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ハトとたんぽぽ

和子の気まま日記

3月20日(水)、また知人の死

2013年03月21日 11時59分19秒 | 冠婚葬祭

 昨日友人よりメールが入り、友人の死を知る。家族葬で行うということでしたので、今日が告別式だったということである。

 海南病院に2月末に入院して、誰にも来てほしくないという連絡があり、また元気になって会えるのを楽しみにしていたのに。その後他の施設に入所することになったとの連絡。その矢先の死亡連絡。死亡原因は膵臓がんだったということでした。何も言えないくて、唖然としてしまいました。

 夫亡き後、長い間地域の新婦人、年金者組合等の行事に参加して、楽しく過ごしていたのに、本人は近くの有料老人施設などを見学したりして、安心して老後を住み慣れた地域で過ごしたいと語っていました。それがかなわない形であっという間のお別れでした。

 彼女には、昨年グレーの襟巻きを頂いて、お礼の絵手紙を差し上げたら、大変喜んでいただきました。その襟巻きをするたびに彼女のことを思い出すことでしょうね。病気から解き放たれてホッとしているかも知れませんね。

 夜、なのはな演劇鑑賞会のチケットを分けていただき、劇団俳優座「樫木坂の4姉妹」を見に行きました。

 長崎で育った4姉妹が昭和20年8月9日の原爆でそれぞれの人生をお送り、50年以上が過ぎたいまも原爆の痛みに苦しんでいる様子を舞台化されたものです。

 夫も長崎育ちで、母は悲惨な原爆の跡地を知人や親戚を訪ね歩き、原爆手帳を持ち、30年以前にすい臓がんで亡くなりました。当時の長崎の様子が思い出されてきます。女優の迫真の演技に吸い込まれるようでした。しばらく休もうと思っていたのですが、また見たくなりました。どうしても見に行けない人にチケットを譲ってもらい、時々見に行くのもいいかもしれませんね。

 今日の万歩計は9,823歩でした。、

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3月7日(木)、友人の息子さん亡くなる

2013年03月11日 13時49分22秒 | 冠婚葬祭

 永和台の地元に、なるべく時間を作って、庁舎問題の住民投票の署名に入る。

中日新聞を見ている人は、よく載っているね。がんばっているねと激励されます。これ以上借金して誰が払うの。合併特例債といっても、結局国民の税金で払うことになるといって快く署名に協力してくれます。毎日時間がある限り、一軒一軒尋ねて一筆でも多くの署名を集めようと思っている。

 夕方友人から電話が入り、「友人の息子さんが亡くなって、今日お痛夜だったが聞いているか」と電話が入った。危篤状態であることは聞いていたが、やっぱり亡くなったのか。彼女からは「私の関係者には知らせないから、来てもらわなくてもいい」と聞いていたので、お悔やみにもいけないが、改めて落ち着いてからお焼香だけでもさせてもらいに行こう。

 やはり息子を先に見送ることは親としてやりきれないことである。3年前夫を亡くし、今度は息子が。あまり悲しみは表に出さない彼女ではあるが、悔しさでいっぱいであろう。

 今日の万歩計は、3,776歩でした。

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1月18日(金)、告別式

2013年01月20日 17時31分03秒 | 冠婚葬祭

 夕べ早く横になったせいか、3時ごろ二人とも目が覚めてしまった。コーヒーと頂いたロールケーキを食べながら、奥さんが「こんなにも早くいくとは思わなかった」となんども話していると、切なくなる。「お父さんがこんなこともあんなことも言っていた」と思い出しながら、悲しんでいるようです。

 6時ごろに私は家に帰り、着替えをして、朝食をコンビニで買ってくると、お腹がすいたのか、昨夜の残りのおにぎりを食べていた。一緒にまたサンドウイッチやおにぎりを分け合って朝食にしました。

 お化粧品を持ってきたので、少し奥さんにも化粧をして、口紅をつけると、上唇が薄く、下唇が厚いので、唇を合わせると、上唇の上のほうまで口紅がついてしまった。普段化粧をしていない人なので、少し粉白粉をつけただけだけれど、かわいくなった。

