小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

おりょうさんの戸籍上年齢

2008-02-28 22:38:25 | 小説
 阿井景子という女流作家に『龍馬の妻』という作品がある。むろん坂本龍馬の妻おりょうの物語である。昭和54年3月学藝書林より刊行されているが、私の所有しているのは集英社文庫版である。阿井氏は「おりょう追跡ーあとがきにかえて」で、おりょうさんの戸籍上の年齢を問題視していた。
 おりょうさんは明治8年7月2日に西村松兵衛の妻ツルとして入籍、そこで戸籍が作られているわけだが、嘉永3年6月6日生まれとなっていて弘化3年生まれの松兵衛より5才年下となっている。実際は逆に5才年上だったから、阿井氏はこう書くのである。
「りょう女は自分の年齢を夫に十歳もさば(注:傍点が打ってある)を読んだことになる。一歳や二歳ならともかくも、十歳もさばを読まなければならない状況とは何んだったろうか」
 これを読んだとき、私はああこの作家はおりょうの伝記作家としての資格はないと思ったものだ。
 松兵衛とおりょうは、おりょうが寺田屋の養女時代からの知り合いだという事実関係をおさえていれば、こんなことにこだわる必要はないのである。松兵衛はおりょうの実年齢は、とっくの昔から知っていた。
 作家は、おりょうが自分の年齢を偽って男をたぶらかしかねない女だという予断をもっているから、こんな馬鹿なことを書くのである。松兵衛が建立に賛助人となったおりょうさんの墓碑はちゃんと正しい没年齢が刻まれているではないか。
 最近、おりょうさんに関する良い本が刊行された。鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社)である。ところがちょっと気になる個所があった。鈴木氏は書いている。
「…戸籍は、実年齢より9歳若く届けられていたことがわかる。当時は、今のように出生証明書というものはなく、年齢を偽って申告することも可能だった。お龍は『京美人』であったというから見た目年齢で届けたのであろう」
 これは阿井景子と同じ轍を踏んでいるではないか。
 明治4年の戸籍法に基づいて、戸籍調査が行われたわけだが、届け出は、新設された戸長に戸主が出生死去出入を必ず届けることになっていた。松兵衛が届けているのだ。おりょうさんが勝手に届けるわけはないのである。 ちょっと想像すればわかるではないか。
 松兵衛はまず自分の生年月日を口頭で届け、妻については、「6月6日生まれですが、私とは五つ違いで…」とでも言ったのである。で、聞くほうが勝手に女房だから、五つ年下と判断して、嘉永の年号を割り出せば、結果としては9歳(10歳)の年齢差になってしまうのだ。
 いわゆる壬申戸籍は、たぶんこういう間違いがほかにも数多くあると思われる。

中山忠光暗殺事件 完

2008-02-26 19:18:13 | 小説
 長州藩としては、いくらか贖罪の意味合いもあったのであろう、明治3年3月8日に、忠光の忘れ形見の仲子を藩主毛利元徳の養女にしている。仲子6才のときである。そして、その年の11月に、数百両の持参金をつけて東京の中山家におくりとどけている。
 祖父中山忠能は、はじめて孫と対面したのである。ちなみに忠能は、わが子忠光の死因を毒殺と聞かされていたようである。まさか数人の刺客によって圧殺させられたと情報提供者は言えなかったのかもしれない。
 仲子の後日を記す。
 彼女は9才になると跡見花蹊の教育を受け、跡見女学校の前身となる塾に学び、やがて女子学習院の第一期卒業生となった。19才で嵯峨公勝に嫁いだときには、母のトミも一緒に嵯峨家に引き取られている。そのトミは明治36年、58才で波乱の生涯を閉じた。
 
 ここまで書いてきて、私は仲子の口述録を読みたくなった。宮内庁書陵部に保管されている『嵯峨仲子刀自談話筆記』である。各文献に引用された断片は読んでいるが、全体を読みたくなったのである。宮内庁の保管文書については、あらかじめ閲覧申請書を送付して、許可を得なければならない。たぶん10日後ぐらいには閲覧できるだろうと思われるが、この稿は今回で終わる。仲子談話については、別の機会に感想をしるしたい。

