小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

マクベインのこと

2005-11-29 20:59:03 | 読書
 エド・マクベインの87分署シリーズ『耳を傾けよ!』を読んだ。マクベインは今年7月に78才で亡くなっているから、これがシリーズ最後の作品かと思ったら、まだ一作未翻訳があるらしい。
 この警察小説シリーズは1956年にスタートしているから、なんと約半世紀続いたことになる。まだ30才で、純文学で芽を出しはじめていた作家は、このシリーズをてがけるとき、自分のキャリアを守るために新しいペンネームを使って、エド・マクベインとした、と語ったことがある。そしてエド・マクベインとして巨匠になった。彼が守ろうとしたジャンルよりも、ミステリというジャンルの方が認知され、支持を得たからである。
 マクべインのすごいところは、衰えをしらぬ文体の若さである。読者を作中に引き込むために卓越した技巧をこらしているのだが、それをさりげなくやってしまうところである。一歩間違うと、読みやすいけれども、たんなる通俗小説の文体になってしまうところで、何かが違うのである。やはり「キャリアを守る」という姿勢がミステリの文体にもあるような気がする。
 同時並行で、3冊か4冊の本を読むという癖のある私は、同じジャンルの本がダブるのは避けるのだが、なぜかこのたびはイアン・ランキンの『血に問えば』とほぼ前後してマクベインを読みはじめ、『耳を傾けよ!』は半日たらずで一気に読み終えたのに、イアン・ランキンの方はまだ半分以上残っている。45才のイアン・ランキンがマクベインより老成した作家のように思えてくるから不思議だ。
 さて、マクベインの文体について云々しても、いささかの引け目はある。それは翻訳文でしか読んでいないからだ。だから、遺作となるらしいFiddlersは原書で読んでみようと一大決心をした。
 なぜマクベインにこだわるかといえば、読み手をいやおうなしに引き込む彼のようなスタイルで小説を書ければいいなと思うからである。文体などというものを意識させないスタイルで、ストーリーそのものが主体である小説。もしかしたら純文学の作家たちが白い目で見そうな小説。クラシック音楽ではなく、ポップ・バラードのような小説。
 
 

龍馬につきまとうゴシップに関して

2005-11-27 23:08:31 | 小説
 東洋のルソーといわれた中江兆民は、若い頃に坂本龍馬のもとに出入りしていた。龍馬が長崎で海援隊を仕切っていた頃のことだ。兆民は弟子の幸徳秋水に、龍馬の思い出をこう語ったそうだ。
〈豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ。予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざる予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて「中江のニイさん、煙草を買ふてオーセ」などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき〉
 兆民は日記とか自伝を嫌った人だから、以上はあくまでも幸徳秋水の聞き書きによる記述である。(『兆民先生』岩波書店)実はこの後の記述がいけない。「彼の目は細くして其の額は梅毒の為め抜上り居たりと云々」
 龍馬梅毒説は、この幸徳秋水の聞き書きから発生している。某時代小説家などは、龍馬が梅毒におかされていたから、体の動きが鈍くてむざむざと暗殺されたなどと書いているが、ほかに龍馬梅毒説を述べる史料があったら、見せてみろといいたい。兆民の思い込み、とんだ誤解なのである。
 龍馬の前髪が薄いから梅毒のせいというのは医学的にも根拠のないナンセンスな話である。龍馬の姉乙女さんも毛髪が薄かったらしく、薙刀の練習中によく部分鬘を飛ばしては、ちょっと待ってといって拾っていたというエピソードがあり、姉弟ともに毛髪は薄かったのである。ところで子供の頃に大人たちが「あいつは梅さんぜよ」などと言っておれば、それは梅毒持ちの知人の噂と決まっていた。あほらしい話だが、ゴッシプの根は龍馬の変名から来ているのだ。龍馬の変名は才谷梅太郎。まさしく「梅さん」なのであった。
 いまでも2ちゃんねるの日本史のカテゴリーのスレッドで龍馬梅毒説をとりあげて面白がっている馬鹿な手合いがいる。冷笑主義というより、偉人をちょっと引きずりおろしたような気分になりたいだけの哀しい人たちだ。
 以前にも別の場所で龍馬梅毒説を排する同様主旨のことを書いた。いささかうんざりしながらも、馬鹿な手合いを増殖させないためには、私も同じ事を繰り返すしかない。

