小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

凌霜隊の悲劇  5

2008-06-29 17:29:35 | 小説
 いや戦死者はなおも増えた。
 なにしろ北関東での官軍との散発的な戦闘は秋まで続いたのであった。
 中岡弾之丞が8月24日、横川で被弾して戦死、25才だった。同月30日、大内峠の戦闘で、17才の山脇金太郎と小者小三郎が戦死。9月3日には関山宿で林定三郎が戦死した。中岡と同じ25才だった。
 凌霜隊は、開城のさいに江戸を離れた大鳥圭介(旧幕府の陸軍歩兵奉行)の軍と合流し、新政府軍と一進一退の攻防を続けたのであった。
 ちなみに『心苦雑記』の筆者は、大鳥圭介への不信感を書きつけている。「軍議因循」で敵を打ち破れないというのだ。また、ずいぶん名高き人なのに思いのほかだったとも書き、内心敵方に通じているのではないかとの風評もあったとしている。
 ともあれ、およそ半年間の散発的な戦闘の末、凌霜隊が会津鶴ヶ城に入ったのは、9月5日であった。

「九月五日のことである。西出丸に郡上藩の凌霜隊の兵士たちが入ってきた。わざわざ美濃国から会津に応援に来たのだ。郡上は鵜飼で知られる長良川の上流にある小さな町である。隊長は朝比奈茂吉と言ってまだ十七歳の少年だった。
 日光の今市から田島に抜けて会津城下に来たのだった。健次郎は驚きのまなざしで彼らを見つめた。郡上藩には西出丸の守備が割り当てられた。この日から西出丸は白虎丸と凌霜隊とで五十間ずつ分担した。健次郎は彼らの塹壕の掘り方に驚いた。実に上手であった。
 これが唯一の援軍だった。健次郎はこのことも終生、忘れなかった」

 星亮一『白虎隊と会津武士道』(平凡社新書)からの引用である。ここで「健次郎」とあるのは、白虎隊隊士であった山川健次郎のことである。いうまでもなく若くして藩の重役だった山川大蔵の弟である。


【追記】澤田ふじ子氏に凌霜隊に取材した長編小説があると知り、amazonに発注していた同氏の『葉菊の露』上・下(中公文庫)が今夕届いた。本文5ページ目で、凌霜隊の平均年齢を27・4歳とされていた。澤田氏は39人の平均値を出しておられる。私の試算は36人の平均値である。ああ、やっぱり平均年齢はどなたも気になるものだと思った。

凌霜隊の悲劇  4

2008-06-28 16:09:54 | 小説
 凌霜隊の隊長朝比奈茂吉は17才だったが、隊員の年齢構成をみると、20代15名、30代10名、40代9名、50代1名で、平均年齢は32才であった。(注:定府藩士36名の平均値であって、参加した足軽など数名の年令は除く)
 ここが少年隊であった白虎隊と違うところである。会津では年齢別に部隊を編成していたから、白虎隊は16才から17才の少年で構成されていたのである。ちなみに東西南北の四神から隊名がつけられており、50才以上が玄武隊、36才から49才までが青竜隊、18才から35才までが朱雀隊であった。この朱雀隊が主力部隊なのだが、主力部隊よりも白虎隊のほうが有名なのは、少年隊としての悲劇性からであろう。
 凌霜隊は、平均年齢からすれば、会津の主力部隊の朱雀隊と重なることになる。
 凌霜隊はもとより手ぶらで加勢に行ったわけではない。スペンサー銃と予備スナイドル銃を携えていたばかりではなく、大砲2門も船に積んでいた。陣地構築用の工具類、弾丸、薬剤、食糧、軍服と装備にぬかりはなかった。軍資金200両も持っていた。藩から支給されなければ、簡単にそろうものではない。この装備からでも、彼らが脱走兵というのは表向きであって、藩からの密命をおびた者たちとみて間違いはないと思われる。
『心苦雑記』によれば、彼らには旗本河野綱翁と服部半蔵なる人物が同道している。服部については「会津脱藩、実は常五郎」としており、「会津候エ属し度き志願ニ付き、服部氏を相頼み」と書いている。会津参戦の仲介者であったらしい。
 4月12日、前橋に上陸したとは前にも書いた。陸路を進み16日、小山宿(栃木)で官軍と戦闘になった。隊員の田中亀太郎が頭を撃たれて即死、29才だった。42才の菅沼銑十郎も重傷を負い、翌日死亡。
 会津に入るまでに、すでに戦死者2名となった。

