唐突だが、話は慶応4年2月にさかのぼる。土佐藩士たちがフランス兵を殺傷した事件が堺で起きていた。いわゆる堺事件である。森鴎外と大岡昇平がともに深甚な関心をよせ、小説に書いたあの事件である。
築地関門事件(とよぶことにする)の伏線になったのではないかと思うから、どうしても堺事件のあらましを述べておく必要がある。
9月には明治元年となる慶応4年2月15日、つまり4人の自刃の2年ほど前のことだ。堺港を警備していた土佐藩兵が上陸したフランス兵を銃撃、11名を死亡させ、5名に重傷を負わせた。もともとフランス兵は港内を勝手にあちこち測量するなどして、その侵犯行為に神経をとがらせていた土佐藩兵だったが、一部のフランス兵の行為がきっかけとなって、銃撃騒ぎとなったのである。日仏いや日欧外交上の大問題になった。
フランスのロッシュ公使は新政権に賠償を要求した。賠償の骨子は、15万ドルの補償金と土佐藩兵の隊長2名と発砲者全員の処刑だった。
新政権はこの要求をあっさりと受け入れ、発砲者29名の中から20名を選び、切腹させることにしたのであった。
切腹の場所は堺の妙国寺であった。次々と切腹し、11人が終わった時点で、フランス側から中止の申し入れがあった。フランス兵の死者と同じ数の土佐藩士の死をもって、残る9人はもういいだろうということになったのだった。
壮絶な切腹の光景を目の当りにして、見届け人のフランス船の艦長はやっと耐えていたのであろう。なにしろ腹かき切るや臓物を手でつかみ、フランス側に投げつけようかというような切腹者もいたからである。
理不尽な話だった。警備の土佐藩兵は公務を遂行したにすぎない。若干の行きすぎはあったかもしれないが、賠償金を払って、なおかつ発砲者全員死罪などというのは、新政権の弱腰な外交上の犠牲になったと言って言いすぎではない。
築地関門事件(とよぶことにする)の伏線になったのではないかと思うから、どうしても堺事件のあらましを述べておく必要がある。
9月には明治元年となる慶応4年2月15日、つまり4人の自刃の2年ほど前のことだ。堺港を警備していた土佐藩兵が上陸したフランス兵を銃撃、11名を死亡させ、5名に重傷を負わせた。もともとフランス兵は港内を勝手にあちこち測量するなどして、その侵犯行為に神経をとがらせていた土佐藩兵だったが、一部のフランス兵の行為がきっかけとなって、銃撃騒ぎとなったのである。日仏いや日欧外交上の大問題になった。
フランスのロッシュ公使は新政権に賠償を要求した。賠償の骨子は、15万ドルの補償金と土佐藩兵の隊長2名と発砲者全員の処刑だった。
新政権はこの要求をあっさりと受け入れ、発砲者29名の中から20名を選び、切腹させることにしたのであった。
切腹の場所は堺の妙国寺であった。次々と切腹し、11人が終わった時点で、フランス側から中止の申し入れがあった。フランス兵の死者と同じ数の土佐藩士の死をもって、残る9人はもういいだろうということになったのだった。
壮絶な切腹の光景を目の当りにして、見届け人のフランス船の艦長はやっと耐えていたのであろう。なにしろ腹かき切るや臓物を手でつかみ、フランス側に投げつけようかというような切腹者もいたからである。
理不尽な話だった。警備の土佐藩兵は公務を遂行したにすぎない。若干の行きすぎはあったかもしれないが、賠償金を払って、なおかつ発砲者全員死罪などというのは、新政権の弱腰な外交上の犠牲になったと言って言いすぎではない。