小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬・いろは丸の謎  9

2010-01-31 23:03:57 | 小説
 紀州政府は、茂田の事情上申を快しとしなかったのである。紀州に帰った彼を御役御免逼塞とし、岩橋轍輔という切れ者を長崎に出張させるのであった。
 茂田と後藤の間で結ばれた約定をご破算にし、あらためて談判をやり直すという使命は、かなり厳しい。おそらく最終的な狙いは賠償金の減額であった。
 岩橋は9月になって長崎に着く。まず調停役の五代に会おうとするが、五代は上海に行っていて不在だと断られ、しょっぱなからつまずく。
 岩橋はやむなく岩崎弥太郎のもとを訪れるが、弥太郎にも「事件の当事者ではないから、わたしのあづかり知らぬところ」と談判自体を拒否される。
 紀州藩の賠償金支払期限は、先の茂田の証書にあったように「十月限」であった。その10月26日、在京の後藤象二郎の代理人として、土佐の中島作太郎が長崎にやって来た。岩橋轍輔の交渉相手が、やっと目の前に現れたのであった。
 岩橋は言う。「汽船の衝突はわが国では例のないことだから、西洋各国の法規公法にもとづき、その曲直を明らかにさせてほしい。そののちに、あらためて賠償金のことを取り決めたい」
 そのことなら最初に龍馬が提案したことだった。その提案を蹴ったのが紀州側であったから、岩橋の主張は弱いというよりも、賠償金支払い引き伸ばしの口実にしか聞こえない。当然、中島は「いまさら、どうこう申されても受諾するわけにはまいらぬ」と言う。「事は決着済みではないか。残る話合いは償金授受の一事だけである」
 実は中島も賠償金が早急に支払われるならば、いくらか減額してもよい、という腹づもりである。
 ついに月が変わって、11月7日、二回目の岩橋・中島会談が行われる。賠償金の支払額は、この日、最終的に決着した。(日付に注目していただきたい。この8日後、龍馬は暗殺されるのである)中島は独断で賠償金を値引きした。
 賠償金額は7万両。当初の8万3526両198文からすれば、1万3526両198文の大巾減額である。なぜか。
 いずれにせよ、土佐側は7万両の金を受け取ることになった、と一般に思われている。ところがそうではない。土佐側の受け取る金額は4万2720両であった。ふたたび、なぜか。
 いろは丸の賠償金については、7万両とか8万両とか、龍馬が大金をせしめたなどと詳細も知らずに軽率に書きつける人がいるから、次にいささか煩雑な数字を並べることにする。

龍馬・いろは丸の謎  8

2010-01-30 21:58:56 | 小説
 さて、NHK大河ドラマ『龍馬伝』では、岩崎弥太郎と龍馬とは幼なじみのように描かれている。しかし実はふたりが絡みあうのは長崎の土佐商会においてであり、互いの人間性を理解しあうのは、このいろは丸の賠償交渉を通じてであった。
 6月2日付の弥太郎の日記には、後藤象二郎と龍馬と弥太郎の三人で話合いのもたれたことが記されている。その翌3日も弥太郎は龍馬と会っている。
「午後、坂本良(ママ)馬来たり酒を置く。従容として心事を談じ、かねて余、素心の所在を談じ候ところ、坂本掌を抵(う)ちて善しと称う」(『瓊浦日暦』)
 ふたりで酒を酌み交わしながら、弥太郎はかねて抱いていた感懐を龍馬に打ち明けたのである。そしてわが胸の内を龍馬が理解し賛同してくれたことを書きつけているのである。よほど嬉しかったのであろう。肝胆相照らす仲になったという思いが伝わる日記である。だから、その6日後に龍馬と別れるとき、泣いてしまうのであった。
 6月9日、龍馬は後藤象二郎と共に上洛するのだが、今生の別れでもあるまいに、大の男が涙を流すのであった。
「狼狽知るべし。(略)余 、覚えず流涕数行」(『瓊浦日記』)
 龍馬と弥太郎の間に、強い親愛の絆がむすばれたからこその涙である。
 話は前後するけれど、岩崎弥太郎が、いろは丸の賠償金の明細を記した帳面を五代才助に渡したのは6月2日であった。そして翌3日、五代から若干のサゼッションがあった。
 それは、龍馬以下海援隊士の給料なども請求していたのを、これは「朱引」するから差止めしてはという提案だった。
 そんなわけで五代に最終的に償金帖面を渡すのは4日になっている。
 何日かの記載はないが、「慶応三年丁卯六月」とあって、茂田一次郎が後藤象二郎に宛てた証書の写しで、船代と積荷物等代価併せて金8万3,526両198文を「来る十月限り長崎表に於て、相違なく相渡し申すべき候」とある、その金額が弥太郎の請求したものである。
 だが、決着したようにみえて、ことはこれで終わらなかった。

