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kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

スイミーについて考える

2011-11-29 | 陸上競技
先日の講習の中で「スイミー」について話がありました。国語教育におけるスイミーの話です。これは小学校2年生の国語の教科書に掲載されているものです。ほとんどの人が見たことがあるのではないかと思います。うちの子どもの教科書には掲載されていなかったのでWikipediaからあらすじを紹介します。

あらすじ

スイミーは小さな魚。

ただ、兄弟がみんな赤い魚だったのにスイミーだけは真っ黒な小魚だった。

泳ぎも得意であり速かった。

大きな海で暮らしていたスイミーと兄弟たちだったが大きなマグロに兄弟を食べられてしまい、泳ぎが得意だったスイミーだけがなんとか助かる。

兄弟を失ったスイミーはさまざまな海の生き物たちに出会いながら放浪するうちに、岩の陰に隠れてマグロに怯えながら暮らす兄弟そっくりの赤い魚たちを見つける。

スイミーは一緒に泳ごうと誘うのだが、マグロが怖いからと小魚たちは出てこない。

そこでスイミーはマグロに食べられることなく自由に海を泳げるように、みんなで集まって大きな魚のふりをして泳ぐことを提案する。そしてスイミーは自分だけが黒い魚なので、自分が目になることを決意するのだった。

かくして小魚たちはマグロを追い払い、岩陰に隠れることなく海をすいすい泳げるようになったのであった。

Wikipediaより

スイミーと聞いたら何となく思い出します。弱いモノが力を合わせて大きな魚に立ち向かう。協力の大切さなどがイメージしますね。今の私は簡単な物語を読みながら作者の意図するモノを読みとろうとします。本を読むというのはそういう事だと思っています。先日の講習ではこの部分に問題があるのではないかという話がありました。内容を読みとろうとするのは大切な事です。それが悪いというのではありません。これを小学2年生が読み取る事が出来るか?教える側が一方的な価値観を与えるのは間違っているのではという話でした。「読み解く」のではなく「教え込む」ことの問題点を指摘されていました。最初は何の事か分からなかったのですが、スイミーを子供たちが読むのは国語の読み物のなかです。道徳の授業ではない。この作品を小学2年生が学ぶのは倒置法が使ってあることや韻を踏む文章そのものなのだと。教える側が一方的な価値観を与えるのは考える能力、感じ取る力を育てる機会を失ってしまうというのがあります。成る程、納得する部分がありました。道徳的な内容を教える場ではない。そこから感じ取るのは各自の感性でいい。不要な説明は要らない。当たり前ですが見失いがちなことですが。国語の授業を使って道徳の授業をするのは違うのではないかというところです。

気になったので色々と調べてみました。その中で興味あったものを紹介。

作者が込めた真のメッセージとは? 名作絵本『スイミー』の真相
http://allabout.co.jp/gm/gc/198262/

作者レオ・レオニ。アメリカで作家として絶頂期にあったにも関わらず、その立場を捨ててイタリアに渡ったそうです。ここにスイミーと重なる部分があるのではないか。スイミーの自己発見と自己実現という裏テーマが自分自身と重ねてあるのではないかと。「レオニは、人にはそれぞれの個性と役割があるということ、そして、芸術家として他の者が見えないものを見ることのできる人間がいるということを伝えたかったのです。」と書かれていました。その作者のいた時代背景を知ることで作品の秘められたメッセージ知ることができる、うーん、奥が深すぎる。

また、ネットでみていると、一人だけ生き延びてしまった苦悩を表しているのではないかという話がありました。レオ・レオニは故郷であるオランダを出てアメリカに帰化、その後イタリアに渡り作家としての道を歩み始めた。オランダ亡命後、同胞が戦争で命を落とし、そのことを同じヨーロッパに戻った時に「喪失感」を感じたのではないか。スイミーは自分の兄弟を大きなマグロに食べられてしまいます。自分だけが生き延びる。喪失感の中で生きながらえ、同じ様な魚を見つけて自分の力で今度こそ助けるんだという想いからの行動だったのではないかと。人は生きる場所を失っても他の場所でやり直せるんだ、というメッセージを発信しているのではないかと書いていました。さらに深すぎる。こんな話しは小学2年生には読み取れないですよね。その必要もないでしょうし。

背景を知っていると誰かに話したくなる。間違いない事実です。背景を知ることでその作品の裏にあるものを読み取ろうとする。しかし、実際作者がそこまでの内容を考えて、メッセージを送ろうとしてその作品を作っているのか?国語の教員と話をしましたが、大学入試などに出てくる作品などで作者の意図するモノとは違う解釈をされてしまうというのがよくあるとのことでした。人は勝手に意味づけをしたがる。自分の都合のいいように解釈をしてそれがあたかも「事実」であると強調する。背景を知れば知るほどその部分が大きくなる。「知っていて教えない」というのができる人間がどれだけ多いのでしょうか?知っていたらすぐに教えたがる。これは陸上競技の技術にも言えることだと思います。新しいものを教えたがる、選手のレベルにあったものではないことを教えるというのはありがちなことです。それで自分は優れた指導者だと勘違いするのです。

知っているからすべてを伝えればいいわけではない。考える力を奪うことになる。これを教育現場で行うと物事を見る目が養えない。価値観の押し付けになるのは良くない。指導はどうなんだろう。少し考えさせられました。上手く表現出来ませんが、私のやっている指導は、価値観の押し付けとは違うのか。難しい話です。先を見据えた指導だと思っていますが、本当にそれで良いのか。スイミーを使って道徳教育をするのと同じなのかなと考えさせられました。哲学的な話になる気もしますが。

色々と考えます。まとまりのない文章となりました。すみません。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2014-05-30 22:28:47
スイミーを道徳教育でやるのは間違っているということでしょうか?
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もうしわけありません (kaneko)
2014-06-03 06:47:15
>Unknownさん
書き込みありがとうございます。3年くらい前に講習を受けたときに書いた記事で当時どのような気持ちで書いていたのかが正確に思い出せません。

スイミーは道徳教育には良い題材だと思います。しかし、それは「国語」として教えることではないというものだったと思います。スイミーを国語で教えるのであれば文章のリズム感であったり、倒置法が使われてる表現方法だったりといくつか面白い文があるので2年生にはそこを教えると良いのでは?という話だったと思います。

国語の楽しさを教える部分よりも先に「道徳教育」としてしまうのは違うのではないないかと。道徳の授業の中に「団結」「孤独」などの視点から考えていくことは重要だと思います。「教科」として考えると国語の中で2年生に教えるのは違うのでは?と言われていたと思います。
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Unknown (Unknown)
2019-05-14 20:12:53
僕が子供頃、読みました
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