小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

稗田阿礼とは何者か 5

2005-04-28 23:45:38 | 読書
 稗田阿礼をあくまでも架空の人物とみなしたい人たちは、『古事記』序文に記されている彼の年齢「28才」が気になるらしい。なぜ28才としたのかと、いい年をした学識者たちが微細に思慮し、論じ始める光景はいささか滑稽ですらある。28才という年齢が偽りだから、その人物は実在しないという論法は通用しないにもかかわらず、まあ、熱心なことだ。
 松本清張にいたっては、序文の日付が和銅5年正月28日となっているから、その日付に合わせて28才としたと言い出す始末。むろん証拠だてるすべのない事柄であって、清張氏のたんなる思い付きだ。
 要するに『古事記』序文は、なにもかもいい加減に書かれた文章だと言いたいがために、稗田阿礼に十字砲火をあびせるのである。そして序文の阿礼に関する章句が中国の古典『文選』中の章句をまねていることを、あたかも阿礼非実在説の根拠であるかのように言いたてる。
 文章の規範の少ない古代では古典から表現方法を真似ることは、よくあることではないか。その人物を表現する章句はぱくられたものだから、表現の対象となった人物も実在しないなどと、どうして言えようか。短絡思考の標本を見たかったら、稗田阿礼架空人物説をご覧になるとよろしい。
 さて、稗田阿礼に関するデータは『古事記』序文にしかない。博覧強記の舎人で、天武天皇の御代のいつとは断定できないが太安万侶と一緒に『古事記』編集の仕事をし始めたとき、28才の青年であった。それがすべてだ。
 ほんとうは『古事記』序文が後世の偽作ではなく、和銅5年に間違いなく太安万侶によって書かれたものだと証明すれば、くだくだしい論議は終わるのだが、そこがわが日本古代史のまか不思議なところで簡単ではない。
 古代史の世界に踏み込むと、濃霧に閉ざされたように立ち往生するしかないときがある。それでもじっと目を凝らしていること、そうすればやがて霧の陰に動くものが見つかるということを、私は学ぶのに10年ほどかかった。

稗田阿礼とは何者か 4

2005-04-27 22:16:30 | 読書
 猿女君の氏族の中に、稗田の姓をなのる者たちのいた記録はたしかにある。いにしえの大和添上郡稗田、現在の奈良県大和郡山市の稗田は猿女君氏の居留地であった。その地名を姓にしたものは当然いたであろう。そこで阿礼もまた猿女君の出自、つまりアメノウズメの後裔とみなされたのではないだろうか。ところが私の見た系図では、阿礼は単に稗田阿礼ではなく「稗田連阿礼」となっていた。
 さきに、稗田阿礼が中臣氏の系図の中にいる意味は大きいと書いた。中臣氏つまり藤原氏は古代最大の氏族である。阿礼の学識、具体的に言えば「帯の字」を「たらし」と読める教養のよってきたるところは藤原一門なら納得ができる。神楽などいわゆる歌舞音曲と俳優(わざおぎ)の家系である猿女君の出自では、彼の識字能力と折り合いがつかないではないか。
 なぜ中臣氏ならば漢字と縁があるのか、もっと踏み込んで書こう。
中臣=藤原氏族の出自は大陸、厳密には韓半島だったという説がある。いわゆる渡来系氏族ならば、代々、漢字を習熟する人間を輩出してもおかしくはない、むしろ、いて当たり前と考えられる。
 私は自分の本名が藤原に由来する姓(近江の藤原氏という意味だそうな)ということもあって、藤原氏の出自には人並み以上の関心があった。当時、大阪外大の先生だったキム・サヨプ氏が藤原氏の出自は新羅領の「比子伐」(フジバル)だという説を発表したときは、あっと思ったものだ。九州管区の新幹線の車掌さんで「秋葉原」を「あきはばる」と発音する人がいたけれど、筑紫地方の発音では「藤原」は「フジバル」なのだ。
 ちなみに、比子伐は今の韓国の昌寧であり、古代の新羅、加羅国境に近いらしい。