龍馬・いろは丸の謎  7

2010-01-29 16:28:13 | 小説
 事故はいったいどちらの船に非があって生じたのか、当然そのことが論議の的になる。
 5月15日の談判の内容は海援隊の長岡謙吉が記録し紀州側がこれを確認、さらに二回目の談判である翌16日夜の記録は紀州明光丸の艦医成瀬国助が逐一記録し、その内容を海援隊が承認している。議事録が残っているのである。
 互いに言い分があるから、談判はまだ続く。5月22日、長崎聖福寺(聖徳寺という説あり)における事件応接筆記は双方が記録しているが、もうこれからは主として紀土重役同士、つまり土佐の後藤象二郎と紀州の茂田一次郎の論争となった。
 席上、紀州の高柳は、幕府(長崎奉行所)の公裁をうけるべく申し入れたいというと、龍馬がいう。「本来、異国造りの船であるし、日本では類例のない事故だ。全世界の公法にかけるべきである」と。
 龍馬の提案は、長崎に来航している英国軍艦提督に議事録の要点を翻訳提出して是非を明らかにしようというものだった。当時の長崎奉行は能勢大隈守と徳永石見守である。この両名は徳川御三家の紀州藩に肩入れして海援隊に和解勧告をしたり、圧力をかけたという説があるから、あるいは龍馬に長崎奉行所の公裁を忌避したい思いもあったかもしれない。
 後藤と茂田の交渉過程をみると、圧倒的に後藤が押している。「土佐一国の士民がいかなる反応を示すかはかりがたい」とほとんど脅しめいた言葉を発して、茂田をたじろがせている。
 茂田は「では英国水師提督に会って万国の例を聞き、それにもとづき公論を求めたい」と折れた。ところがすぐにこれを撤回した。「自藩の恥を異国人にさらすことは藩の対面にかかわる」と言ってきたのである。茂田は紀州側に勝ち目はないと悟ったのである。
 そして薩摩の五代才助に調停を依頼したのであった。茂田にすれば、これ以上問題を長びかせてはニ藩の争闘に発展しかねず、それどころが討幕のきっかけになってはたまらないと判断したのであろう。
 紀州藩で損害賠償を支払うということで決着するのが、5月29日である。
 同日の岩崎弥太郎の「崎陽日記」にこう書かれている。
「後藤参政ヨリ紀州ノ談判事訖(おわ)リ候ニ付、沈没ノ荷料、五代才助右挨拶人ニ付引合致候様被命」
 岩崎に賠償金額の算出が命じられ、明細を五代に渡せと、後藤が言っているのである。

龍馬・いろは丸の謎  6補遺 

2010-01-27 13:15:36 | 小説
 当時の小銃の単価に関する史料をひとつ見落としていたので、補遺としたい。
 土佐藩営の長崎土佐商会は、後藤象二郎の創設した開誠館の長崎出張所であった。この出張所がエンフィールド銃1000挺を買付けたときの単価は30両であった。
ドイツ人キネプル商会から購入している。
 もっともこの単価は高すぎるとして係争になり、この解決のために土佐藩参政の後藤象二郎が長崎に出張ってきたのであった。ともあれ、このときの1挺30両という単価で計算すれば、400挺の小銃見積価は1万2000両。
 なにが言いたいかというと、龍馬が紀州藩に提示した1万両という金額は、くどいようだが、法外なものではないということである。(小銃そのものが積んであったかなかったかは、あとで検証するけれど)とかく、いろは丸の賠償問題をめぐって、龍馬をはったり屋あるいは詐欺師呼ばわりする三文論者にお目にかかるから、細かい点にもこだわっておきたいのである。
 ちなみに、ここではミニヘール銃もエンフィールド銃も同義とみなしてよろしい。ふたつの銃の違いが、はっきりと区別されるのは、もっと後のことである。

