小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

樋口真吉伝のこと

2011-04-24 21:28:54 | 読書
 坂本龍馬は文久2年7月に大坂で樋口真吉と会い、金一両を貰っている。文久2年といえば、龍馬脱藩の年であり、江戸をめざした旅の途中で、一両という路銀の獲得はずいぶんとありがたかったはずである。金を贈った樋口真吉はむろん土佐藩士であり、龍馬より20歳年上だった。龍馬とひどく歳の離れた兄の権平に近い年齢だったから、龍馬にとっては甘えられる人物だったのであろう。
 ところが、その人物樋口真吉の生涯は、これまであまり知られていなかった。南寿吉著『龍馬を見抜いた男 樋口真吉伝』(有限会社テラ発行)は、だから樋口真吉の人となりをはじめて紹介する本となっている。
 おしえられるところが多く、有益な読書になったが、読み物風になりすぎて評伝としての骨格が薄らいだのは残念だった。史料などはなるべく原文で提示してほしかったと思うのは私だけだろうか。
 樋口真吉の日記「日新録」の龍馬暗殺当日の該当部分が写真で紹介されているが、本文の内容と比べるとけげんな感じがする。しかし昨年12月8日に共同通信社が配信した樋口の日記の写真とは内容が合致していそうだ。樋口には慶応3年11月15日のことを記述した日記がふたつあるのか。ひとつには「坂本竜馬」と書いてあり、もうひとつには「才谷梅太郎」と書いてある。このあたりの経緯というか事情がよくのみこめない。
「日新録」の写真では、15日の記述は5行しかないが、これでは事件の詳細は記述しようがなさそうである。けれどもニュースに添付された写真では5行以上あり、たしかに詳しく書かれているようである。著者はあきらかにこちらの内容を述べているのだ。
 ついでにいえば望月清平の維新以後の消息不明なことを、著者は龍馬の手紙に関連付けて推測しているが、これはちょっと私には納得しがたいことだった。
 とはいえ、龍馬に関係した人物でありながら、その生涯の概要の不明だった人物のことをおしえられるのは愉しくもあり、かつ有り難いことである。著者の労に拍手をおくりたい。

吉本隆明『老いの幸福論』を読む

2011-04-18 18:39:52 | 読書
 吉本隆明の近刊『老いの幸福論』(青春新書インテリジェンス・青春出版社)を読んだ。
 心にしみる文章が「あとがき」にある。
「大きくいえば、敗戦直後の焼野原になった東京下町の民家や工場や死者の姿を茫然として見ながら、眼が痛くなるほどの余燼のなかを知り合いを探したのは不幸のはじまりであり、好況がつづき庶民が豊かに好みを求めて街筋漫歩する姿を見かけられた日々は幸福であり、また日常のことをいえば、自分がやってきた文筆の仕事がどうやら書き終わった瞬間は幸福であり、生活がきつくって空を見上げる余裕もなかった日々は不幸であり、そう考えれば、わたし個人の周辺にも、大きく社会の状況にも、幸福と不幸は数えあげることができる。戦後半世紀のおまえの歩みの主調音はどうかと問われると不幸というほうが似合っている気がする」
 詩人らしいパセチックな味わいのある文章であるが、引用文の含まれる「あとがき」は2001年の単行本刊行時のものであり、今回の新書化にあたっては別のあとがきも付されている。
 単行本のときの題名は単に『幸福論』だった。私はその『幸福論』を手元に置いていず、きちんと読んでもいなかった。タイトルに違和感があったからだと思う。なんのことはない、吉本さん自身がアランの『幸福論』の「幸福」という概念に違和感を感じて、若いころに読みはぐっていたのが残念だったと書いてある。アランは「論理が持っている不幸と、その不幸にのめり込んでゆくときの幸福感をよく知っている人で、日本の文学青年の手に負えるような人物ではない」と評価していた。これもまた吉本さんらしい独特な評言であるが、吉本さんこそなまなかなことでは手に負えない人物であるとわかっていたのに、著書のタイトルで中味を憶測するという甘いことをやってしまった自分に後悔した。
 現在86歳の吉本さんが単行本のあとがきを書いたのは76歳のときであった。なるほど「老いの幸福論」と改題されるゆえんである。
 10年前の吉本さんの年齢にはまだ間があるけれど、折り返し点をとっくに曲がって、人生あるいは寿命の帰路にある私としては「人間の幸・不幸とか人生の目的は何かというのは、若いときに考えることです」という吉本さんの言葉が素直に胸に入る。つまり老人はもはやそんな思弁的なことに煩わされてはいけないのである。吉本さんは言う。「幸福な家族とか、幸福な老人とかがあると思わないほうがいいんじゃないでしょうか」と。
 これは窮極のニヒリズムというわけでもない。あるいは東洋的な諦観とも違う、深い言葉だ。
 そうだ、幸福とか不幸だとかの定義を超えたところへ行こうと思い定めた私の来し方を閲すれば、私のこれまでの人生は吉本さんふうに言えば、不幸というほうがよく似合っている。あるいは幸福が似合わなかったと言い換えてもいいけれど。
老いの幸福論 (青春新書インテリジェンス)
吉本隆明
青春出版社

 

小林和幸『谷干城 憂国の明治人』を読む

2011-04-10 20:16:35 | 読書
 土佐で「イゴッソー」といえば、おおむね頑固者のことをいい、けなし言葉で使われることが多いが、褒め言葉としても使われる。竹村義一『土佐弁さんぽ』(高知新聞社)にこうある。「利害や情実や圧力に動かされず自己の信念を曲げようとしない、そういう人をイゴッソーという場合は、ほめ言葉として使っている」
 小林和幸『谷干城 憂国の明治人』(中公新書)を読んで、谷干城という人は、そういう意味でイゴッソーの典型だと思ったものだ。
 坂本龍馬の2歳年下だった谷の今年は没後100年にあたる。つまり彼は明治44年(1911)5月に死去しているが、生前の遺言もいかにも彼らしい。墓石は自然石とし、「只谷干城と書し生卒の年号月日を書すべし。位階勲等は決して書すべからず」というものだった。「履歴功績などを喋喋すべからず」というわけだ。貴族院子爵議員で、旭日桐花大綬章を賜ったことなど頓着しなかった。
 著者の小林和幸氏は「あとがき」で、大学院生の頃、ある研究者に谷干城を研究対象にしたいと言ったら、「そんな国粋主義者の親玉みたいな人物の研究をして何がおもしろいのか」と言われたそうだ。谷干城はさまざまに誤解されていて、いまだ正当に評価されていないようである。
 たとえば民権運動を展開した板垣退助との確執はよく知られているが、谷は自分の方がほんとうの民権論者だと自負していた。単純な民権運動の反対論者ではないのである。このあたりを著者は丁寧に紹介している。起伏に富んだ論述とはいえず、年譜を読むような索漠さがないわけではない。しかしそれを我慢していると、「公」の政治を貫き、「私」の政治を憎んだ谷の、驚くほどぶれない明治人の姿が浮かび上がってくる。第一級の政治家であったと私などは思う。
 もっとも著者の関心は議会政治家としての明治の谷に関心が集中しており、幕末の谷に関しては通説を踏襲して流しているのが私には気になった。たとえば流山で捕縛された近藤勇に関して、谷が厳罰を主張し、その結果斬首されたなどという記述は、子母澤寛、松浦玲らによって伝言ゲームのように流布した誤説である。この通説の誤解も解かれているのではと期待したものの、それは叶わなかった。(自薦ブログ:「谷干城は誤解されていないか」で参照のほどを)