田宮虎彦の思い出

2005-11-22 22:48:12 | 読書
 もうずいぶん昔のことになるけれど、田宮虎彦氏がまだ吉祥寺に住まわれている頃に、訪問したことがある。先輩の記者がインタビューに行くというので、臨時のカメラマンのふりをして、随行したのであった。氏のフアンだというわけではなく、むしろあまりいい読者とはいえず、『足摺岬』一作を読んだ程度だったが、生身の作家という人種とその書斎に興味があったからだ。
 気取らず、妙に偉ぶるところもない作家だった。ベージュの作業着みたいなジャンバーとそろいのズボン姿だった。まるで商店街の電器屋の主人みたいな格好で執筆の途中だったようだ。別に和服の着流し姿みたいな文士像を期待していたわけではないものの、ちょっと意表をつかれた感じだった。なるほど、小説を書くというのも手仕事の「作業」であるから、こういうスタイルでいいのだと納得したものだ。しきりにタバコをふかしながら、作家はインタビューに丁寧にこたえていた。おだやかというか、茫洋とした風情に、しかしどこか物憂げなところがあった。
 帰り際に、玄関で腰をおろして靴紐を結ぼうとしていた私の背中越しに、田宮氏はふいに声をかけた。「あなたも小説を書く人でしょ」
 これにはぎくっとするほど驚いた。私はカメラマンということになっているから、氏とは会話をいっさい交わしていない。なぜ、という思いがとっさに胸に来た。ひそかに小説を書きたいという思いを胸に抱いていた二十代前半の青二才が当時の私だ。なぜ、私の野心が見抜かれたのか。なぜ田宮さんは、私にそんな言葉を投げかけたのか。
 いまにして思えば、私はたぶん好奇心をあらわに氏の本棚を見つめたり、机上に鋭い視線を送っていたのだと思う。さらに、氏が創作過程の内明け話をするような箇所で敏感すぎる反応を表情に見せたに違いない。
 昭和63年4月、氏は港区のマンションから飛び降り自殺した。新聞でそのことを知ったとき、衝撃とともに、あのときの氏の言葉を思い出した。脳梗塞で倒れ、右半身不随だったというけれど、文字を書けなくなったための自殺というような単純なものではないだろう。しかし、「作業着」で小説を書いていた氏には、はがゆい思いだったことは確かだ。
 小説『足摺岬』は自殺の名所となっている足摺岬行きをする自殺志望の青年の物語だった。自伝的な要素の多い作品とされてきたが、そうか、「足摺岬」は都内にもあったのか、と口惜しかった。77才だった。死への情念は衰えていなかったのである。
 氏は当初は戊辰戦争などに取材した歴史小説を書かれていた事をあとで知ったが、晩年、なぜそのジャンルに回帰されなかったのだろうか。私には亡き奥様との書簡集『愛のかたみ』が空前のベストセラーになったことが、氏の小説の路線を固定化したような気がしてならない。
 いまでも田宮氏の言葉が耳元に聞こえるときがある。「あなたも小説を書く人でしょ」そのつど、やるせない気分になる。あれから、いったいどれだけの年月が流れているか。あなたも、と言ってくれたではないか、いったい、私はなにをやっているのか。

 
 