 いずれにせよ仲子は、生まれたとき父はすでにこの世にいなかったから、父親の愛情を知らずに育った。そのことは逆にこうも言える。泉下の中山忠光は、わが娘を腕に抱くことも、慈しみの眼をむけることも、あの熱い男が、あふれる愛情を彼女にそそぐこともできなかった、と。


参照文献:西嶋量三郎『中山忠光暗殺始末』(新人物往来社・1983)
これは西嶋氏の労作であって、網羅的に諸史料にあたり、さらに現地調査もされている。氏のこの著作がなければ、この稿は書けなかった。      
 

中山忠光暗殺事件 11

2008-02-25 21:54:34 | 小説
 忠光の警護役ということになっている松村良太郎も、やはり刺客のひとりだった。先に名前をあげた6名と同じく13石の衣類方である。これで刺客は計7名。
 しかし、刺客たちのその後の消息については、よくわからない。事件は公的には真相が明らかにされないまま、うやむやになっているからである。
 忠光暗殺を命じた俗論派政権にとってかわった本藩政府にしても、支藩の長府藩を追い詰めれば、結局は「罪状」は長州藩そのものに及ぶわけで、真相究明には及び腰にならざるをえなかった。
 ところでトミの気になる証言がある。彼女は述べている。
 長府藩剣術指南の林郡平が「忠光朝臣を存命せしなば当藩のためよろしからず」と
主張し「同志泉十郎と共に暗殺せしやの風聞あり」と聞いてている。
 この林郡平は80石取りで郡代を経て御目付役であったらしいが、元冶2年3月25日に暗殺されている。
 しかも彼の暗殺に関与しているのが泉十郎こと野々村勘九郎であった。その野々村も慶応元年11月26日、奇妙な殺され方をしている。
 林も野々村も直接には手は下していないものの、共同謀議の中心人物であったらしい。ともに訊問の必要な人物であった。口封じのために殺されたと考えられなくもないのだ。
 長府藩と同じく、最終的には本藩の長州藩がこの事件に封印をした、と断定してもさしつかえはないだろう。
 明治になって、維新功労者に爵位が贈られる際、長府藩主は伯爵ではなく子爵にとどまった。明治天皇は忠光暗殺のいきさつを知っていて、「あれには伯爵はやれぬ」と言ったという説がある。
 中山忠光は明治天皇の叔父にあたる。5才まで中山家で育てられた明治天皇にとって、忠光は年長の遊び相手だった。

中山忠光暗殺事件 10

2008-02-24 20:39:31 | 小説
 長府藩は、かなりあわただしい動きを見せる。身重の恩地トミをふたたび江尻半右衛門の家に引き取らせ、実質的に拘束したのであった。
 慶応元年5月10日、その江尻の家で、トミは女児を出産する。忠光の忘れ形見、仲子である。
 産後9日目のことだった。夜が明けるのを待ちかねたように、池内蔵太らが海浜近くの高台にあった江尻の家を急襲した。トミと嬰児を連れ出すためだった。このままここにいては母子は抹殺されると懸念したのである。
 池らは船で来て、船で帰り、そこから12キロ離れた吉田町の奇兵隊屯所に母子を保護した。
 長府藩は追手を向け、奇兵隊にもかけあったが、ついにトミ母子を取り戻すことはできなかった。
 さて、奇兵隊が健在しているこの慶応元年5月は、忠光暗殺時とは藩内の事情はがらりと変っている。
 話を忠光の暗殺された元冶元年に戻す。
 その年の12月15日、高杉晋作の奇兵隊が功山寺に挙兵、これに刺激された急進派の諸隊が決起した。結果、萩藩庁の正規軍に勝つのである。俗論派の政権は崩壊し、急進派が復帰するのであった。征長軍撤兵の犠牲となった三家老の家もそれぞれ再興がかなった。
 長府藩にしてみれば、まことに苦しい立場に置かれたわけだ。
 忠光暗殺を指嗾した政権担当者はいなくなり、後ろ楯をなくしたばかりか、暗殺の事実が明るみになれば長府藩の単独犯行とみなされかねないのである。
『長府名勝旧宅址記』という奇妙な史料がある。おそらく原点は長府藩の記録である。村民には箝口令をしきながら、どこかで長府藩は真相を書き残しておきたかったのではないだろうか。刺客の氏名が明らかにされている。
 内田与三郎、佐野正右衛門、福山吉兵衛、高田吉兵衛、近本伴右衛門、三浦市太郎
である。
 いずれも衣類方13石の長府藩士で、「中山卿暗殺の際、凶手として差遣ハサレタル一人ナリ」と注釈が付いている。