凌霜隊の悲劇  3

2008-06-26 16:56:25 | 小説
 話を先に急ぎたいのだが、かんじんなところだから速水小三郎の日記の当該箇所を引用しておこう。
 長くなるけれど、それだけの価値はあるのだ。諸藩の当時の複雑な事情をかいま見ることもできるからである。

「…内実は当春以来の変動より、旗下有志の者、所々に頓集、徳川氏の御為回復を謀り、奥羽の諸侯会盟、朝廷の御為、戦争義挙をなし、諸藩にても表は勤王なれども、密々人数を脱走せしめて、義党に加わり、忠節を励まんとして、公辺にても、表は御謹慎御恭順なれども、内々回復を謀り、追々密命あるにより、義党益々盛んになり、当藩士また一同御書院へ会合、徳川氏の御為尽力いたさん事を申立、もし採用なくば変動にも及ぶべき模様にて、諸形勢容易ならず(中略)徳川氏御回復に及ぶ時は御失節の罪は遁れがたく、御先君様の思召にも違うことなれば、、かたがた一手の御人数出張仰せ付けられ盟主会候へ付属御頼にて尽力致し候方然るべきとの評議にて、夫々出張仰せ付けられ、自分義(儀)は、会候へ御頼の使節仰せ付けられたる也。
 朝比奈茂吉、坂田林左衛門を始め三十余人と其夜本所より出船…」

 速水は、これより少し前の3月末の時点で新政府太政官の貢士として推挙されながら、これを辞退していた。
 自分のような「暗劣愚陋者」がまかりでては藩の恥でもあるし、朝廷に対しても失礼に当たり、さらに眼病をはじめ多病にて衰弱しているからというのが理由だった。
 あきらかに断るための口実である。この頃すでに会津行きを決めていたものと思われる。
 さて当時、郡上藩の定府藩士は何名いたのか。154名いたらしい。そのうち36名が凌霜隊に参加しているから、8割近くの藩士は帰国命令にしたがって国元にもどったことになるけれど、2割以上の藩士たちが脱藩したことになるのだ。


凌霜隊の悲劇  2

2008-06-25 22:56:46 | 小説
 凌霜隊は「はるばる美濃の郡上藩(岐阜県)から会津に駆けつけた」と、星氏は書いていた。この文章につられて、私もついうっかりと最初に「はるばる会津に駆けつけた」と書いて、すぐに「はるばる」の語を削除した。間違った印象を与えかねないからである。
 凌霜隊は岐阜からはるばる福島に参戦したのではない。彼らは定府(じょうふ)の者たちであった。つまり江戸詰めの藩士たちだったのである。
 慶応4年4月10日、江戸本所中ノ橋で集合し、竪川(現墨田区立川)から船で出発した。下総関宿経由で前橋に上陸したのが4月12日である。
 43才の隊員速水小三郎の4月10日の日記に注目すべき記事がある。
「御内用にて出張仰せ付けられ候段、藤兵衛殿より御談これ有り即夕出立」
 ここで藤兵衛とあるのは、定府家老の朝比奈藤兵衛のことである。つまり凌霜隊隊長の朝比奈茂吉の父である。
 さて、なにかが見えてこないか。
 国元からの帰国命令を無視して、脱藩までして会津に駆けつけた郡上藩の定府藩士の隊員たちは、実は藩上層部からの密命をおびての会津参戦ではなかったのか。まさに「御内用の出張」であるならば。
 ところで御内用とはなにか。
 戊辰戦争において、かりに徳川氏が勝利した場合、朝廷側についた郡上藩の「失節の罪」を許されるよう会津候に仲介を願うというものであった。速水小三郎は日記にはっきりとそう書いている。
 郡上藩は朝廷恭順策をとっていた。より正確にいえば国元においてはである。
だが江戸藩邸における藩論は違っていた。徳川びいきだったのである。
 だから藩論がふたつに割れているのを、むしろ奇貨としたのかもしれない。
 郡上藩は、下世話にいえば、丁の目にも半の目にも札をはったのである。凌霜隊を使ってだ。

