小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

土佐藩留学候補生の死 6

2007-07-30 22:07:57 | 小説
 唐突だが、話は慶応4年2月にさかのぼる。土佐藩士たちがフランス兵を殺傷した事件が堺で起きていた。いわゆる堺事件である。森鴎外と大岡昇平がともに深甚な関心をよせ、小説に書いたあの事件である。
 築地関門事件(とよぶことにする)の伏線になったのではないかと思うから、どうしても堺事件のあらましを述べておく必要がある。
 9月には明治元年となる慶応4年2月15日、つまり4人の自刃の2年ほど前のことだ。堺港を警備していた土佐藩兵が上陸したフランス兵を銃撃、11名を死亡させ、5名に重傷を負わせた。もともとフランス兵は港内を勝手にあちこち測量するなどして、その侵犯行為に神経をとがらせていた土佐藩兵だったが、一部のフランス兵の行為がきっかけとなって、銃撃騒ぎとなったのである。日仏いや日欧外交上の大問題になった。
 フランスのロッシュ公使は新政権に賠償を要求した。賠償の骨子は、15万ドルの補償金と土佐藩兵の隊長2名と発砲者全員の処刑だった。
 新政権はこの要求をあっさりと受け入れ、発砲者29名の中から20名を選び、切腹させることにしたのであった。
 切腹の場所は堺の妙国寺であった。次々と切腹し、11人が終わった時点で、フランス側から中止の申し入れがあった。フランス兵の死者と同じ数の土佐藩士の死をもって、残る9人はもういいだろうということになったのだった。
 壮絶な切腹の光景を目の当りにして、見届け人のフランス船の艦長はやっと耐えていたのであろう。なにしろ腹かき切るや臓物を手でつかみ、フランス側に投げつけようかというような切腹者もいたからである。
 理不尽な話だった。警備の土佐藩兵は公務を遂行したにすぎない。若干の行きすぎはあったかもしれないが、賠償金を払って、なおかつ発砲者全員死罪などというのは、新政権の弱腰な外交上の犠牲になったと言って言いすぎではない。

土佐藩留学候補生の死 5

2007-07-28 13:32:32 | 小説
 さて、4人が丸腰だったのではないかと、前に書いた。慶応4年8月に布告された「居留地関門掟書」に、このほど目を通してみて、なるほど丸腰であったはずだと確信した。その掟書の項目のひとつに、こうある。
「帯刀人通行、真福寺橋、小田原橋弐ヶ所に限り尤百姓町人たり共脇差帯候者は御役所印鑑無之候ては、通行不成候事」
 関門内の新島原に帯刀して行くには、なにかと面倒なのである。4人が印鑑通行手形をもっていれば、もともと揉めることはないわけで、彼らはそれが無いから、丸腰で行かざるをえなかったのだ。
 新島原のことを花街と前に書いたが、むしろ色街とすべきだったかもしれない。もっとはっきり書けば遊郭であった。
 新島原は他の遊郭と違って思ったほど繁昌しなかったらしく、やがて廃止され、吉原と合併された。その不況の最大の要因は関門の存在で、とくに武士層の客足が遠のいたことが大きかったとされている。それでも明治3年の夏ごろには1700人を超える遊女がいた。結構な人数ではないかと思うが、経営者らは思惑外れで、早くから廃止と移転を申請していたという。
 居留地と隣接するホテル、そして新島原を描いた国輝の絵(東京築地鉄砲洲景)には、さまざま人物群も描きこまれているが、たしかに帯刀した人物が見当たらない。
 4人をとがめた番兵は、彼らが町人でなく武士だとわかると、こう揶揄したのではないだろうか。
「武士の魂である刀をおいてまで、女を抱きに行きたかったのか。おぬしたち、好き者だのう」 