龍馬・いろは丸の謎  6

2010-01-26 22:57:22 | 小説
 1万両の貸借の件が破談になったのは、紀州側の付けた条件を龍馬が蹴ったからであった。紀州藩は期限付きの借用手形の差し出しを要求したのである。
 龍馬にすれば、1万両は、いろは丸の積荷の賠償金と相殺にするつもりだから、たんなる借用証は出すつもりはない。龍馬の交渉術はしたたかであって、紀州藩に少しの弱みも見せない。
 それならお貸し下さらなくて結構、と断ってしまった。
 ところで、ほんとうに1万両で小銃400挺は買えるのか。
 参考までに、後に(この年の9月に)龍馬がオランダ人ハットマンから1300挺のライフル銃を買い付けたときの金額を見てみよう。
 90日延払いで、代価は1万8875両であった。実際は一部を即金払いで若干割引してもらうのだが、ともかくこのケースで単純計算すれば、1挺当りの単価は14.52両。400挺ならば5800両強となる勘定だ。たしかに1万両あればお釣りがきそうである。しかし、小銃の売り先、売買時期などで相場の変動はあるだろうから、さしあたって400挺の小銃再調達に諸経費も含めて1万両を見積るのは、さしておおげさではない。常識はずれの金額であれば、まず紀州藩のほうが貸付金を値切っていただろう。
 さて、明光丸は4月29日夕刻に長崎に着いたが、龍馬らは下関経由で遅れて長崎入りした。5月10日になっている。5月8日付で、妻のおりょうの身を三吉慎蔵に託す手紙が残っている。
 万一のことがあったら、愚妻を本国へ返して欲しい、国もとから家僕と老婆一人迎えに行くようにさせるから、それまで三吉宅で愚妻を預かって欲しい、といった趣旨だ。
 万一とはなにか。紀州藩と戦争になることも覚悟しているのである。むろん死をも覚悟している。
 長崎における紀州との談判は5月15日から始まる。 

龍馬・いろは丸の謎  5

2010-01-25 21:48:45 | 小説
 龍馬が1万両の「恩貸」を申し入れるのは、4月25日の明光丸艦長高柳楠之助とのマンツーマンの話合いの席においてであった。高柳は返答を保留して、その夜、この話を断ってくる。1万両の現金を積んでいるわけではないから、用立てはできないというのだ。かわりに寸志として千両の目録を差し出そうとした。
 龍馬は千両の目録を受け取らない。1万両の金は、当地における調達に固執しているわけではなく、長崎で用立ててくれればよい、と再度懇願した。
 実は明光丸は、1万両どころではない現金を積んでいたはずである。船には紀州藩重役の茂田一次郎(勘定奉行)が乗組んでいた。紀州藩の兵制改革のため洋銃6000挺その他を買付るという使命を茂田はおびていた。長崎を発った船と、長崎をめざす船との違いである。いろは丸には積荷が、明光丸には現金があったのである。
 紀州側は、現金はないと、龍馬に嘘をつかなければならなかった。おそらくこのことが意識しないところで高柳はじめ紀州側の負い目になったように思われてしかたない。徳川御三家の矜持と武士としての高潔さを脇にどけて、嘘をついたからである。
 龍馬はといえば、君用を果たすために、つまり臣道をつらぬくために武器再調達が必要だから、そのために金を貸してくれといっているのである。高柳は「ごもっともなこと」とそこのところはよくわかるのであった。
 4月26日早朝、3度目の会談がもたれた。
 長崎到着後になら貸そうと、紀州側は持ちかける。龍馬は、では到着後5日以内に用立ててほしい申し入れる。しかし、話は微妙なところでまとまらない。以後の交渉経過は俗事方同士の交渉になったりして煩雑だから割愛するけれども、結論的には1万両の貸借の件は破談となるのであった。破談を残念がったのは高柳のほうだった。
 つまり談判は長崎に持ち越されるのあった。
 さて、この1万両貸借話のなかで、紀州側に「武器はなんだったのか」と尋ねられて、いろは丸俗事方が答えたのが「ミニヘール銃400挺」という答えだった。銃には弾薬も必要だから、弾薬の購入量にもよるが、要するに1万両で買える範囲の武器であったということだ。 