その後の刺客たち

2005-11-16 21:40:56 | 小説
 龍馬暗殺に加担した今井信郎は函館戦争の降伏人として刑部省で取調べをうけたさい、そのことを供述した。ところが奇異なことがある。彼が伝馬町に入牢したときから、西郷隆盛からの助命運動があった。さらに西郷が征韓論に破れて鹿児島に帰る途中、静岡にいた今井を訪ねた形跡があり、なおかつ西南戦争が始まると、今度は今井が西郷のもとに駆けつけようとしたらしい。
 以上は今井信郎の孫今井幸彦が語るところである。
「自分が龍馬を斬った」と名のりでた渡辺篤は、維新後に海江田信義の知遇を得て、剣道の道場主となって生計を立てた。いうまでもなく海江田信義は薩摩の出身者である。
 佐々木只三郎は鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、落ちた先の紀州で死に、三井寺に葬られた。これが定説だが、驚くべきことに彼は明治20年ごろまで生きていたという説がある。実の兄が「弟は生きていた」と語っているのである。なぜ、佐々木は墓まで作って、死んだことにしなければならなかったのか。
 佐々木の実兄、手代木勝任は鳥羽伏見の戦い後、奥羽越諸藩同盟を策した首謀のひとりであった。つまり、最後まで官軍に抵抗した男なのだ。その彼が不可解なことに明治5年に新政府に任官している。いかなるコネクションがあったのか。左院少議生、香川県および高知県権参事となり9年勤めて、その後、岡山県区長になっている。なんと高知県権参事!
 龍馬暗殺の黒幕は新政府の中にいて、その新政府に実行犯たちは貸しがあったと考えれば、以上のことがらは、奇異でも不可解でもなくなる。
 龍馬暗殺の刺客団は、見廻組と薩摩、土佐藩の武士による混成グループだったと私が考えるのは、刺客たちのその後のありようが、その説にぴったりと符合するからである。
  

龍馬は誰に殺されたのか 9 〈刺客たち〉

2005-11-15 21:51:45 | 小説
 ところで刺客団が京都見廻組だけで構成されていれば、それは純然たる公務であって、暗殺とはならない。明治3年、今井が刑部省で龍馬殺害に加担したと自供したのを、ほぼリアルタイムで知った勝海舟は「暗殺」と断じた。案外、見過ごされがちなのだが海舟は日記にこう書いている。
「松平勘太郎聞く。今井信郎糾問に付、去る卯(慶応3年)の暮、京師に於て坂本龍馬暗殺は、佐々木唯三郎首として信郎抔(など)の輩、乱入と云。尤、佐々木も上よりの指図之有るに付、事を挙ぐ。或は榎本対馬の令か知るべからずと云々」(『勝海舟日記』明治3年4月15日)
 当時の大目付であった松平勘太郎の困惑を、海舟は書き付けているのである。文意は次のとおりで、すべて松平のセリフである。
「見廻組の今井らが龍馬を襲撃したらしい。すると組頭の佐々木の命令だが、佐々木だって上からの指示がなくては動くまい。佐々木の命令系統からすると榎本の指令かもしれないが、それにしては榎本の上司である俺(松平)はそんな命令は出していないし、事後の報告も受けていないから何も知らなかった。なんとも奇妙なことだな」
 だから勝は、ためらいもなく「暗殺」という字句を使ったのである。
 刺客団は見廻組と薩摩藩士および土佐藩士の混成だと、私は推論した。水と油のような関係にある見廻組と薩土両藩の武士がはたしてなぜ手を結んだのか。この推論の難点はそこにあった。長い時間を要したけれど、佐々木と薩摩に接点を見出したときは小躍りしたいぐらいだった。
 佐々木只三郎は歌詠みであった。京都ではあちこちの歌会に出席し、さる歌会で薩摩藩京都留守居役で歌人としても知られる八田知紀と知り合い、親交を深めていた。意外なふたりが昵懇の間柄になったから、周囲も驚いたらしいが「歌道の道は別である」と言ってはばからなかった。
 この意外な組合せこそ、混成グループ構成の鍵なのだ。武力倒幕にこだわる薩摩藩士とそれに賛同する一部の土佐藩士にとって、佐々木はコンタクトの取りやすい人物であり、まさに暗殺実行に見廻組はうってつけだったのである。
 あの時代、龍馬をまるごと理解できた人物は少なかったのではないだろうか。龍馬の思考と行動は玉虫色に見えて仕方なかったであろう。幕府側、討幕派はもちろん、勤王側、攘夷派いずれに狙われても不思議ではなかった。混成の刺客団はそれなりに利害は一致したのである。
 かって、龍馬がおびただしい数の捕方に包囲されながら脱出に成功した寺田屋事件のあと、桂小五郎は龍馬に手紙を書いていた。龍馬が無事と聞いて手放しで喜んだ桂は、それでもこんなふうに注意をうながしていた。
「大兄は御心の公明と御量の寛大とに御任せなされ候て、とかく御用捨これなき方に御座候へども、狐狸の世界か豺狼の世界か相分らぬ世の中には、少しく天日の光相見へ候までは何事もご用心、神州の御為め御尽力肝要の御事に御座候」
 泣かせる名文だ。桂は龍馬の性格をよく見抜いている。おおらかで、ものにこだわらなくて、とかく無用心なのであった。桂がこれほど注意していたのに、龍馬は維新という天日を見ずに死んだ。狐狸や豺狼の世界が彼を殺したのである。それのしても命日となった慶応3年11月15日は不思議な日であった。彼の33才の誕生日でもあったからだ。