土佐藩留学候補生の死 4

2007-07-26 20:37:15 | 小説
 市中警護の加賀藩士たちは、土佐藩の4人をいわば職務質問し拘束しようとしたのだが、うち2人は逃げた。拘束されたのは小島捨蔵と谷神之助の2人で、彼らは番所に連行された。
 そこで、高知藩の士族であると身分を明らかにし、自分たちの姓名、および逃げた2人の名前も明らかにしている。
 やがて連絡を受けて、土佐の江戸屋敷から公用人(原四郎と田辺は記している)が来て、たしかに我が藩の者と認め、彼らの身柄をひきとった。
 釈放されたわけだから、これで一件落着してもよさそうなのに、翌日の夜、4人は加賀藩陣屋を襲撃したというのが、事件のあらましである。
 4人にとっては、なにかよほど腹にすえかねることがあったとしか考えられない。
 ところで4人が職務尋問をうけた真福寺橋関門というのは、外国人居留地のいわば関所のひとつのようなものだった。だから警護が厳しかったのである。
 明治元年11月の『太政官日誌』に鉄砲洲の居留地立ち入り制限について、こう記されている。
「来る19日より東京鉄砲州開市相成り候に付ては、武家の向き、無鑑札にて外国人居留地へ立入り候儀相成らず候、自然要用これあり罷越し候節は、東京府へ申立て、印鑑請取り、出入りとも鉄砲洲稲荷橋、真福寺橋、南小田原町橋三ケ所に限り、通行致すべく候事」
 つまり武士は無鑑札では外国人居留地へ行くことはできなかったし、三ケ所しかなかったアクセスのうちのひとつが真福寺橋ルートだったということである。これらの措置は、侍による外国人殺傷の不祥事勃発の懸念が前提にあった。
 さて、その真福寺橋とはどの辺りにあったのか。たまたま私は安政4年の「築地八町堀・日本橋南絵図」(版元・尾張屋清七)の写しを持っていたが、その古地図に「真福寺橋」があった。かっての水路は高速道路などになっているのが現在の築地界隈だが、新金橋が昔の真福寺橋に当たるようだ。新富一丁目と銀座一丁目をつなぐ橋ということになる。
 築地にも土佐藩の江戸屋敷があって、それは現在の中央区役所と築地警察署のあたりだった。私は最初、4人はそこに帰ろうとしていたのではと思い込んでいたが、すると道順がおかしい。
 4人は鍛冶橋之内大手ヨリ十町の土佐藩上屋敷に帰ろうとしていたらしい。旧都庁、現在の東京国際フォーラムにメインの土佐藩邸があったのである。

土佐藩留学候補生の死 3

2007-07-24 21:31:42 | 小説
 さて、『加賀藩史料』の中にある田辺隊長の大参事宛の報告書の写しから、事件の発端をうかがうことができる。
「当三日夜六時過 真福寺橋辺より町人躰之者四人連に而 高声を発し、関門へ相向候に付 相咎候所、法外の儀申聞」
 と田辺は書いている。
 4人は大声を発しながら築地川にかかる橋上を歩いていて、市中警護の加賀藩士に咎められた、というのである。
 むろん酒を飲んでいた。新島原からの帰りだったのだ。「島原」といえば花街の代名詞のようなものであったから、明治元年にいまの新富町に「新島原」という歓楽街ができていた。近くの外国人居留地をにらんだ施設でもあった。
 ちなみに新島原はわずか4年ほどで廃止されている。このあたりの元の町名は大富町だったが、その大富町と新島原の両方の名をとって、新富町ができたのは明治4年であった。したがって、「新富町の島原」という書き方をされるひとがあるが、厳密に言うとおかしいのである。
 4人が新島原にくりだした気分はわからなくもない。二日後には日本を離れるのであった。しかも正月である。さらに、新島原に行けば外国人客の様子も知ることができると考えたかもしれない。
 いずれにせよ、田辺の報告書で注目すべきは、「町人躰之者」という表現である。武士とみなされていないのだ。
 4人は帯刀せず、丸腰だったのではないだろうか。留学する彼らにすれば、丸腰という状態に慣れておく必要もあったのではないのか、と私は考えてみた。おそらく、この丸腰姿が、4人と加賀藩士たちの行き違いの、もっとはっきり言えば喧嘩の、大きな要因となったのだ。
 さまざまな言葉のやり取りが、あたかも録音を再生するかのように私の耳には聞こえはじめてくるのだが、その憑依内容については、おいおい明らかにしよう。
 明治3年、廃刀令はまだ出ていない。

