小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「邂逅」までのプロセス 5

2006-01-31 07:59:13 | 小説
家康は海外貿易に関心があった。だからアダムスを外交顧問にうってつけと思ったのであろう。江戸日本橋に屋敷、相州三浦郡逸見村(現在の横須賀市逸見)に領地すら与えられた。日本名の「三浦」はこの地名に由来している。ただし、実際的な活動の場は平戸だった。平戸にオランダ商館やイギリス商館が設立されたのは、アダムスの尽力が大きかったのである。
 貿易の推進上、家康すなわち幕府は初期にはキリスト教の布教活動を静観、いや暗黙のうちに許可していた。文字どおり黙認していたのだ。したがって、以前から活動していたイエズス会やフランシスコ会をはじめドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師たちが頻繁に来日することとなった。布教活動はピークに達するのであった。
 ところが先に秀吉が出していた「伴天連追放令」は取り消されていたわけではなかった。法令そのものは追認されて、生きていたのである。
 さて、話をアダムスの来航事時点に戻す。「日本カトリック教会の歴史」から引用するけれど、こんな記述がある。
「日本のカトリック教会は、アダムスらが家康に対して、カトリックに対して誤った教理を吹き込まれるのを恐れ、アダムス以下リーフデ号の乗務員を処刑するよう家康に申し出たり、一人の神父を派遣して彼に日本を去るように説得したりしました。さらに最終手段として、プロテスタントからカトリックへと改宗するように迫りましたが失敗に終わりました」
 さりげなく書かれているが、宣教師たちがアダムスにかけたプレッシャーのほどが推察できるではないか。なんと抹殺さえもくろまれていたのだ。彼の心のうちに芽生えたものは容易に想像がつく。
 かくて三浦按針ことウイリアム・アダムスは宣教師たちへの反撃の機会を虎視眈々と狙っていた。

「邂逅」までのプロセス 4

2006-01-29 17:16:59 | 小説
 とはいえ、いま「本能寺の変」に寄り道するいとまはない。先を急がなければならない。
 どうしても年代記ふうな書き方になってしまうけれど、信長亡き後、天下人になった秀吉は1587年にイエズス会の伴天連(司祭)追放令を出す。このことを奇貨としたのは、マニラを拠点としていたフランシスコ会だった。自分たちの出番が来たというわけだ。さっそく日本に司祭たちを送りこんだ。ところが実際は日本からイエズス会の修道士がいなくなったわけではなく、九州の大名たちが秀吉の意にそむいて、修道士たちを遺していたのであった。
 さて、時代背景は信長、秀吉、家康と移るのであるが、話の展開上、ひとりのイギリス人の来日について記しておかねばならない。
 日本イエズス会副管区長ペドロ・ゴメスが死んだのが1600年2月、その二ヵ月後の4月、臼杵に近い佐志生にオランダ船リーフデ号が漂着した。航海長はイギリス人だった。ザビエル同様、私たちはこの人物の名はよく知っている。ウイリアム・アダムス、後の三浦按針である。船籍とアダムスの国籍に注意をはらう必要がある。オランダとイギリス、プロテスタントの国だ。そうでなくても、スペインやポルトガルに敵対心を持っていたのだ。そのアダムスが徳川家康の家臣となるのである。
 

「邂逅」までのプロセス 3

2006-01-26 22:12:38 | 小説
 スペインの宣教師とポルトガルの宣教師との間に、感情的な対立があったことは致し方ないところだが、同じスペインでもイエズス会と他の修道会には互いに反撥するものがあった。キリスト教の布教という目的のもとに来日しても、それぞれお国の事情や組織の事情は違ったものをかかえていたのである。
 当時、フィリピンで布教活動をしていた宣教師たちに日本へ赴こうというブームが高まり、将来の混乱を懸念したイエズス会は、教皇に嘆願している。日本での布教活動はイエズス会に限らせてほしい、と。教皇はこれを諒承して勅書を発令、マニラで公布した。このことがスペイン系の他の修道会員たちを激怒させ、かえってイエズス会といわゆる托鉢系修道会(たとえばフランシスコ会)の対立抗争を深めることになってしまった。
 かの豊臣秀吉もイエズス会を憎悪した。イエズス会を庇護したのは、よく知られているように織田信長であった。信長が本能寺で死ぬ2年前の1580年にはキリシタンの総数は約10万人、イエズス会員約60名がいた、と記録は伝えている。
 ちなみに信長の死、つまり本能寺の変の黒幕にイエズス会を想定する論者がいる。この異説を知ったとき、なるほど面白い視点だと新鮮な驚きにうたれた。しかし、この異説はもうひとひねりしたほうが面白そうな気がする。つまり、イエズス会と信長の癒着を懸念した別の修道会派が黒幕として介在したというふうに、である。