中山忠光暗殺事件 9

2008-02-23 22:15:47 | 小説
 慶応元年4月23日、伊吹周吉は田耕村にやって来る。真相究明のため、当時の関係者と直接面談しようというわけだ。
 最初に庄屋の山田幸八の家を訪ねた。幸八は、自分はまるで直接の関係者ではないような言い方をした。
 中山忠光は「御病気になられ、この辺では治療できないので、長府近辺に御連れ出しになった、と聞いている」と。
 トミの話とは食い違うから、伊吹の疑念を深めるだけである。
 伊吹はさらに忠光の潜居先の主である大田新右衛門に会おうとするが、こちらは居留守を使われて妻女にしか会えなかった。
 一方、池内蔵太、小川佐吉、上田宗児らは藩庁に出向いて事情聴取に乗り出していた。むろん、誰もほんとうのことを言うわけがない。
 刺客は長府藩の衣類方の藩士たちだったが、藩も病死を主張するばかりであるから、らちはあかない。
 では医師の坂井龍眠に会わせろと談じた。しかし、これも果たせず成果は得られなかった。
 彼らは結局、綾羅木に行って、忠光の墓をあばき、死因を確認するしかないと決断する。実際、墓前まで行っている。
 ところが長府藩士の必死の抵抗にあって、墓を掘り返すことも断念せざるを得なかった。
 近くに酒屋があったらしい。一同は酒を買ってきて、忠光の眠る土地に注いで吸わせた。跪拝して、憤懣やるかたなく、泣いた。伊吹は髷を切り、墓前に埋めた。
 さて、長府藩が4月26日に田耕村の村民に出した布告がある。その中に、こんな文言があった。

