小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

佐々木克『幕末史』(ちくま新書)批判

2014-11-20 11:07:07 | 読書
幕末の通史を一冊の新書で叙述するためには、どうしても割愛、あるいは捨象されることがらのあるのはわかる。しかし本書には捨象されたことがらが大きすぎて、そこに著者の歴史学者としてのあざとい立ち位置があらわれている。
 たとえば、浪士組と清河八郎に関する記述はいっさいない。天誅組と生野の蜂起への言及もない。それどころか戊辰戦争への論及がまったくない。王政復古のクーデターから、戊辰戦争をカットして、いきなり最終章が「明治国家の課題」なのである。
 どうやら本書に伏流しているのは、言わば、討幕のエートスの減殺である。「あとがき」に著者は書いている。「討幕あるいは倒幕運動の歴史として書かれる幕末史には、かなり早くから違和感をもっていた」と。
 ここで討幕と倒幕の用語の概念はこう違うなどと、言葉遊びをしている一部の論者につきあっている暇はないが、要するに佐々木克という歴史学者は、「討幕」という意志のなかった幕末史を語りたいのであった。
 第5章で、こんなことを言っている。「討幕という言葉がなかったというのではない。酒宴が盛り上がったときなどには、飛びかっていた言葉であろう」
 なんということを言うひとだろう。現代のサラリーマンが呑み屋で政治への不満にオダをあげているのと同じレベルに、当時の志士たちの心情をおとしめているのである。刀という武器を持ち、最終的には刀で決着をつけることも辞さない志士たちが国事を論じた処士横議の状況を、「討幕」などは酒宴でのみ語られた言葉とはなにごとか。
 討幕のエートスをなにがなんでも減殺したいらしく、こうも言う。西郷隆盛は幕府は自滅すると断言していたから、討幕に動いたわけはない、と。これは理屈にならない。
 自滅する幕府とわかっていても、討幕に動いた者はいるからである。文久3年8月に書かれた文書に次のような文言がある。
「嗚呼、方今世上の形勢スデニ幕府自ラ倒レ、乱ヲ醸ストイヘドモ、列藩諸侯、旧弊ノ因循大事々々トノ議論サカンニシテ、日月ヲ送ルニ随ッテ姦ハマスマス姦トナリ、正ハマスマス憤発シテ終ニハ海内瓦解シ、目的トスル攘夷ハサテオキ、如何トモナスベカラザルニ至ラン(略)干戈ニアラズンバ治マラズ」
 引用は、大和国に義兵を挙げる趣意を述べた松本謙三郎(天誅組)の『大和日記』からである。天誅組つながりで付言すれば、文久3年8月17日に中山忠光が朝廷に出した出陣届も、まごうことなき討幕の表明であった。ここで思い出すのは、佐々木克と同じように、討幕のエートスを減殺したいらしい家近良樹の言葉である。「私は武力討幕派なる言葉を使って幕末史を説明する必要はない」と家近は『孝明天皇と「一会桑」』に書きつけていた。「もし武力討幕派なるものが成立したとしたら、鳥羽伏見戦争の直前の時点だと思っているくらいである」とも。見られる通り、天誅組の挙兵は視野に入っていない。そもそも天誅組のことを一地方で起きた徒花的な暴挙ぐらいの認識しかないとすれば、歴史学者としての看板をおろせばいいと思う。
 さて、佐々木克のことであった。
 なぜ佐々木は討幕のエートスの減殺にやっきとなるのであろうか。「新政府は薩長討幕派の政府などではなかった」(本書「はじめに」)と言いたいがためである。つまり新政府のいかがわしさを隠したいのである。そのためには小御所会議の王政復古クーデターを、強引に正当化するのである。会議では「慶喜を参加させるべきだと主張する容堂と春嶽、反対する岩倉、大久保との議論になった」が「はじめから岩倉と大久保の方に分があり、時間を要したが容堂と春嶽が納得し」欠席裁判となった慶喜も会議の結果を「すべて承諾した」と語られる。ほとんど事実を歪曲した語り口である。会議には薩土芸尾越の5藩しか出席していなかった。会議のありようそのものがおかしいし、「陰険」であると発言したのは土佐の容堂であった。春嶽も容堂と同じ立場だった。だから出席していた中根雪江は『丁卯日記』に「薩を除くの外は、悉越土と同論なり」と書いているのである。岩倉と大久保は劣勢だったのだ。ところが休憩時間にその状況を聞いた西郷が容堂を刺せと示唆し、その恫喝によって強引に王政復古に傾いたのであった。「短刀一本あれば」という有名な西郷の恫喝のエピソードに佐々木はここでもいっさい触れない。歴史学者のあざとい立ち位置と最初に書いたのは、こういうことを含めてである。鳥羽伏見の戦いの直前、慶喜の名で用意された「討薩の表」や各大名に飛ばされた檄文には小御所会議を牛耳った薩摩への批判があふれている。とりわけ檄文の「公議を尽くさず」という批判は、まっとうなクーデター批判だった。 
 鳥羽伏見の戦いは、徳川と島津の私戦として始まり、やがて新政府軍と旧幕府軍の戦争、つまり戊辰戦争へと拡大していった。大政奉還の前後に暗殺された赤松小三郎や坂本龍馬の新政府構想のキーワードは「公議」だった。公議を尽くした路線を歩めば、戊辰戦争は避けられていたのではなかったか。王政復古は薩長の「私」と海舟は糾弾した(松浦玲)。おそらく佐々木克は「私」ではないと言いたいのだろうが、そうはいかない。
 テロと謀略のるつぼでもあった幕末を、きれいごとで語ることはできないのである。大政奉還後の修羅場をよくよく検証した幕末史を、歴史学者は叙述すべきではないだろうか。


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1 コメント

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直感が当たりました (山岡義金)
2014-11-20 11:37:06
図書館で新着本として並んでいたので、ちらりと目次を見て借りるのをやめました。正解だったようです。
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