稗田阿礼とは何者か 3

2005-04-26 22:07:45 | 読書
 松本清張は「阿礼が男か女かも分らない、官位もなし、出自も分らない。他の記録にはその名のかげすら見えない」から、架空の人物であろうと断じた。昭和48年の『文学界』3月号所収「古事記序文の虚構性」という論文だ。
 たしかに稗田阿礼は他の史書には現れない。しかし、だからといって架空の人物と決めつけるのはいかがなものか。松本清張の論文のタイトルに注目してほしい。松本清張はいわゆる古事記序文偽作説(『古事記』偽書説のひとつ)の立場をとっている。序文は後世にでっち上げられたものとみなすわけで、どうせ作り物だから、そこに登場する人物も架空に決まっているという思い込みが働いているらしい。逆ではないだろうか。仮に偽作であるならばなおさらのこと、本物らしく見せるために実在の人物を登場させるのが得策ではないか。序文に登場する人物は天皇を除けば阿礼と太安万侶のふたり。その太安万侶だって、かっては実在を疑われもしたが、昭和54年に奈良市田原町の茶畑で墓誌が発見されて実在が確定している。阿礼の墓誌が奈良県大和郡山市の稗田の地あたりで発見される可能性だってなくはない。
 私は稗田阿礼の実在を信じているものである。なにしろ阿礼の名もある系図をみた。その系図によれば、稗田阿礼はアメノウズメの後裔というより、アメノコヤネ(天児屋根命)の後裔となっている。つまり中臣氏族なのである。かの有名な歴史上の人物、藤原鎌足の遠戚にあたっていた。父は忍立連、その父(祖父)は伊波礼連、その父つまりひじいちゃんは鎌子大連。その先もずっと辿れるのだが複雑な系図なので、写すのをやめた。系図そのものの信憑性を検証済みというわけにはいかないが、中臣氏族の系図に阿礼がいるということは、中臣氏族のなかに阿礼を同族とみなした人がいたということである。この意味は大きいと思う。
『弘仁私記』のアメノウズメの後裔という注は、あるいは誤りではないのか。 
  

稗田阿礼とは何者か 2

2005-04-25 21:14:49 | 読書
 稗田阿礼は女性だったという驚くべき説がある。「あれ」という名が巫女的イメージを喚起するからというのである。女っぽい名だから女性だろうというのは乱暴な話である。現代でも、男とも女ともとれる名はある。たとえば、ひとみ。あるいは、しのぶ。ひとみだから女だろうと言われたら、いまは亡き山口瞳がうかばれない。
『古事記』序文の稗田阿礼の箇所を引用したかたちで紹介した『弘仁私記』(812年刊)に、稗田阿礼の注として「アメノウズメノミコトの後」とある。アメノウズメといえば、天の石屋戸でストリップをし、アマテラスを岩屋から誘い出すのに一役買った神話上の女性だ。氏族名「猿女君」の祖とされている。つまり稗田阿礼はアメノウズメの末裔で、猿女君の一族であろう、というわけだ。猿女君は代々女性が相続しているから、稗田阿礼女性論が成立する、というのが柳田国男などの説である。柳田国男が提唱しているから間違いあるまい、などと思うなかれ。こじつけもいいところである。「舎人」と明記されている事実を、なぜ無視するのか。舎人は男子の職掌である。稗田阿礼女性論を成立させるためには、女でも舎人になれたという証明が必要である。
 おそらく阿礼を、たんなる口誦者と思い込んだところから女性論なども派生してくるのである。違うのだ。阿礼は、おそろしく漢字に詳しかった、あくまでも舎人だったのである。
 さて、稗田阿礼などはもともといなかった。阿礼は架空の人物だという説もある。松本清張は阿礼は実在しなかっと言う説だった。(つづく) 