 1、中山卿一件、二十三日尋ね来リ候者又々尋ね来リ候ハバ、凡(およそ)杣地村御出立迄之次第ハ有庭(ありてい)に申し候様、尤(もっとも)極密の儀は堅く相隠し候様

 中山忠光暗殺は、「極密の儀」だったのだ。つまり村民全体に箝口令がしかれていたのであった。

中山忠光暗殺事件 8

2008-02-21 00:10:53 | 小説
 綾羅木村で忠光の遺骸が埋められている頃、むろんトミたちはそんなことは知るよしもないが、忠光の遭難そのものは悟っていた。
 朝、国司直記はトミに言う。「ここにいては危険だ。早く立ち退きましょう」
 トミを長府藩士の江尻半右衛門宅まで送るというのである。
 早々と駕籠が用意されていた。山奥の村落にいつ駕籠が運ばれたのか。さすがにトミは不審に思い、駕籠かきに聞くと前夜から用意されているという。その用意周到さにトミは疑惑の念を深めた。
 長府藩は、トミを見くびっていたことになる。藩の命令で、生贄のようにして忠光のもとにおくった娘という認識しかない。「狂乱の人」から解放してやったから、娘もむしろ安堵しているぐらいにしか思っていなかったのであろう。若い男女が一つ屋根の下に暮らし、情愛をはぐくんできた機微を察していなかった。トミはすでに身ごもっていた。お腹の中で日々育ってゆく胎児の父親である忠光を、彼女は愛しはじめていた。
 よもや長府藩に不利な証言が彼女の口から語られることはあるまいと、江尻らは判断したのであろう。やがて実家の恩地家に帰される。
 事件の翌年は元冶2年であるけれど、この年は4月8日から慶応元年となる。
 その年の春、トミを訪ねた志士たちがいた。
 池内蔵太、小川佐吉、上田宗児、伊吹周吉(石田英吉)らである。彼らは吉野山中から忠光を擁して脱出した天誅組のいわば残党である。長州に逃れ来た文久3年の10月末には、忠光と別れて別行動をとっていた。しかし、たえず忠光の消息は気にかけていたのである。その消息が奇妙にとだえていたので、トミに聞けばなにかわかると思い、赤間町を訪ねたのであった。
 トミの話を聞き、忠光は暗殺されたと気づき、その真相を探ろうとした最初のメンバーは彼らであった。 

中山忠光暗殺事件 7

2008-02-19 19:57:50 | 小説
 田耕村は「たすきむら」と読む。現在の下関市豊北町である。標高668メートルの白滝山の麓にある村だ。人家もまばらな過疎地で、当時は夜間に人が歩くなど珍しいところだった。潜伏先の民家の戸を叩いたのは、庄屋の山田幸八だった。
 幸八は「刺客が村に入ったので、急ぎここを立ち退いてください」と四恩寺という寺への移動をすすめたという。
 まず忠光ひとりが家を出た。忠光の警護役の国司直記が同道してないのが腑に落ちないが、かわりに家の中にいた長府藩士三浦市太郎が従った。なんのことはない、この三浦が刺客団の一員だった。
 長瀬の渓流のせせらぎを聞きながら、幸八の提灯を先頭に、忠光、三浦の三人は、星の凍てつくような寒い夜道を歩いたのである。杣地に来たあたりで、待ち伏せしていた刺客数名が突如忠光を襲った。
 忠光暗殺の謀議にかかわった庄屋は幸八のほかに4人いた(実行犯ではない)が、その中のひとり福澄十蔵は後年こう語っている。
「高貴の御身なるを以て刃傷を加えざる事とし、幸八をして大田新右衛門方より誘い出し、三浦市十郎を従はしめ、他の者は長瀬に待ち伏せ、卿の来るるや突然棍棒を以て御脛を払ひし一刹那。下の田に卿落ち遊ばるると共に。四方より駈寄り手早く絞殺したるものなり。されと力任せに脛部を打ちたる事にて少し傷つけたり」(『御事歴関係綴』)
 高貴な身分だから刀傷をつけなかったというより、病死扱いに偽装するため、そのような指示が出されていたのではなかろうか。
 忠光の遺骸はいったんは夜打峠に埋められたが、すぐに掘り起こされて幸八の家に運ばれている。塩漬けにして長持ちにいれると、4人の百姓を駆り出し運搬人として下関まで運ぶべく、その夜のうちに峠を越えた。豊浦郡綾羅木村あたりに来て夜が明ける。もはやこれまでと浜の松林の間の小さな丘の上に穴を掘って遺骸を埋めた。
 その墳墓の場所に、現在の中山神社がある。

 

中山忠光暗殺事件 6

2008-02-18 21:58:21 | 小説
 その長府藩が中山忠光の死に関して、でっちあげた内容はおよそ次のようなものであった。

 中山忠光は、かねて大酒を好み、その上、色情も深かったから「御虚弱の様相」であった。(つまり酒色におぼれて体をこわしていた)したがって、婦人をお伽に出さないように遠ざけて、11月5日より医師酒井龍眠に診察させ、薬なども与えていたが、11月15日暮時、にわかに吐血し、酒井医師が駆けつけるも間に合わずに亡くなってしまった。

