小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎の最期 完

2012-01-01 21:05:11 | 小説
 さて、松浦玲氏の『新選組』に次のような箇所がある。
「幕府は三月に東帰させた浪士組から本気で関東攘夷を遣ろうとしていた清河一党を排除し、骨抜きにしておいて新徴組に再編したのである。四月十三日に清河八郎を暗殺し、次いで残る一味を拘束した。監督する幕臣も、清河に近かった山岡鉄舟らは罷免されて差控えとなっている。そうしておいて浪士組のうち人物よろしき者を選び『新徴組』と唱え変えさせて庄内藩に委任したのである。人物よろしきとは勝手に攘夷計画を立てないという意味だろう」
 ご覧のとおり、この文脈で「清川八郎を暗殺し」の主語は「幕府」である。もうなんのためらいもなく幕府である。
 かって大川周明はこう書いていた。「八郎が幕府のために暗殺されたことは、前後の事情から明白疑ひを容れないが…」(『清河八郎』)
 大川周明の時代には、まだこのように微妙なためらいの滲む断定だったことを記憶しておこう。
 ではなぜ幕府は八郎を殺したのか。
 松浦玲氏風に語れば、幕府は天皇に対する攘夷の約束を曖昧にしたいのに、八郎にどうしても攘夷しなければならないところへ追い込まれようとしたからである。
 世の中には、浪士組といういわば幕府の組織下にあった八郎が幕府を裏切ったから、報復のため殺されたと思い込んでいる人が多い。裏切りというような単純な次元によるものではなかったのである。将軍はすなわち征夷大将軍である。攘夷をしてこそ将軍ではないか。将軍といえども朝臣ではないか。そういう思いが八郎にはあったはずである。八郎は一般にイメージされているように変節漢でも策士でもない。むしろ他人から騙されやすいのが八郎であったというのが、ある程度八郎に関する資料を読んできた私の印象である。
 あの日の夕暮、一ノ橋近くの路上に倒れた清河八郎の首を、現場に駆けつけた石坂周造が切り取って隠した。やがて山岡鉄太郎が伝通院の側寺所静院の住職と相談して、秘密裏に同寺に葬った。その後山岡は私費で八郎の墓を建て、傍らにお蓮の墓も建てた。
 山岡はここで短かったが濃密な夫婦だった八郎とお蓮を、再び一緒にさせたのであった。