いや、両者の日付というのは正確な言い方ではない。いわゆる「船中八策」には日付はない。ないけれども前掲の『坂本龍馬海援隊始末』で、坂崎紫瀾は6月の成文とみなしたのである。これに対し、「新政府綱領八策」(松浦氏の「八義」)には「慶応丁卯十一月」という日付があり、「坂本直柔」という龍馬のサインのあるものが現存する。6月に後藤に提示したレジメが、なぜ11月という5ヶ月後の日付になっているのか。この謎については、あとで述べる。
問題は、いわゆる「船中八策」のほうである。これが活字になって初めて紹介されたのは、大正元年の瑞山会編『維新土佐勤王史』であった。同書はこれを龍馬の八策とは違うというニュアンスで引用していた。「すこぶるその字句を修飾せるのみならず、末尾に建白体の文字を加えあり」として、成文の時期にも疑問を投げかけていたのである。坂崎紫瀾の紹介した「船中八策」についても、当の編纂者である岩崎鏡川が、「新政府綱領八策」の「粉本ならんか」と疑義を呈していた。
松浦玲氏は『坂本龍馬』の「補注」で、こう書いている。
「いわゆる『船中八策』には龍馬自筆本はもちろん、長岡謙吉の自筆本も、長岡本を直接に写したとの保証がある写本も、存在しない。そのため、いま知られている形のものが何時できあがったのか実は全く不明である」
写本が存在しないのは、明治になって誰かが作文したものという疑いが濃厚である。その誰かについては、『維新土佐勤王史』にも関係した坂崎紫瀾ではないかと、私は勘ぐってきたけれど、確証はない。
ちなみに司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で、長岡健吉に書きとらせるのは、このいわゆる「船中八策」のほうであった。それにしても、「いわゆる」とか「俗に言う」とかの形容詞をつける場合の「船中八策」は、「新政府綱領八策」でないほうのこの「八策」であるわけだが、「船中八策」というネーミングのインパクトの強さが、話を混乱させるのである。もとより船中八策というタイトルの文書があったわけではない。
「夕顔」船中で、龍馬が後藤に提示した「知恵」は、口述されたものであり、現存する龍馬自筆の文書は、大政奉還後の新政府のあり方の骨子を示したレジメにすぎなかった。しかし、これを「船中八策」と呼ぶしかないのである。
ではなぜ文書に11月という日付があるのか。それは作成日ではなく筆写日だとしたのは菊地明氏の卓見である。龍馬自筆のものは二通現存するのだが、コピー機のない当時、おそらく龍馬は何通か、これを筆写したのである。11月にだ。
ところで松浦玲氏は菊地説に異を唱えて、「新政府綱領八策」は「11月に龍馬が必要あって自筆したもの」と判断されているが、私はご両人とも正しいと思っている。
つまり「八義」部分は6月時点のレジメ、それをそのまま筆写し、文言を付け加えて11月に文書化したと考えればよいのである。
11月の文書の主眼は、付言のほうにあった。すなわち「諸侯会盟の日を待って」
三文字伏字の盟主を選ぶという、例の文言である。龍馬の暗殺犯をじゅうぶんに刺激したと思われる、あの文書である。
言うまでもなく、11月は龍馬が暗殺された月である。(この稿終る)
問題は、いわゆる「船中八策」のほうである。これが活字になって初めて紹介されたのは、大正元年の瑞山会編『維新土佐勤王史』であった。同書はこれを龍馬の八策とは違うというニュアンスで引用していた。「すこぶるその字句を修飾せるのみならず、末尾に建白体の文字を加えあり」として、成文の時期にも疑問を投げかけていたのである。坂崎紫瀾の紹介した「船中八策」についても、当の編纂者である岩崎鏡川が、「新政府綱領八策」の「粉本ならんか」と疑義を呈していた。
松浦玲氏は『坂本龍馬』の「補注」で、こう書いている。
「いわゆる『船中八策』には龍馬自筆本はもちろん、長岡謙吉の自筆本も、長岡本を直接に写したとの保証がある写本も、存在しない。そのため、いま知られている形のものが何時できあがったのか実は全く不明である」
写本が存在しないのは、明治になって誰かが作文したものという疑いが濃厚である。その誰かについては、『維新土佐勤王史』にも関係した坂崎紫瀾ではないかと、私は勘ぐってきたけれど、確証はない。
ちなみに司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で、長岡健吉に書きとらせるのは、このいわゆる「船中八策」のほうであった。それにしても、「いわゆる」とか「俗に言う」とかの形容詞をつける場合の「船中八策」は、「新政府綱領八策」でないほうのこの「八策」であるわけだが、「船中八策」というネーミングのインパクトの強さが、話を混乱させるのである。もとより船中八策というタイトルの文書があったわけではない。
「夕顔」船中で、龍馬が後藤に提示した「知恵」は、口述されたものであり、現存する龍馬自筆の文書は、大政奉還後の新政府のあり方の骨子を示したレジメにすぎなかった。しかし、これを「船中八策」と呼ぶしかないのである。
ではなぜ文書に11月という日付があるのか。それは作成日ではなく筆写日だとしたのは菊地明氏の卓見である。龍馬自筆のものは二通現存するのだが、コピー機のない当時、おそらく龍馬は何通か、これを筆写したのである。11月にだ。
ところで松浦玲氏は菊地説に異を唱えて、「新政府綱領八策」は「11月に龍馬が必要あって自筆したもの」と判断されているが、私はご両人とも正しいと思っている。
つまり「八義」部分は6月時点のレジメ、それをそのまま筆写し、文言を付け加えて11月に文書化したと考えればよいのである。
11月の文書の主眼は、付言のほうにあった。すなわち「諸侯会盟の日を待って」
三文字伏字の盟主を選ぶという、例の文言である。龍馬の暗殺犯をじゅうぶんに刺激したと思われる、あの文書である。
言うまでもなく、11月は龍馬が暗殺された月である。(この稿終る)