(11月15日にちなんで、この稿はここでいったん終り、タイトルを変えて続編とするつもりです)


龍馬は誰に殺されたのか 8 〈刺客たち〉

2005-11-14 21:18:57 | 小説
 近江屋の二階に上がった刺客は3人。明治になって、それぞれ龍馬殺害を供述した見廻組の今井信郎、渡辺篤はたしかにそのうちの二人だ。(木村幸比古氏は桂早之助、高橋安次郎、渡辺吉太郎の3人という異説を唱えるが、私はとらない)残るひとりは見廻組与頭佐々木只三郎である。
 刺客は一人一殺であったはずだ。ひとりが下僕の藤吉を斬り、残る二人は奥座敷で龍馬と中岡慎太郎を同時に襲った。
 今井は『近畿評論』の実歴談によれば、入り口に近い方に座っていた男を先に斬って、それが龍馬だと思い込んでいる。しかし、入り口近くに座っていたのは中岡であった。これは谷干城が瀕死の中岡から確認している。今井は龍馬と中岡のふたりとも自分が斬ったと言い出すのだが、誇張というものだろう。
 龍馬は刀を抜くひまがなかった。中岡も短刀を取り出したものの鞘ごとで応戦している。その短刀は鞘が割れ、刃がボロボロになっていた。(田中光顕口述。信国銘の短刀は田中が贈ったものだった)ともあれ中岡は瞬時にせよ刺客と切りむすんだのであった。今井はこの日の3日後自宅に帰ったとき右のひとさし指を怪我していた。(妻いわの口述)中岡を襲ったときの怪我ではないかと思われる。(本人は暗殺後、階段をおりるときに抜刀していた刺客仲間の刀に触れたためと称しているが)
 で、下僕の藤吉を斬ったのが渡辺篤。奥座敷よりも藤吉や書生のいた部屋の状況にくわしいからである。
 さて、龍馬を斬った人物の4年前の手口を思い出してみよう。文久3年4月、江戸は麻布の一の橋の路上で、一代の風雲児清河八郎が斬殺されている。北辰一刀流の使い手であった清河も龍馬と同じく抜刀するいとまもなく倒れた。刺客は「清河先生、お久しぶりです」と声をかけ、陣笠をとってお辞儀をした。清河は右手に鉄扇を持っていたので、儀礼上深編笠をとるために左手で笠の紐をとこうとした。その刹那、白刃がひらめいて必殺の一撃を受けたのである。相手に殺気をつゆほども感じさせずに対面し、一瞬のスキをつくという暗殺手法は龍馬にも適用されたのであった。
 刺客は十津川の者と偽って名札(名刺)を龍馬に手渡し、「坂本さん暫くです」といった。名札を左手に持った龍馬は、名札が見にくいから行灯を右手でたぐり寄せようとした。両手がふさがったのである。刹那、白刃がひらめいて、龍馬の前頭部を横に払った。身をひねって、龍馬はうしろの刀掛けから刀をとろうとする。その背中を二の太刀がが斬りさく。まだ龍馬は倒れない。手にした刀を抜くひまはなく、鞘ごと三の太刀を受け止めた。鞘を裂き、刀身を三寸削るほどのぞっとするような凄い打ち込みを龍馬は耐えた。けれども受け流しのようになって、またも額をその太刀で割られ、倒れてしまうのである。
 清河八郎に声をかけ、彼を斬殺した佐々木只三郎は、近江屋でもその手法を使ったのであって、こんな芸当のできるのは佐々木をおいてほかにない。北辰一刀流の清河を倒した佐々木であれば、龍馬の北辰一刀流なにするものぞという自信もあったであろう。