「婦人」というのは恩地トミのことであるが、中山忠光暗殺の日、彼女は忠光と一緒にいたのであるから、でたらめもいいところなのである。前述のように死亡の日付も嘘である。
 潜居先を転々としたあげく、思うように外出もできずになかば軟禁状態のような田舎暮らしに、都育ちの公家の御曹司の気分が荒れないほうが不思議であって、そんな忠光をなだめるために側女としておくられたのがトミであった。
 年は忠光より一才下、19才だった。瓜実顔の美人で、ひととおりの教養も身につけていたとされている。
 長府藩の記録では「(忠光の)狂妄の挙動いたらざるところなし、依りてその掛りより妾をいれたらば少々御うつ念を散じ狂乱和ぐべしと気づき、馬関より之を迎えて」とある。
 トミは赤間関の旅籠屋の恩地家の二女だった。それにしても、長府藩はよほど忠光を持て余していたのであろう。「狂乱」と書くのだから、まるで狂人扱いである。
 さて、暗殺の当日、忠光の体調が良くなかったのは事実であるらしい。むろん吐血などはしていないが、前日に高熱を発し、その日もまだ完全に熱は下がっていなかった。終(つい)の棲家になるのは田耕村の大田新右衛門宅であるが、その夜突然、この潜居先に駆け込んできた男があった。暗殺者の手引き役となる男だ。
 トミの記憶では午後十時ごろのことであった。
  

中山忠光暗殺事件 5

2008-02-16 21:54:59 | 小説
 西郷がやはり大久保一蔵に宛てた9月19日付書簡には「暴人の処置を長人に付けさせ候道も御座あるべく候かと相考へ居申し候」という一節があった。この「暴人」の概念の中に中山忠光がふくまれていたとしたらどうか。
 もと御庭番で情報蒐集のプロであった西郷のことである、中山忠光が長州に潜伏していることは察知していたはずである。表向きは中山忠光はかくまっていないと主張する長州藩に、和平条件のひとつとして中山忠光のことを明文化することはできない。しかし、そこは阿吽の呼吸というものである。
 もしも「国家の乱賊」で「早々打取鎮静可有之」と京都守護職から達書が出されていた天誅組総大将の長州潜伏が明るみになれば、和平交渉は水の泡になるのである。西郷にしても面目まるつぶれになる。なんらかの示唆が西郷からあったとして不思議ではない。
 だから長州藩は三家老の処断を決心すると同時に、中山忠光謀殺を決心したと思われる。
 ただしそれを支藩の長府藩にやらせた。
 ところで中山忠光の死亡日時には、諸説があった。
 11月3日、5日、6日、7日、8日、11日、15日、12月8日。
 このうち12月8日は根拠がよくわからない。たぶん11月8日説の誤りだろう。実際に11月8日なのであった。
 おかしいのは11月15日説である。『毛利家記録』という公文書がそう記すのである。長州征討軍に恭順の意思表示をするリミットの日付は14日だった。つまりその翌日にすれば、長州藩の「謝罪恭順」と忠光の死が関係なくなるとでも言いたげである。
 11月15日に病死したとする慶応4年2月27日付『毛利家記録』については、正親町季薫が『明治維新の先駆者天誅組中山忠光』(昭和10年・明治維新発祥地記念碑建設会発行)で、こう評している。
「…当時本藩に提出せる報告書を一見すれば、長府藩の忠光暗殺のことを隠蔽せんと苦心せる状況歴然たるものがある」
 その長府藩は『中山忠光卿来藩と藩の処理』という文書で、本藩の仕打ちに怨みごとを述べている。
「罪手ヲ下スモノニアラズシテ之ヲ指嗾(しそう)スルモノナリ」 

