小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

済州島物語 9

2006-04-30 12:15:23 | 小説
  昔、この島には人がいなかった。あるとき、三神人が地面から出現した。ヤンウルナ(良乙那)、コウルナ(高乙那)、プウルナ(夫乙那)といい、狩猟をし、皮衣を着て肉食をしていた。
 ある日、東側の海浜に紫泥で封をした木函が漂着した。開くと、なかにもうひとつの石の函があって、冠帯紫衣の使者が出てきた。石函には、青衣の処女三人、子馬と子牛、五穀の種とが入っていた。
 使者は「私は日本国の使者である。王が生んだ三人の娘を遣わし、まさに開国をしようとしているが配偶者のいない三神人に娶らせ、大業をなせとのことである」と述べ、たちまち雲に乗って去ってしまった。三神人は弓を射って、互いの居住区域をを定めた後、農牧を始め、子孫を育んだ。

 ・・・このようにして、その後島は繁栄していった、というのが済州島の建国神話のあらましである。
 この神話は『高麗史』地理志に全容が紹介されているほか、その他の史料にも記載されているが、内容はほとんど同じである。ただ、三処女は日本ではなく、「碧浪国」という架空の国から来たとする文献もあるにはある。碧浪国ははるか東方の海上にある美しい国という意味であろう。
 いずれにせよ、この神話には歴史的な体験の事実がかくされていると思われる。ハンラ山の爆発によって壊滅状態になった島の窮状を救うべく日本国から救援物資のほかに、女性までも送りこんだということである。王女というのは神話的変容であろう。そして、かっては、この島を通じて輸入した家畜や、そして穀物の種を恩返しのように届けたのだ。
 この島とわが列島との古代における濃密な関係がうかがい知れる神話なのであるが、奇妙な暗合がある。神話に出てくる石の函は、例の貨泉が出土した丹後半島の函石浜となにやら関係ありげではないか。私は貨泉は中国との交易というよりも、済州島との交易で使用されたのではないかと考えている。だから、よけいにこういう暗合は気になる。
 
 
 

 済州島物語 8

2006-04-29 14:50:52 | 小説
 済州島のトルハルバンは頭が大きくて、ほぼ二頭身強といった石人像である。体躯の小さい州胡にはぴったりのイメージなのだが、その起源がよくわからない。帽子をかぶっているように見えるが、男性自身の亀頭をかどったものだという説もあって、まことにユニークな像である。
 起源は定かではないものの、予想したほど古いものではなさそうという、ある学者の説に圧倒されて、私の興奮にはすぐに冷水があびせられた恰好になったが、あの神功皇后の歌にある「常世に石立たす」というフレーズはなんとも気になる。
 済州島は火山島であるから、加工のしやすい溶岩はごろごろ転がっているはずだ。古代にもなんらかの石人像があって、ちょうどイースター島のモアイ像のように島を象徴していたのではないかと思われて仕方ない。 
 もともと済州島の海岸には立石といって霊岩をまつる習俗が知られている。あるいはトルハルバンではなく、この立石のことを待酒の歌はさしていたのかもしれない。
 火山島といえば、済州島は遠い昔にハンラ山の爆発によって、ほぼ壊滅状態になり、その文化と習俗が様変わりした可能性がある。そのとき、いちはやく救援にかけつけたのが、どうやら古代の日本であったらしい。 
 耽羅の建国神話では、始祖の三神人が土中からあらわれることになっている。火山灰を払って出てきた爆発時の生存者だったのでないだろうか。その神人の出現した三姓穴は今に残る済州島の聖地である
 ともあれ建国神話を見てみよう。

済州島物語 7

2006-04-28 18:22:37 | 小説
 神功皇后の待酒の歌というのが『古事記』にある。

 この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の神
 常世に坐(いま)す 石(いわ)立たす 少名御神の
 神寿(かむほ)き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き回(もとほ)し
 献(まつ)りきし御酒ぞ 乾(あ)さず飲(お)せ  ささ
 
 スクナヒコナは酒の神であり、酒の司と称され、彼がいわゆる「噛み御酒」の造りかたを教えたらしいことが歌われている。
 カミミキというのは人の唾液中の酵素で醗酵させるから、麹菌のいらない酒だ。南西諸島には、近年まで祭り用としてカミミキの風習が残っていたらしい。水につけておいた米を噛み砕いては桶に吐いてためる。そして醗酵を待つから待酒という。
 ところで、この歌詞のなかの「常世で石立たす」スクナヒコというのは、いったいなにごとか。
 この箇所を読んだとき、私はあっと実際に声をあげたような気がする。
 済州島には私は行ったことはないけれど、トルハルバンつまり石人像がこの島のシンボル化して、ミニチュアが観光記念品として土産物店に並んでいることは知っていた。
「石立たす」というのはスクナヒコは石人像になっているということではないのか。そう思ったのである。
 ちなみに、トルハルバンとは石爺という意味であるらしい。 



