稗田阿礼をあくまでも架空の人物とみなしたい人たちは、『古事記』序文に記されている彼の年齢「28才」が気になるらしい。なぜ28才としたのかと、いい年をした学識者たちが微細に思慮し、論じ始める光景はいささか滑稽ですらある。28才という年齢が偽りだから、その人物は実在しないという論法は通用しないにもかかわらず、まあ、熱心なことだ。
松本清張にいたっては、序文の日付が和銅5年正月28日となっているから、その日付に合わせて28才としたと言い出す始末。むろん証拠だてるすべのない事柄であって、清張氏のたんなる思い付きだ。
要するに『古事記』序文は、なにもかもいい加減に書かれた文章だと言いたいがために、稗田阿礼に十字砲火をあびせるのである。そして序文の阿礼に関する章句が中国の古典『文選』中の章句をまねていることを、あたかも阿礼非実在説の根拠であるかのように言いたてる。
文章の規範の少ない古代では古典から表現方法を真似ることは、よくあることではないか。その人物を表現する章句はぱくられたものだから、表現の対象となった人物も実在しないなどと、どうして言えようか。短絡思考の標本を見たかったら、稗田阿礼架空人物説をご覧になるとよろしい。
さて、稗田阿礼に関するデータは『古事記』序文にしかない。博覧強記の舎人で、天武天皇の御代のいつとは断定できないが太安万侶と一緒に『古事記』編集の仕事をし始めたとき、28才の青年であった。それがすべてだ。
ほんとうは『古事記』序文が後世の偽作ではなく、和銅5年に間違いなく太安万侶によって書かれたものだと証明すれば、くだくだしい論議は終わるのだが、そこがわが日本古代史のまか不思議なところで簡単ではない。
古代史の世界に踏み込むと、濃霧に閉ざされたように立ち往生するしかないときがある。それでもじっと目を凝らしていること、そうすればやがて霧の陰に動くものが見つかるということを、私は学ぶのに10年ほどかかった。
松本清張にいたっては、序文の日付が和銅5年正月28日となっているから、その日付に合わせて28才としたと言い出す始末。むろん証拠だてるすべのない事柄であって、清張氏のたんなる思い付きだ。
要するに『古事記』序文は、なにもかもいい加減に書かれた文章だと言いたいがために、稗田阿礼に十字砲火をあびせるのである。そして序文の阿礼に関する章句が中国の古典『文選』中の章句をまねていることを、あたかも阿礼非実在説の根拠であるかのように言いたてる。
文章の規範の少ない古代では古典から表現方法を真似ることは、よくあることではないか。その人物を表現する章句はぱくられたものだから、表現の対象となった人物も実在しないなどと、どうして言えようか。短絡思考の標本を見たかったら、稗田阿礼架空人物説をご覧になるとよろしい。
さて、稗田阿礼に関するデータは『古事記』序文にしかない。博覧強記の舎人で、天武天皇の御代のいつとは断定できないが太安万侶と一緒に『古事記』編集の仕事をし始めたとき、28才の青年であった。それがすべてだ。
ほんとうは『古事記』序文が後世の偽作ではなく、和銅5年に間違いなく太安万侶によって書かれたものだと証明すれば、くだくだしい論議は終わるのだが、そこがわが日本古代史のまか不思議なところで簡単ではない。
古代史の世界に踏み込むと、濃霧に閉ざされたように立ち往生するしかないときがある。それでもじっと目を凝らしていること、そうすればやがて霧の陰に動くものが見つかるということを、私は学ぶのに10年ほどかかった。