小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  完

2008-04-25 15:53:01 | 小説
 ふたたび彦が日本に戻ってきたのは、生麦事件の直後だった。いうまでもなく、薩摩藩の大名行列を乗馬のまま横切ったイギリス人を藩士の一部が殺傷した事件である。
「帰ってみるとあの神奈川と鶴見の間にある東海道の一小村、生麦村で起こった事件をめぐって、外国人地区も日本人地区もまるで上へ下への大さわぎである」と彦は自伝に述べている。
 彦は事件について、あるうがった見方のあることを紹介しているが、ここでは割愛しておこう。
 アメリカ領事に着任を報告して領事館の仕事に戻った彼は、その後1年足らずで退職、横浜で商社を開き、やがて「海外新聞」を発行し、2年後に長崎に転出したのであった。
 彦は「新聞の父」といわれる。しかし、彼は新聞社社主としても、あるいは貿易商としても、すべて中途半端に終わった。
 明治になって、たった一度大蔵省に出仕している。井上馨の招きで国立銀行条例づくりに尽力したのである。明治5年から7年までという短い期間だった。大蔵大輔の井上が辞職すると、律儀に自分も退職するのであった。彦の夫人に談話がある。「(井上の)後任の大隈重信侯のすすめをおことわりしたのです。恩人にたいする彦のこの正直さと誠実さのゆえに、彦は多くの成功の絶好の機会と、物質的に豊かになる道をつかむことができなかったといえましょう」(近盛晴喜氏引用『彦文献資料』シラキュース大学図書館所蔵)
 彦の自伝を読み進めていると、1888年(明治21年)こんなことが述べられている。
「東京で気候が変われば、長いこと苦しめられている顔面神経痛にも効果があるだろう、と医者が言ってくれたので、…」東京に移転するのである。
 なんと長年、顔面神経痛を病んでいたのだ。おそらくストレスが原因だったろうと思われるではないか。日本とアメリカに引き裂かれ、物情騒然たる時代を、人生の漂流者として生きた彼のストレスは、心が落ち着いたころには身体の異常となって顕在化したのである。
 彦は明治30年12月12日、心臓病で死んだ。墓は東京青山霊園の外人墓地にある。外人墓地なのである。
 墓石には「SACRED TO THE MEMORY OF JOSEPH HECO]とあり、その下に「浄世夫彦之墓」と刻まれている。
「AGED 61 YEARS」すなわち享年61才だった。 

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  13

2008-04-24 21:23:49 | 小説
 遠州灘で暴風にあい、漂流したのは彦が13才の秋であった。母が生きていれば反対されたであろう江戸見物の帰りの航海だった。しかも。出発時点では養父の乗り組む船に同乗していたのに途中で別の船に乗り換えたため、養父と運命を別にしている。
 17名の遭難者のうち、彦は最年少だった。ちなみに船頭の万蔵は60才であった。
 17名の乗組員は太平洋を52日間漂流し、アメリカの商船オークランド号に救出され、年を越えてサンフランシスコで下船した。1852年2月であった。
 彦の日本帰還は1859年6月である。米国神奈川領事館通訳としての帰郷だったことはすでに書いた。
 ところで彦は文久元年(1861)の9月に、アメリカに再渡航している。攘夷浪人に命を狙われているという警告がしきりとなっていた。「外国人居留地から遠くへは絶対行かないように」と耳にタコができるほど注意されている。そんなわけで、いささか日本にいるのが窮屈になったらしい。ほかに目的もあったのだが、暗殺の危険性を回避するためにも、アメリカに「帰った」のである。
 ボストンで歳末をおくり、翌文久2年3月、リンカーン大統領と会見した。リンカーンと会見した唯一の日本人として彦は有名だが、リンカーンは彼が会った三人目の大統領だった。1853年にピアース大統領、1857年にブキャナン大統領に、それぞれ彦は会っていたのである。
 慶応元年(1865)7月、彦は日本にいて、3か月遅れでリンカーン大統領の暗殺を知る。すぐに、彼をリンカーンに紹介してくれたシ-ワド国務長官に手紙を書き、シーワドを通じて大統領の遺族にも弔意を伝えてくれるように頼んだ。
 シーワドの返書がある。その文中に、こうある。
「…万里をへだてる貴国の心地よき風光のさなかにあって、なお小生をお忘れなき御厚情まことにありがたく、御礼申し上げます。小生らの祖国は今回はからずも苦難に見舞われましたが、それにもかかわらず国民一同災厄を脱しましたこと、ひとえに神の恩寵と申すべく…」
 残念ながら慶応元年の日本は「心地よき風光のさなか」にあるとは言い難い。
 彦はたぶん、アメリカであれ日本であれ、政治の世界というものに、いくらかの嫌悪感を抱いたはずだ。

