紀州政府は、茂田の事情上申を快しとしなかったのである。紀州に帰った彼を御役御免逼塞とし、岩橋轍輔という切れ者を長崎に出張させるのであった。
茂田と後藤の間で結ばれた約定をご破算にし、あらためて談判をやり直すという使命は、かなり厳しい。おそらく最終的な狙いは賠償金の減額であった。
岩橋は9月になって長崎に着く。まず調停役の五代に会おうとするが、五代は上海に行っていて不在だと断られ、しょっぱなからつまずく。
岩橋はやむなく岩崎弥太郎のもとを訪れるが、弥太郎にも「事件の当事者ではないから、わたしのあづかり知らぬところ」と談判自体を拒否される。
紀州藩の賠償金支払期限は、先の茂田の証書にあったように「十月限」であった。その10月26日、在京の後藤象二郎の代理人として、土佐の中島作太郎が長崎にやって来た。岩橋轍輔の交渉相手が、やっと目の前に現れたのであった。
岩橋は言う。「汽船の衝突はわが国では例のないことだから、西洋各国の法規公法にもとづき、その曲直を明らかにさせてほしい。そののちに、あらためて賠償金のことを取り決めたい」
そのことなら最初に龍馬が提案したことだった。その提案を蹴ったのが紀州側であったから、岩橋の主張は弱いというよりも、賠償金支払い引き伸ばしの口実にしか聞こえない。当然、中島は「いまさら、どうこう申されても受諾するわけにはまいらぬ」と言う。「事は決着済みではないか。残る話合いは償金授受の一事だけである」
実は中島も賠償金が早急に支払われるならば、いくらか減額してもよい、という腹づもりである。
ついに月が変わって、11月7日、二回目の岩橋・中島会談が行われる。賠償金の支払額は、この日、最終的に決着した。(日付に注目していただきたい。この8日後、龍馬は暗殺されるのである)中島は独断で賠償金を値引きした。
賠償金額は7万両。当初の8万3526両198文からすれば、1万3526両198文の大巾減額である。なぜか。
いずれにせよ、土佐側は7万両の金を受け取ることになった、と一般に思われている。ところがそうではない。土佐側の受け取る金額は4万2720両であった。ふたたび、なぜか。
いろは丸の賠償金については、7万両とか8万両とか、龍馬が大金をせしめたなどと詳細も知らずに軽率に書きつける人がいるから、次にいささか煩雑な数字を並べることにする。
茂田と後藤の間で結ばれた約定をご破算にし、あらためて談判をやり直すという使命は、かなり厳しい。おそらく最終的な狙いは賠償金の減額であった。
岩橋は9月になって長崎に着く。まず調停役の五代に会おうとするが、五代は上海に行っていて不在だと断られ、しょっぱなからつまずく。
岩橋はやむなく岩崎弥太郎のもとを訪れるが、弥太郎にも「事件の当事者ではないから、わたしのあづかり知らぬところ」と談判自体を拒否される。
紀州藩の賠償金支払期限は、先の茂田の証書にあったように「十月限」であった。その10月26日、在京の後藤象二郎の代理人として、土佐の中島作太郎が長崎にやって来た。岩橋轍輔の交渉相手が、やっと目の前に現れたのであった。
岩橋は言う。「汽船の衝突はわが国では例のないことだから、西洋各国の法規公法にもとづき、その曲直を明らかにさせてほしい。そののちに、あらためて賠償金のことを取り決めたい」
そのことなら最初に龍馬が提案したことだった。その提案を蹴ったのが紀州側であったから、岩橋の主張は弱いというよりも、賠償金支払い引き伸ばしの口実にしか聞こえない。当然、中島は「いまさら、どうこう申されても受諾するわけにはまいらぬ」と言う。「事は決着済みではないか。残る話合いは償金授受の一事だけである」
実は中島も賠償金が早急に支払われるならば、いくらか減額してもよい、という腹づもりである。
ついに月が変わって、11月7日、二回目の岩橋・中島会談が行われる。賠償金の支払額は、この日、最終的に決着した。(日付に注目していただきたい。この8日後、龍馬は暗殺されるのである)中島は独断で賠償金を値引きした。
賠償金額は7万両。当初の8万3526両198文からすれば、1万3526両198文の大巾減額である。なぜか。
いずれにせよ、土佐側は7万両の金を受け取ることになった、と一般に思われている。ところがそうではない。土佐側の受け取る金額は4万2720両であった。ふたたび、なぜか。
いろは丸の賠償金については、7万両とか8万両とか、龍馬が大金をせしめたなどと詳細も知らずに軽率に書きつける人がいるから、次にいささか煩雑な数字を並べることにする。