 

 済州島物語 6

2006-04-27 17:47:22 | 小説
 オモイカネは高天原のアマテラスやタカミムスビの神の名参謀だった。 高天原といわば対立関係にある葦原中つ国に派遣する神を選出にさいしては、いつもオモイカネの発言が重視され、彼の提言どおりになっている。集まった八百万(やおよろず)の神をさしおいてである。
 天孫降臨のおりにはアマテラスに代わって「まつりごと為せ」とまで言われ、伊勢神宮内宮にいつき祭られたと『古事記』は書くが、不思議なことに伊勢神宮にオモイカネのまつられた形跡はない。(このあたりの不可思議さについて深く追求した論考を私は目にしたことがない)ちなみに秩父の夜祭で有名な埼玉県の秩父神社にはオモイカネが祭られている。なぜ、そんなところに、と追求すれば、古代史の謎に一歩踏込むことになるが、それはまた別の話である。 
 そのオモイカネは『古事記』は思金、『日本書紀』は思兼、他の史料では八意(やごころ)思兼神と表記されている。たくさんの人の思いをひとりで兼ねる思慮深い神と解釈されているのだ。
 ところで『日本書紀』の1書の1には、オモイカネの親の名が明らかにされていた。なんとタカミムスビである。さて、かのスクナヒコナもタカミムスビの子だという伝承がある。もしかして、オモイカネとスクナヒコナは同一人物ではないかという疑念を私は永年抱いてきた。その検証となるとくだくだしくなるが、いまでは確信にいたっている。キーワードはオモイカネとスクナヒコに共通する「常世」であった。
 いまはともかく、州胡の男というスクナヒコナにふたたび焦点をあてよう。
 スクナヒコナは酒造りを教えたことでも知られている。

済州島物語 5

2006-04-26 17:54:32 | 小説
 中国の古代史料によれば、済州島民たる州胡が、「牛や豚などを飼い」とあって、いわば畜産業に長けていたことは前に紹介した。その史料には、鶏という文字が抜けていた。
 わが国の神話中、あまりにも有名な「天の岩屋戸の話」には鶏が登場するけれど、その鶏は済州島からの輸入種のように思われる。
 スサノオの乱暴狼藉に愛想をつかしたアマテラスは、岩窟に隠れてしまう。すると天地は暗くなり、あちこちで災いが起きる。そこで八百万の神々が集まって、対処策を講じ、岩窟の前でアメノウズメにストリップショーをやらせるという、あの話。
 そのストリップショーの前に「常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」とある。鶏の形容詞に「常世」がついているのである。この長鳴鳥を鳴かせたのは、オモイカネという神だが、天孫降臨の場面では『古事記』は「常世のオモイカネの神」と表現していた。どうやらオモイカネは渡来者で、彼が鶏を持ち込んだのかもしれない。
 さて、鶏は縄文時代の日本にはいなかった。遺跡の骨の年代測定からわかることだが、弥生時代になって、どこからか持ち込まれているのだ。つごうのよいことに、鶏は牛や馬と違って原種が生きている。赤色野鶏だ。遺伝生化学や染色体の核型分析などにより、この赤色野鶏の家畜化されたのが鶏ということになっている。赤色野鶏の謡(うたい)は鶏とまったく同じ音節で、オスは日の出前に烈しく鳴く。この暁をつげる特性が人間に利用されるきっかけになったとされている。ちなみに伊勢神宮の遷宮祭のときに、天の岩屋戸の故事に由来する「鶏鳴三声」という行事があるらしい。
 いずれにせよ、鶏が家畜化されたのはインドあるいは東南アジアの大陸部だったから、韓国も日本も鶏は輸入するしかなかった。日本への中継地は、橙と同じくまたしても常世、つまり済州島と、私は断定したい。
 それにしても「常世のオモイカネ」とは何者か。

