小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬暗殺事件・考  3

2009-09-30 23:05:08 | 小説
 龍馬の体に傷はなかった、という近江屋新助の供述には、正直なところ憤りすらおぼえるほどだ。なにをきれいごと言っているのか、と。
 土佐藩邸から暗殺現場に駆けつけた藩医の川村盈進によれば龍馬の傷は大小34箇所。
 おそらく、刺客たちは寄ってたかって、倒れた龍馬を突きに突いたのである。刺客たちが倒れた龍馬や慎太郎に襲いかかったありさまは、谷干城の講演内容からも、想像はつく。谷は語っている。

〈もう坂本は非常な大傷で額の所を横に五寸程やられて居るから此一刀で倒れねばならんのであるが、後ろからやられて背中に袈裟に行って居る。坂本の傷ハさう云ふ次第で、それからして中岡の傷はどう云ふものかと云ふと、後ろから頭へ掛けて後ろへ斬られ、それからまた左右の手を斬られて居る。そして足を両方ともになぐられたものぢゃから、両方斬られて居る。其内倒れたやつを又二太刀やったものであるから、其後からやった太刀と思ふのは、殆ど骨に達する程深く行って居る。〉(明治39年)

 谷は印象に残った大きな傷だけを語っているが、中岡慎太郎もまた突き傷が多くあったはずである。川村盈進は28箇所の傷を数えている。ちなみに藤吉の傷は7箇所。やはり龍馬の傷がいちばん多いのは、彼が標的だからである。
 刺客は中岡慎太郎が狙いだったとする論者がまれにいるが、近江屋は龍馬の宿舎であり、わざわざここで慎太郎を狙うこともないのである。
 龍馬が綿入れの胴着を着ていたという近江屋井口新助の証言は、龍馬が風邪をひいていたという伏線になっている。
 井口新助および新之助の証言では、近江屋の裏庭にあった土蔵を改築して、そこに龍馬を潜伏させていたということになっている。ところが事件前日の朝、風邪で便用のため母屋に降りてくるのが大儀なため母屋二階に移ったというのである。
 不思議なことに龍馬が土蔵に潜伏していたと証言するのは井口家の人だけである。誰も土蔵にいた龍馬に会っていない。
 だいたい龍馬に自分は潜伏すべきだという意識はない。彼は出歩いてばかりいた。土蔵などに隠れる必要がないのだ。
 便所に行くのもつらかったとされる龍馬が、事件当日も近所の大和屋に福岡孝弟も二度も訪ねていた。福岡の愛人のおかよに「僕の宿においでよ」などと誘っている。例によって女あしらいがうまいといえばそれまでだが、人を接待する余力もあり、風邪引きのそれではない。
 ふたたび問う。土蔵といい、風邪といい、いったい井口家の人は、龍馬に関して、なぜこうも作話しなければならないのか。

龍馬暗殺事件・考  2

2009-09-29 17:04:10 | 小説
 いわゆる「井口家文書」なるものがある。近江屋主人井口新助の証言を、息子の新之助が明治33年夏頃に筆述したものである。

「慶応三年十一月十五日初夜之頃、表戸ヲ敲キ案内ヲ乞フ者アルニヨリ、二階ノ小座敷ニ当家ノ小僮三人ト雑談シアル僕ノ藤吉、来人ノアルヲ聞キ二階ヨリ下リテ戸ヲ明ケ、…」と始まる。
 
 当日の近江屋の2階には、当家の「小僮」つまり小僧が3人いたのである。これが刺客の言う「書生」のことだ。
 菊地氏は通説にとらわれて、近江屋の二階には龍馬・中岡慎太郎・藤吉の3人しかいなかったはずだから、刺客に追い立てられた「子供」は峰吉であろうと推測されたのであろう。ちなみに土佐藩御用達の書店菊屋の長男だった峰吉は、このとき17歳、「子供」といえるような年齢でもない。事実、渡辺は13、4歳ぐらいの給仕だった、と述べている。
 峰吉は、龍馬に頼まれて、たしかに鶏肉を買いに外出したのであった。龍馬・慎太郎を訪問していた岡本健三郎と一緒に表に出て、四条通りで別れている。峰吉が鳥新という店に軍鶏肉を買いに出たのは、岡本という証人がいるわけだから、彼が近江屋に残っていたとする説には無理があるのだ。
 さて、「井口家文書」の「虚言」部分は以下の箇所だ。