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  12

2008-04-23 21:49:38 | 小説
 彦の『漂流記』は、木版刷りで上下二冊、文久3年に刊行された。
 岸田吟香と本間清雄を雇って筆記させ、この本を世に出した意図はなんだったのだろうか。
 出版によって名利を得ようとしたわけではなかった。今日的にいえば自費出版みたいなもので、採算がとれたとは思われない。
 序文にいうところの、先進国たる異国の事情を知らせたいというのは、たぶん建前である。ほんとうは彼は自分を語りたかったのである。漂流者であった自分がなぜ日本に帰って来たのか、そして自分が何者であるのかを知ってほしいという衝動が出版の動機であったはずだ。
 序文の最後に、彼はこう記している。
「文久3年秋菊月。播州彦蔵しるす」
「アメリカ彦蔵」ではない。「播州彦蔵」なのである。
 アメリカ人として帰還したが、日本人であると名のっているのである。文章にすればそれだけのことだが、声に出せば喉が裂けるほどに叫びたかったに違いない。
 「さりながら」と彦は『漂流記』で述べる。「父母の国なれば異国の人別に終らんも本意ならず」と。
「人別」というのは「戸籍」のことだ。
 続く文章は切ない。
「希(ねが)はくは日本の読み書きも学び、時を得て日本人別に戻り、亜国と日本の両国に在りて、両国の為に微功をいたし、国恩を報ぜんことを願ふばかりなり」
 本音は日本人に戻りたかったのだ。
 彦は播州、いまの兵庫県加古郡播磨町古宮の生まれだった。誕生の翌年に父が病死、母は数年後に隣村の浜田に移り、船頭の吉左衛門と再婚した。後年、彦が浜田彦蔵と名のるゆえんである。
 養父が船頭だったから、船にあこがれた少年だった。
 しかし母は、息子を船乗りなどにしたくはなかった。
「船乗りになれば、きっとみじめになるのは目に見えてるではないの。陸にいれば幸福安穏に暮らせようというのに」
 船乗りには絶対させなよという母だった。 
 12才の時、その母も死んだ。