龍馬は誰に殺されたのか 7 〈刺客たち〉

2005-11-13 13:59:32 | 小説
 通説では近江屋新助は「龍馬の身の上に一大事起これれりと思いければ、まず急を土佐藩邸に告げんものと表に飛び出でしに、刺客の同類にや、門口に立ち番せるものあるを見て引き返し、(略)裏手より、裏寺町に抜け、蛸薬師の図子(小路)より土佐藩邸に急を告げぬ」(『坂本龍馬関係文書』)とされ、そこで最初に駆けつけたのが、峰吉の見た島田庄作ということになっている。
 もはや、この通説のおかしさは言うまでもないだろう。土佐藩邸は近江屋と道をへだてた斜め前、至近距離といってよい場所にあった。刺客が複数とわかっているのに、島田ひとりがのこのこと出かけてくるわけがない。島田こそ、刺客の同類、見張り番だったのではないか。
 龍馬および中岡暗殺団、つまり7人の刺客(9人説もある)の中に、土佐人や薩摩人がいたということは、事件当初からささやかれていた。 
 龍馬の死は在京各藩に衝撃を与え、それぞれ独自に事件を調査していたのである。
 慶応3年11月23日付の鳥取藩の記録には「切害人は宮川の徒やもはかりがたき趣にもほのかに相聞え候由、堅く口外をはばかり申し候事」とある。宮川というのは土佐藩士である。
 同年11月20日付けの尾張藩の記録では暗に刺客の中にひとりの土佐藩士、ふたりの佐土原藩士がいたと示唆している。佐土原藩は島津支藩である。
 さらに同年12月9日の肥後藩の探索書(『肥後藩国事史料』)には「坂本を害候も薩人なるべき候事」とある。
 いまひとつ、同年12月19日の日付のある海援隊士佐々木多門の密書の存在がある。「龍馬を殺害した人物の姓名がわかった。それにつけても薩摩藩の処置がおかしい」という内容のものだ。残念ながら、彼がどの人物名を特定していたかは、いまとなっては分らない。
 それにしても龍馬暗殺団の中で実際に龍馬らを斬ったのは、見廻組の連中に間違いはない。見廻組と本来は龍馬の味方の立場であるはずの土佐や薩摩の人間が暗殺団を構成した奇妙さが、この事件を複雑にしている。
 まず当日の暗殺状況を再現してみよう。