稗田阿礼とは何者か 1

2005-04-24 16:57:56 | 読書
『古事記』は稗田阿礼という語り部が記憶していた物語を太安万侶が文字化したもの、というトンデモナイ錯覚を流布させたのは誰だろう。学者たちに決まっている。たとえば、今年3月に刊行された集英社文庫『日本の古代語を探る』で西郷信綱はその著書の序にこんな風に書いている。
〈それは『古事記』がまだ文字のない口誦時代の伝統を踏まえているからだと考えていい。周知のように『古事記』を文字化したのは太安万侶だが、彼の前に横たわる素材は、シャーマン稗田阿礼の口誦の声にほかならなかった〉
 これが『古事記』に関する数冊の著書もある鬱然たる古典学者のご高説なのだから、あきれてしまって私は新書の中味を読む気がしなくなったものだ。「周知のように」だって、こんな錯覚をいまだにあまねく浸透させているのは、あんたたちじゃないか。
 稗田阿礼がシャーマン?どこにそんなことが記されているのか。彼は「舎人」であったと、『古事記』の序文に明記されているではないか。『古事記』序文の稗田阿礼像は以下のとおりだ。(あえて読みやすいようにひらがな表記を多用、漢字の字面に惑わされることなく、素直に読んでみると判る)
〈時に舎人ありき。姓は稗田、名は阿礼。年はこれ廿八。人と為り聡明にして、目にわたればよみ、耳にふるれば心にしるしき。即ち、阿礼に勅語して帝皇日継及び先代旧辞をよみならはしめたまひき。〉
 稗田阿礼語り部説を言う人たちは、なぜ「目にわたればよみ」という箇所を無視するのであろうか。彼は当時としては識字能力の高い官僚だったとみなす方が、ずっと自然ではないか。漢和辞典も国語辞典もなかった古代に、彼の役割は人間辞書だったのである。彼は目で読んだのである。何を。『古事記』に先行する史料、つまり「帝皇日継」と「先代旧辞」をである。『古事記』以前に文字で書かれたものがあったという事実すら、稗田阿礼を語り部にしては消えてしまうのだ。
『古事記』序文は、だからこそ最後のほうで「日下」を「くさか」と読ませたり、「帯の字」(まさしく字と表現)を「たらし」と読ませたりするのは「もとのまにまに改めず」と断り書きをしているのだ。もととなる成書の難しい字を稗田阿礼が解釈したと考えないほうがどうかしているのだ。 

西郷隆盛〈隠された素顔〉7

2005-04-14 17:46:50 | 小説
 征韓論にやぶれ下野し、故郷に帰る途中に詠んだとされる西郷の漢詩がある。その一節。
「白髪衰顔 意する所に非ず  壯心剣を横たへて勲なきを愧(は)ず」
 西郷はやはり剣を必要としたのである。対照的に、もはや剣の時代は終わったと言った龍馬のことが思い出される。勝海舟にこの詩のパロディがある。
「壯心剣を横たへて勲を求めず」
 海舟はあきらかに西郷にあてつけている。
 故郷に戻った西郷は、外出に際しては犬を13頭も連れていた。銅像のように一頭ではないのだ。なぜか。犬はボディガードなのである。彼はつねに刺客を警戒しなければならなかったのだ。西南戦争の引き金となった西郷暗殺計画は西郷らの思い違いという説もあるが、いずれにせよ、暗殺に敏感に反応する下地はあったのである。故郷に帰った西郷がいずれ挙兵するだろうと予想していた人物がいた。初代の大警視川路利良である。川路をわが国初の警察機構のトップに任命したのは、ほかならぬ西郷なのであるが、その川路が鹿児島に密偵を放って西郷の動きを監視していた。皮肉なめぐり合わせである。
 さてところで西南戦争とは、つまるところ西郷と大久保利通の私闘ではなかったかという見方がある。かって徳川と島津の私闘といわれた鳥羽伏見の戦いを、錦の御旗と宮様をかつぎ出すことによって私闘でなくしたのは西郷であった。しかし、西南戦争ではもはや西郷には錦の御旗はなかった。
 没落する士族と結局彼は運命を共にしたのである。享年51才。座右の銘が「敬天愛人」として知られている。人を愛する?それはあるいは彼の贖罪をねがう気持ちのあらわれだったかもしれない。
 西南戦争でインフレが生じ、そのせいで板垣退助らが自由民権運動の資金を捻出することができた。やがて武力によらない反政府運動がひろがってゆくのだが、それはまた別の話である。
(この稿終わる)