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  11

2008-04-22 06:12:14 | 小説
 荘村によれば、彦は「必竟洋人を信じ過ぎし候誤りに御座候」と語ったという。この「洋人」を信用しすぎてはいけないという場合の「洋人」は、たんにフランスのみを指したのであろうか、それともイギリスもアメリカも含めて「洋人」全般を意味したのであろうか。
 実は彦は日本人であって、アメリカ人でもあった。彦自身が、「洋人」でもあったのだ。
 彦がジョン万次郎と決定的に違うのは、アメリカに帰化し、アメリカ人として日本に帰ってきたことであった。彼は1858年(安政5年)、ボルチモアで米国の市民権を得ていた。
 帰国のため上海で新駐日大使のハリスと会見したさいに、ハリスは彼の帰化証明書を点検している。彦はそのおりのことを自伝に書いている。
「ハリス氏が言うには、神奈川に着いたら、これ(帰化証明)をその地の奉行に見せ、あとで江戸の国務長官[老中または外国奉行]に渡して、私がアメリカの市民で、すでに日本人ではないということを、彼らに納得させねばならないというのである」
 さりげなく書いているが、彼は日本という故郷に9年ぶりに帰還するのに、「洋人」として帰らねばならなかったのである。
 彦はサンフランシスコの税関長で、銀行も経営していたサンダースに可愛がられ、サンダースの故郷のボルチモアのミッションスクールで聖書、英語、算数を学んだ。1854年(嘉永7年)には、カトリックの洗礼を受けている。だから、ジョセフ・ヒコなのである。
 むろん当時の日本では、キリスト教は禁教であった。漂流漁民などが海外から帰ってくると、准邪教者として監視対象になるような時代だった。であるならば、アメリカ国籍を取得した方が得策だと彦の保護者であるサンダースが判断したのである。いわば彦は日本に帰るために、アメリカ人になったのであった。どこか哀しい複雑さである
 ちなみに江戸時代に漂流者の帰還というのは、いくつかの例があった。たとえば、寛政年間にロシアから帰って来た大黒屋光太夫は「外国の様子、みだりに物語など致さず候」と言い渡され、小石川「薬草植付場」で作業させられるという終身禁固刑のような目にあっている。明和年間にボルネオから9年ぶりに帰還した筑前の孫太郎は、帰国後は廻船稼業を禁じられ、陸路の旅行も禁止された。
 幕藩体制は、おろかしいことに海外情報を漂流者から蓄積せずに、あたかも異国における文化汚染者のように扱って、彼らを隔離したのである。
 彦やジョン万次郎の漂流以前は、したがって漂流記などが堂々と刊行できるような時代でもなかった。  

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  10

2008-04-18 17:03:22 | 小説
 荘村の記す彦の発言内容は、いわば幕府の外交姿勢に対する批判であった。
 彦はいう。
 閣老はしきりにフランス人を信用し肩入れしているが、これは日本のためにはならない、と。「僕、度々、公辺へ建言致し、且つ『漂流記』中に相認め候俗記にも、その一斑をあらわし置き申し候」ところが「着眼の人物はこれ無く候、将軍家フランス人の甘説に惑い、しきりに天下の疲弊に乗じ金銀借用に相成り申し候」これは愚かな考えであって、やがて日本の国土の「大分」がフランスの領土になるだろう。
 そう述べたのである。この彦の話に見合うことがらが勝海舟の『氷川清話』にある。
「小栗は、長州征伐を奇貨として、まづ長州を斃し、次に薩州を斃して、幕府の下に郡県制度を立てようと目論んで、仏蘭西公使レオン・ロセス(ロッシュ)の紹介で、仏国から銀六百万両と、年賦で軍艦数艘を借り受ける約束をしたが、これを知って居たものは、慶喜殿のほか閣老を始め四、五人に過ぎなかった」
 あえてこの機密を君に話すと勝にいった小栗とは、いうまでもなく勘定奉行や外国奉行をつとめた小栗上野介忠順である。幕権派の中枢人物だった小栗は、外国の中ではフランスだけが信用できるとしていた。
 ところで、幕府のトップシークレットだった日仏借款の話を、慶応3年5月の時点で、彦は知っていたということになる。しかも国土が担保になっているということまでもだ。日仏借款に国土が担保になっていたというのは事実無根で、慶応3年6月の樺太島の鉱山採掘権を担保にするという借款案が誤伝されたのであろうという説がある。ちょっと待ってほしい。彦の話はそれよりも前に語られているのだ。
 荘村助右衛門にとっては衝撃的な話だったらしく、日本のどこがフランスの領土になるのかと彦に聞き返している。荘村は書いている。「彦蔵云 追付相分可申候 夫迄者難申候」
 ちなみに明治30年になって、勝海舟はこう語っている。
「仏蘭西から金を借りるといふ事では、己は一生懸命になって、たうたう防いでしまった。もしあれが出来て居らうものなら、国家に対して何と申訳があるェ」あるいは「ナポレオンが、何の訳で、わざわざ日本に親切にするか、大体その訳がわかりさうなものぢゃあないか」とも。(江藤淳・松浦玲編『海舟語録』講談社学術文庫より)
 日仏借款に国土担保という密約があったと、彦も海舟も思っている。 

