小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

豊川渉の思出之記のこと

2011-09-22 05:47:03 | 読書
 伊予の国に弘化4年(1847年)に生まれ、昭和5年に満83歳で死去した豊川渉の辞世は「見た夢は八大地獄雪月花」である。「八大地獄」とは何であったか。たぶんそのひとつには、彼の元服親で「恩人」であった国島六左衛門の自殺があったはずだ。
「いろは丸事件」に関心をお持ちの方ならもうお気づきだろうが、豊川渉とは『いろは丸終始顛末』の筆者であり、愛媛県郡中町の5代目町長を務めたこともある人物である。満19歳のとき、実際にいろは丸に機関見習いとして乗り組んでおり、海援隊に入らぬかと誘われたこともあったらしい。しかし船の知識に乏しいのが恥ずかしく、「末輩に追い遣わされるのも残念なりと躊躇した」と告白している。その「躊躇」はおそらくほろ苦い後悔として彼の生涯につきまとった。「…既往を顧みれば終始事志と齟齬し、青年にして故郷を距るに躊躇したり…」というような述懐が「思出之記抜抄」にあるからだ。
 豊川渉の「思出之記」が出版されたと知り、版元の愛媛県松山市の創風社出版に直接発注し、届けられた本を最初に手にしたとき、なにかあたたかいものに触れたような手触り感があった。いまはそのわけがわかる。「望月宏・篠原友恵編」となっているが、編者のおふたりは父娘であり、望月氏は豊川渉の孫、篠原氏はひ孫に当たる方だった。篠原氏のあとがきによれば、その望月氏は本の校正作業の終了した今年3月30日に亡くなられており、表紙と挿絵は望月氏の夫人つまり篠原氏の母親の令子さんが担当されたとのこと。血族の絆でつくられた本なのである。豊川渉自身が家族愛の強い人物であったことは、「思出之記」を読むとよくわかるのであった。
 さてこの豊川渉の回顧録で注目すべき個所をひとつ紹介しておこう。慶応年間のことである。長崎の外人居留地での、豊川ら三人と居住地にいた美人とのやり取りのエピソードのあと、こんな記述があるのだ。
「…主人が帰ったのであらうと幾分は心配して居ると、美人と手を携へて入って来るのを見ると、蘭人のボードインで此間船の代金を渡しに父と共に蘭館へ往った時に見た人であるから向こふから笑顔して互いに目礼したが…」
 大洲藩はいろは丸をボードインから買ったわけではなく、ポルトガル人から買ったと主張する人たちは、この個所をどう判断されるのであろうか。ちなみに豊川はいろは丸の買い付け責任者であった国島六左衛門付き若党であったことは付言するまでもない。
 ところで豊川渉の辞世である。彼は現実に八大地獄(たとえば安政の大地震もふくめて)を見てきたのに、「見し夢」と詠っている。現実だったものを夢まぼろしと見なしたくなる心情を、わたしたちはおもんばかる必要があるのではないか。しかし、夢まぼろしでない、いい現実の記録を残してくれたものだ。そしてその記録を公にしたのは、繰り返すがあたたかい血の絆であった。
豊川渉の思出之記
クリエーター情報なし
創風社出版

追記:本書は豊川渉が自身の日記をもとにまとめた回顧録で、手書き原文のPDFがCDとして付属されている。その筆跡からも豊川の人柄は偲ばれる。


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2 コメント

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豊川渉の思出之記 (篠原友恵)
2011-09-29 11:56:03
鏡川様 豊川渉の思出之記の編者の一人の篠原友恵ともうします。この本について温かい感想を書いていただきとても嬉しく思いました。父も私も文筆とは程遠い世界を生きてきましたが、曾祖父の日記の公開は、豊川渉の三男の豊川三郎以来の願いでした。父は完成を見ないで召天いたしましたが、内容は確認してくれましたのでほんとうに有難かったです。この日記の内容は、幕末から明治の時代の歴史理解に役立つと確信しています。感謝をこめて、投稿いたします。
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お目にとまりましたか (鏡川伊一郎)
2011-09-29 16:03:45
篠原様、はじめまして。
コメントのご投稿ありがとうございます。たしかに貴重な史料となる記録でして、公開にこぎつけられたことに敬意を表します。編集お疲れさまでした。良いご本が出来上がりました。
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