西郷隆盛〈隠された素顔〉6

2005-04-13 17:21:48 | 小説
 晩年の西郷を語るキーワードは征韓論と西南戦争のふたつになるだろう。まず征韓論であるが、西郷は征韓論にやぶれて下野したと一般には思われている。しかし、彼は表向きは韓を討てとはいっていない。征韓論というより遣韓論ではないかといわれるゆえんで、自分を韓国に外交特使として派遣させろ、交渉決裂して自分が殺されれば、それを名目に韓国を討てというもので、他の征韓論よりは屈折している。
 西郷は何をしたかったのか。つまるところ「謀略」と「革命」の輸出である。維新をなしとげた西郷にとって、もう国内には謀略家として働く余地がないと判断したのではないのか。明治5年8月、西郷は池上四郎という軍事スパイを韓国、満州方面に派遣し、その報告書によって、かの地の事情を把握していた。西郷には勝算があったのであろう。明治6年8月17日付の板垣退助宛の手紙に書いている。
 彼の征韓論は「内乱をねがう心を外に移して国を興すの遠略」であると。
 明治維新がそのスタート時にはらんでいた矛盾は士族階級で構成された幕府は倒したが、士族そのものが滅びたわけではないという点にあった。どこかで士族を消滅させねばならなかった。征韓論のモチーフには、士族を韓国に追っ払って殺してしまえというもくろみも隠されていた。しかし、西郷はこのことを恐れていた。彼は士族という階級意識を捨てることのできなかった人である。士族そのものは生かそうとしていた。だから謀略によって韓国をとろうとしていたのである。
 結局、彼の征韓論(遣韓論)はうけいれられず、下野する。板垣宛の手紙にあるとおり。〈外に移す〉ことのできなかったエネルギーは〈内乱〉に向かうよりほかなくなるではないか。西南戦争は、必然の成り行きだった。
 島津久光は西郷を「安禄山のごときもの」と評した。この誹謗ともとれる西郷評は、なるほど正鵠をついていたかもしれない。

西郷隆盛〈隠された素顔〉5

2005-04-12 11:37:03 | 小説
 さて相楽総三である。西郷に裏切られた悲劇の人物だ。相楽は三田邸焼討ちのとき、品川から薩摩船の翔鳳丸に乗って脱出、やがて京都で西郷に会う。
 西郷は「甚だ好都合にいって喜びにたえない」ところで「諸君がこれから大いにやるべきところがある。是非そこへ行って、もう一度奮発していただきたい」という。東征軍の先鋒部隊結成に加われというのだ。赤報隊の誕生である。
 赤報隊は行く先々で「年貢半減令」を農民に呼びかけた。(年貢半減令は西郷が言い出したものである)だが、この年貢半減令が実現不可能という見通しになると、隊は呼び戻される。下諏訪の本陣に軍議があるから出頭せよというので相楽が出向くと彼は突然取り押さえられる。あげく神社の境内の木に縛りつけられ、二日間、氷雨の降る寒風の中に放置された。水も与えられず、刑場にひかれるときは歩くのもやっとだったという。
 ただ処刑の場での相楽は立派だった。彼は介錯人に「しっかりやれよ」と声をかけた。さらに「見事にな」と。これで介錯人のほうが動揺してしまう。第一刀を仕損じ、相楽の右肩を斬りこむ。「代われ」と相楽は叱りつける。代わりの介錯人がつくまで相楽は激痛に耐えながら、なお端座していたという。
 相楽の処刑理由は「偽官軍」を組織したというものである。実情は年貢半減をいまさら取り消せないので、赤報隊のほうを悪役にしたのだ。
 江戸の治安撹乱のリーダー3人組のひとりだったから、いずれ西郷から切り捨てられる運命にあったとはいえ、末路があまりにむごいのである。同じ月に江戸治安撹乱のもうひとりの仲間、伊牟田尚平も京都の薩摩屋敷で切腹させられている。部下が近江大津で強盗を働いた責任をとらされたというこになっているが、なんとなくうさんくさい。
 残る益満についてはすでに書いた。西郷は益満が三田で死んだと思っていたらしく、静岡で山岡鉄舟と一緒に目の前に現れたときは、驚きかつ激怒したらしい。死んでくれていたほうが都合よかったのだ。だから、益満が上野彰義隊討伐戦で味方の薩摩藩士に撃たれたという説は否定しがたいのである。