龍馬・いろは丸の謎  4

2010-01-24 18:35:01 | 小説
 慶応3年4月といえば、龍馬は脱藩の罪を許され、海援隊の隊長に任命された矢先であった。大洲藩より賃借したいろは丸に土佐藩の船印を掲げ、海援隊としての処女航海で事故は起きたのであった。
 いろは丸は長崎から大坂へ、つまり西から東へ向かっていた。紀州藩の明光丸は逆に東から西へ航行していた。
 衝突現場は、現在の広島県福山市の東南海上、三崎半島と備後六島の間である。明光丸に衝突され、大破したいろは丸は、いったんは明光丸に曳航されていたが、備後宇治島沖で沈没した。いろは丸の龍馬ら乗員は明光丸に乗り移っていたから、34名全員無事で死者はでていない。
 事故から一夜明けた4月24日、明光丸は備後鞆の津に入港。鞆の津で紀州側と海援隊との事故をめぐる談判がはじまるが、決着は長崎でということになった。らちがあかないのである。明光丸は27日、長崎に向かって出帆、龍馬らは鞆に置き去りになった。
 この措置に龍馬は、ひどく立腹している。4月28日に菅野覚兵衛、高松太郎両名に宛てた手紙で、紀州人は荷物も何も失った我々を「唯鞆の港になげあげ主用あり急ぐとて長崎に出候。鞆の港に居合せよと申事ならん。実に怨み報ざるべからず」と書いている。
 さて龍馬は、この鞆の津での紀州側との交渉で、まず最初に1万両の借入を申し入れている。1万両あれば、明光丸に便乗して長崎に行き、とりあえず沈んだ武器等を再調達できるからだ、と主張しているのである。
 1万両である。なぜこの金額を多くの史家は問題にしないのであろうか。
 龍馬がいろは丸の積荷の倍額をふっかけて賠償金をふんだくったとか、積んでもいない小銃代として、あたかも先の「用物箱」代3万9000両を得たという説が一部に流布している。最初に1万両と聞かされているのに、それ以上の金額を小銃代として紀州側が支払うわけがないではないか。

龍馬・いろは丸の謎  3

2010-01-21 21:40:51 | 小説
 龍馬は薩摩の五代才助(友厚)とともに、国島の遺体と対面したらしい。
「武士たるものは己の所存が成り立たねば、死ぬるのほかないのか」と呻くように呟き、「ああ、惜しい知己を失った」と嘆いた。大洲藩のいろは丸乗組員だった豊川渉がそう記録している。
 いろは丸を国島に周旋した龍馬と五代は、おそらく大洲藩の事情を国島から聞かされていたのであろう。彼の自殺の原因に思い当るところがあり、その苦衷がわかるからこその嘆きである。
 ちなみに国島は大洲の長浜で自殺をとげたという説があるが、その根拠が私にはよくわからない。国島の自殺を大洲藩はしばらく公にしなかったから、混乱した情報が流れているかもしれない。彼の死を公にすると同時に、いろは丸購入の明朗ではない経緯が公になるのを大洲藩は懸念したものと思われる。遺書も遺言もなかったことになっているが、遺書はひそかに始末された可能性もなくはない。
 ともあれ、いろは丸が正式に大洲藩船となって、伊予長浜を出航したのは慶応2年11月19日であった。同月24日に長崎に着いている。そしてそのまま長崎港に碇泊して、ひと月が経過、長浜に帰るべく12月25日出航と決まったその朝に国島の遺体が発見されているのである。これで出航が1日遅れた。
 国島の遺骸は絹布団にくるまれ石灰詰めにして箱におさめられ、大洲まで運ばれた。その箱の表書きは「国島六左衛門小銃入り」である。小銃として、彼の遺骸は搬送されたのであった。
 因縁めいた言い方をすれば、この船は、国島と小銃の怨念がとりついているような船だった。
 むろん、以上のことがらは海援隊がチャーターする前のことである。この船を土佐藩の後藤象二郎が、一航海500両で貸してくれと大洲藩に申し入れるのは、慶応3年4月になってからだった。