中山忠光暗殺事件 4

2008-02-15 23:28:14 | 小説
 三人の家老の死と中山忠光の死は、実は同じ背景を背負っている。
 まず、三人の家老の首はなぜ幕府に提出されたのか。それは幕府の長州征討軍側が長州に持ちかけた和平交渉の前提条件だったからである。長州藩では、禁門の変は、藩主の許可なく三家老が出兵させたものと、苦しい言い訳をしていたのだ。
 長州征討軍の総督は前尾張藩主徳川慶勝。防長二州を東西から攻撃する作戦を立て、兵力約15万を動員、総攻撃は11月18日を予定していた。
 ところが征討軍の参謀の中に、西郷隆盛がいた。西郷は水面下で和平交渉をすすめている。やみくもに長州を攻めるのは愚策だと考えたのである。死に物狂いで抵抗する相手ほど厄介なものはない、とよく知っていたのである。さらに西郷は長州の藩論が分裂していることを知っていた。その内部抗争を利用して「長人を以て長人を処置したきものに御座候」(10月12日大久保一蔵宛書簡)というわけだ。
 和平交渉の仲介役は岩国藩主吉川監物であったが、11月3日、西郷が岩国にやってくる。長州の「謝罪恭順」の意思表示の督促であった。なにしろ総攻撃まで、あと15日しかない。
 和平交渉の前提条件には4項目あった。1、三家老四参謀の処分。2、公卿の移転(8・18の政変で京から逃亡してきた公卿のことである)。3、藩公父子の謝罪。4、山口政治堂の撤去。
 西郷の督促は、ともかく三家老の首を差し出して、長州藩の誠意を見せろ、というものだった。14日がリミットであると念を押した。
 こういうわけで家老たち三人は藩存続のための犠牲となったのだが、その無念さはそれぞれの辞世に滲んでいる。
 益田右衛門介は、こう詠んだ。

 いまさらに何怪しまん空蝉の善きも悪しきと名の変る世に

 国司信濃は、こうしたためた。

 飛鳥川きのふに変る世の中のうき瀬に立つは我が身なりけり

 そして福原越後の辞世はこうだ。

 くるしさは絶ゆるわが身の夕煙空に立つ名は捨てがてにする

 さて、和平交渉をすすめる西郷は、長州藩にもうひとつのプレッシャーをかけたのではないのか。
 朝幕のお尋ね者中山忠光のことに関してである。 

中山忠光暗殺事件 3

2008-02-14 00:06:15 | 小説
 8.18の政変後の長州は、朝廷と幕府から敵視される存在となった。長州は長州で、自分たちを政局の中心から追い払った薩摩と会津に激しい憎悪の目を向けていた。「薩賊会奸」という罵りの言葉が生まれている。
 中山忠光の暗殺現場に早く筆を進めたいのだが、まずどうしても当時の政局の変転と長州藩内部の混乱について概略でも触れざるを得ない。なぜなら若き貴公子の死は、きわめて政治的な死だったからである。
 さて長州勢としては起死回生の挽回策を探るのだが、藩論はひとつにまとまっていたわけではない。尊攘派(討幕派)と佐幕派にねじれていた。前者を「正義派」と呼び、後者を「俗論派」という。
 元冶元年7月19日、、禁門の変が起きる。尊攘派のたまりかねたような上京だった。討薩賊会奸なのである。
 その前日の18日、各藩に送付された開戦書にいわく。
「私ら大義を以て時宜をはかること御洞察なしくだされ、一日の騒擾を恕免なしおかれ、天幕へおとりなしのほど偏へに懇願奉り候」 
 禁門とはむろん禁裏の御門の略称である。この門、開かずの門だったのが天明の大火のときに開けた。焼かれて口が開く蛤のようだというので、蛤御門とも呼ばれた。その蛤御門での激戦で、長州は会津と薩摩の藩兵に敗れた。この戦いで、久坂玄瑞と真木和泉が死んだ。いずれも自害であった。
 これで長州は天幕つまり朝廷と幕府を完全に敵にまわしてしまった。とりなしもなにも「朝敵」になってしまったのである。
 これを契機に、藩内では俗論派が主導権を握るようになる。幕府に恭順の意を示すべきという意見が大勢を占め、三人の家老をいわば戦犯に仕立てて、首を斬って幕府に差し出した。その年の11月12日のことであった。12月には要職にある正義派ら7名の者を斬刑に処した。内部粛清が始まったのである。
 中山忠光の死の日付は、三人の家老の死の日付と、実はきわめて接近していた。 