「阪本君ハ常ニ真綿ノ胴着ヲ着シ居ラレタレバ、体部ニ負傷ハナシ。唯ダ脳傷ノ為メニ接(一字不明)ノ後倒レラレタル処ヲ、二刺咽ヲ刺シタリ。然レドモ同氏ハ刺客ガ帰ルガ否ヤ、家ノ主人ヲ呼ビ医師ヲ命ゼラレタリシガ、是ニ応ジテ二階ニ昇リシニ既ニ絶命セラレタリ」

 なんとも矛盾に満ちた供述ではないか。咽喉を二刺しされた龍馬が、2階から大声で医者を呼べと言ったというのである。だいたい咽喉を刺されているならば、とどめを刺されているということだ。とどめを刺された人間が声を発したことになる。
 もとより龍馬がとどめをさされていたという証言は、この「井口家文書」のみである。さらに近江屋主人は、龍馬が真綿の胴着を着ていたので体部に負傷がなかったというけれど、これも事実と大違いである。龍馬は刀をとろうとして、後ろ向きになったときに袈裟に斬られていた。(谷干城の証言など)
 近江屋主人井口新助は、あきらかに龍馬の最期
をよく知らないのである。それでいて、なぜこんな供述を残したのか。  

龍馬暗殺事件・考  1

2009-09-28 21:41:22 | 小説
 菊地明氏の『「幕末」15年・7大事件で歴史の真相を大整理』(講談社+α新書)を読んだ。菊地氏は新選組や坂本龍馬に関する著書が多くあり、幕末維新史の信頼に足る研究家である。ただし、龍馬暗殺事件における菊屋峰吉の証言に関する氏の評価には、私には違和感があって、前から気にはなっていた。
 この新書でも、菊地氏は「坂本龍馬暗殺ー解明された刺客の謎」(第6章)で、峰吉の証言を大きく取り上げている。菊地氏は、通説では軍鶏を買いに行っていた峰吉が、実は暗殺現場にいたと推測されているのである。
 近江屋の二階に上がった刺客のひとり見廻組の渡辺篤の告白文の「自分の前の机の下へ頭を突っ込み平伏いたしおる。子供ゆえ見遁し候」の「子供」こそ峰吉ではなかったか、というのである。
 菊地氏は書いている。

〈大正13年(1924)刊行の『維新史跡図説』に、事件についての峰吉の興味深い談話が収録されている。もちろん、現場に不在だったという姿勢は崩していないが、その末尾に思わぬ名前が出てくるのだ。

 井口家(近江屋)の人の談に「遭難当夜、幕吏がやってきたと聞いて、一同裏の物置に隠れた。佐々木見廻組頭の声で、この場合何か申し置くことがあらば承ろうというのと、阪本さんの声で、言い残すことはたくさんにあるが、しかし汝らに言うべきことは毫もない、思う存分殺せとの声が聞こえました」云々と語ったが……

 いうまでもなく、「佐々木」は佐々木只三郎。「阪本」は坂本龍馬のことである。
 この日、近江屋にいた「井口家の人」というのは主人の新助と妻のスミ、それに4歳の息子の新之助、2歳の娘のキヌの4人だが、まさか新之助やキヌの記憶にあったはずはない。つまり、新助かスミの話ということになる。
 しかし、一階の「裏の物置」に隠れていたという新助夫妻に、佐々木と龍馬の声が聞こえたのだろうか。2階から何者かの声が聞こえたとしても、龍馬はともかくとしても、佐々木の声が識別できるほどの大声を発していたのであろうか。
(略)
 では、誰が佐々木の声を聞いたのだろうか。
 新助夫妻でないとすれば、佐々木の声を聞くことができたのは、現場で事件に遭遇した可能性がある峰吉以外にないではないか。つまり、「井口家の人の談」とは、峰吉自身の「談」にほかならないのだ。〉

 菊地氏は他の著書でも、峰吉を「虚言」家と決めつけておられるが、現場にいた人間が、こんなフィクションを語る必要はない。佐々木と龍馬の間に、申し置くことはないのか、言い残すことはたくさんあるなどと悠長なやりとりがあったはずはない。不意打ちであったのだが、そういう情況とは認めたくなかったのは新助であった。すなおに「井口家の人」の談と受け取ったほうがよろしい。
 当夜、近江屋にいた書生の存在をどう見るかによって、菊地氏のような誤解が生じかねないのだが、龍馬暗殺に関して「虚言」だらけの証言を残しているのは、峰吉というより「井口家の人」なのである。そのことを検証していく過程で、龍馬暗殺事件の真相がほのみえてくるはずである。 