土佐藩留学候補生の死 2

2007-07-23 21:37:06 | 小説
 芝増上寺の山門をくぐり、正面の大門に向って少しばかり歩くと、左側に安養院がある。
 この前の日曜日、私ははじめて安養院の墓地を訪ねた。4人の墓があるからである。
 彼らの墓を探しているうちに、思いがけず長岡健吉の墓に遭遇した。立派な墓石だった。ちなみに龍馬が京都の近江屋で暗殺されたとき、そばづえをくったかたちで斬殺された藤吉は、長岡健吉の下僕で、長岡健吉が龍馬につけた用心棒のようなものだった。
 4人の墓は並んでいた。(写真参照)素朴な石碑だが、いちばん左側の小島捨蔵のものがもっともよく原形をとどめていた。上部に「高知藩」と刻まれ、「明治三庚午正月5日暁、自刃」とはっきり読める。その隣が小笠原彦弥、続いて川上友八の碑なのだが、地震のおりにでも倒れたのであろうか、折れたのを重ね置きしている。谷神之助の碑だけ、風化がはげしい。もしも、ここに並んでいなければ誰のものかわからないほどだ。目をこらせば、かすかに「谷」という文字の痕跡がなぞれる。
 谷のものだけ、石質が違うのだろうか、なにか不思議な思いにとらわれる。彼がいちばん若いのに、墓石はまるでほかの3人とは世代が違うぐらい古いのである。
 谷神之助芳叢(よししげ)、立志社の副社長谷重喜の弟だった。谷については以前から関心があったが、いまは谷ひとりに深入りするときではない。4人になにがあったかを考えなければならない。

土佐藩留学候補生の死 1

2007-07-22 19:08:35 | 小説
 事件は明治3年1月4日に起きた。『加賀藩史料』(前田育徳会)の「正月四日」付の記述には、こう書かれている。

 高知藩の士 金沢藩の警衛する東京築地真福寺関門に乱入し数人を殺害す
 
 高知藩とはもとより土佐藩の正称である。『加賀藩史料』はこの記述に続く「出兵守衛一件」で、事件の発端は前夜、つまり正月3日の夜にあったとしている。そう記録するのは該当区の市中警護を担当していた隊長の田辺仙三郎である。
 田辺の記すところによると、「昨夜、真福寺橋関門で高知藩と行き違いの事件これ有り候につき」加賀藩本営では格別の用心をしていたとある。それにもかかわらず、夜6時頃「侍躰之者三四人、本営表門小扉より押込」み、上述の「数人を殺害す」という事態になった。
 表門小扉には脱ぎ捨てた羽織が二枚、また遺留品はほかに折れた刀の切っ先6寸ばかりがあったが、襲撃者たちは逃げ去った、とある。
 そして、1月5日の早暁、土佐藩邸明小屋で4人の藩士が自刃した。彼らが加賀藩陣屋を襲ったのであった。死を賭した襲撃だったことになる。
 その4人とは、小島捨蔵29才、小笠原彦弥26才、川上友八24才、谷神之助22才であった。
 彼ら4人を『加賀藩史料』は「高知藩脱走人」と記録している。
 しかし、これは事実ではない。
 彼ら4人は、、いずれも戊辰戦争の戦功者であり、エリートだった。
 だから、自刃したその日は、4人はまさにロンドンに旅立つ予定の日だった。彼らは土佐藩が選抜した留学生だったのである。
 なぜなんだ。いったい、彼らになにがあったのか。 