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  9

2008-04-17 17:00:16 | 小説
 龍馬が震天丸で土佐に向けて長崎を出帆したのは9月18日であった。20日に下関に寄港して、桂宛の返書をしたためたのであった。
 しばらくは土佐にいた。
 兵庫、大坂経由で京都に戻ってくるのが10月9日である。
 そして10月24日には福井に旅立ち、ふたたび京都に帰ってくるのが11月5日。それから10日後には死ぬのである。
 長崎には戻らなかったのだから、この間、彦との接点はない。
 桂の龍馬宛の手紙の趣旨は、「ひこなどと」内密に打合せをして、諸事手筈をととのえていてほしい、というものであった。「ひこ」がアメリカ彦蔵のことであるならば、それは実現されなかったということになる。
 だからというわけでもないが、桂の手紙の「ひこ」は中岡慎太郎の変名のひとつである「大山彦太郎」の「ひこ」である可能性を、私は捨てきることができない。
 なにより、たんに「ひこ」と説明抜きに書いて、アメリカ彦蔵のことと相互認識できるためには、龍馬と桂の間で、彦が共通の知り合いだという確認が前提条件となる。それはいつ出来たのであろうか。
 桂と龍馬の間で、彦のことが話された可能性のある日は、きわどいことに、ただ一日しかない。
 8月20日である。
 桂はその夜、長崎玉川亭で龍馬と佐々木高行を接待している。
 長崎に来た桂は、自藩の船の修理代の不足分千両を、土佐商会から借りたのであった。龍馬の口利きで、佐々木高行が引出した金だ。その謝礼の宴席であった。
 この席で、彦のことが話題になっていれば、あるいは「ひこ」というだけで、桂と龍馬はアメリカ彦蔵のことだと通じあえたかもしれない。
 この一日がなければ、私は桂の「ひこ」はアメリカ彦蔵ではありえない、と断定したいところだ。
 さて、話を戻して、荘村助右衛門の探索書(手紙という表現はどうもよくない)の中の、彦の発言に注目してみよう。 

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  8

2008-04-16 21:46:36 | 小説
「6月。今月、或る日の朝二人の役人が私の会社をたずねた」と彦は自伝で述べている。会社というのは、米長崎領事フレンチの起こした貿易会社のことである。彦は横浜で2年間続けた「海外新聞」を廃刊し、慶応3年1月3日に長崎に到着、友人のフレンチの事業を継承したのであった。
 さて、「二人の役人」が桂と伊藤なわけだが、ふたりはアメリカとイギリスの政府や制度について彦に質問している。
 見逃せない記述がある。
「私は力の及ぶ限り二人の質問に答えてやった。年長の方(木戸)はアメリカ合衆国の憲法について大いに興味をおぼえたとみずから語り、─まったく耳新しいことだと言った」
 つまり彦の例のアメリカ憲法を下敷きにした『草稿』を桂は知らなかったということが、これでわかるのだ。龍馬もまたしかりだったと私は思う。先に龍馬が『草稿』を読んだ可能性はきわめて小さい、と書いた。龍馬が読んでいたならば、桂だって読んでいそうなものではないか。
 さて、数日後にふたりはまた彦のもとにやって来る。このとき彦は桂の正体を見破って、「桂さんでしょう」と切り出している。実は会社の番頭の庄次郎というものが桂の顔を知っていたのだ。これで彼らはフランクに話をしはじめる。
 彦の記憶している桂の発言の一部を引用してみる。
「…われわれ自身も願うところは、統治の権力をわれわれの真に正当な君主たるミカドに返還し、徳川は征夷大将軍の職を退かねばならないということなのです。これが実現すれば帝国は平和になり、外国との交際ももっと自由に、もっと親密になることでしょう。しかし国内に二人の支配者がいる限り、いつまでも不和や紛争の絶えることがないでしょう。─ちょうど一軒の家に主人が二人いるようなものです」
 そして「ミカドの側の運動を促進するのに力を貸していただきたい」と頼まれたと彦は述べている。
 10月になって、ふたりはまたやって来た、と彦は綴っている。
 それはともかく彦と龍馬は、龍馬の桂宛返書以降に会ったか会わなかったか。
 この年の11月15日、龍馬は京都で死ぬのである。日数はごく限られている。 