慶安事件と丸橋忠弥  完

2009-09-22 13:54:02 | 小説
 慶安事件は失業武士救済のための蜂起(未遂)であったとは、前に書いた。
 関ヶ原の合戦、そして続く大坂の陣によって、失業武士は大量に発生したのだった。ひとびとに、慶安事件の首謀者を敗軍の将の縁故者とみなす、あるいはみなしたい心情が生じ、伝説を彩ったとしても不思議はない。
 丸橋忠弥とその一味が、刑場にひかれたその日の行列は前代未聞の光景だった。
 町奉行石谷貞清、目付の酒井半左衛門・小幡三郎左衛門らが与力50騎、同心60人をひきいて、処刑者たちを刑場に連行した。
 先頭は忠弥で、そこに罪状と刑名を略記した捨札と幟が立っていた。その先頭の忠弥が桜田門の前を通り過ぎても、後方はまだ半蔵門のあたりにあったというほど長かった。
 この行列が品川まで進んだのである。
 罪人のなかには切縄を首にかけられた小さな子供もいた。母親の乗せられた馬の脇を、獄吏に抱かれて、手には風車や人形が持たされていた。
 そういう光景を、好奇と野次馬根性で見物に駆けつけた沿道のひとびとが、どんな思いで眺めていたかは想像にかたくない。
 おそらく仁慈の政道とは何か、そういうことに思いをはせたものもいたであろう。
 町奉行石谷は、この日をさかいに浪人の仕官斡旋に尽力した。彼は以後、町奉行在職中の9年間に700人、職を辞してからも300人、計1000人の失業武士の就職斡旋をした、とされる。
 幕府もまた、差別・弾圧・殺戮一点ばりの浪人対策を方向転換して、浪人の再就職策を本気で考えるようになった。慶安事件に救いがあるとすれば、そのことである。志を得ることのなかった丸橋忠弥に救いがあるとすれば、そのことである、と言い換えてもよい。
 忠弥の辞世は「雲水のゆくえも西の空なれば頼むかひある道しるべせよ」とされている。しかし、彼は磔のさいに「雲水のゆくえ」と言っただけで、槍で突かれているから、実際は完成した辞世を詠んでいない。誰かが完成させたのである。彼の出自を長宗我部盛親の子としたように。

慶安事件と丸橋忠弥  8

2009-09-16 21:02:50 | 小説
 忠弥の墓については、安永9年7月14日に、秦武郷という人が建石したと伝えられている。安永9年といえば1780年、時代はむろん徳川幕府の治世下である。幕府に謀反を企てた人物の墓を堂々と建立できたのが不思議である。
 ほとんど信じがたい話だが、建立者の姓が秦であったというのは、さもありなんと思われる。おそらく同族意識のようなものがはたらいたのであろう。
 さて、歴史作家の中嶋繁雄氏は、昭和32年の夏に、丸橋忠弥の「子孫」に会った、と『戦国の雄と末裔たち』(平凡社新書)の一項目で書いている。
 その人物は沼津に在住する秦虎四郎という79歳の老人だった由。さすがに忠弥直系とはなのっていない。長宗我部盛親の兄の景親の血筋を引いているとのことだった。この人物の秦家累代の菩提所が金乗院だというから、建立者の縁故者ではあったのだろう。
 忠弥の墓は実は都内に二ヶ所あって、品川の妙蓮寺に首塚がある。しかし、金乗院のほうが観光名所的には有名である。
 その墓石が「長宗我部」でなく「長曽我部」となっていることや、ほかにも私には気になる点があるが、秦家に対して礼を失することになるから控えよう。
 ただ墓があるから、忠弥が長宗我部盛親の子であるという証明にはならないとだけ書きつけておこう。