龍馬は誰に殺されたのか 6 〈うろんなり近江屋〉

2005-11-12 08:58:15 | 小説
 京都在住の龍馬研究家西尾秋風氏は近江屋の子孫の方たちと親交があり、近江屋(井口家)の長老コウ夫人の談話を紹介している。それによれば「自宅で維新の英傑を死なせた痛恨を、生涯の十字架として背負った近江屋新助は、これを語ることを好まなかった、という」とある。
 私はむしろ、語れなかったと思うものである。無理をして語れば、さきの支離滅裂な作為話のようになってしまうのだ。あの新助談は、彼の贖罪と呵責の念が作らせたフィクションなのである。せめて医者を呼ぶべきであった、あるいは龍馬の体に刀傷など想像したくなかったという痛恨。新助は、二階に上がった武士たちが刺客であると、あらかじめ分っていた。分っていながら、なにもしなかったし、隠れて、そして逃げた。そのことが新助の十字架である。
 明治39年、「坂本中岡暗殺事件」という講演を行った谷干城は、講演にさきだって近江屋新助に会っている。当の講演でこう話しているのだ。
「(略)近江屋新助というて、本年私が京都へ行った場合にまだ生きて居るということであるから、それに会うて話を段々聞いてみたけれども、何しろ彼奴等(刺客)はどんどん上に上がってきて、坂本の僕(一緒に殺された龍馬付き人の下僕藤吉のこと)が斬倒されて大きな声で叫ぶというわけで、なにもかもないあわてて逃出したものであるから、後のことはさっぱりわからない」
 谷に質問されて困惑している新助の姿が目に浮かぶようだ。二階の惨状について新助には谷に与える情報はなにも持ち合わせていない。さらに、めったなことはしゃべれない。屈辱的だが、逃げたからさっぱりわからないと言うしかないのである。
 西本願寺坊官だった旧家の先代夫人から、西尾秋風氏は近江屋に関して妙な噂があったことを聞かされている。「あの当時、近江屋新助は坂本龍馬の隠し金を貰い、あのように店を拡張した」と言う伝承である。隠し金というのは龍馬が紀州藩からせしめた「いろは丸」沈没の賠償金のことに違いない。私は小説『月琴を弾く女』(未上梓)で、結果的に近江屋が賠償金の一部不明金を近江屋が取得する経緯を、フィクションとして書いた。ノンフィクションとして書くには状況証拠しかないからである。龍馬が死んで、近江屋は得をしたと今でも私は類推している。
 近江屋は土佐藩御用達の醤油商だった。龍馬暗殺の刺客たちの中に土佐藩士がいれば、ともあれ彼はその男の指図にしたがったであろう。刺客たちは見廻組の者たちだけで構成されていたわけではない。
 暗殺の実行犯たちについて私見を述べるときがきた。

 

龍馬は誰に殺されたのか 5 〈うろんなり近江屋〉

2005-11-10 22:49:42 | 小説
 鶏肉を大皿に盛って近江屋に戻ってきた峰吉は、土佐藩邸出入りの書店菊屋の息子で当時17才だった。峰吉は近江屋の表口で抜刀している土佐藩士島田庄作と出くわす。島田は「いま坂本と中岡がやられた」と峰吉に告げた。
 峰吉は台所から(注:まず鶏肉を置いたのであろう)裏口に出ると、物置に人の気配。物置の戸を開けると、近江屋主人夫婦がひそんでいた。ガタガタふるえながら「峰吉さん悪る者が這入って、二階は大騒ぎ」だという。
 これが菊屋峰吉が述べた事件直後の近江屋主人の姿だ。ところが近江屋新助の口述(倅の新之助筆記)では、こうなる。
「然れども同氏(龍馬)は刺客が帰るが否や、家の主人(自分)を呼び医師を命ぜられたりしが、是に応じて二階に昇りしに既に絶命せられたり」(原文はカタカナ表記)
 龍馬が階下の新助に「医者を呼べ」と大声を上げた?まさか。しかも新助は「坂本君は常に真綿の胴着を着し居られたれば、体部に負傷はなし。唯だ脳傷の為めに接○(文字不明)の後倒れられたる処を、二刺咽を刺したり」というのが前段の口述である。咽を二刺しされた人間が、階下に届くほどの声を発するわけはなく、このあたりの矛盾にはおかまいなし。さらに龍馬は小刀で20分ばかり敵と渡り合ったなど見ていたような嘘も平気だ。体部に負傷がないなどというのもでたらめな話(実際は後ろから袈裟に切られている)で、いったいなにゆえの作為話であろうか。
  その夜、現場に駆けつけた谷干城はこう回顧している。
「土佐の屋敷と坂本の宿とは僅かに一丁ばかりしか隔て居らぬから、直ぐに知れる筈なれども、宿屋の者等は二階でどさくさやるものだから、驚いて何処へ逃げたか知れぬ。暫くして山内の屋敷へ言って来たものも、余程後れ私が行った時も最早とうの後になって居る」
 谷らが異変を聞いて駆けつけたとき、近江屋の主人はもちろん、女中も書生も小僧も誰もいなかった。いささか、不人情な話、というより不自然すぎる状況ではあるまいか。
 