龍馬暗殺場所 奇説

2007-07-17 21:20:18 | 読書
 もう8年前のことになる。当時、『龍馬研究』(高知・龍馬研究会)の編集長だった坂本美津子さんから一冊の本がおくられてきた。B5判66頁で、高知で印刷された私家版の冊子だった。帯に「これが龍馬の真実だ!!龍馬史を正す」とあった。「読みましたが、ようわからんでした」という坂本さんのコメントが添えられていた。龍馬暗殺事件に興味を持っている私なら、どう理解しますか、と坂本さんに問いかけられた恰好だった。
 一読、あっけにとられた。坂本さんにお礼かたがた「京都の西尾秋風氏がこれを読んだら怒るでしょうね」と書き送ったら、すぐに返書がきて「西尾先生はすでに読んでいて、カンカンでした」とあった。
 ちなみに西尾秋風氏は京都在住の龍馬研究家で、私のことを坂本さんに売り込んでくれた方であった。
 前置きが長くなった。その本とは松田智幸氏の『龍馬ら斬殺の新事実』である。
 松田氏の説は、龍馬は近江屋で暗殺されていないというものだ。なぜなら龍馬が暗殺された場所は、古地図では寺であって、近江屋そのものが存在していなかった、というのである。つまり、龍馬暗殺に関して証言者は嘘をついているという驚くべき見解なのであった。
 この松田説に対しては、菊地明氏が2002年に刊行した『坂本龍馬進化論』(新人物往来社)で、御丁寧にも詳しく反論しておられる。要するに、松田氏は、古地図に振り回されすぎだったのである。
 たとえばグーグルアースで私の現在の居住地付近を俯瞰してみると、すでに開通してる橋がまだ建設中である。これをもって本日現在、橋が開通しているわけはない、と言い出すのと変わらない過ちを松田氏はおかしているのである。
 松田氏の名は龍馬本の第一人者ともいうべき宮地佐一郎氏の著書の中に、友人として出てくる。西尾秋風氏も宮地氏の友人であり、研究協力者であった。宮地先生はこのお二人とどういうふうに接しておられたか、私には妙な関心がわいてくるが、故人となられたから、直接お聞きするすべもない。
 いずれにせよ、在野の史家が落ち込んだ陥穽、という印象が私にはある。その無残さは、どこかひとごとでないような気がしていた。
 それだけに松田説のエピゴーネンは許せない。最近、松田説を踏襲してブログを立てている人のあることを知った。しかもそのブログをリンク先として紹介しているブロガーがいる。嗚呼。
 松田説では龍馬暗殺に土佐藩の関与を指摘している。このこと自体は魅力的であって、いちがいにオール否定すべきではない。(龍馬の暗殺事件についての私論は、右の「自薦ブログ」から覗いていただけると幸いである)

孝明天皇 その死の謎  完

2007-07-12 22:53:09 | 小説
 岩倉について、原口清氏は『孝明天皇と岩倉具視』の最終部分で、こう述べている。「彼に、孝明天皇を毒殺しなければならぬ何らの理由もない」
 この原口氏の断定癖は、原口信者にはこたえられないところかもしれないが、せっかく精緻な各論をすすめていて、総論でこれでは、なんだかむなしささえ覚える。理由はおおありだから、当時から黒幕説がささやかれたのである。
 原口氏の結語はこう続く。
「…のちに武力討幕派となり、『倒幕の密勅』や王政復古のクーデターに活躍する中山・正親町三条・中御門らは、幽閉の身として政治的自由を完全に拘束されていたのである。天皇を殺すことで朝廷の主導権を掌握すると云うことは、空想的世界ならともかく、現実には不可能である。なぜなら、天皇が死んでも、これらの幽閉人の赦免の決定権は、朝政の実権を握る二条斉敬らの掌中にあったからである」
 だから、「二条斉敬」も狙われたのである。天皇と同じ頃、関白家では天然痘でふたりの死者が出ているのだ。私はそう推測する。そのことは前に書いた。
 謀殺の対象を天皇ひとりと考えるほうが、むしろおかしいのである。中御門の天誅云々の手紙を思い起こしてほしい。天皇は天然痘で死んだのだから、毒殺されたわけではない、という主張は、天然痘そのものが「毒」であったということをなおざりにしている。
 孝明天皇が死ぬと、にわかに岩倉らの重しがとれた。
 大政奉還の翌日、岩倉は京都の自宅に帰ることを許され、王政復古クーデターの前日には、蟄居解除、還俗、参内が許可されている。参内が許可されなくては、あの日、小御所会議で会議をリードできはしなかったのである。岩倉らには孝明天皇でなく、幼い明治天皇がいた。「玉」は岩倉らが握ったのである。日本史上、最後の関白であり、最後の摂政であった二條斉敬の姿は、その小御所会議にはなかった。

