かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

Web ライブトークショー

2020年05月10日 | The Beatles



今日は、元々、川崎で、トークショーの予定だったが、緊急事態宣言でキャンセルになり、その代わり、YouTubeでの、生配信になった。
便利な世の中になったもので、最初の方は、ノイズが入ったが、ノイズが切れてからは、自宅で、夕食を取りながら、のんびり聞くことができる。
Web会議の時も、その便利さを感じる。
申し訳ないが、IT技術の進歩は、すばらしい。
現役時代、このようなWeb会議をしようと思ったら、コスト的に結構たいへんだった。

中身の方は、過去の3人のトークショーと同様で、しゃべりたい放題。
藤本さんが、かろうじて、理性を保つが、二人は、暴走気味。
それが売りのトークショーなのだが。
もしかすると直近は、皆勤かな?

前半は、Get Back セッションが行われた当時の、日本の状況の振り返り。
サエキさんが、一番おませだったようだが、ロックの、ジャズ、カントリーに対する地位はまだまだだったという。
半ズボン、小学生のサエキさんは、Let It Beの広告方法の相談を受けたという。
今から見ると、不思議だが、ロックが、音楽会で、メジャーな位置を占め、発展したのは、まさにそのころからだったというのが、事実らしい。
それまでもロック歌手らしいミュージシャンの来日があったが、ビートルズ以外は、驚くほど、マイナーな扱いだったという。
ゴールデンカップスのアルバムの売り上げが、ホワイトアルバムを上回っていたというから、驚きだ。
まだ、戦後の匂いが、濃厚だった。

リバプール・ビートルズというグループが来日した時は、先日ライブにいったエディ藩さんが、学生の立場で通訳だったという。
洋楽を引っ張ったのは、東芝音工の力が大きいというが、4B(内一つは思い出せず)、つまりビートルズ、ビーチボーイズ、ベンチャーズ?が押しだったという。
それまでは、押しの上位に入るジャンルではなかった。
高島さんは、もちろんその立役者。

Get Back セッションの話では、ポールには、Hey JudeのMPVのイメージがあったことと、先日紹介したロックンロールサーカスへのジョンの出演がそれをぶち壊したのではないかとの意見が興味深かった。
確かに。
前後の4人の行動をフォローすると、このような考えに至る。

ジョンの全裸アルバムも、他のメンバーを驚かせた。
ジョンが断定的に曲作りをするのに比べ、ポールが、徐々に仕上げたいくタイプだったことも大きい。
Hey JudeやLet It Be など、『圧』を感じさせる曲を出し始めると、グループは衰退するというのが、サエキさんの持論。 ストーンズの、アンジーは、ぎりぎり。

ポールは、White AlbumとLet It Beでは、いい曲を多く提供できたが、Abbey Road では、中途半端な曲しか提供できなかった。
Abbey Roadは、契約を満たすために、作成した実質最後のアルバムだが、ポールは、前作(リリースは後)で、ネタを出し尽くした後の作成になってしまったというのが、真実に近いのだろう。

ビリープレストンがセッションに入ったのが、転機になったが、ジョージがリバプール時代の仲間が参加可能と知り呼んだ。
本日、訃報が流れたリトル・リチャードとも共演している。
彼は、セッションマンとして有名だが、ゴスペル的な音楽作りに大きく貢献している。
特に、驚くのは、My Sweet Lordは、彼がジョージに教えたコードが元になっているというインタビュー。
和久井さんが、直に聞いているのだから間違いない。
ハレルヤを繰り返す部分など、まんま?
彼の音楽人生で、一番嬉しかったことは、Let It Be で、ビートルズと共にクレジットされたことという。
でも、一番好きなグループは、スライストーンというから、本当に好きなジャンルではなかったのだろう。
控えめな性格?

フィルスペクターのプロデュースが議論になるが、確かにポールが怒るのはわかる。ただ、どのプロデュースがよかったかというと、フィルの貢献は大きいと言わざるを得ない。
結果、『圧』が強まり、解散に?
もっとたくさんの名曲を提供するつもりでスタートしたセッションだったが、結局スカスカになってしまい、その隙間をフィルが埋めたといえるかもしれない。

50年前の話をこれだけ濃く、熱く話すトークショーがあるのか。

コメント
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