凌霜隊の悲劇  1

2008-06-24 16:12:33 | 小説
「はるばる美濃の郡上藩(岐阜県)から会津に駆けつけた一団がいた。郡上藩四万八〇〇〇石の凌霜隊である。彼らもまた戊辰戦争という未曽有の動乱に巻き込まれた犠牲者だった」
 引用は星亮一氏『偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』(大和書房)からである。
 凌霜隊は会津白虎隊長日向内記の指揮下にはいり、白虎隊とともに鶴ヶ城を守った。
 白虎隊のことは、かっては流行歌の題材にもなり、ドラマでも取り上げられているから、よく知られている。しかし、凌霜隊となるとどうか。たとえば、ウェブ上のフリーの百科事典ウィキペディアには、むろん白虎隊に関しては詳しい記述があるけれども、凌霜隊は項目すらない。
 霜を凌ぐ、とは操の固さをあらわす言葉(出典は漢詩)であるが、43名の隊員は、郡上藩を脱走、会津に援軍として駆けつけたのであった。
 隊長は朝比奈茂吉、当時17才だった。遺された写真をみると、どこか高杉晋作似の風貌をしている。きゃしゃで、なで肩で、細見の少年である。明治27年まで生きた。もっとも43才の若さで脳溢血で死んでいる。
 彼の妹の懐古談を藤田清雄氏が記録(『鶴ヶ城を陥すな』昭和37年刊・謙光社)している。そこにこんな言葉がある。
「(兄が)若くして死んだのは、戦争で無理をしたのが祟ったのでしょうね。白虎隊のように腹を切って死んだら名が残ったかもしれませんよ。ほほほほ」
 この「ほほほほ」は悲しく乾いた複雑な笑いである。
 腹を切るよりも生きることを選んだほうが苦しい選択だったかもしれないではないか。
 朝比奈茂吉の名も、凌霜隊のことも、忘れるべきではない。
 凌霜隊のことをブログで書いてみようと思ったのは、この朝比奈茂吉の妹の言葉に、瞬間的に触発されたからである。
 さいわいなことに、凌霜隊の隊員矢野原与七が『心苦雑記』という記録を残していた。
 この記録をひもときながら、彼ら郡上藩士たちがなぜ脱藩までして会津に加担したのか、そのことをまず考えてみようと思う。

日本橋の歴史  完

2008-06-19 23:25:00 | 小説
 仏教の童子のひとりに善財童子がいる。『華厳経入法界品』に登場するのだが、インドの長者に生まれた彼は、ある日、文殊菩薩の勧めによって53人の指導者(善知識)を段階的に訪ね悟りを開いた。その53人の善知識(ちなみに最後は普賢菩薩)の53は、東海道53次の53にぴたりと重なっている。
 いうまでもなく、東海道53次の起点は日本橋であった。善財童子の悟りの段階になぞらえて、東海道の53の宿場が定められているのだ。
 なぜか。江戸は「穢土」(えど)であったからだ。
 煩悩を脱することのできない衆生の住む穢れた土地。それが「穢土」だが、れっきとした仏教用語であり、そこには現世という意味もあった。現世つまりこの世からあの世の彼岸に行くには橋を渡らなければならない。「渡彼岸」は悟りの喩えであった。
 日本橋は全国里程の起点であっただけではない。幕府の法令を掲示する高札場であり、犯罪人の晒し場であった。犯罪人といっても晒されたのは限られた者たちである。心中未遂者、女犯の僧、それに主人殺しである。主人殺しは重罪だった。竹鋸で首を引かれて晒された。封建社会の倫理を維持するための見せしめである。その場所も日本橋だったということは、記憶しておいていいと思う。
 家康が江戸入りする前の江戸の地勢を示す地図は見当たらない。しかし、いまの新橋から大手町まで日比谷入江の海で、南側に「江戸前島」があった。その江戸前島は鎌倉の円覚寺の荘園であったらしい。すると家康は荘園の管理者たちを追っ払い、島を削り、大規模な土木工事を行ったことになる。仏教という面で家康は鎌倉と結びつかず、むしろ川越の寺と提携したのは、たぶんこのことと無縁ではない。
 江戸前島のはしっこの部分が今の日本橋界隈だったように思われる。
 おおげさな表題を付したが、現在の日本橋は明治44年に落成している。幸田露伴は記念誌に一文を寄せて、「日本橋とは名づけ得たる哉、日本橋とは名づけ得たる哉」と書いた。もう橋は日本の中心を象徴する橋になっていた。橋の下を川は流れ、水路はオランダに通じると言ったのは林子平だった。
 