龍馬・いろは丸の謎  2

2010-01-20 23:51:49 | 小説
 いろは丸の購入に関し、大洲藩には奇妙な動きがあった。
 幕府には、この船を町人の対馬屋定兵衛が購入したと届けているのである。
 以下がそのときの届け書の写しである。届け人の友松弘蔵は大洲藩江戸留守居役である。日付けはご覧のとおり慶応2年12月16日。実はこの頃には船には赤と白の蛇の目の紋章旗を掲げ、実質的に大洲藩の船となっていたにもかかわらずである。

「遠江守領分町人対馬屋定兵衛ト申者、荷物為運漕於長崎表此度西洋形蒸気船一艘蘭人ボードインより買請候、依之遠江守家来共、当形勢柄之義ニモ御座候間、右船へ乗組運用乗働等為習練、九州四国中国ハ勿論御当地(江戸)奥州松前函館辺ヘモ連々乗廻り、旦風潮之模様ニ依リ候テハ、所々嶋々井湊へ繋船仕候義モ可有御坐、尤モ異国船ニ不紛様日ノ丸御印ハ勿論、別紙図面之通船印相用候義ニ御坐候間、右之趣兼テ其筋々へ御達置被下候仕度、此段可奉願旨遠江守申付越候、尤蒸気船図面此度越不申候ニ付、委細之義ハ取調追テ可申上候、以上
 慶応二年十二月十六日
                          加藤遠江守家来
                               友松 弘蔵」

 おそらく小銃購入の名目で藩の金を引き出し、国島に船を買ってこいと命じた藩重役ないし藩政のブレーンがいたのである。この時代、どこの藩も似たようなものだが、藩論が統一されているわけではない。船の購入には反対するものも多かったのである。だからいろいろと姑息なことをしているのだ。
 藩政のブレーンと評したのは、百石取りの医師山本節庵のことであるが、彼はのちに藩内でテロの対象となった。その斬奸状が藩事情を物語っている。
「…己が邪才を以て群吏を迷わし、三士及び国島等と謀を合し、専ら富国を口実とし、莫大の公財を費やし(略)蒸気一条に於ては私欲の遂げざらんことを恐れ、暴徒をつかい、忠節を害し候事、人面獣心、共に天を戴かざるの国賊というべし」
 「蒸気一条」というのが、いろは丸のことである。「三士」とあるのが国島に出張を命じた人たちであろう。
 さてこの斬奸状は、こう続く。「先に大奸国島天罰を以て自殺候得共…」
 そうなのだ、いろは丸の生みの親である国島六左衛門は、慶応2年12月24日、長崎の下宿で腹かっさばいて死んでいた。享年38歳だった。
 龍馬は彼の死を嘆いた。