慶安事件と丸橋忠弥  7

2009-09-14 20:03:43 | 小説
 慶安事件の真相は曖昧模糊としており、なにかが隠蔽さているという印象をぬぐいがたいが、それは紀州家の関与を抹消するために、多くの文書つまり史料が、闇に葬られたせいではないかと思われる。 たとえば丸橋忠弥の出自についても、取調べ側は把握していたはずである。長宗我部盛親の子であるかどうかわかっていないほうがおかしい。しかし、丸橋忠弥の素性に関する公的な史料はいっさいない。
『島津家文書』によれば、加賀の前田家の陪臣だったという説が紹介されていたり、あるいは別の史料では上州の出身だとか、忠弥の出自には異説があって、定まらない。
 ところがである。長宗我部忠弥の墓がある。
 その墓石の正面には略式だが長宗我部の家紋カタバミが彫られ、裏面には「慶安四年八月十日卒 長曽我部忠弥秦盛澄」とあるそうだ。そうだと書くのは、いまや読み取りにくくなっているらしいからだ。
 その墓は東京都豊島区高田の金乗院にある。目白不動尊が移された寺だ。
 直接、出向いて墓石を確認したいと思いつつ、金乗院に関する資料を集めていて、ふいに、あ、なるほどと合点がいった。
『豊島区史』に慶応2年刊の「御府内八十八か所道しるべ」が抄録されていて、そこに「金乗院」の記述があったのだ。

 土佐国幡多郡伊佐村蹉陀山補陀洛院金剛福寺大師以前よりありし勅を再建奉りし本ぞん千眼の大慈、丈六尺二十八部衆皆大師の御作、役の行者修行のとき天狗おほかりしを呪伏セしむ。(後略)

 つまり金乗院は土佐の金剛福寺と関係があり、その金剛福寺は「幡多郡」にあるということだ。このような記述は、ウェブ上で金乗院を検索しても出てこなかったから、ちょっとした驚きだった。「幡多」は「秦」に通じている。長宗我部の本姓は秦であった。だから忠弥の墓石に「秦盛澄」とあったのである。
 この寺は、もともと秦氏にゆかりの寺であるようなのだ。

慶安事件と丸橋忠弥  6

2009-09-12 21:34:49 | 小説
 正雪・忠弥ら一味の浪人たちの人数は、およそ1,500人だったという史料がある。彼らには、いざという場合の集合のための路銀一両ずつが渡されていたというが、その資金ざっと1,500両は、いったい誰が用意していたのであろうか。
 だいたい江戸騒乱はもとより、京・大坂同時蜂起、それに久能山、駿府城の占拠は、たかだか1,500人の人数で可能だろうか。由比正雪はいやしくも軍学者である。それも、当時もてはやされた人気の軍学者であった。その彼が粗雑なクーデターを計画するはずはない。
 黒幕、という言い方に語弊があるならばうしろだてがいたのでは、と誰しもが考える。そのうしろだては、とんでもないところ、徳川家の身内、紀州家ではないかと、幕府も疑った。
 正雪が駿府で捕り方に包囲された梅屋という宿は、紀州家の定宿であった。正雪一行(10人か)は紀州大納言御家中の者として泊まっていた。
 正雪が書いたとされる自刃直前の書置きには次のような文言がある。
「紀伊大納言様のお名を借り申さず候へば謀計成りがたく故、御扶持の者と申し候」
 死のまぎわ、わざわざなんでこんなことを弁解する必要があるだろうか。紀州家に累が及ばないようにという配慮が逆に、正雪と紀州家の関係を裏付けているように思われる。
 紀州藩邸に徳川頼宣を大老の酒井忠勝が訪問した記事が『徳川実紀』にある。
 正雪の遺品のなかに頼宣の印章を押した文書があったからである。酒井は、「これは偽書でありましょう。こうしたものは焼き捨ててしまいましょう」とその場で引き破り、焼却してしまった。そして頼宣に意見した。「今後はむつまじく召し使われる近臣にも御判などは御心を許されてはなりませぬ」
 酒井は印は本物だと認めた言い方をしているから、その真意はもっと別なところにあるわけだ。酒井の言葉を聞くや、頼宣の傍らにいた小姓の加納はつと席をはずして切腹して果てた。印章保管の粗雑さの責任を取ったというわけである。
 証拠隠滅で紀州の徳川頼宣を救ったのは、大老酒井と加納ということになるが、しかし頼宣は江戸城に喚問されている。
 頼宣は、この喚問をみごとにやりすごし嫌疑をはらしたのであった。 

