昭和20年6月に奉天駅の駅長室で、杉野と出会ったという情報将校がいた。しかも4時間も話し込んだらしい。この情報将校すなわち第三航空部隊の経理委員だった他谷岩佐氏によれば、杉野は満州事変以来、特務機関に属し、宣撫工作をしたり情報蒐集を担当していたらしい。もっとも、北満つまり新京から北は別の人間が担当、それがかの児玉誉士夫だったというから、杉野は児玉誉士夫とも、あるいは面識があったかもしれない。
他谷氏が杉野の生存を知ったのは、日用品を調達している現地の部落長を通じてである。その部落長は、もうすぐ日本が敗けるといっている日本人がいると他谷氏に教えた。聞き捨てならぬことを言う奴だ、その人物に会わせろといったら、それが杉野だったのである。
事実、その2ヵ月後に日本は敗けた。
ただ、この「杉野」は白髪の老人ながら、身長は1メートル70センチはあったという、のが解せない。さきの看護婦の口述「背の低い小柄な老人」という形容とあきらかに矛盾するのである。オーラルヒストリーでは、しばしばこういう矛盾はありうる。とはいうものの、なんとなく釈然としないものは残る。残るけれど杉野が特務機関にいたということは、やはり事実らしく思われる。
さて、杉野は旅順港出撃のおり、すでに辞世の歌2首と句一首を作って、父親に送っていた。遺言のようなものだ。句のほうを先に紹介すると、
死ぬは今 地獄の門の出来ぬ間に
歌のほうは、
身はうせて海のもくずと化するとも たましいのこす とつくにの浦
と、次のもう1首。
国のため ととせのむかし死する身の今日ありしとは思はざりけり
日露戦争にさきだつ10年前の日清戦争にも杉野は従軍していた。ほんとうはそのとき死ぬつもりだった。日露戦争まで生き延びたのが不思議だといっているのである。しかし、彼はまたしても生きた。ただし表向きは〈死する身〉となってである。彼は国のために特務機関に属して生きたわけだが、軍神として彼の生を抹消したのは、その国ではなかったのか。
今日ありしとは思はざりき、一度そんな歌を詠んだら、次はいったいどんな歌を詠めばよいのか、兵曹長杉野孫七のその数奇な運命をうまくしめくくる言葉が、私には思いつかない。
他谷氏が杉野の生存を知ったのは、日用品を調達している現地の部落長を通じてである。その部落長は、もうすぐ日本が敗けるといっている日本人がいると他谷氏に教えた。聞き捨てならぬことを言う奴だ、その人物に会わせろといったら、それが杉野だったのである。
事実、その2ヵ月後に日本は敗けた。
ただ、この「杉野」は白髪の老人ながら、身長は1メートル70センチはあったという、のが解せない。さきの看護婦の口述「背の低い小柄な老人」という形容とあきらかに矛盾するのである。オーラルヒストリーでは、しばしばこういう矛盾はありうる。とはいうものの、なんとなく釈然としないものは残る。残るけれど杉野が特務機関にいたということは、やはり事実らしく思われる。
さて、杉野は旅順港出撃のおり、すでに辞世の歌2首と句一首を作って、父親に送っていた。遺言のようなものだ。句のほうを先に紹介すると、
死ぬは今 地獄の門の出来ぬ間に
歌のほうは、
身はうせて海のもくずと化するとも たましいのこす とつくにの浦
と、次のもう1首。
国のため ととせのむかし死する身の今日ありしとは思はざりけり
日露戦争にさきだつ10年前の日清戦争にも杉野は従軍していた。ほんとうはそのとき死ぬつもりだった。日露戦争まで生き延びたのが不思議だといっているのである。しかし、彼はまたしても生きた。ただし表向きは〈死する身〉となってである。彼は国のために特務機関に属して生きたわけだが、軍神として彼の生を抹消したのは、その国ではなかったのか。
今日ありしとは思はざりき、一度そんな歌を詠んだら、次はいったいどんな歌を詠めばよいのか、兵曹長杉野孫七のその数奇な運命をうまくしめくくる言葉が、私には思いつかない。