龍馬は誰に殺されたのか 4 〈暗殺の時刻〉

2005-11-09 21:17:19 | 小説
 さて、龍馬はシャモを買ってこいと言った。シャモを食する風習は天保以後のことで、幕末には流行食になっていたらしい。鶏肉を葱といっしょに鍋で煮るのである。だから、食材を買ってこいといったわけで、現代のようにお持ち帰りのフライドチキンを買って来いといったわけではない。調理が必要なわけである。火をおこし、葱を刻み、調味料と鍋の用意がいる。
 はっきりしているのは、龍馬の暗殺現場には鍋の用意も、酒の用意もなかったことだ。食事をしようという形跡がなかった。
 おそらく階下で鍋の下準備はされようとしていたはずだ。つまり、近江屋には食事の支度をする女中もいたし、小僧たちもいた時刻なのである。
 近江屋の従業員たちは、龍馬暗殺に関して、なにも見なかったのか。私には不思議に思えてならないが、龍馬暗殺の報をうけて駆けつけた者たちが女中や小僧たちに状況を聞きただし、あるいは刺客たちの風貌について問いただしていないことである。おそらく、うろたえながらでも従業員たちがいれば、誰だって状況を聞きたかったであろう。それが出来なかったのである。誰もいなかったからである。みんな逃げていた。逃げるのは人情としても、なぜ遅くなってでも近江屋に戻ってこなかったのか。状況にとんでもない不自然さがある。
 早々と、私の推論を書いておこう。主人の近江屋新助が彼ら従業員をどこかへ追いやったのだと思う。なぜか。従業員たちが、見ざる、聞かざるに徹してくれなくては、主人が困るからである。いてくれては都合が悪かったのだ。後年、従業員たちのことがまるきり話題にならないので、龍馬の暗殺時刻はみなが寝静まった夜更けのようなイメージさえ定着させたけれど、女中や書生、複数の従業員たちはむろん立ち働いていたのであった。
 だいたい、主人の近江屋新助は、そのとき、および事件後、どんな行動をとっていたのか。まことにうさんくさいのが彼の言動である。





龍馬は誰に殺されたのか 3〈暗殺の時刻〉

2005-11-08 23:22:52 | 小説
「四条通リハ夜(ヨイ)の口ユヘ 大ニ相賑ヒ」仲間を肩にかけながら「よいやないか、よいやないか」と声を上げながら、おどり念仏にまぎれて刺客たちは帰ったと、当の刺客のひとりが告白手記を書いている。刀の鞘を現場に忘れた仲間が抜き身を持っているのをごまかすために、おどり念仏にまぎれたら、他人には気づかれなかったというのだ。
 まさしく宵の口なのである。同じ手記の注目すべき箇所。
「見廻リ組頭取佐々木只三郎ノ命ニヨリ自分始メ組ノ者今井信郎外三名申合セ、黄昏ヨリ龍馬ノ旅宿え踏込、云々」
 刺客たちが近江屋に行った時刻は「黄昏」時だと明記してあるではないか。なぜ多くの史家は、ここに注目しないのだろうか。手記は渡辺篤が明治44年に記述したものである。(ほぼ同様内容の手記は明治13年にも書かれており、そこでは「夕方」に踏込んだとなっている)
 またぞろ、司馬さんをダシにつかって申し訳ないが、「この懺悔譚は、老人の記憶ちがいか、つじつまのあわぬところが多分にあり、良好な史料にはなりにくい」(『竜馬がゆく』あとがき)というのが、渡辺篤の手記に対する見方の代表的なものである。肝心の暗殺時に関して通説と違って、事実に即している渡辺の手記は不当に無視されているのだ。おそらく渡辺が刺客仲間に世良敏郎(刀の鞘を忘れた人物)の名をあげたことで、手記の信憑性がゼロと短絡的に決めつけられたのであろう。長いあいだ世良敏郎という男は見廻組にはいないとされてきた。ところが、近年の研究によって世良敏郎は小林甚七と同一人物で実在していたことが証明されたのだ。
 渡辺の手記は見直されるべきなのである。