西郷隆盛〈隠された素顔〉4

2005-04-11 21:29:17 | 小説
 西郷腹心の江戸隠密がいた。益満休之助である。彼は彰義隊討伐戦の最中に、今の上野松坂屋の前あたりで流れ弾に当って死んだとされている。ところが味方の薩摩藩士が背後から狙撃したという説がある。益満は薩摩の謀略の世界に生きていたから、裏事情を知りすぎていたのである。幼少の頃から隠密諜者の訓練をうけ、流暢な江戸弁と薩摩弁の二つが使い分けられた。
 慶応3年秋、益満は西郷から江戸の治安撹乱計画を打ち明けられ、彼と伊牟田尚平と相楽総三の3人が中心になって実行に移した。
 三田の薩摩屋敷を根拠地として、食詰め浪人たちを集めた。総勢500人。ほとんどゴロツキの集団である。彼らに何をさせたか。軍資金調達の名目で、豪商や豪農に押しかけてのゆすり、強奪。あるいは市中で辻斬り、強盗、放火、暴虐の限りをつくした。12月23日には江戸城の二の丸に火を放った。これで幕府は黙っていられなくなった。西郷の挑発にのったかたちで三田の薩摩邸を攻撃、焼き討ちにしたのである。鳥羽伏見の戦いの呼び水となった事件だ。
 このとき益満は幕軍の捕虜となり、伝馬町の獄に送られた。ところがこの益満を勝海舟が預かり、氷川町の自宅に引き取るのであった。西郷謀略の生き証人を確保し、やがて勝はみごとな使い方をする。
 明けて慶応4年3月9日、徳川慶喜救済の交渉のため、駿府の東征大総督本部にいた西郷を訪れる山岡鉄舟に、勝はこの益満を案内役として付けたのである。しかも勝は山岡に持たせた手紙の中に書いた。
「一点不正の御挙あらば、皇国の瓦解、乱心賊子の名目、千載の下消ゆるなからむか」
 勝は西郷のもっとも弱いところ、ダーティーな策略を用いたことを、益満を送り返すことによって鋭くついたのである。
 江戸無血開城の下交渉は、この時点ですでに勝が優位に立っていた、といえる。

西郷隆盛〈隠された素顔〉3

2005-04-10 13:32:53 | 小説
 慶応3年12月9日、王政復古クーデターの日の、いわゆる小御所会議は岩倉具視、西郷隆盛らの討幕派の画策したものである。大政奉還後の公式な政治日程は諸侯会議であるはずだった。しかしこの会議には尾張、越前、薩摩、安芸、土佐の5藩しか招かれていない。だから土佐の山内容堂は、この会議のあり方そのものを問題視した。「徳川慶喜以下を除外した会議は不公平ではないか」と。
 容堂の言うこともっともであるから、会議は紛糾、昼休みとなる。この休みに、薩摩の岩下左次右衛門が、御門の警備に詰めていた西郷のもとに走る。西郷は会議の進行が頓挫していることに怒って、「短刀一本で片がつくではないか。最後の手段をとれ」と岩倉に伝言を託す。なんと容堂を刺せというのだ。
 このことが芸州藩主浅野の知るところとなり、浅野は家臣を通じて後藤象二郎に伝えさせた。驚いた後藤は、容堂をなだめて帰邸させた。これで午後の会議は岩倉主導のものとなり、徳川慶喜の辞官納士が決定してしまうのである。
 容堂を刺せ、とは大胆な意向であるが、もし龍馬が生きていれば西郷にこんな思い切ったことが言えたかどうか。龍馬は死の直前に福井に行き慶喜を関白にすると語っていた。暗殺直前に書かれたと思われる「新政府綱領八策」では「諸侯会議の日を待って云々、○○○自ら盟主となり」という伏字のある有名な文書を書いている。龍馬はあくまで諸侯会議に期待していたのだった。その諸侯会議を無視し、「あるいはその可能性を横合いから断ち切って武力で御所を固め天皇親政を宣言した」(松浦玲)のがこの小御所会議であった。
 大政奉還の上表された同じ日に倒幕の密勅が薩長に出ていることを知らされていなかった龍馬は、あくまでも平和路線で行くつもりだった。倒幕に固執する西郷と龍馬の考え方は、絶望的にへだたっていた。このクーデータ敢行上、西郷にとってもっとも邪魔な人間は龍馬だった。それゆえ、この小御所会議の日、龍馬はいない。この日、龍馬暗殺から、ひと月も経っていない。