済州島物語 4

2006-04-25 17:59:49 | 小説
 垂仁天皇の御代にタジマモリという男がいた。天皇は彼を常世の国に遣わして、トキジクの木の実を求めさせた、と『古事記』は伝えている。『日本書紀』では「非時香菓」と書いて「ときじくのかくのみ」とよませている。常世にしかない果実で、「今の橘のことである」と注釈する点で、記紀は一致している。
 さて、タジマモリは、この常世の橘をみごと持参して帰朝するのであるが、そのとき天皇はすでに亡く、御陵に眠っておられた。タジマモリの無念はいかばかりであったろうか、彼は御陵の入口で木の実をささげて絶叫する。「常世の国のトキジクの木の実を持ち参上(まいのぼ)りて侍(さもら)う」と。ついには慟哭と悲しみのあまり悶死してしまう。『日本書紀』は「おらびなきて自ら死(まか)れり」と記すから、あるいは殉死したのかもしれない。群臣はみなもらい泣きしたとある。
 ところでタジマモリの持ち帰った木の実は、記紀の注釈のように「今の橘」とすると、おかしなことになる。橘ならば、倭国にも自生していたという記録(例の魏志倭人伝)があるからである。酸っぱくて食べられない橘ではなく、たぶん、みかんか橙のことなのであろう、というのが植物学者の見解である。
 私なりにあれこれ文献にあたっていて、橙を「たちばな」とよませる例のあることを知った。そう、橙こそ「トキジクの木の実」にふさわしい、とひらめいた。橙は不老不死の果実とみなされていたのではないだろうか。いまも橙を正月に飾るのはなぜか。代々という語呂合わせの縁起物というより、遠い時代に不老長寿の果物と見なされた名残りではないのか。
 江戸時代の百科事典ともいえる『和漢三才図会』によれば、橙は俗に「かふす」と呼ばれたとある。蚊熏(かぶす)の意味である。現代の柑橘類のカボスの語源もこれであるが、乾燥した橙の皮は蚊遣りの香になった。古代ではマラリヤを避けるために蚊のこない標高を選んで高地性集落が発達したほどだ。衛生状態の良くなかった昔、橙は蚊遣りという面でも、人々の健康と長生に貢献したわけだ。ちなみに橙皮は健胃剤や消化不良の薬としても利用され、中国では薬用として栽培されていた。
 トキジクつまり時の経過を否定する言葉は、不老長寿を意味しており、それでこそタジマモリの痛恨の理由が理解できるというものである。垂仁天皇の求めた不老長生の果実は、間にあわなっかのだ。だからこそタジマモリは自死にいたる自責の念にかられたのである。 その橙の原産地はインド、ヒマラヤ地方であった。わが国への来歴にはオレンジ・ルートというべきものがある。むろん最終の経由地は済州島である。
 話を戻さなければならない。タジマモリが帰還したのは丹後半島の北東端、浜詰海岸の夕日が浦であった。彼の帰還にちなんで「常世浜」とも呼ばれたという。
 

 済州島物語 3

2006-04-24 18:34:09 | 小説
 わが列島における貸泉の出土地は、興味深いことに、いずれも日本海沿岸である。鳥取の青谷上寺地遺跡、島根の出雲市の清水谷遺跡、そして丹後半島の函石浜。これらの地域の古代人たちは、海外と交易をしていたということになる。
 ところで『出雲風土記』には飯石郡多祢の地名由来の話がある。スクナヒコナとオオナムチ(大国主神)が国土経営のために国内を巡っているときに、ここに稲種を落したから「たね」(多祢)という、とある。落したというのは、頒布したということであって、稲作開墾を奨励したということであろう。
 スクナヒコナはその後、常世の国に渡ったから、残されたオオナムチは「吾独り、なにかよくこの国を得作らむ」と嘆いたという。これは『古事記』から。
『日本書紀』第6の1書もスクナヒコナがオオナムチと心をひとつにして天下を経営した、と書く。 とくにスクナヒコナは人民と家畜のための病気の予防治療法を定め、虫害や鳥獣の害を除去する方法を確立したので、今に至るまで百姓は恩恵をうけている、と記している。
 家畜の飼育について詳しいというところなど、州胡そのものではないか。もしかしたら、稲種も交易品としてスクナヒコナが済州島から持ち込んだものではないのか、と思いたくなる。
 さて、貸泉が丹後半島の函石浜からも発見されているという事実を知ったとき、私は済州島が「常世の国」に間違いないと直感した。なぜか。
 常世に帰ったスクナヒコナではなく、常世に10年滞在して列島に戻ってきた人物に話を移さなければならない。その人物が帰還したのは、まさに丹後半島の函石浜ののすぐ隣の夕日が浦だった。
   