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  7

2008-04-15 22:28:06 | 小説
 桂の龍馬宛手紙(慶応3年9月4日付)の当該文面は、こうである。

「且また大外向之都合も何卒其御元ひこなどゝ極内、得と被仰談置、諸事御手筈専要に是また奉存候。実に此大外向之よしあしは必芝居の成否盛衰に屹度相かゝわり申候。(略)芝居大出来と申処に至り候様御高配、乍陰奉祈念候」

 この手紙の「ひこ」は大山彦太郎すなわち中岡慎太郎という見方をするのは、『坂本龍馬関係文書』である。しかし田中・近盛両氏は、これをジョセフ彦だとするのである。
 ところで桂の手紙に対し、龍馬の返信がある。日付は慶応3年9月20日付である。

「一筆啓上仕候。然二先日の御書中大芝居の一件、兼而存居候所とや実におもしろく能相わかり申候間、弥憤発可仕奉存候(以下略)」

 またしても残念ながら、この返書に「ひこ」と談じたというような記述はない。
 ところで桂は「ひこなどと」と書いているだけだった。そう書くだけで、龍馬に通じるということは、ふたつのことを意味している。つまり龍馬と「ひこ」は面識のある知り合いであるらしいこと、そしてそのことをあらかじめ桂が知っているということだ。
 彦と龍馬の出会いを確実に示す史料のないことは、もはやくりかえさない。では彦と桂との出会いについて見てみよう。
 桂との出会い、そして桂の発した言葉を彦自身が自伝に詳しく書いている。
 彦が桂とはじめて会ったのは、慶応3年6月のことであった。引用した桂の手紙の日付の約3か月前である。
 桂は伊藤俊輔とふたりで彦のもとにやってくるのだが、ふたりは最初、薩摩藩士だと身分を偽っていた。
 先の荘村の肥後藩への報告書で、龍馬と彦が5月の時点で面識があるとみなすなら、桂はなぜ龍馬の紹介という手段をとらなかったのであろうか。そうすれば、身分など偽る必要はなかったはずだ。

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  6

2008-04-14 22:36:44 | 小説
 さて、荘村助右衛門の問題の手紙は『改訂肥後藩国事史料』に収録されている。「5月14日 我藩荘村助右衛門 長崎より書を坂本彦左衛(注)に贈り土佐藩坂本龍馬と談合の顛末を陳ふ」となっている。
 どうやら荘村は肥後藩の政情探索者であったらしい。
「密啓」ではじまる手紙は、手紙というより報告書である。
 いきなり「坂本良馬云」と龍馬の発言内容からはじまる。次に「僕云」と荘村の発言内容といった具合に、筆記録といったおもむきである。
 突然のように、「ミストル彦蔵云」と彦の発言内容が記されている。
 「ミストル」というのは「ミニストル」の「二」が脱落したのであろう。その前段に、龍馬の言葉として、ミニストルが敦賀に行ったという話があり、そのことに触発されたものと思われるが、この時期、彦は民間人である。文久3年9月、領事館を辞任しており、ミニストルなどと呼ばれるいわれはない。このことが私には妙に気にかかる。
 荘村の文書では、あたかも龍馬と彦が同席しているような感じだが、はたしてそうか。
 少なくも龍馬と荘村と彦の鼎談でないことは、荘村の文書で、龍馬の「旅舎」に「8、9人の長州人」がいたと書いていることからもわかる。
 荘村の文書には、とりあえずメモを送るというような追伸があって、彼のこれまでの見聞が綴られている。
 龍馬および彦の発言が同時点のものかどうか、ほんとうは断定できない。かりに同席の彦の発言によれば、というような文言があればいいのだが、彦と龍馬が面識があったという証拠物件としては、荘村の文書は必ずしも強固なものとは言い難い、と私には思われる。
 個性の強いふたり、彦と龍馬が互いに親しく面談していれば、どちらかがそのことを記述しているように思われるのに、なぜそういった史料が残されていないのだろうか。
 もっとも桂小五郎の龍馬宛の手紙がある。
 桂は、龍馬に「ひこ」と打ち合わせしてほしい、という手紙を書いている。だから、彦と龍馬は相識る間柄であったというのが、近盛・田中氏らの主張である。

