小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

真相・浪士組結成と清河八郎 1

2016-07-08 10:14:55 | 小説
 清河八郎は生前からなにかと誤解されやすい人物であったが、いわゆる浪士組の誕生に関しては、いまなお発起人であるかのようにみなされる誤解が定説化されている。たとえば、Wikipediaの「浪士組」の項目には、こう記されている。

「もともとは尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、攘夷を断行する・浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)・文武に秀でたものを重用する(急務三策という)ことを条件に結成されたものだったため、腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織であった。最初の浪士取締役には、松平忠敏(上総介)・中条景昭・窪田鎮勝・山岡鉄太郎などが任じられる。」

 さて、記事中の「急務三策」(これとて真向から浪士徴募を提言したものではない)を清河八郎が松平春嶽に建白したのは、文久2年11月12日である。
 ものごとは冷静に時系列にながめてみればよい。
 清河の建白より、ほぼ一か月前の10月18日に浪士利用を幕府に提言した人物がいる。講武所剣術教授方松平主税助である。松平主税助の建白によって幕府は浪士徴募を決定し、まず松平主税助を12月9日に「浪士取扱」に任命し、10日後の19日、浪士徴募の命令を下している。松平主税助は、すでに浪士徴募の統括責任者として宮和田又左衛門光胤に白羽の矢を立て、10日には光胤に話をもちこんでいた。宮和田光胤は江戸日本橋近くのヘッツイ河岸に北辰一刀流の剣術道場を開いていたが、松平主税助とは平田篤胤の気吹舎における同門人で、かねて熟知の間柄だった。(続く)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。