済州島物語  2

2006-04-23 17:24:19 | 小説
 1928年8月のこと。済州市山地(サンジ)の築港用砕石場で、それまで溶岩で密閉されていた洞窟が発見されている。
 その洞窟から石蔟や土器、前漢時代の古鏡や五銖銭に混じって注目すべき出土品があった。いわゆる「王莽(おうもう)の貨泉」である。それも11枚。
 王莽は前漢王朝を簒奪して、新(西暦8年ー23年迄)という王朝をたてた人物である。この王莽が西暦14年に「貨泉」という文字の入った円形の銅銭を発行した。これが「王莽の貨泉」と呼ばれるものである。
 新の滅亡後、後漢の光武帝によって貨泉の使用は廃止され、従来の五銖銭が復活されたから、貨泉の流通した期間はごく限られたものとなった。作成年代がはっきりしていて、流通時期も特定できるという貨泉のこの特徴は、考古学では遺跡の年代特定の大きな手がかりになり、ために貴重視される銅銭なのである。
 たとえば、済州島の洞窟からの出土例では、島のハンラ山の爆発と溶岩の噴出が、西暦14年以降にあったということの証明になる、というようにである。
 ともあれ、貨泉が済州島から出土したということは、州胡と自称する種族の交易には貨幣がつかわれていたということである。
 さて、その貨泉、わが国においても僅かだが出土例がある。
 

 

済州島物語  1

2006-04-22 17:27:26 | 小説
 韓半島の西南、東シナ海(注)の洋上に浮かぶ済州島は、佐渡島の2倍強の面積を持つ火山島である。東に日本の九州、南に琉球列島、西に中国大陸がある。神話と伝説の島といわれるが、とりわけ古代のわが国と深いかかわりがあった。いや、そんな軽い言い方ですまされる島ではない。いわゆる日本神話にいう「常世の国」は済州島のことではないだろうか。
 古代人にとって「常世の国」ははるか海上にある想像上の世界、たとえば浦島太郎の竜宮城のようなものにみなされているが、私は実在したと考えている。そしてその有力な候補地は済州島だと思っている。
 日本神話には、スクナヒコナ(少名毘古那)という重要なキャラクターが登場する。出雲の海岸に突然やってきて、やがて常世に帰ったという人物だ。『古事記』には、鵝(おおかり)の皮を肉剥ぎに剥いだ衣を着て、天(あま)のカガミ船に乗ってやって来た、と書いている。そして名前のとおり体躯は小さかったと。
 さて、次の史料を見てほしい。
「馬韓の西海中の大島に、州胡がいる。体躯はやや短小で、言語は韓人と同じではない。鮮卑(遊牧民族)のように頭髪を剃っている。皮の衣を着ている。好んで牛や豚を飼っている。上着だけで、下はほぼ裸のようである。船に乗って、韓を往来し、交易をしている」
 これは『三国志』の『韓伝』にある記述である。つまり、邪馬台国時代の済州島に居住した種族について述べたものだ。「州胡」というのは済州島の古名である。この島は、州胡、耽羅、済州と時代によって呼び名は変っているのだ。
 体躯が小さい、あるいは皮の衣を着ているなど、州胡とスクナヒコナには類似点があるではないか。そればかりではない。
「州胡」はスコと発音されるのである。試みにスコのヒコと口に出して幾度か発声すれば、スコナヒコと転訛するのは容易とわかるはずだ。スクナヒコナは州胡の男(彦)を意味してはいないか。