注:書簡の宛先は「彦兵衛」となっている。 

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  5

2008-04-13 14:23:44 | 小説
 彦の『草稿』は、「アメリカ合衆国憲法に準拠した憲法草案」であると評したのは、佐藤孝(前掲)であった。たしかに、史上もっとも早く構想された日本国憲法草案なのである。前にも書いたが、だからこそ田中彰氏はあえて「国体草案」と呼ぶのであろう。本来なら「国体草稿」と称すべき文書であった。
 表紙に書かれている英文によれば、徳川政府へのプレゼンテーション用だったが、受取りを拒絶された文書ということになり、奥書と大意は変わらない。
 実は彦は、これ以前にも建言草案を書いていた。
 文久3年(1863年)に、故郷の姫路の藩公である酒井雅楽頭が老中に就任したのをみはからって、酒井宛に文書を提出しようとしたのだ。内容は積極的な開国貿易策をすすめるものだった。ところが、このときも仲介を依頼した神奈川奉行から取次は難しいと断られたのであった。
 彦の建言は、かくて徳川幕府の中枢に届いていないのである。
 さて、彦が「海外新聞」を発刊したとき、定期購読者のひとりに荘村助右衛門がいた。肥後藩士である。定期購読者といってもたった二人で、そのうちのひとりである。のちに彦は荘村と直接顔を合わせているが、なぜか自伝では、こんな表現をしている。

「定期購読者はわずかに、肥後のサムライ(ショームラ)がひとりと、もうひとりは九州の柳川の役人(ナカムラ)ばかりであった」(中村努・山口修訳『アメリカ彦蔵自伝2』平凡社・東洋文庫)

 荘村と面談したことは、自伝にはとりあげられてもいない。ふたりが顔を合わせたことは、荘村の肥後藩坂本彦兵衛あて書簡に書かれているだけである。それによれば、慶応3年5月、長崎においてであった。
 荘村は長崎の坂本龍馬の宿舎を訪問した。目的は桂小五郎を紹介してもらうためである。その坂本の宿舎に、彦がいた。そんなふうに読める手紙である。
 彦と龍馬に接点があったという証拠物件となる手紙である。
 ところが残念なことに、彦の自伝には、そのことを裏付ける記述はない。龍馬の名は彦の自伝には登場しないのである。
 桂小五郎、伊藤俊輔、井上聞多、あるいは横井小楠などの名は出てくるけれどである。 

