳をぜひ超えてほしい」とお願いしました。

 通夜式が6時に始まると、親族の列はいっぱいになり、どの顔も懐かしい人ばかりでした。
通夜の後の食事は、50人も集まり、あっちでもこっちでも、母の思い出話に花が咲いていました。

 父方の従妹たちは、叔母が車の事故で突然亡くなった時に、母が時々トンカツ、メンチカツコロッケを買ってきてくれるのが、
子供心にもとてもうれしかったという話。

 従妹の中にも、1月に亡くなったという話にびっくりしたり、大勢の親戚に母が逢わせてくれたことがうれしかった。

 夜は弟夫婦と式場で母と一緒にいたが、来る人来る人母の顔をみて、20歳ほど若返っていたので、びっくりポン。
95歳まで家で過ごして、家で安らかに最後に迎えたことがうらやましいととても賑やかだったので、
「誰も私が亡くなったことを悲しんでくれない」と怒っているのか、だんだん目が吊り上がって見えてきた。

 しかし、眠るように大往生した母。誰もがこんな死を迎えたいと思っていることだろうと思います。
そんな見本を見せてくれた母でした。

 そんなことを考えていると、眠れなくなってしまいました。

 今日の万歩計は、1,485歩でした。
 

 


 
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2016年2月12日(金)、通夜式の準備

2016年02月16日 16時57分05秒 | 冠婚葬祭
兄や姉家族や弟兄弟が集まり、昨夜決まった13日午後6時通夜、14日午前10時告別式の準備をする。
誰に連絡したのか、通夜の食事、初七日の食事、香典返しなど決めることが次々に出て、親族だけでも40~50人の人数になる。

 久しぶりに母のことなどいろんなことを兄弟で話し合った。

 不思議に涙は出てこない。安らかで眠っているようにしか見えない母の顔を見ていると、
大腿骨を骨折してから、1年4か月「イタイイタイ」と言いながらも、ポータブルトイレで、大小を自分でしようと頑張っていた。
しかし、骨折してからのこの1年が母にとっても一番つらかったのではなかろうか。

 義妹も20年間一緒に住んで、ほとんどおむつで用足すことはなく、大の方が失敗は一度もなかった。
 食欲も旺盛で、11日の朝まで食事をして、お昼は食欲がなくってたべれなかったとディサービスの人が言っていたが、
それまではいつも完食だったようです。そういった意味では手のかからない母だったと話してくれた。

 言いたいことをズケズケ言うしっかり者の母であるだけに、この20年間いろんなことがあったと思われるが、でもよくやってくれたと感謝の気持ちでいっぱいである。

 好きなお寿司も夕方に一口食べさせてもらい、眠るように旅立った母は大往生でした。
そういう意味では、幸せな最期だったではないかと思う。

 私も長生きしても母のように最期を迎えたいと思った。

 今日の万歩計は、1,774歩でした。

 
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2016年2月11日(木)、母亡くなる

2016年02月13日 04時17分53秒 | 冠婚葬祭
 夜9時過ぎの豊田の弟から「母が息していない。心臓が動いていない。今から救急車で病院に運んでいく」と慌てた様子で電話が入る。

 兄からも電話があり、もう少し様子を見るということだったが、すぐに出かけようとして準備をしていると、

弟から「9時38分に息を引き取った」と電話が入り、すぐに兄に連絡して、車を豊田に向けて走らせる。

 ズ~と高速で走っていったが、意外に落ち着いて車を走らせていた。

 豊田につくと、葬儀屋の人が母を弟の家に連れてきてくれて、仏間に母を寝かせていてくれた。

 母の顔をのぞくと、口を少し開けていたが、眠っているような安らかな顔をしていた。

 弟の嫁が「少し辛そうだったが、今日もディサービスに行って、しばらくすると、ディサービスの方から
いつもより元気がないし、食事もいらないといっていますがと電話が入るが、いつものように夕方帰ってくると、
身体の置きどころがないようだったが、手すりのところでやった落ち着いたようで、手すりにもたれておとなしくなった。
好きなお寿司を一口食べると、もういらないと言って、また手すりにもたれていた。

 夜住職が月命日に来ていたので、お参りしていたが、「死んじゃう 死んじゃう」と声を荒げるが、いつものことなのだが、
心配になって、何度も様子をみるが、眠っているようだった。
8時20分ごろ見に行くと、「息はしていない。心臓が動いていない」と大騒ぎになって、救急車を呼んで、病院に駆け込んだが、
蘇生することなく、9時38分永眠したとのこと。

 火曜日くらいから夢でも見ているのか「和子何しているの。早く着物を用意して!足袋はどうしたの!順子さん早く結婚式の用意して!」って騒いでいたり、
なんだかいつもと違う母だったようです。

 義妹が言うには、「95歳まで下の世話もあまりなく、死ぬ朝まで食事も自分でした人だった」

 95年人生いろいろなことがあったけれど、最後まで母らしい人生を送ったのではないかな。そんなことを話していると悲しみよりも、
「95歳まで生きてこれてよかったね。幸せだったね」と言ってあげたい気持ちになりました。

 遅くまで眠れなかったけれど、いつの間にかウトウトしていました。

 今日の万歩計は、9,289歩でした。

 
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2016年1月16日(土)、友人の告別式

2016年01月17日 17時24分48秒 | 冠婚葬祭
 10時から友人の告別式に参加。何人かの友人に会い、それぞれいろんな付き合いがあるんだあ。

 長男が喪主としてしっかりと、母親と妹をサポートとしている様子がうかがえます。

 友人の写真がにっこりと笑って、彼らしいいい写真である。こんな笑顔がとても似合う彼でもある。
写真だけカメラに収めて夫に見せると、嬉しそうでした。

 

 突然の死に誰もがビックリ。

 列席者全員で、花を手向けて、火葬場まで送りました。

 誰もが、どんな詩を迎えるのかわからないが、今回の二人の葬儀に接して、どんな終活を送るのかが問われる一日となった。
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