(注)「東シナ海」が差別語であるという近隣国の主張を知らないわけではないが、「北太平洋」などと書きたくもなし、あえてこう表現した。政治的意図はまったくない。


月は桃色  完

2006-04-19 18:15:00 | 小説
 サソリもどき、という虫がいる。サソリに似た形をしているが、毒虫ではなく人を害することはないらしい。熱帯地方に生息するが、沖縄や九州にもいる、とたいていの事典には記されている。しかし、土佐で見つかるということは、あまり知られていない。このサソリもどきが、前にも紹介した大月町の月山神社にいる、なんでだろうという記事をウエブページで見つけた。むろん月山神社だけでなく、このあたりの海浜地域に外来種として生息しているのであった。
 これこそ、この旧月灘村界隈が海外と交易していたということの証拠である。サソリもどきは海外から来た船によって、この地に運ばれてきたのであろう。
 四国八十八ヶ所の番外札所である月山神社のご神体は、三日月形の石である、とこれも前に書いた。私には船にしか見えないとも書いた。月と船とが民族信仰上同一シンボル視されることを私も知らないわけではないが、この神社のご神体は船そのものではなかったのか、という思いを抱いている。航海の安全を祈る神社だったのだが、海外交易の事実そのものを集落全体の秘密事項とする過程で、船を月に変容させる必要があったのではないのか、と。
 実は珊瑚の私貿易を背景に、済州島の海女と土佐の青年のロマンスをぼんやりと構想しているのだが、まだ熟成するにいたっていない。土佐の海を日がな一日眺めてでもいれば、ひらめくものがあるかもしれない。
 子供の頃、意味も分らず口ずさんでいた、あのものがなしくも単調な歌を、声には出さず胸の奥で歌うことがある。それは私にとっては望郷の歌のようなものだ。
 おーつきさま もーもいろ 
      だーれがゆうた あーまがゆうた・・・

  
*この稿を書くにあたり、鈴木克実『ものと人間の文化史 91 珊瑚』(法政大学出版局)から多大の恩恵をうけた。

月は桃色  10

2006-04-18 22:44:13 | 小説
 珊瑚に話をもどさなければならない。
 珊瑚の価値はヨーロッパでは歴史の早い時期から認知されていたが、たんに美しい宝石としてではなく、魔よけ、あるいは薬効があるものとみなされていた。そのことはギリシャ時代の文献でも確認できる。
「サンゴの枝を嬰児のお守りとして付けておくと守護してくれると信じられており、焼いて粉にしたものを水に入れて飲むと、腹痛、膀胱疾患、および結石に効力がある。同じようにブドウ酒に入れて飲むか、もし熱があるようなら水に入れて飲むと催眠剤になる。(略)サンゴの枝の灰は、吐血に対する有効な治療薬である。それは目に塗る膏薬に加える。というのも、それには収斂性と冷却性があり、腫瘍でできた窪みを塞ぎ、傷痕を滑らかにするからだ」
 『プリニウスの博物誌』(中野定雄ほか訳)にある記述だ。
 旧月灘村もふくまれる土佐の西南部の海浜地域では、というよりこの地域にのみ、ヨーロッパと同じように珊瑚を幼児のお守りとする風習があった。生まれた赤ちゃんの手首に珊瑚のブレスレッドを巻き、三才の誕生日までつけた。無病息災のまじないであった。
 「お月さま桃色」の歌の発祥地と、このヨーロッパとの類似性は、いったい何を物語るのであろうか。
 珊瑚という交易品は、交易品であるがゆえに今日的に言えば双方向性の情報を含んだ品ものだった。
 何を言いたいのか、もはや推察いただけるのではないだろうか。土佐とヨーロッパは珊瑚でつながっていたのだ。むろん直接ではない。その交易の海の中継地が済州島であった、と私は類推したのである。


月は桃色  9

2006-04-17 17:41:33 | 小説
 さらに余談になる。もっとも海女に関してだ。
 奇異な感じがするが『風土記』『日本書記』あるいは『万葉集』などでは「白水郎」と書いて「アマ」とよませている。この古い文献にみられる「白水郎」は必ずしも「海女」ではなく、男の潜水漁労者も含まれ、男女の区別はないけれど、なぜ白水郎がアマを意味するのか。
 白水は崑崙の山より出ずるとされた古代中国の伝説の川である。おそらく潜水漁業者のふるさとは古代中国なのである。そのルーツを示すのが「白水郎」という表記だと思われる。
 アマたちは移動した。大陸から半島南部、済州島、日本列島に、はるか昔に移ってきたのだ。邪馬台国の記述のあることで有名な魏志倭人伝には「倭の水人」が海に潜ってアワビを採ることが興味深く記録されている。この当時、もはや中国では見られなくなった光景であったに違いない。
 ちなみに『万葉集』にはこんな歌がある。

 伊勢の白水郎(あま)の朝な夕なに
  潜(かづ)くとふ鰒(あわび)の貝の片思ひにして

 いうまでもなく、一枚貝のアワビのようにわが恋は片思いである、と嘆いた歌だ。
 さて、海女はもともとその移動性と漂泊性が特徴であったことは、民俗学的にも注目されているところである。海女は、海のジプシーなのであった。