西郷隆盛〈隠された素顔〉2

2005-04-09 19:43:41 | 小説
 西郷と月照(清水寺の勤皇僧)の入水事件は有名な美談である。安政の大獄が始まった1858年11月15日の夜のことであった。このとき西郷32才。幕府の弾圧から月照を守りきれないと悟った彼は、月照に「共に死のう」と言い、錦江湾の海中に心中を図ったのだった。ところがこれが無理心中らしきおもむきもある。
「月照が船のトモに出て、小便をしているところを後ろから抱きこんで飛び込んだら、月照のみは死し、自分が生き残った」などという西郷の言葉を紹介した史料(『南州翁逸話』)があるのだ。もしこれが事実ならば、明治7年に月照の墓前に捧げた西郷の次の詩は、ひどくそらぞらしいものになる。
  相約して淵に投ず後先なし
  あに図らんや波上再生の縁
  頭を回らせば十有余年の夢
  空しく幽明を隔てて墓前に哭す
「相約して」などと、まるでアリバイ作りのような詩になるではないか。しかも、無理心中どころではない、重荷になった月照を西郷が謀殺したという説は、ある種、説得的である。月照は凍え死んだとされるけれど、旧暦11月15日の錦江湾の水温は平均17度で凍死はありえないらしい。錦江湾の水温調査までして月照の死に疑念を抱いているのは鹿児島の片桐吾庵堂という人だ。すごい人もいるものだが、西郷と月照の入水にはどこか割り切れない点が残るから、謀殺説も生じるのである。
 11月15日は満月の日である。西郷の救出は月明かりが幸いしているが、彼はもしかしたらそこまで計算して入水したかもしれない。
 いずれにせよ、武士の自死といえば刀によるほうが似合うだろう。入水というのは薩摩武士らしくないのである。
(左方郁子氏の論文『西郷隆盛をめぐる群像』所収を参考)
 

西郷隆盛〈隠された素顔〉1

2005-04-08 15:42:35 | 小説
 幕末維新のヒーロー西郷隆盛に、ひとはどのようなイメージを抱いているであろうか。上野の銅像に象徴される愛すべき人物。巨眼、太い眉毛と引き締まった口元、堂々とした体躯。しかし、彼は写真嫌いで、実物の写真はいっさいない。私たちがよく目にする肖像は絵であって、銅像のモデルも、実は弟の従道といとこの大山巌の顔を合成したモンタージュでしかない。
 なぜ西郷は写真を嫌ったのか。たぶん暗殺をおそれたからであるが、本来の資質が公に正体をさらすことを嫌ったのである。その資質とはスパイである。西郷隆盛は、もと隠密であった。
 島津斉彬が藩主就任の第一回目の参勤交代で出府の年、西郷は中小姓として行列に従っていた。28才だった。その翌月、ある役目を拝命している。「庭方役」だ。要するに庭の者、つまりお庭番としてスタートしたのだ。このことを忘れてはいけない。お庭番はかっては忍びの者の役割だった。公儀では享保以降、隠密制度は忍びの者以外にも専門職化していたから、西郷を忍びの者とまでは断定できない。いずれにせよ、諜報のスペシャリストだったことは間違いない。隠密が藩の要職につくことなどあるはずなく、それはないだろうという人がいるかもしれない。ところが文政元年に幕府の勘定奉行になった村垣淡路守定行の例もある。村垣は変装の名人といわれた隠密上がりであった。
 この「庭方役」について、学者は、たとえば田中惣五郎はその著書『西郷隆盛』(吉川弘文館)で次のように書く。「斉彬の非公式な蜜事をとりあつかう秘書的な役割である」こういうオブラートで包んだような言い回しには苦笑するしかない。なにが「秘書的な役割」なものか。隠密御用とはっきり書けばよいのである。西郷の最初の役割は、水戸藩の内政探索であった。彼はそのスタートから謀略の人なのである。
 美化されすぎた英雄伝説をこれから少しずつはがしてゆく。