日本橋の歴史  3

2008-06-18 00:31:08 | 小説
 慶長8年は1603年であるが、なぜこの年が日本橋創立の年として妥当と思われるかというと、この年の2月に徳川家康は朝廷より征夷大将軍に任命されているからである。家康の江戸の町づくりが本格的に加速するのは、任命後からであった。
 もとより家康の江戸入りは、これより13年前の天正18年8月1日だった。1881、意図的である。いわゆる八朔の日であった。
 天正18年は寅年、家康も寅年生まれ、家康のそれまでの居城である駿府からみれば、江戸は寅の方角に当っていた。むろん偶然ではない。意図的に江戸と江戸入りの年を選んでいるのである。さらに言えば、江戸城改築を藤堂高虎という「とら」の名をもつ武将に命じてもいる。
 こういうこだわりを持つ家康であったから、徳川家の江戸の「都市計画」は、地理呪術である風水あるいは陰陽道にもとづいて行われている。上野寛永寺が江戸城の鬼門に当たることはよく知られているが、その鬼門ラインを延長すると日光東照宮なのである。
 鬼門は艮(うしとら)の方角(丑と寅の間)すなわち北東である。陰陽道では宇宙をつかさどう「気」は北東から南西に流れるとされた。身も蓋もないことを言えば、中国では北東から季節風が吹くから、埃はその方向から舞い込んでくるのであった。北東から入って来る邪気(鬼)を防ぐ必要があった。それが鬼門の考え方である。
 ちなみに江戸城の鬼門は浅草寺という説もある。どちらも正しいのではないかと思う。江戸城のどこを基点にするかによっての違いであろう、たぶん当初は浅草寺、後に寛永寺が鬼門になったのではないだろうか。
 さて日本橋である。
 この橋にも地理的呪術のようなものが探れないだろうか。

日本橋の歴史  2

2008-06-16 21:00:58 | 小説
 斎藤月岑といえば、謎の浮世絵師写楽の最初の考証家として知られるが、その斎藤月岑は『江戸名所図会』で日本橋について書いている。
「この橋を日本橋といふは、旭日東海を出づるを親しく見る故にいか号くるといへり」
 そして橋の創立は慶長11年以前だとしている。
 はっきり言って、なんともかったるい考証である。余談になるが、写楽に関する月岑の考証も、そのまま鵜呑みにするのは少し考えものかもしれない。そういう印象すら私は抱いた。
 日本橋の創立は慶長9年以前と特定でき、おそらく慶長8年で妥当だと思われるからである。
 なぜなら東海、東山、北陸の三道に一里塚が築かれたのが慶長9年2月4日だからである。このとき日本橋が「道程の始め」つまり里程の原点として幕府によって公表されているのだ。それ以前に完成されていた橋であればこそ、こういう制度が可能なのである。
 タイモン・スクリーチは『江戸の大普請 徳川都市計画の詩学』(森下正昭訳・講談社)で日本橋について、大要以下のように記述している。
 その橋幅が「名前の所以」であろう。「日本堤」が二車線(むろん自動車のではない)ある堤の意味で、もともとは「二本堤」と呼ばれていたと同じく、「二本橋」が「日本橋」になった、と。
 タイモン・スクリーチの見解をもう少し引用してみよう。
〈さらに「日本橋」という表記は、1657年の明暦の大火(振袖火事)の後、1659年に橋が再建されてから徐々に普及していった。幕府は日本橋を町の中心と宣言、全国各地との距離を測定する基点とし、この慣例は今日に続いている。まさに「日本の臍」なのである。〉