月は桃色  8

2006-04-16 17:17:17 | 小説
 水中に潜って漁労活動をする女性つまり海女は、韓国済州(チェジュ)島と日本にしかいない、とされる。その済州島の海女は昔から日本列島に出没していた。出稼ぎ、といえばいえる。平城京跡から出土した木簡の貢物のリストに「タンラアワビ」の名があった。耽羅のアワビであって、耽羅は済州島の古名である。タンラの海女が採ったアワビを交易で入手したのか、それとも海女たちが直接持ち込んだものか。いずれにせよ、古代から済州島の海女たちは列島と交流があったのだ。 
 明治になって月灘村と呼ばれるようになった海浜地域に昔からいた海女は、済州島から来た海女だった。
 海女の役割は、たんに潜水漁労の技術にあったのではない。行商と交易のプロであったのだ。漂海の民といってもよいが、土佐に来た済州島の海女たちは珊瑚を交易の品として持ち帰ったのである。むろん私貿易であるが、その交易品の珊瑚がどこで採取されたかは、秘密にされた。「海女の口」を引き裂けという「お月さま桃色」の歌は、そういう意味合いのタブーであったのだ。
 余談になる。
 日本に帰化した韓国人で、ある会社の社長は田村という日本姓をなのっていた。「もしかして済州島のご出身ですか」と訊いたら「うん」と応え、「チェジュの昔の名を、あんた知ってるんだな」と言われた。タンラすなわち田村であった。
 

月は桃色  7

2006-04-14 22:08:36 | 小説
 土佐藩は天保9年(1838年)、領内で珊瑚採取と所持、売買を禁止する触れ書きを出した。珊瑚をご禁制品としたのである。土佐で珊瑚がとれることがわかれば、幕府がどんな言いがかりをつけるかわからない。おそらくそのことを懸念した措置である。倹約令といったおもむきではないはずだ。
 まことに興味深い文書がある。三谷助之進という役人が三人の浦庄屋にあてた覚書である。
「・・・海浜より揚がり候珊瑚珠に類し候品拾取致所持候者も」とあって、決して意のままに売買したりせず、すみやかに役人に届け出よ、という内容だ。
 つまり、浜辺に打ち上げられた珊瑚を拾っても届け出よというのであるが、ということは珊瑚の折れた原木が土佐の浜辺には打ち上げられることがある、ということなのだ。眼前の海の底に珊瑚樹(宝石になる種類の)があることは、その浜辺に住みついた人々は、とっくの昔から気づいていた、と考えない方がおかしいではないか。
 ある浜辺の集落にとっては、珊瑚は秘密の産物として外部には秘されていた、と思われる。藩でご禁制品にした時代などより、はるか以前に、それとは違った次元で、珊瑚はその存在自体が隠されていた、と私は考えるのである。
 「お月さま桃色」の歌は 珊瑚の存在それ自体を秘密とする歌であった。しかも藩の意向にそった歌という気がしない。集落の中から生まれたタブーが歌になったのである。では、なぜ海女が登場するのか。
 これから先が私の想像になる。これから先がフィクションだ、と言い換えても同じである。

月は桃色  6

2006-04-13 22:54:13 | 小説
 珊瑚が仏典の七宝のひとつであることは既に述べた。経典によって若干の違いはあるが、七宝とは金、銀、瑠璃(ラピスラズリ)、瑪瑙(メノウ)、玻璃(ガラス)、琥珀、そして珊瑚であった。経典を読めばいやでも珊瑚という宝物を意識せざるを得なかった。極楽浄土には七宝の木々が生えているとされていたのだ。
 さらに平安時代から始まった仮名文学には、「珊瑚」および「珊瑚の木」はいたるところに散見する。たしかに、珊瑚が庶民にも手が届く宝飾品となったのは江戸時代末期であったかもしれない。しかし、仏教伝来からおよそ1,000年、珊瑚は胡渡りつまり輸入品しかなかったのであろうか。わが海洋国日本において、近海には珊瑚が着生しているのに、1,000年の長きにわたって、もっぱら輸入品に頼っていたとすると、割り切れぬ思いがするではないか。
 余談のようになるが江戸時代には偽の珊瑚が出回っていた。いや、模造品は奈良時代にもあった。象牙を蘇芳で赤く染めたものだった。江戸時代のそれはあきらかに贋造品というべきで、鯨の牙歯を玉の形に削り、紅花汁で煮沸、梅酢を加えて作ったという。鯨の牙歯が手に入らないときは鹿の角を使ったらしい。
 ことほどさように珊瑚は人気があったわけで、本物を得ようという情熱のないほうがおかしい。
 私は通説と違って、かなり早い時期から国産珊瑚の存在があったと思っている。