孝明天皇 その死の謎  23

2007-07-11 21:57:22 | 小説
 さて、相手をやらなければ自分の方がやられるという立場におかれた人間に、殺人の動機はないといえるだろうか。いつの時代でも攻撃は最大の防御である。
 慶応元年の暮頃、天皇は岩倉の不謹慎な風聞に驚いていた。武家特に薩摩藩士と岩倉がしばしば面会しているという風聞だった。事実だった。天皇は侍従の千種有任に密書を示し、岩倉に今後そういうことのないよう自重せよ、と伝えさせようとした。有任が父の千種有文に伝え、千種有文がそのことを手紙で岩倉に知らせた。(慶応元年12月17日付書簡)
 このことは関白はもとより朝彦親王(中川宮・賀陽宮・尹宮)らの耳にも入っていた。朝彦親王は、岩倉を指して「あのような者は斬殺して然るべき」と怒ったという。
 殺されますぜ、と岩倉に朝彦親王のことを告げ口した人物がいた。しかも、慶応2年の5月になってからだ。河村という男で、関白家諸大夫北小路某から聞いた話として吹き込んだ。
 自分が斬殺の対象になったと聞いて、岩倉が心中おだやかであったはずがない。もともと朝彦親王は、岩倉を「天下をひっくり返すことを致す」人物と危険視していたが、そう思われていることは、岩倉自身わかっていたはずである。
 慶応3年3月1日付の中御門経之から岩倉に宛てた手紙に、実に興味深い意味深長な一節がある。
「昨秋天誅相行候はゝ旧冬巳来之不都合は有間敷義」
「昨秋」とあるけれど、これは8・30列参のときのことであった。このとき、岩倉グループに二條関白、朝彦親王以下に天誅を加え、孝明天皇の側近を抹殺する計画があったのだ。
 だから、あのとき実行していれば、あとで苦労することはなかったのにと、中御門経之は、岩倉に愚痴をこぼしているのである。

孝明天皇 その死の謎  22

2007-07-10 15:59:26 | 小説
 歴史は科学ではない、と言ったのは歴史学者の岡田英弘氏であった。そう、歴史的なことがらは、化学反応のように説明することはできないのである。この化学反応を起こすには、これこれの「反応物」があって、その結果として「生成物」つまり事件があるというような具合にはいかないのである。ところが原口氏は、その「反応物」がないから「生成物」もありえない、という言い方をしている。
 暗殺とか毒殺とか謀殺事件は、ひっきょう暗い情念の産物である。思想や立場が敵対していない相手を抹殺するわけはないという論を立てる人に出会うたびに、私はある種の虚脱感におそわれる。考えてもみてほしい。ひとには近親憎悪という感情があり、現実の世界においても、ひとは肉親や愛する者を殺す場合がある。
 武力倒幕の一勢力が孝明天皇死亡時には存在しなかった、という原口説にも若干異論はあるが、ともかく、そういう勢力はまだ生じていないから孝明天皇が狙われるわけはないという帰結は、単純な毒殺論者を排斥するには効果的であったかもしれないが、論法そのものも単純すぎるのである。
 原口氏は孝明天皇の死の翌日、岩倉具視がある人物に宛てた手紙を引用している。天皇の死に岩倉が「血涙鳴号」したという文言のある手紙である。佐々木克氏もこの同じ手紙を『幕末の天皇・明治の天皇』で引用し、これほど天皇の死を悲しむ岩倉だから、世間でいう岩倉黒幕説はありえないといいたげである。しかし、この手紙で岩倉は、世をはかなんで、樵夫(きこり)になる決意をしたと書いている。岩倉は木こりになったか。なるどころか、天皇の死を契機に、彼の政治活動は活発になったのは、知られるとおりである。
 岩倉の文書は決して額面通りにうけとってはいけない。慶応3年4月に中山忠能らに宛てた手紙で、自分のある意見書について、幕府に見られても深い嫌疑をかけらられず、言い逃れのできるように書いてあると説明している。彼は本音を隠した文書を書くことができたのであった。
 さて、私が原口論文を、いささか冷やかな目で見るいわれを書きつけておこう。論文の冒頭部分にこうある。「私自身は、最近の小論において、毒殺説は誤りであり、天皇は痘瘡しかも悪質な紫斑性痘瘡ないし出血性膿胞性痘瘡(両者あわせて出血性痘瘡)によって死亡したものであることを実証した」
 実証、とはなんぞや。天皇の遺体を検視して、胃の内容物なども調べて毒物反応のないことが確認できてこそ、「実証」といえるのではないのか。歴史学者の言葉としては不適切なのだが、要するに原口氏は歴史を科学のように思いなしているのだろう、と思ったのである。