龍馬・いろは丸の謎  1

2010-01-19 15:34:35 | 小説
 暗夜、しかも濃霧の瀬戸内海で、慶応3年4月23日に船の衝突事件があった。坂本龍馬ひきいる海援隊のチャーター船いろは丸と紀州藩船明光丸の海難事故であり、「いろは丸事件」として知られている。
 いろは丸は沈没、その船代と積荷の代価を紀州藩が支払うことで決着したが、龍馬のはったりで、積んでもいない小銃代金を上乗せして、賠償金を不当につりあげたという説がある。古い新聞記事だが、次のようなものもある。産経ニュース2008.4.12
 ところで不可解なのは、残された積荷の記録に「小銃」という項目はないのである。
「伊呂波丸積込荷代価土藩より申し出候目録写し」が『南紀徳川史』に記載されている。それによれば、積荷は、綿、大豆、氷砂糖、白砂糖、奥縞、更紗、それに用物箱であって、それぞれ代価が計上されている。このうち用物箱の内訳が3万9000両といちばん高額であるが、詳細は不明だ。しかし紀州藩はこの用物箱については納得したものと思われる。
 これらの明細は土佐商会の岩崎弥太郎が調べなおしたものである。だから「土藩より申し出」なのであるが、小銃を積んでいたのなら、なぜ小銃と明記されていないのか。
 思えば、このいろは丸という船自体が、小銃の化けたものだった。小銃の購入予算で買われた船だったということだ。そのことから話をはじめたい。
 海援隊のチャーター船と先に書いたのは、いろは丸は伊予大洲藩の船だったからである。この船を買い付けたのは、大洲藩士の砲術の達人、国島六左衛門であった。彼は慶応2年7月、新式洋銃の買付目的で長崎にあらわれている。その彼が銃のかわりにオランダ人から英国製の船を買った。これがいろは丸となるのだが、表向きは国島の独断で、小銃でなく船に化けたということになっている。
 それも龍馬から、銃より船とすすめられたというような話が伝わっている。一藩士が銃購入の藩命をおびて長崎に出張し、独断で船購入に変更することなど、いくら龍馬のすすめがあったとしても、可能だろうか。この話には国島の悲劇となる裏があった。
 

 

龍馬と乙女の髪の薄さ

2010-01-17 19:49:03 | 小説
 龍馬が梅毒だったというゴシップを、いまだに信じている人がいる。(最近のミクシィなどの歴史コミュでも見かけた)昨年10月に刊行された『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社)でも、菊地明氏が龍馬梅毒説を肯定するような一文(キーワードで読む坂本龍馬最新情報『病気』)を書きつけている。菊地氏らしくない軽率な文章である。どこが最新情報だろうか。
 菊地氏は、菊の花をバックに縁台に坐っている龍馬の写真を根拠に、「生え際が後退している」として「梅毒性脱毛症」と合致するというのである。
 2005年11月27日付の本ブログ「龍馬につきまとうゴシップに関して」 に、お目を通していただきたいが、龍馬の髪の毛の薄さは坂本家の遺伝のようなものである。姉の乙女も髪の毛は薄かった。乙女の娘の岡上菊栄のこんな証言がある。
「ぶきりょうで、大へんなちか目で、髪が薄く、父が江戸へまいったおり、かずらを買ってきて、きせて(かぶせての意)髪をゆわせたことがあったそうです」(関みな子『土佐の婦人たち』)
「ちか目」というのは近眼のことだが、たしか龍馬も近眼だったはずで、この姉弟はともに髪が薄いという坂本家の遺伝をうけついでいるのである。乙女が新婚早々、夫に部分鬘を買ってこさせるほど、髪の毛が薄かったということは、かなり特異なことであるが、姉の乙女も梅毒だった、という人がいるだろうか。そんな馬鹿な。

(本日、ブログ開設2000日目という表示が、編集欄にあった。はるばる遠くへ来たもんだ、という感じがする。たまたま当ブログを覗かれた方、そして最初からご愛読いただいている方、コメントをいただいた方、皆様のご縁に感謝いたします) 

吉井勇の歌と土佐  完

2010-01-11 23:29:22 | 小説
    年経ればむかしの華奢も忘れはてて歌詠みくらす土佐のわびずみ

 しかし短歌だけではなかった。吉井勇は土佐滞在中に、県の観光協会からの依嘱で「よさこい節」の新しい歌詞を作っている。なにしろ、「命短し恋せよ乙女」で知られる『ゴンドラの唄』の作詞者として有名であるから、県としては渡りに船であった。
 その「よさこい節」の一節に「酒は土佐酒 男は龍馬、海にゃ黒潮流れ寄る」と、龍馬の名が出てくる。
 さらに勇は『土佐音頭』を作っていた。韮生の村の人たちと渓鬼荘の炉端で酒盛りをしながら歌った、という。
「土佐へ来るなら浮かれてござれ、浪も音頭の拍子とる」ではじまる。6行目に、やはり龍馬の名が出てくる。
「御国おもへば心がをどる、龍馬思へば血がをどる」
 勇にとって龍馬がいかに比重をしめていたかは、もはやいうまでもないが、このことは案外知られていないようだ。
 さて、実際の吉井勇夫妻にとって土佐は、勿論「土佐へ来るなら浮かれてござれ」というような状況ではなかった。昭和23年から25年までの間に詠まれたと思われるこんな歌がある。