龍馬は誰に殺されたのか 2 〈暗殺の時刻〉

2005-11-07 21:04:10 | 小説
 上洛していた土佐藩士の寺村左膳の日記がある。その日、彼は仲間と芝居見物を楽しんだ。生まれてはじめて四条の小屋で歌舞伎を見たという。その帰り道で、暗殺の一報を聞いている。彼の11月15日付けの日記は第一級の同時代史料である。
「自分芝居見物始而也。(略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処」暗殺されたと書いている。
「夜五時」は「五ツ時」で、「五比」は「五ツ頃」のことと解釈されている。(蛇足ながら石川清之助は中岡慎太郎の変名である)
 さて、この時代、江戸では夜の芝居は早くから禁止されていた。たとえば正徳4年の法令では「狂言暮へかかり、あかりを立て候儀堅く無用に致し七ツ半時分に仕舞候様致すべく候事」とある。防火上の配慮から舞台でロウソクやカンテラの照明を使うことを禁じたのである。だから、昼興行だった。七ツ半に終われということは、冬場なら午後4時過ぎには終われ、要するに日が暮れたら終われということだ。
 幕末の京都では江戸とは事情が違っていたとはいえ、寺村左膳は朝早くから芝居を見たと前段に書いており、昼興行を見ての帰路に龍馬暗殺の報に接しているのだ。歌舞伎の上演時間そのものは今も昔もさほどの変わりはない。すると芝居の終わった「夜五時」という表現は、ほとんど現在の時刻表現とみなされてもおかしくないほどだ。
 龍馬が暗殺された時刻は日暮れて間もない頃、宵の口だったのである。

注:寺村左膳は土佐藩主の建白書を携え、徳川慶喜に大政奉還を勧告するため上京していた。土佐藩の要人である。「寺村左膳道成日記」の原本は高知の佐川町立青山文庫が所蔵している。余計なことだが、銘酒司牡丹の醸造元のあるのが、佐川町である。

龍馬は誰に殺されたのか 1 〈暗殺の時刻〉

2005-11-06 20:14:33 | 小説
 幕末最大の謎ともいわれる龍馬暗殺事件で、いまなお曖昧にされているのが暗殺の時刻である。およそ殺人事件で、その犯行時刻の特定が間違っていれば、誤った結論にみちびかれるのは言うをまたない。通説の龍馬暗殺時刻は大きく間違っており、このことが真相究明の支障になっていると、かねてより私は思ってきた。事実に即した暗殺時刻を割り出してみると、暗殺の状況はがらりと変わってくるし、今まで誰もが疑ってこなかった人物が、にわかにあやしくなってくるのだ。
 事件は慶応3年(1867年)11月15日に起きた。現場は京都河原町蛸薬師下ル近江屋の二階。たとえば、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』にこう書いている。
「数人の武士が、近江屋の軒下に立った。午後9時すぎであった。刺客である」
 司馬さんは、おそらく史実として「午後9時すぎ」と書きつけている。通説がそうだからである。しかし、事実はそんなに遅い時間ではない。
 たしかに多くの史料が龍馬暗殺の時刻を「五ツ頃」としている。しかし、この五ツを、現在の時刻の午後9時に換算するのはあまりにも粗雑な所業である。日の出を「明け六ツ」として数えはじめる時鐘式の時刻と現行時刻とを対比した円形の時刻表を安易に使ってはいけない。あの時刻表は春(秋)分の日の東京を標準にしている。いうまでもなく日の出は季節と場所によって変化するのであり、陰暦11月15日の京都の夜の五ツは、むしろ午後7時頃といってよい時間帯である。
 あの日にもどってみよう。龍馬は腹が減ったから軍鶏(シャモ)を買って来いと峰吉という男に言いつけた。夕食前なのである。さらにいえば、当然のことながら店が開いている時間ということになる。さて、私は東京の下町に住んでいるけれど、電気という照明に恵まれた現代でさえ24時間営業のコンビには別にして、近所の商店街は午後8時には閉店する。峰吉が使いに行った四条小橋の「鳥新」という店は、近江屋からさほどの距離にはない。その「鳥新」の閉店時間はおそらく日暮れて間もない頃であったろう。鶏肉は売り切れていて、新しくしめるために待たされたとはいえ、峰吉の使いに要した時間は40分内外。峰吉が戻ると、もう龍馬は襲われたあとだったから、どう考えても午後9時などという暗殺時間はありえないのである。
 龍馬の暗殺時刻を割り出す、もうひとつの有力な証言がある。