慶安事件と丸橋忠弥  5

2009-09-08 23:07:11 | 小説
 訴人の名はわかっている。
 奥村八左衛門とその従弟奥村七郎右衛門である。ふたりが幕府のスパイであったと考えられるのは、八左衛門の兄が奥村権之丞であり、松平信綱の家来であったからである。
 松平信綱は、松平伊豆守といったほうがわかりやすい。「知恵伊豆」と呼ばれた老中である。「知恵伊豆」は「知恵出づ」にかけられており、才気あふれる高級官僚だった。島原の乱では、幕府の総大将として鎮圧につとめている。その島原の乱で、諸士の戦功のとりつぎなどをしていたのが、奥村権之丞だったのである。その弟が正雪、忠弥一味に潜入していたのだ。むろん知恵伊豆の命をうけてのことであろう。
 思えば島原の乱はキリシタンだけの叛乱ではなかった。浪人たちが加わっていた。しかし幕府は浪人問題を脇にどけて、キリシタンだけを強調し、乱後もキリシタンを徹底的に弾圧したが、浪人たちへの弾圧はそうでもなかった。
 だが知恵伊豆は、島原の乱の経験から、治安維持と危機管理に神経をとがらした。浪人たちの動きをたえず警戒していたのである。浪人問題の重要さに、おそらく老中松平伊豆守信綱は気づいていたのである。
 訴人の二人の奥村は、のちに3百石の御家人となっているが、彼らより褒賞の多かった訴人に林理左衛門がいる。林もまた人を通じて知恵伊豆に訴え出ている。林は5百石もらった。
 5百石といえば、奥村権之丞は5百石加増で、千石の知行取りとなり、公儀からは別に金10枚と着物二かさねを貰っている。弟たちの密偵の成功報酬であったと思われる。
 丸橋忠弥が借金していた相手に、つい謀反の計画を打ち明け、そこからことが露見したという巷説がある。丸橋の名誉のためにも、そんなことは作り話だと言っておこう。
 味方に幕府のスパイが入っていることに気づかなかったのが、忠弥の油断といえば油断であった。

慶安事件と丸橋忠弥  4

2009-09-07 16:02:23 | 小説
 さて、丸橋忠弥は7月23日に召し捕られて、翌8月10日には早くも品川(鈴ヶ森)で処刑されている。事件に関係した者の処刑は、この日だけで終りではないが、当日の処刑者は33人、34人、35人の三説がある。いずれにせよ「謀反人」たちの家族も処刑の対象になっていた。
 忠弥の場合、母と兄、それに兄の子(つまり甥でまだ15歳)も一緒に処刑された。
 記録によれば、その兄は幕府の御歩行頭(おかちがしら)宮城和治支配下の徒士のひとりだったという。名は加藤一(市)郎右衛門。なぜ加藤姓なのであろうか。
『慶安太平記』では、忠弥の兄の四方太郎は大坂の陣に父の盛親と参戦、落城後の逃亡中、伏見で捕えられ、三条河原で斬首されている。とっくに死んだことになっているのである。加藤が四方太郎なら、この話自体が嘘で、もしも話が事実ならば、加藤は四方太郎とは違う兄ということになる。で、なぜ加藤なのであろうか、とふたたび疑念がわく。そして、処刑された母は、盛親の愛人の藤枝だったのだろうか、と。藤枝はせっかく故郷の出羽の最上に帰ったのに、息子と一緒に江戸に出てきたとは、考えにくい。
 さらに忠弥の姉の存在が記録されているのは、なぜだろう。幕府の御鉄砲頭の近藤登之助支配下の徒士が忠弥の姉を妻にしており、近藤家から追放するよう老中から申し渡しがあった、という史料があるのだ。どうも、これらのことを勘案していると、忠弥を盛親の子とするのに違和感をおぼえはじめるのは私だけであろうか。
 それにしても、丸橋忠弥はなぜあっけなく蜂起目前に逮捕されたのであろうか。味方から訴人が出たからである。忠弥からすれば裏切り者ということになるが、その訴人は幕府側が送り込んでいたスパイだったようである。
 つまり丸橋忠弥は、はじめから疑わしい人物だと狙われていたのである。