 8時には、2階を片付けて、下で待っていると、女性職員が来てくれた。お茶を出して、ゆっくりしてみんなが来てくれるのを待っていた。

 お棺の中をのぞいてみると、背が高い人だったので、頭がきりぎりになっていて、少々窮屈のようであった。女性職員が「お化粧がしてあったので、女性かと思った」といわれてしまった。

 告別式は、10人くらいの人で、昨夜と同じ様に葬儀が行われて、最後はみんなで花を全部入れて、好きなお酒も全部体にかけてあげました。しばらく病気の間は禁酒をしていたので、久しぶりのお酒だったのでしょう。

 火葬場まで行くと、今日は火葬する人は5組もあって、控え室も全部詰まっていた。いまは、火葬する場合、スイッチを入れるときに、奥さんの腕をしっかり捕まえていたが、「ボー」と大きな音がしなかったので、ホッとした。

 お骨は見せていただいただけでしたが、あんなにがっしりしていた体が、骨はバラバラになっていて、病気だった内臓付近は黒ずんでいた。変わり果てた体を見ても、よくわからないようすだった。

 骨は全部火葬場で供養していただくことになっていたので、写真を受け取って、奥さんの兄弟とは、火葬場の前で分かれて、そのまま家まで送っていき、写真を飾って、みかんやパンを供えて帰ってきました。なんだかあっけないけれど、奥さんは1人でこれから生きていかなければなりません。事務的なことは、お手伝いできるけれど、自分で後片付けをして、がんばらなければなりません。

 帰ると、社会福祉課の職員から電話が入り、来週にこれからの奥さんへの支援をどうするか話し合うことになりました。まだまだこれからしばらくは外からケアをしなければならないと思いました。

 

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1月17日(木)、友人の死

2013年01月20日 13時04分32秒 | 冠婚葬祭

 今日は阪神大震災の日。

 夜中3時26分に、病院から電話が入る。「呼吸が荒く、症状が急変しましたので、すぐに来てください」と。

 昨日は奥さんが付き添っていたが、病院に駆けつけたときには、呼吸が浅く、声をかけてもうんともすんとも言わない状態で、意識はなかった。体も動かず、素人が見ても瀕死の状態ということがわかった。二人で、ジーとご主人の様子を見ていたが、5時26分頃、大きく息をすると、止まってしまった。すぐに看護婦さんに連絡すると飛んできてくれて、脈拍と呼吸を見てくれた。「お亡くなりになりました」といって、「親戚の方を呼んで、死亡確認をします」とのことでした。

 二人で「お父さん」と名前を読んで、少し息をするが、また止まることを2・3回繰り返したが、そのまま息もしないで動かなくなった。二人で抱き合って泣きました。

 すぐに、奥さんの弟に連絡してすぐ来ていただくように頼む。2時間ほどかかるということで、やっと9時近くに来ていただき、医師によって「9時3分」との死亡確認が行われました。

 奥さんと二人で、看護師と一緒に「湯かん」のお手伝いをさせていただきました。背も高くがっちりとした体つきで、体が黄疸で黄色くなっていましたが、看護師に化粧までしてもらって、きれいになって病室に帰ってきました。

 葬儀社の特殊車両が11時に来て、緩和ケア病棟の部長医師と看護婦長が車が出るまで見送ってくれました。

 葬儀社につくと、すぐに安置してくれ、天理教の葬儀ができるように準備していただきました。通夜、告別式の話し合いで、17日午後7時通夜、18日10時告別式に決まり、関係のところにFaxや連絡をしました。

 友人から花が1対届き、奥さんの親戚が7時過ぎにつき、20人くらいの通夜だったが、しめやかで、心のこもった通夜でした。

 天理教の葬儀の参拝の仕方は、2拝、4拍手、礼拝、4拍手、1拝というやり方は初めてでした。

 通夜終了後、奥さんの親戚の方と夕食をして、岐阜まで帰るというので、早めに帰っていただきました。後は二人で、2階でゆっくりして早めに床につきました。

 看取り、湯かん、天理教の葬儀など私にとって初めてのことばかりでした。

 

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