日本橋の歴史  1

2008-06-14 22:35:10 | 小説
わが国の国号の日本は「にほん」と「にっぽん」では、いずれが正しい呼び方かという議論を、かって酒の席で狷介な老人としたことがある。いずれが正しいかというより、いずれが初源的な発音かという問題に発展すればよかったのだが、そうはならなかった。
 これから書くのは、その国号のこととは違うが、そのおりに派生した問題についてである。大阪の日本橋は「にっぽんばし」なのに、お江戸つまり東京の日本橋はなぜ「にほんばし」なのか、と老人は私に問うたのである。
 私はとっさに「それは、もともと二本橋だったからでしょ。丸太二本を架けたような橋…」と答えた。池田弥三郎のエッセイでそういう説を読んだことがあったからだ。大学名としても有名な「一ツ橋」の呼称と同じレベルの呼び方なのだ。ついでにいえば地下鉄の駅名にもある「竹橋」は、竹で造られた橋ということになる。
 指を折って数えてみよう。いっぽん、にほん、さんぼんと数えはするが、いっぽん、にっぽん、さんぼんと数えはしない。だから「にほんばし」というのは「二本橋」の意味である。そういうことを述べたけれど、老人は懐疑の眼を私に向けたままだった。
 あれからずいぶんと時が経つ。先日、日本橋を三越前方向に向けて歩きながら、ふとあらためて、この橋の由来について思いを馳せた。いちど、きちんと調べてみようと気になったままだったのである。
 で、資料にあたりはじめたのだが、あら意外、日本橋の由来に定説らしきものがないのである。
 慶長期の江戸のことを記録した三浦浄心『慶長見聞集』には、こう書かれている。

〈されば日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時節、新しく出来たる橋なり。この橋の名を、人間かってもって名付けず。天よりや降りけん、地よりや出でけん。諸人一同に日本橋と呼びぬること、きたいの不思議とさたせり。〉

 三浦浄心の時代に、すでにこの橋の名は「稀代の不思議」とされていたのであった。

中村彰彦氏の孝明天皇暗殺説

2008-06-05 23:54:00 | 小説
 文芸春秋『オール読物』6月号は「歴史はミステリーだ!」という特集号になっている。おそらく15年ぶりぐらいに、この雑誌を買ってみた。作家の中村彰彦氏の『「孝明天皇暗殺説」を考える」が載っていたからである。
 このブログの右サイドの「自薦ブログ」に目を移していただきたい。私も「孝明天皇その死の謎」を24回にわたって書いてきた。孝明天皇の死については、かなり突き詰めたつもりである。だから中村氏がどんな見方をしているか、興味津々だったのである。
 結論を先に述べると、中村氏は暗殺肯定論者である。私もそうであるから、共感は随所におぼえた。とりわけ病死説を主張する学者たちへの不満は、まったく同感であった。
 中村氏は病死説をとる学者を進展順に、次のように記す。
 ①吉田常吉 ②大久保利謙 ③森谷秀亮 ④原口清 ⑤佐々木克
 そして④の原口説を伊良子光孝の『天脈拝診日記』によって否定し、①から③までの論者と⑤以下の論者は「全員討死である」と決めつけている。
 中村氏は学者たちにこういう言葉も投げつけている。
「…佐伯理一郎、伊良子光義、西丸與一と少なくとも三人の医者が毒殺説をもってよしとしたわけで、毒殺説をデマとして一蹴するのは学者らしからぬ態度といわなければならない」
 論文はさらに次の結語で終わっている。
「しかるに毒殺説を継承発展させる学者があらわれず、『天脈拝診日記』によってすでに否定された原口説に追尾する論者ばかりめだつのは、不思議な現象といわねばならない」
 毒殺説から病死説に転向したある学者の野郎自大な発言に、私もあきれた経験がある。孝明天皇をたんなる病死と判断することによる学者のメリットは、知的負荷の回避である。そう判断すれば、犯人捜しなどという余計なことに労力をつかわなくてもよいのである。歴史学者というのは、結構怠慢でもつとまるものであるらしい。
 ちなみに私の見解は「自薦ブログ」の中からお読みくだされば、おわかりいただけると思う。