    涙ぐむ妹は土佐路にわび住みの頃思ひ出でて居るにかあらむ

 吉井勇の最後の歌集『形影抄』(昭和31年9月刊)に集録されている歌であるが、吉井夫人はなぜ涙ぐんでいるのだろうか。さまざまな解釈が可能であるけれど、土佐という国が、吉井勇とその夫人にとって、特別に忘れ難い国であったことだけは確かだ。

    わかき日の無頼を悔うるこころもて土佐路ゆきぬ遍路ならねど

 昭和21年には、そんな歌も詠んでいた。その翌22年6月、62歳の勇は谷崎潤一郎らと巡幸の途次、大宮御所にお泊りになった天皇陛下に召されて、一時間余り会談している。爵位も剥奪され、満身創痍で土佐に隠棲していた日々とは違った時間が流れはじめていた。

吉井勇の歌と土佐  9

2010-01-09 18:06:00 | 小説
 話は少し横道にそれる。
 築屋敷といえば、幕末に龍馬が通った日根野道場のあった場所である。吉井勇は龍馬を偲んだわけではなく偶然だろうけれど、かって龍馬が見たと同じ景観を夫妻で眺めたことになる。
 築屋敷八景のひとつが筆山翠松だった。
 筆山の稜線は「へ」の字のかたちをしており、それが鏡川の水面に映ると、実際の山と水面の山とが合わさって筆の穂先のように見える。だから筆山(ひつざん)なのであるが、もとは潮江山と呼ばれていたらしい。鏡川も古名は潮江川であるらしいから、あるいは筆山を映すので鏡川となったのであろうか。
 築屋敷の日根野道場は、数ある道場のなかで唯一他流試合が許されていた。柳生の剣に「やわら」の工夫を加えた小栗流(流祖は小栗仁右衛門)の道場で、居合、槍、薙刀、騎射、水練、水馬なの武術も教えていた。龍馬は14歳で入門し19歳のときに道場主の日根野弁冶から小栗流の目録を得ている。道場は身分格式にこだわらず、上士も下士もいて、むしろ下士のほうが多かったとされている。(NHKの大河ドラマで土佐の上士と下士の身分差について偏見をすりこまされた方には意外かもしれない)
 龍馬は、ここで鍛え上げられ、目録を得たことが江戸の剣術修行につながるのであるが、彼の日根野道場入門には継母伊与の陰の力があったように思われる。12歳で実母に死なれ、どこか他人からは弱虫に見られていた龍馬を変貌させたのは、坂本家の後妻になった伊与であった。
 美人で聡明で慈悲心にあふれ、小柄ながら薙刀の名手であったとされる伊与は、継子いじめと誤解されることも恐れず、少年龍馬を厳しく躾けている。ときには龍馬を板の間に端座させ、食事も与えなかった。強い信念と愛情で、実母を失ったばかりの多感な少年龍馬に接したのである。江戸に出た龍馬が千葉道場で、北辰一刀流の長刀(なぎなた)の目録を受けているのは、この伊予の影響ではないかとすら思われる。巷説では龍馬の武芸の相手をした乙女姉さんが有名であるが、継母伊与の存在も無視できないのである。
 さて、龍馬が築屋敷の日根野道場で頭角をあらわし、江戸に飛び立つように、あえてこじつければ吉井勇夫妻もこの築屋敷から、やがてはばたくように出てゆくのであった。