中山忠光暗殺事件 2

2008-02-12 19:38:43 | 小説
「(天誅組)総大将の中山忠光は、うっとりするほど秀麗な顔かたちだった。役人の記録にも『年齢廿歳(はたち)ばかり、色白く中背のお方、薄化粧に鉄漿(おはぐろ)を付け、身には緋縅(ひおどし)の鎧ならびに鍬形(くわがた)打ちたる兜を着し馬に打ち乗り』と書き残されている」
 以上は野口武彦『大江戸曲者列伝 幕末の巻』の「学習院過激派ー中山忠光」の項にある叙述である。
たしかに、残されている中山忠光の肖像を見れば、「うっとりするほど秀麗な」という野口氏の形容が、さほどおおげさではないと誰しも思うであろう。
 なにより若さが匂いたつような貴公子であった。
文久2年ごろの学習院は尊攘志士たちの出入りする政治集団のアジトになっていて、だから中山忠光は「学習院過激派」だと野口氏はいうのであるが、この貴公子、天誅組の総大将になったとき、まだ19才だった。
 天誅組の挙兵にさきだつ文久3年3月には、京都から忽然として姿を消し長州に現れていた。
 久坂玄瑞らによって光明寺党の党首にまつりあげられ、5月になると馬関海峡を航行するフランスやオランダ艦を砲撃する、いわゆる攘夷戦に参加した。
 京都に戻ってきたのが6月で、それから2カ月後が天誅組の乱だったのである。
 吉野山中から脱出し、逃れるところといえば光明寺党の同志の国、長州しかなかった。ちなみに光明寺党は、ある意味では奇兵隊の前身ともいえる集団だった。
 彼は船荷に隠れて海路、三田尻に落ちのびたとされているが、陸にあがってからも、待っていたのは船荷に隠れるのと変わらない生活だった。
 なにしろ長州藩にしてみれば、この貴公子はいまや厄介者にしかすぎなかった。 

中山忠光暗殺事件 1

2008-02-11 23:02:54 | 小説
 昭和32年の冬12月10日、天城山中で若い男女の心中事件があった。ともに学習院大学の学生であったが、百日紅の樹の下でピストルでこめかみを撃ち抜いて死んだ女性の名は愛親覚羅慧生。
 その名が示すとおり満州皇帝(ラストエンペラー)溥儀の実弟薄傑の長女だった。母親は「流転の王妃」といわれた浩(ひろ)という日本人だった。彼女の出自の特異性からセンセーショナルな事件となって「天城山心中」として知られている。
 しかし、これから書こうとするのは、そのことではない。
 彼女の母の浩の父親は嵯峨実勝、祖父は嵯峨公勝であった。その嵯峨公勝の妻は仲子(南加)という。ちなみに嵯峨家は三条家から鎌倉初期に分かれ、幕末までは正親町(おおぎまち)三条と称していた。
 仲子の母親はトミといった。下関の商人恩地与兵衛の次女である。ところで仲子が生まれたとき、父親はすでにこの世にはいなかった。
 さてこれから書こうとするのは、その父親のことである。
 つまり中山忠光のことである。
 煩雑な前ふりになったけれど、天城山心中のヒロインの悲劇は、さかのぼれば、悲劇の貴公子・中山忠光にその悲劇性においてつながっているのである。
 天誅組の大将中山忠光は、あのおり吉野山中から虎口を脱して逃れたのだが、のちに非業の死を遂げた。
 暗殺されたのである。もっとも彼を庇護すべき立場にあった長府藩は、医師の診断書をつけてまで「病死」として朝廷に報告していた。
 中山忠光公の暗殺事件の闇の中をのぞき見ることは可能だろうか。