「邂逅」までのプロセス 2

2006-01-25 22:50:11 | 小説
 話を進める順序として、イエズス会のことに触れておかなければならない。
 舞台はパリ。1534年8月15日、モンマルトルの丘のディオニソス聖堂に7人の人物が集い、誓願を立てた。誓願のひとつに世界宣教というのがあった。これがイエズス会の起源である。中心人物はバスク出身のイグナチオ・デ・ロヨラであったが、メンバーの中には、私たちがよく知っている人物がいる。フランシスコ・ザビエルである。
 イエズス会は1540年には修道会として、教皇によって正式に認可されるが、従来の修道会とは一線を画し、行動的というかラディカルな組織であることを記憶にとどめておく必要がある。
 さて、1549年、ザビエルら宣教師3名がインドのゴアを経て、鹿児島に上陸する。偶然だろうが、イエズス会創設の日と同じ8月15日のことだった。
 ザビエル自身は亡国ナバラの出身であったが、他の2名はスペイン人である。バレンシア出身のコスメ・デ・トルレスとコルドバの富裕な商家の出であるファン・デ・フェルナンデス。いずれも修道士であった。
 日本にはじめてキリスト教を伝える人物が到着したのである。
 その3年後、ポルトガル船が種子島に来航している。(「鉄砲記」のポルトガル人の種子島漂着はこれより前の1543年のこと)

「邂逅」までのプロセス 1

2006-01-24 11:56:31 | 小説
 15世紀後半、正確には1492年のことだが、スペインのトルデシリャスで、スペインとポルトガル両国で結ばれた協定がある。ヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めたもので、地球の半分ずつをスペイン、ポルトガル両国で分けあおうという、いわばとんでもない条約だった。しかし時の教皇アレクサンデル6世が承認してしまった。新世界に船団を送りつづけていた両国の紛争解決策だったのだ。世にいう「トルデシリャス条約」である。
 西アフリカのセネガル沖の、あるポイントから子午線に沿った線(西経46度37分)の東側がポルトガル、西側がスペインに属すと決められた。さて、わが日本はちょうど180度裏側にあたるという微妙な位置にあった。両国にとっては日本は新しい紛争の火種になるのは目に見えていた。
 さらに、この条約によって締め出された他のヨーロッパ諸国、とりわけオランダ、イギリスなどは内心面白かろうはずはない。新世界進出をめざすなら、教皇の承認を無視するという立場をとらざるを得ない。
 スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの国の人々が来日し、鉢合わせすればどうなるのか。いや、どうなったか。

『蘭学事始』の中の登場人物 その4

2006-01-20 07:25:11 | 小説
 栗崎流の始祖ドウが「南蛮人の種子」つまり混血児であるとして、さて、その南蛮人とはいかなる国の人をさすのか。江戸時代に渡来したヨーロッパの人たちは、南の国のマカオやフィリピンのルソンを拠点としていた。だから、中国の中華思想をまねて、彼らのことを南蛮人と称したわけだ。実際は西洋人のポルトガル、スペイン、イタリア人が一括して南蛮人とされたわけだが、オランダ人だけは「紅毛」という呼び方で、なぜか南蛮の範疇からはずれることがあった。もっとも、今も昔も、外人の国籍を私たち日本人は外観で判断することは苦手である。一般的には、オランダ人もふくめて、ヨーロッパの人たちは「南蛮人」とみなされたことであろう。
 キリスト教の布教を懸念した徳川幕府は、慶長17年(1612年)、禁教に踏みきり、以後、オランダ以外の西洋諸国との交易を禁止している。オランダだけは特別扱いだったから、南蛮の範疇からはずれたのかも知れない。だいたい、南蛮流外科とオランダ流外科そのもが区別されていたと玄白も述べていた。
 そんなことを勘案すると、「ドウ」はまずオランダ人とのハーフとは思えない。ではいずこの国の親の子であるのか。スペイン人だった可能性はないか。こんなふうに「好奇」の羽をもった心の中の蝶がひらひらと舞うのである。
 