慶安事件と丸橋忠弥  3

2009-09-03 15:35:45 | 小説
 伝えられているところによれば、江戸騒乱を忠弥と十郎兵衛が中心になって担当していた。7月29日に塩硝蔵に火をかけ、同時に江戸市中の数ヶ所に放火、あわてて登城する御三家や老中を襲撃する手はずであった。京、大坂でも仲間が蜂起、やがて一同は駿府に集合という段取りとされていた。駿府では正雪が久能山と駿府城を占拠、東西の合流拠点とする計画だったのである。
 たしかに正雪は駿府に来ていて、7月26日朝、捕り方に包囲されて自害した。
 しかし、ほんとうにこのようなクーデター計画だったのだろうか。裁判調書のようなものがあるわけではなく、公式な史料はいっさいない。たとえば進士慶幹は『由比正雪』(吉川弘文堂・人物叢書)に書いている。

〈しかし、私たちが知っている正雪の計画というのは、実は巷説に拠っただけのものである。訴人が幕府にどういうことを告げたのかは、全く分かっていないし、また諸大名が国許に送った手紙、あるいは幕府が諸大名に与えた手紙などでも、事件の内容については、出入りの者から聞いたことなどを書いているだけで、はっきりと明言したものはない。〉

 大坂に出張っていて、追われてやはり自害した忠弥の仲間の金井半兵衛は書置きを残していた。その書置きの一節を、進士慶幹の前掲著書から引用する。

〈正雪は私怨のためにこの企てをおこしたのではない。先君(家光)御他界ののち、政道がよこしまで、武家・出家・商農までが、苦しみ、怒っている。これを訴えようとして、浪人を集めたのである。たとえ、自滅するというとも、天下の善政のために、一箇の身命を惜しむものではなく、この計画は無道のものではない。〉

 この計画は無道のものではない、と切腹した金井半兵衛のいう「計画」と、なぜか巷説のクーデター計画はそぐわないような気がする。
 正雪の書置きもある。その文言はさらに謎めくのだが、そのことは後で触れよう。

慶安事件と丸橋忠弥  2

2009-09-02 15:19:07 | 小説
 盛親が関ヶ原の合戦後に京都東山で閉居したとき、藤枝という女に二人の男の子を生ませていた。兄は四方太郎、弟は吉十郎と名づけられた。この吉十郎が、のちの忠弥であり、母の藤枝は出羽の最上家の丸橋曲流の娘であったから、吉十郎は丸橋姓を名のり、忠弥盛澄と称した。
 以上のように記述するのは『慶安太平記』である。
 さて問題は、この『慶安太平記』なる書物だ。実は、いつ、誰によって書かれたか明らかではない。写本というかたちで広く読み継がれ、その写本の過程で面白おかしく加筆された可能性だってある。原資料がなんであったかも、よくわからない。明和3年(1771)の「禁書目録」に、その書物名が見えるから、すくなくともそれ以前に成立していたことが確認されるだけだ。
 見てきたような嘘を書いてある、今日的な意味での歴史小説のはしりと決めつけてもいいけれど、意外と史実が骨子になっているかもしれない。いずれにせよ史料として取り扱うには厄介な書物である。
 しかし維新後、つまり明治初年、河竹黙阿弥はこの書物をネタ本にして歌舞伎にした。おかげで丸橋忠弥は庶民のよく知る歴史上の人物になった。
 よく知られているように、由比正雪や丸橋忠弥のクーデター計画は、事前に幕府側に発覚して、忠弥の場合は、あっさりと捕縛されている。
 慶安4年7月23日、その日は曇りで、ときどき小雨の降る天気だった。夜、忠弥の長屋を同心24人が取り囲んだ。南北両奉行所の同心が二騎の与力に率いられ、先手と後手に分かれていた。
 忠弥は十文字槍の師匠だったから、捕り方たちは一計を案じて「火事だ、火事だ」と騒ぎたて、彼をおびきだした。あわてて長屋を飛び出したところを、捕捉したのであった。当日の天候についても、捕り方の人数にしても、すべて確かな史料がある。ここのところは『慶安太平記』にたよる必要は無い。
 忠弥とは別に、この夜、塩硝蔵にいた塩硝蔵下奉行の河原十郎兵衛も逮捕された。クーデーター計画の仲間である。
 当日はキリシタンの捜索という名目で逮捕に向かっている。ほかに散らばっている仲間たちを油断させるためである。翌日の夜には、浅草の御米蔵で忠弥の弟子3名が逮捕された。