孝明天皇 その死の謎  21

2007-07-09 22:39:11 | 小説
「予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとていかにして王政復古の実を挙ぐべきかということは成案なかりき」(『昔夢会筆記』)
 と慶喜は語っていた。ところが土佐の山内容堂の建白が出ると「上院、下院の制を設くべしとあるを見て、これはいかにも良き考えなり、上院に公卿、諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行わば、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思い、これに勇気と自信とを得て、遂にこれを断行するに至りたり」
 いうまでもなく、断行したのは大政奉還である。
 さて、幕府の外交文書も翻訳し、慶喜にフランス語を教えていた西周(にしあまね)は、大政奉還の前日、慶喜によばれて、西洋風の公議政体案を建策したとされている。慶喜は西周の建策に、幕政改革の具体案を探っていたのであろう。
 いずれにせよ、新しい政治体制は諸大名も集め、衆議つまり公議によって決定しようという構想のもとに、幕府も朝廷も大きく動きはじめていた。事態の進展を阻んだのは、孝明天皇に処分された公卿グループと薩長だった。まだ朝敵のままだった長州と薩摩は、ひそかに手を組んでいたのだった。
 さて、孝明天皇謀殺(私はあえて毒殺と言わない、以後も謀殺で通す)説の否定論者である原口清氏は、『孝明天皇と岩倉具視』(名城商学39巻別冊)にこう述べている。
「…孝明天皇が生きていては、後のような討幕はできなかったであろうということについては異論はない。だが、天皇がそのような理由で毒殺されたとする場合には、当然のことながら、天皇の死亡時に、宮中内外に武力討幕派なる一政治勢力が存在し、武力による幕府打倒を当面の具体的な政治目標としていたという、という前提がなければならない。だが、はたしてこの前提はなり立つものであろうか」
 成り立たないから、、毒殺はありえないというのが原口氏の主張である。一見、論理的な既述のように見える。しかし、よくよく考えてみよう。私は原口氏の力作ともいえるこの論文から、まったく違った結論も得られるではないかと思ったものである。

孝明天皇 その死の謎  20

2007-07-05 22:45:52 | 小説
 さて、家茂が死んで徳川宗家を相続した慶喜は、それでも将軍職のほうは最初は受けるつもりはなかったらしい。後年、慶喜はこう語っている。
「最初の考えは今も話した長州の方を緩め、私は家を継いで、そこで将軍職を受けずにいて、天下の事をひとつ大改革をやろう、とてもこれではいかぬ、こういう見込みであった。その大改革というのは、王政復古…、いわゆる王政復古だが」(『昔夢会筆記』)
「長州の方を緩め」というのは、第二次長州征討をやめた、ということを指している。『昔夢会筆記』は渋沢栄一らが慶喜に質問を発し、その答えを記述したもので話し言葉になっているが、慶喜の口から「王政復古」という言葉が出てくることに、意外な感を持たれる方が多いのではないだろうか。
 しかし王政復古は反幕府勢力の専売特許ではないのである。孝明天皇謀殺のテーマには「王政復古」というキーワードがからんでくるので、そのことをここで強調しておこう。
 慶喜のいう「大改革」は王政復古を前提とした幕政改革だったようだ。そのためには諸侯会議の開催が必要になるのだが、ここで実は実質的に頓挫したのであった。松平春嶽などは将軍でない慶喜が大名を招集するのは筋違いで、招集は朝廷がかけるべきだというのである。ところが朝廷は朝廷で、中川宮などは実務が不慣れでおぼつかないと言い出す始末。朝幕ともに威厳を失いつつあるのが、この頃だ。ほとんどの大名は招集に応じなかった。
 慶喜にすれば、諸侯会議で推されて将軍になりたかったと思われる。そして、その思惑は薩摩に見抜かれていた。大久保一蔵は、慶喜の将軍就任を阻止すべく宮廷工作に躍起だった。その大久保一蔵を牽制するように、宮廷に働きかていたのは、慶喜の腹心、原市之進だった。原は、のちに暗殺された。

孝明天皇 その死の謎  19

2007-07-04 20:59:08 | 小説
 蜷川新氏は、その著書『明治天皇』(三一新書)の中で、さらに気になる事を書きつけている。
「京都御所内では『家茂の暗殺後、天皇が譲位なさるか、ご譲位なくばお命にさわるであろう』と女官たちが私語していたという」
 家茂暗殺は自明の前提、しかも女官たちが謀殺の連鎖を危惧していたというのだ。「謀殺の連鎖」と私は書くけれど、家茂と孝明天皇の死はセットで考慮されるべきものとは、かねて感じてはいたのである。
 まだ家茂上洛前の文久3年2月のことだが、三条大橋下の河原に、足利三代将軍の木造の首がさらされたことがあった。徳川将軍の首もとるぞ、という予告の脅しであった。家茂は狙われていたのである。
 家茂の後見職であった慶喜が、将軍職を継ぐわけだが、よく知られているように、すんなりと事は運んでいない。
 そもそも、家茂の死は表向きはひと月間も公表されなかった。この間、戦闘は停戦というわけでもなく、奇妙な足踏み状態になっていた。幕府軍の士気も、おそらく宙に浮いていたのである。孝明天皇が休戦の勅命を出したのは8月21日であった。
 家茂が亡くなったから「上下哀情の程もお察し遊ばされ候につき、しばらく兵事見合わせ候様致すべく御沙汰候。就いてはこれまで長防に於て隣境侵掠の地早々に引き払ひ鎮定罷りあり候様取り計らふべく候事」というわけだ。
 ところで慶喜が正式に15代将軍職につくのが12月5日、ずいぶんと空白の日数がかかりすぎている。戦闘状態そのものが、ちぐはぐになるのもわかるような気がするではないか。
 こんな状態だから、このとき幕府は倒せると見切った男がいた。西郷隆盛である。 