『蘭学事始』の中の登場人物 その3

2006-01-18 14:39:35 | 小説
 定説では栗崎流の始祖は、栗崎道喜ということになっている。肥後国栗崎村(宇土市栗崎町)の生まれで、幼くして長崎に出、南蛮人によって海外に連れ去られ(?)ルソンあるいはマカオで外科医術を取得、のち帰国して長崎で開業したとされている。ちなみに「道喜」は「ドウキ」とよむ。
 つまり、定説では栗崎流の始祖は混血児ではないのである。杉田玄白が『蘭学事始』に記したことがらのなかには、彼の記憶違いや思い違いもあるらしい。なにしろ83才にして書いた回想録である。しかし、私には杉田玄白が「ドウ」という名のいわれにこだわったことからも、栗崎道喜がハーフであったように思えてしかたがない。
 史実をたずねても、手がかりが途絶えてしまえば、あとは想像でおぎなうしかない。そして歴史小説の端緒はあんがいこんなところにある。私は歴史小説というものは史実という道が途絶えた断崖絶壁で、虚空に架橋する想像の橋だと思っている。作者の勝手な想像で史実をねじまげる所業がいちばん駄目だと思っている。だから、某作家がありもしない龍馬の手紙をでっちあげ、推理小説をものにしたときは、ほとんど怒りをおぼえたものだ。
 あらぬ方向に筆がすべった。話を軌道にもどそう。

『蘭学事始』の中の登場人物 その2

2006-01-15 16:54:19 | 小説
 杉田玄白は『蘭学事始』のなかで、蘭学が興る前からあった南蛮流外科、つまりオランダ外科の流派や医師について列記している。私が注目したのは次の記述であった。
「又栗崎流といへるは、南蛮人の種子なりと。(略)其中栗崎氏にて名はドウといふものは、彼地に成長しても其宗(キリスト教)には入らず、其国の医事も学びしが、邪宗に入らざる訳を以って帰朝を許され召し帰され、長崎へ帰りし後、其術を以って大いに行れ、至って上手なりしが、人々栗崎流と称せし由。名のドウといへるは蛮語露のことなる由」
 どうやら混血の医師がいたようなのだ。柴田錬三郎の創出した時代劇のヒーロー、眠狂四郎はご存知ころびバテレンと日本人女性とのハーフだった。狂四郎に似た境遇の医師が実在したということなのだろうか。
 さて、忠臣蔵に話は飛ぶ。殿中で浅野の若殿に斬りつけられた吉良上野介を手当てした幕府お抱えの医師がいた。名を栗崎道有という。吉良上野介が四十七士のよって討たれた時も、吉良の首と胴体を縫合したのは、同じ医師であった。むろん栗崎流の医師である。「ドウ有」という号をもつこの医師の、おそらく祖父が玄白のいう「ドウ」なのである。
 

閑話休題

2006-01-12 17:18:37 | 小説
 続きを書こうとした矢先に実母が急逝、あわただしく日は過ぎて、テンションは下がってしまった。
 以前にどこかで触れた大路和子さんの小説のことをご紹介して、ひとまず、つないでおきたい。大路さんからの賀状によれば今春、『陸奥宗光の妻・亮子』が新人物往来社より出版のはこびとか。長年の構想が実を結ぶわけで、めでたい。陸奥夫人に焦点をあわせたとはちょっと意表をつかれた。いずれにせよ、労作に違いない。今から読むのが楽しみである。
 私の書くものが一本に纏まるのを、もっとも楽しみにしていたのは故人となった母であった。忸怩たる思いにとらわれるけれども、その思いがどこかで私のバネになるだろう。

『蘭学事始』の中の登場人物 その1

2006-01-04 23:10:42 | 小説
 杉田玄白が『蘭学事始』を書き上げたときの年齢を知って、いささか驚いた。そればかりが理由ではないが、にわかに興味をそそられて『蘭学事始』を読みはじめ、たちまちにして後悔の念にとらわれた。もっと早い時期に読んでおくべきだったという後悔にである。
 この書物の写本を明治のはじめに読んで感涙にむせんだという福沢諭吉の心情は、なるほど大げさではなかったのである。福沢諭吉は書いていた。「我々は之を読む毎に、先人の苦労を察し、其剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはなし」と。さらにまた、ある箇所にいたると、感涙にむせんで言葉を失うのだと。
 その『蘭学事始』は、なんと杉田玄白が83才のときの著作だった。そして歳のことでいえば、この書物には驚くべき老人が出てくる。杉田玄白らがオランダ語の解剖書の翻訳を思い立つのは、よく知られているように刑場で罪人の腑分けを見たことが契機になっていた。その腑分けは最初の予定では虎松という男がすることになっていた。ところがにわかに病気になり、虎松の祖父が代行しているのだ。その祖父の年齢が90才。
 江戸の老人力、あなどるべからず、である。