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  4

2008-04-10 23:21:34 | 小説
 この奥書が本文と異筆であり、また本文も同一人の筆跡で統一されているわけでなく、複数の手になると指摘しているのは佐藤孝『ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案』(『横浜開港資料館紀要』第4号)である。
 彦にすれば、漢文の素養の必要な当時の和文はほとんど書けなかったはずで、、そのことを彦自身が告白していることは、前に紹介した。本文はだから誰かが彦の口述を文章化したか、あるいは英文を翻訳しているのである。しかもその書き手はひとりではなかったということになる。
 彦は元治1年6月に、日本最初の新聞とされる『海外新聞』を刊行していた。木版刷りの日本語新聞で、海外新聞のニュースダイジェストを主体に貿易品の相場変動を伝えていた。記事は彦が口述し、それを岸田吟香と本間清雄が文章化した。
 この彦の「草稿」も岸田・本間が関与している可能性がありはしないだろうか。彦と龍馬の接点を考える場合、そのことも考慮にいれておかねばならない。
 問題の奥書を以下に引用する。

「徳川家不穏之際、改良致度政体則相認メ、外国奉行阿部越前守〔後二御老中二ナリ豊後守ト改ム]殿へ差出候処、当時之形勢ニテハ何分難相用趣、因テ返戻相成候草案書也」

 阿部越前守が外国奉行だったのは文久年間つまり1862年から1863年4月までである。したがって阿部が外国奉行のときに提出された文書だとすると、表紙の「1865」は「1863」を訂正したのかもしれない。1865年、阿部はまさしく老中職だった。

 そもそも、この「草稿」は米国ニューヨーク州のシィラキュース大学ジョージ・アーレンツ・リサーチ・ライブラリーの所蔵史料で、昭和60年に横浜開港資料館が展示用に借用して、その存在が一般に知られることになったものだ。写本のたぐいがあるとは考えにくい。すくなくとも龍馬がこの「草稿」をじかに読んだという可能性はきわめて小さい、と思われる。

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  3

2008-04-09 21:21:44 | 小説
 田中彰氏の『幕末史の研究』(吉川弘文館)の第5章「近代統一国家への構築」には「ジョセフ・ヒコと国家構想」あるいは「ジョセフ・ヒコと明治維新」という項目があって、田中氏はこう述べている。

「…従来は坂本竜馬の『船中八策』にみられる綱領の背後には、間接的なジョン万次郎との関係が指摘されていたが、国家構想に関心の深かったジョセフ・ヒコと竜馬との密接な交流のほうが、より大きな影響をもったであろうことを、今後の課題として本章では協調した」

 なにより彦研究の第一人者である近盛晴嘉氏に『竜馬の船中八策の議院制はジョセフ彦から学んだ』という論稿(『浄世夫彦』NO.32)がある。
 彦について語る場合、両氏の見解を無視するわけにいかないから、まず彦の国家構想と、龍馬と実際に密接な交流があったかどうかを検証しておこうと思う。
(ちなみに学者が「竜馬」と表記することに違和感をおぼえつつ、私は龍馬で通す)
 田中氏が「国体草案」と称する彦の建言草稿は、表紙に「草稿」と墨書されているのみ(写真参照)で、ペン書きで上部に書き込みがある。英文はこう綴られている。

Written by self in 1865
with intention to present it to tha
Tokugawa gov't. but being in
presentation it has been refused to
receive it

 その「1865」は「1864」を訂正したように見える。
 1865年は慶応1年であり、1864年ならば元冶1年である。
 奥書には「西洋紀元千八百六十五年五月初六 亜米利加 ヒコ」
とあり、英文に見合うような文言が付記されている。であるならば1865年が正しいのか。
 ところが、この奥書きがあやしい。彦の筆ではなさそうなのである。 

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  2

2008-04-07 21:43:15 | 小説
 彦(以下そう呼ぶ)の英文の自伝は「The Narrative of a Japanese」である。明治28年5月、丸善より発行されている。
 初めてづくしの多い彦(たとえばアメリカ大統領に初めて会った日本人)だが、日本人が書いた初めての英文著書は、この本だとされている。もっとも、彦の自筆草稿を、ジェームス・マードックが監修したものである。マードックは夏目漱石の旧制一高時代の英語の先生だった人だ。
 むろん日本語で書かれたドキュメンタリーも彦にはある。文久3年という早い時期に刊行された『漂流記』だ。
 次のような格調高い日本語で書かれている。引用箇所の文章が、書かれていることがらを裏切っていて、矛盾していることに気づかれたら、するどい読者である。