「天誅組」の悲劇  完

2008-02-07 20:42:17 | 小説
 この稿の2回目で、吉村虎太郎は「戦死したその土地で、ほどなく『神』とあがめられるようになった」と書いた。
 天辻には「天誅踊り」というものが出来、その歌詞にも、そのことが伝えられていると知ってはいたが、歌詞の全容がわからなかった。
 五條市にある「天誅組保存伝承・顕彰推進協議会」(注)に問い合わせたところ、同会の特別理事で天誅組研究家の舟久保藍さんから、『大塔村史』に収録されている歌詞のコピーをわざわざ郵送していただいた。
 なんと歌詞とはいっても、400字詰め原稿用紙で5枚ぐらいの長いものだった。「語りもの」なのであった。吉村は「語りもの」の主人公になっていたのだ。
 両刀をさして旧盆に踊られるというが、こんな長い長い歌詞で踊る踊りを、いまも伝承しているというのは、すごいことである。
 その歌詞の最後の部分(これだけでも長い)を以下に紹介して、この稿を閉じたい。ちなみに、どうか音読していただきたい。独特なリズムがある。

 人は一代名は末代と 其名残るは若侍よ 土州吉村寅太郎様よ ここに不思議は鷲家村で 住尾兵吉娘のおかつ 産の悩みでいざりとなりて 難儀至極の其折りからに 夢の告げにて二三度詣り 元の如くに足立ちければ 家内中よしおろかにあらず 宇陀の町では目くらもあきし 夫れを聞きつけ老若男女 大和国申すも愚か 京や大阪和泉や河内 紀州熊野地伊賀伊勢志摩よ 近江殿にも忍びにしのび 道も狭しと歩みを運び 花や線香を供えて拝む 老いも若きもたもとをしぼる 其名流すは吉野の川よ 亦も参りに紀の川づたい 千本桜の花うばとても 又咲く春をばいそ待ちまする

(注) 「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会
サポーター会員を募集されている。今回のご縁で、私も会員申請させていただいた。

「天誅組」の悲劇  15

2008-02-06 22:41:49 | 小説
 負傷していた吉村虎太郎が駕籠に担がれているときに、いや駕籠といってもムシロを二つ折りにして縄で縛り、棒を通したもっこのようなものだが、担いでいる者たちに聞かせた言葉がある。
「辛抱せよ、辛抱せよ。辛抱を通したら世は代わる。それを楽しみにしろ」
 彼はあるいは自分に言い聞かせていたのではないかと思う。
「感慨の男子、家を思わず」という言葉は、草莽の志士たちの心意気ではあったろうけれど、吉村は優しかった。かって、京都で郷里の父親の訃報に接したときは、終日閉じこもって号泣した。
「不幸これに過ぎず候えども、兼て申し談じ候通り、忠孝両全は相調わず、依って御病症を見捨て、出国致し、及ばずながら微忠を天朝に尽し居候」
 このおり、弟と妻に宛てた手紙の一節である。吉村は父親の病気のこともよくわかっていたのである。「忠孝両全相調わず」と書いたとき、彼はどれだけの辛抱を呑みこんだのか。
 そして、京都を発つとき、母に宛てた手紙では、千年も万年も長生きしてくれと祈っていた。自分は夭折覚悟のくせにである。感慨の男子は、家を思っていたけれども、ただただ望郷の念は心の奥底に押し込めるようにして、辛抱していたのである。
 なんのために。天朝のためであった。
 吉村らが起こした天誅組という小集団には土佐出身者が多かった。戦死、また捕えられて処刑された土佐人は吉村ほか12名になる。
 十津川においても天誅組に土佐人が多かったということは記憶されたのであろう。維新頃とされる十津川の里謡にいわく。
「土州の土の字は一の字で止める、十津の十の字にゃ止めがない」
 十津川が土佐の志士達の感慨を限りなく引き継いでいく、という意味に私は勝手にうけとったが、違っているのだろうか。