吉井勇の歌と土佐  8

2010-01-07 23:07:34 | 小説
 吉井勇が山を下りて、渓鬼荘から高知市築屋敷に居を移すのは、昭和12年10月のことだった。山を下りるには、わけがあった。
 東京から孝子という女性がやってきて、彼女と再婚するのである。
 孝子は浅草仲見世近くの料亭「都」の養女で、看板娘であった。「都」は文士たちのたむろする料亭で、常連には菊池寛や久米正雄らがいた。文士たちは、孝子をめぐって互いに抜け駆けて手を出さないという申し合わせをしていたというから、よほど客たちに愛された魅力的な娘だったと思われる。ところが、どうやら孝子は吉井勇に好意を抱いていたらしい。彼女は勇の境遇に同情して、慰めの手紙や贈り物をしていた。いまでいう遠距離恋愛的なかたちになって、恋情もだしがたくなったのは孝子の方である。
 意を決した彼女が土佐にやってきたのである。吉井勇はこのとき52歳である。勇は昭和35年に75歳で死ぬが、このときから23年間、孝子という良妻によって支えられてゆくのであった。

  猪野野より高知の街にくだり来てひと年(とせ)暮らす妹(いも)のまにまに

 勇は、孝子と再婚したことを、運命の神が自分を見捨てなかったと述懐しているが、これを転機に文筆家として立ち直るのであった。
 ふたりで住んだ築屋敷のことを、こう描写している。
「そこは鏡川の川岸の堤防にあたるところだったから、すぐ前の桑畑を隔てて、清冽な水の流れてゐる河の面を見ることが出来た。筆山や鷲尾山もその向ふに、何処か京洛の山々を思はせるやうな円味のある山容を列ねてゐた。家は古びて建付の悪い、絶えず隙間風が吹き入って来るやうな陋屋だったけれども、ここらは由緒ある武家屋敷の跡だったと言はれてゐるだけに、何処か落着いたところがあって、石榴、柿、梅、芙蓉、杉、南天、蘇鉄など、庭樹の数も少くなかった。
 私はこの築屋敷の家で、丁度一年の間暮したのだが、わびしいけれども静かに落着いたその間の生活は、それまでの私のあわただしかった、人生流離の旅の塵を払ひ落すのに、どの位役立ったか知れなかった」
 このすぐ近所で少年期を過ごし、おそらく勇のいうところの桑畑の桑の実を食べた私としては泣きたくなるほど懐かしい描写である。築屋敷というのは子供の頃の私にはヒーリングスポットのようなものだった。ああ、ここでなら勇は癒されると、私には直感できる場所である。
  
   大土佐のわび居の庭の夏ふかく石榴(せきりゅう)の花咲きにけるかも

吉井勇の歌と土佐  7

2010-01-06 21:13:44 | 小説
 高知の地酒に「瀧嵐」という銘柄がある。吉井勇は、この酒を愛した。

  瀧嵐このうま酒を酌む時の恋にかも似る酔心かな

 この瀧嵐の醸造元(現・高知酒造)の伊野部恒吉と知りあったことが、勇の土佐隠棲を決定づけたと、ある意味では言えそうである。実は渓鬼荘も伊野部の所有していた庵を解体して、古材を運んで作ったものだった。この早稲田大学出身の醸造家は、政治、文学、美術に一家言を持ち、勇の表現を借りれば「ちょっと端倪すべからざる風格を備え」た、あたかも任侠の人のようであった。
 伊野部は絶えず瀧嵐を勇のもとへ送り、月に一度は誰かを連れて勇を慰めに猪野々にやってきた。その誰かというのは、高知の芸妓であったり、女給さんだったりしたこともある。そしてときには高知の街に勇を連れだしたのも伊野部であった。親友でもあり、パトロンでもあったのだ。
 勇は、伊野部のことをたわむれに酒麻呂と呼んでいた。

  寂しければ酒麻呂いかに新醸(にひしぼ)り香やいかにと思はるるかな

 高知市上町の伊野部宅の前庭に、昭和34年6月に吉井勇の歌碑が建てられている。
   
  友いまだ生きてかあらむここちして土佐路恋しくわれは来にけり

 酒麻呂こと伊野部恒吉は昭和16年11月に早逝していた。
 勇には酒麻呂のことを詠んだ歌は数多くあるが、彼の訃報に接したあとの歌は、やるせなさと悲しさの滲む歌ばかりだ。

  むらぎもの心正しき生涯も四十路といへばあまり短し

  わが友のあらぬ土佐路と思へばか山もさびしき雲もさびしき