小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

真相・浪士組結成と清河八郎 完

2016-07-11 12:14:32 | 小説
タイミングのいいことに、この年8月、次のような朝命が出されていた。「諸大名ならびに諸藩士、浪人等正義の徒の幕譴を蒙れる者を大赦せよ」というものである。「幕譴」つまり幕府のあやまちによって、というのは井伊政権のことを指しているのだろうが、清河八郎自身、この大赦令の実行に期待をかけていた。
 12月26日、幕府は大赦の令を下し、志士の罪あるものを許した。清河八郎に連座して獄中にあった八郎の弟熊三郎と池田徳太郎を放免した。これを知った清河八郎は翌文久3年正月、浪士取扱の者に自訴し、宥免をかちとった。
 むろんお叱りをうけたが、浪士取扱の松平上総介(主税助)と鵜殿鳩翁に身柄を引き渡されたのであった。。
 浪士取扱の下の浪士取締役には山岡鉄太郎がいた。だが、これまでの関係から八郎の方が兄貴分である。事情を知らない浪士たちから見れば無役の清河八郎の立場の方が上にみえたかもしれない。
 2月8日、募集に応じた浪士およそ250人が江戸小石川の伝通院に集合、京をめざして出発した。
 八郎は隊列の中にはいない。自由人のように「時には先方に、時には後方にはるか離れて歩いて行く」(小山松勝一郎『清河八郎』)

 さて切れ切れに書いてきたけれど、清河八郎が浪士組結成の主導者でないことはご理解いただけたのではないだろうか。
 よく清河八郎を「新選組の生みの親」(新選組の母体が浪士組だから)などと評する人がいるが、事実を歪めたおかしな言い方なのである。もともと新選組は、浪士組に叛いて離反したグループなのである。
 清河八郎を新選組人気に結びつけるのは弊害しかない。むろん彼を顕彰したことにもならず、むしろ実像を歪めるばかりである。彼の顕彰には別の切り口が必要なのだ。私の言いたかったのは、このことである。(完)

真相・浪士組結成と清河八郎 3

2016-07-10 13:40:14 | 小説
 松平主税助は徳川家康の六男忠輝の七代の孫という名族であった。名は忠敏。文久3年正月には上総介に昇格改称するから、主税助時代のことも上総介と回想されることもある。
 ともあれ格式は大名の上の主税助と一介の浪士清河八郎の建白とでは、うけとる側の重みだって違うのである。
 この年、文久2年の夏以降、いわゆる尊攘激派の浪士たちの動きが活発化し、攘夷問題に悩んでいた幕府を困らせていた。できもしない攘夷をひそかに朝廷に約束していたからである。
 主税助は建白書に「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計」少しも早く、彼らを幕府側に引き付け、天下の人心を幕府に帰一させなければならない、と書いている。
 そして、来春上洛する将軍の警護にあたらせれば、諸藩はじめ京、大坂の人心もあらたまるだろうと。(ちなみに清河八郎の建白には、上洛する将軍の警護などという具体的な提言はない)
 さて、浪士徴募の、手っ取り早い方法として、剣術の道場主に声をかけるのは効率的である。しかし、主税助は宮和田光胤に断られてしまった。
 ここで主税助の胸中に清河八郎の存在が大きくなる。清河八郎も道場主であった。主税助の講武所仲間である山岡鉄太郎は、清河の主宰する虎尾の会に属していたし、山岡を通じて清河八郎のことはよく聞かされている。
 しかも主税助が幕府から受け取った浪士募集の達文には、「尽忠報国」の志が篤ければ、既往の罪を免ずることもあるとされていた。
清河八郎を「お尋ね者」でなくすればよい。

真相・浪士組結成と清河八郎 2

2016-07-09 12:42:27 | 小説
 松平主税助は、光胤採用については、政治総裁松平春嶽と老中板倉勝静にも話して内諾を得ているからというふうに光胤を口説いたらしい。
 しかし光胤は、12月13日、飯田町に仮住まいの主税助の「屋敷へ参り馳走ニなりし上同務等を断り候」と日記に書いている。
 浪士取扱の話を断ったのである。
 別の個所で光胤は、主税助のことを「此人、佐幕乃人ニテ光胤等と同志にあらす」と評しているから、しょせん幕臣という身分を脱しきれない主税助を見限っていたのであろう。

 狂歌が歌われた。

 松平主税助、浪士取扱仰せ付けられけれバ、
  此節は浪人どもが流行でちからを入れて奉行勤める

 むろん「ちから」に主税を掛けている。

 さて、ここで清河八郎の立場を確認しておかねばならない。彼は例の無礼討ち事件によって、幕府より指名手配されている、いわば「お尋ね者」である。
 その彼が、春嶽に上表するのは、彼の度胸の良さと文章家としての自信である。とはいえ、お尋ね者の建白を幕議にかけるわけはなく、浪士利用は松平主税助の建白によって実現したのである。いや、主税助の建白の黒幕が実は清河八郎であると言いたい人がいるかもしれないが、そんな気配や証拠はどこにもない。
 元新選組の永倉新八の回顧談などによって、清河八郎を判断してはいけない。永倉は大正まで生きたが、「真相と怪しげなことの両方を大量に伝えた」と著書『新選組』(岩波新書)に書いたのは松浦玲だった。

真相・浪士組結成と清河八郎 1

2016-07-08 10:14:55 | 小説
 清河八郎は生前からなにかと誤解されやすい人物であったが、いわゆる浪士組の誕生に関しては、いまなお発起人であるかのようにみなされる誤解が定説化されている。たとえば、Wikipediaの「浪士組」の項目には、こう記されている。

「もともとは尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、攘夷を断行する・浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)・文武に秀でたものを重用する(急務三策という)ことを条件に結成されたものだったため、腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織であった。最初の浪士取締役には、松平忠敏(上総介)・中条景昭・窪田鎮勝・山岡鉄太郎などが任じられる。」

 さて、記事中の「急務三策」(これとて真向から浪士徴募を提言したものではない)を清河八郎が松平春嶽に建白したのは、文久2年11月12日である。
 ものごとは冷静に時系列にながめてみればよい。
 清河の建白より、ほぼ一か月前の10月18日に浪士利用を幕府に提言した人物がいる。講武所剣術教授方松平主税助である。松平主税助の建白によって幕府は浪士徴募を決定し、まず松平主税助を12月9日に「浪士取扱」に任命し、10日後の19日、浪士徴募の命令を下している。松平主税助は、すでに浪士徴募の統括責任者として宮和田又左衛門光胤に白羽の矢を立て、10日には光胤に話をもちこんでいた。宮和田光胤は江戸日本橋近くのヘッツイ河岸に北辰一刀流の剣術道場を開いていたが、松平主税助とは平田篤胤の気吹舎における同門人で、かねて熟知の間柄だった。(続く)