「おのれ相州の沖にて難風に逢ひ漂しときは、已に魚の餌にもなるべかりしを、はからずもこと(異)国の船に助けられ、米利堅のサンフランシスコといふ所につれ行かれぬ。ここに足をとどめ、何とぞ御国へ帰らばやとおもひ、明暮神仏を祈り、其序を待つ折から、幸ひに貿易の御許ありて、こと国の船々長崎横浜に入くることとなりぬ。これに便りを得て御国へ帰り来し時ハ、其喜び筆にも、こと葉にも尽しがたくなむ有ける。(略)漂流記を綴らまほしく思へども、流れたるは十三の時なれば、御国ふりの文ハえつづり得ず、今より学び得て物せんとおもひしに、ある人のいへらく、しかせむには、年月を送る内、もしさわる事いできなば、終に其期をうしなふこともありなむ。文拙なくも其意通じなばよからんといふに付て、ようやくにおもふ起こし、閑あるごとに友とはかり、古き日記などくりて、わづかにつたなき一小冊を編し得たり。希(こいねがわ)くは其つたなきを咎めず、なぐさめ草にもなしたまはば、異国の事情を知るに裨益あらんか。
文久3年秋菊月。播州彦蔵しるす。」

 矛盾というのは、日本語の文章は「えつづり得ず」つまり書くことができないといいながら、こういう文章を綴っているということだ。
 種明かしををすれば、これは口述筆記であって、文飾は別人の手がはいっているのである。
 彦はアメリカで教育を受け、成人となった。英語の読み書きはできても、国語の学力は低かったのである。
 そのことにこだわるのにはわけがある。彦の書いたとされる文書が坂本龍馬の「船中八策」に影響を及ぼしたという説があるからである。

アメリカ彦蔵と呼ばれた男  1

2008-04-06 00:24:05 | 小説
 幕末、船乗りが大西風(おおにしかぜ)と恐れた季節風で船が漂流、アメリカ船に助けられて米国に渡った少年がいた。13才だった。
 とはいえ、ジョン万次郎のことではない。
 ただし、万次郎とはなにかと縁があった。
 嘉永6年、ペリー艦隊が浦賀に来たとき、アメリカ帰りの万次郎は通訳として控えていた。土佐藩から幕府に召喚されていたのだ。しかし水戸烈公や老中首席阿部伊勢守らの反対にあって、通訳もなにもせずに終わった。
 実はこのペリー艦隊の軍艦で日本に帰ることになっていたのが、少年だった。もっとも、このとき帰っていたら16才であった。運命の歯車は、それから6年、彼を日本に帰らせなかった。
 安政6年、上海でハリスと会った彼は、神奈川の米領事館通訳として、日本に帰ってくる。22才になっていた。
 ジョセフ・ヒコである。アメリカ彦蔵とも呼ばれた彼は、播州の百姓の子、幼名は彦太郎といった。後年、浜田彦蔵となのるようになる。
 ジョセフ・ヒコすなわちジョセフ彦は、嘉永3年に漂流したのだが、入れ違いのように万次郎はその翌年の嘉永4年に帰っていた。
 ジョセフ彦は万延元年、万次郎と会っている。遣米使節団の咸臨丸出発に際し、米領事側の通訳として出向いていた。そのおりに、海軍奉行木村摂津守、艦長の勝海舟、そして乗船する中浜万次郎を紹介されているのだった。ジョセフ彦と万次郎は互いの身の上が酷似しているのに、そのことを語り合う暇はなかったと思われる。万次郎のほうが10才年上だった。
 万次郎と縁があったと書いたのは、このように直接彼らは会っており、自伝にそのことを記しているからである。
 彼には英文で書かれた自伝がある。