孝明天皇 その死の謎  18

2007-07-03 23:15:37 | 小説
 作家の山岡荘八氏は、家茂謀殺説を信じていたらしい。「宮中からさし回された」医師の薬を飲んで、3、4日目に、胸のあたりに紫の斑点を出して、ひどく苦しがって、御小姓組番頭に骨の折れるほどしがみついて、息を引き取ったというエピソードを書きつけている。
 御小姓組番頭というのは、蜷川相模守のことである。その子孫である日本赤十字社の顧問であり、法学博士であった蜷川新氏は、こう述べている。
「策士らは、本来誠実の人ではない。いずれの時代においても策士の心事は常に陰険極まるものである。だから薩長および公卿の策士らが(ひそかに共謀して)当年の政治上の二頭首、すなわち天皇と将軍を除こうと策謀したのは必然の帰結である」
「私の父は小姓組頭として家茂にしたがって従軍していたので、その真相をよく知っていた。遺骸は江戸に送られた。和宮は遺骸に礼拝することを希望されたけれども、毒殺の痕が顔面に気味悪くあったために、老中は納めてある棺を開くことを許さなかったという。私の母がこの事件を私に伝えている」
 見られるとおり家伝である。蜷川家に伝わる口伝をどう解釈するか、無視するか重要視するか、歴史研究家はたぶん軽視してはばかりないだろうが、ただ次の文章に対しては、私などは研究家のコメントがほしいと思う。
「「維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎という人がいた。その人が私に、『それは本当だよ、岩倉がやったのだ、岩倉は二度試みている』と言ったことがある」
 どうやら、それは本当だよというのは孝明天皇謀殺の件であるらしい。
(ちなみに、余談ながら格闘家の武蔵氏は蜷川博士のひ孫であるらしい)     

孝明天皇 その死の謎  17

2007-07-02 22:28:32 | 小説
 はじめ家茂はリウマチと診断されていた。さらに胃を悪くしていたから、リウマチの薬と健胃薬を併用していたらしい。
 6月に入ってから咽喉や胃の具合が悪化している。6月24日、両脚がむくみ、水腫の治療薬が調合されているが、効果はなかった。月末には水腫はさらにひどくなって、排尿にも支障を来たしている。
 月が変わって7月1日、激しい嘔吐が家茂を襲った。おびただしい胆汁を吐いて、酒石酸とジギタリスが投与されている。治療にあたっていたのは、蘭方医であった。竹内玄同、林洞海のふたりである。
 和宮はもともと蘭方医学に偏見をもっていたらしい。漢方医にかかるよう、家茂に勧めていた。兄の天皇からも漢方医を勧めてほしい、と京に急使を送っていた。
 7月5日、京都御所から漢方医ふたりが診察にやって来た。高階典薬少允と福井豊後守である。
 家茂の四肢は張り裂けんばかりにふくれあがり、呼吸も脈拍も切迫していた。漢方医のふたりは脚気だと診断した。
 ところが蘭方の奥医師たちは、脚気とは認めなかった。リウマチに胃病併発という診立てを変えず、つまり治療方針を変更しなかった。
 7月中旬になると、家茂は不眠と痙攣で、まさしく春嶽の見た「煩躁御苦悶」の状態になった。
 孝明天皇も天然痘の発症時に毒殺という噂が流れたのだが、家茂の場合もこれと事情は似ている。病名はともかく、発症時に毒を盛られたという説がささやかれるのであった。
 毒を盛ったのは、なんと宮中から派遣された医師だというのである。