小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

刃傷松の廊下の「真相」  4

2006-10-31 20:39:55 | 小説
 周知のとおり、松の廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭は、即日切腹となった。この断罪のすばやさは、たぶんに朝廷への気遣いがはたらいている。早まった措置ではなかったかと後で問題となるのだが、将軍綱吉にしてみれば東山天皇の顔色をうかがうような思いで、はやばやと内匠頭を切腹させたのであった。綱吉はまったく読み間違えていたのだ。天皇はむしろこの即日切腹に怒りを感じていた。
 京に戻ってきた勅使(と院使)を叱責し、参内を禁じたほど本気で怒っていた。
 勅使の柳原資廉(すけかど)、高野安春の2名、それに院使の清閑寺煕定(ひろさだ)の3名が内匠頭の接待対象だった。(東山天皇の父の霊元上皇が院政をしいていたから院使が混じっているのである)
 この3人は3月11日に伝奏屋敷に着き、翌12日に登城して綱吉に天皇・上皇の挨拶礼を伝え、13日には城内で能を楽しんでいる。事件の日の14日は儀礼の最終日だった。内匠頭はこの一日をやりすごせばよかったのだが、それができなかったことになる。
 両使3名に、事件とその処置を伝えたのは阿部豊後守と秋元但馬守であった。内匠守は「不届きにつき」切腹を申しつけられましたと、あたかも「この処置でよろしゅうございましょうか」というふうに報告している。両使はこれに対しなんの意見も述べなかった。もしも両使が、即日切腹とはいかがなものか、とでもとりなしていれば事態はもっと違った展開になったかもしれない。いや、たぶん少なくも即日切腹を回避させることは充分に可能だった。
 天皇の怒りの理由はそこにあったのだ。天皇には、吉良の方が悪いに決まっているという確信のようなものがあった。

刃傷松の廊下の「真相」  3

2006-10-30 21:17:45 | 小説
 東山天皇の胸のうちを推測する前に、吉良上野介の高家(こうけ)という職務について確認しておこう。朝幕間の典礼をつかさどるのが高家と、ひと口に言ってしまえばそれまでだが、むろんご馳走役の大名の指揮や習礼の指導のほかに、結構こまかい職務があって、朝廷の重要儀式への参列、伊勢神宮・日光東照宮への代参、日光門跡など宮門跡・法親王などのもてなしなども担当した。
 日光法会でも、どうやら吉良上野介は大名の不評をかっている。伊予国大洲藩主の加藤遠江守泰恒、そして出羽国新庄藩主戸沢下総守正庸はこもごも吉良上野介からうけた仕打ちを内匠頭に伝えていたという。「腹にすえかねることもありうるだろうが、耐えよ」と諭していたというのだ。吉良から両藩主がうけた仕打ちが具体的にわからないが、いじめに近いものと察しはつく。
 元禄年間、日光東照宮の貫主は公弁法親王だった。皇族出身の天台僧侶で、のちに赤穂浪士の処分で将軍綱吉の相談をうける人物だ。後西天皇の第六皇子だから、東山天皇とは従兄弟の間柄になる。
 さて、ここからは私の推測になる。
 東山天皇は吉良上野介のことをこころよく思っていなかったが、それは彼に関する具体的な悪評を耳にしていたからに違いない。松の廊下での刃傷事件の第一報をうけて、おそらく内匠頭の人となりはなにも知らないはずなのに、とっさに吉良が斬られて愉快だという反応したのは、そのためであろう。そうとしか思えないではないか。吉良はいずれ誰かに斬られて当然だと認識されていて、そら見ろ思った通りじゃないかと嬉しくなったのだ。

刃傷松の廊下の「真相」  2

2006-10-29 14:29:03 | 小説
 ところで亀井茲親や浅野内匠頭の担った役割は、要するに天皇の使者の接待役ということである。
 幕府は年初には朝廷に年賀使を派遣していた。この答礼というかたちで、天皇は毎年2月下旬から3月にかけて勅使を江戸に下向させていた。朝廷には、いわゆる朝幕間の意思疎通をはかる「伝奏」という役職があり、現在の丸の内に勅使たちの宿所「伝奏屋敷」があっって、その屋敷は「公家衆御馳走屋敷」とも呼ばれていた。勅使饗応役が勅使御馳走役ともいわれるゆえんである。この頃は、ちょうど朝廷と幕府の関係が微妙に変化しはじめていた時期にあたるが、天皇が勅使饗応役の刃傷沙汰に無関心でいられたはずはない。
 天皇はいかなる反応を示されたのか。おそらく誰しも、内匠頭の行状に眉をひそめられたと思うに違いない。朝幕間の典礼に齟齬をきたした事件であったからだ。ところが、さにあらずなのである。
 関白近衛基煕の元禄14年3月19日付けの日記に、意外な記述がある。関白が、吉良上野介は浅野匠頭に斬りつけられたと報告すると、ときの東山天皇は「ご喜悦の旨、仰せ下し了(おわ)んぬ」とあるのだ。なんと、喜んだというのである。下世話に言えば「吉良め、ざまぁみろ」といった感じなのだ。
 吉良上野介は祖父から三代続く幕府年賀使でもあった。この年の正月に将軍の使者として上洛し、朝廷に年始の挨拶をしたのは、ほかならぬ吉良上野介であった。吉良に刃傷沙汰に及んだ浅野はけしからん、と立腹してもよさそうなのに、逆に「喜悦」したというのはなぜだろう。

刃傷松の廊下の「真相」  1

2006-10-26 14:20:01 | 小説
 史料あさりの醍醐味のひとつに、思いがけないところで思いがけない記述に出会うことがある。このたびも本来の目的を忘れて、その記述の意味に心が吸寄せられてしまった。
『藩史大事典』第6巻「中国・四国編」(雄山閣出版)の津和野藩の略年表に、その記述はあった。
「茲親、勅使馳走役を務め、吉良上野介を斬らんと図るが、多胡真蔭の謀により事なきを得る」
 元禄11年のこととあった。
 茲親とは、津和野藩主亀井茲親隠岐守のことであり、多胡真蔭は江戸家老である。さて、ご存知忠臣蔵の発端となった「刃傷松の廊下」事件は元禄14年のことであるから、その3年前に、すでに状況としては似たようなことがあったのである。このおり、浅野内匠頭と同じ役割をになった亀井茲親が吉良上野介を斬っていれば、浅野内匠頭の刃傷はありえず、忠臣蔵はなかったことになる。あるいは別の物語になったはずだ。
 ところで、浅野内匠頭がなぜ吉良上野介に刃傷に及んだかは今日にいたるまで、真相は明らかではない。当の内匠頭がその理由をつぶさに語っていないからである。
 諸説があって、そのひとつに内匠頭のいわば精神障害説がある。彼の母方の叔父に、やはり乱心して刃傷沙汰を起こした人物(注)がおり、遺伝的なものがあったとする見方などがある。実際、切れやすく短気な殿様だったという証言もあるのだが、こうした説は排除されていいといえるのではないか。同じ勅使饗応役についた津和野藩主も内匠頭同様の行動を起こそうとした事実は、ひとり内匠頭の精神状態に帰せられるべきことではないと言い得るからだ。

注:将軍家綱の葬儀のおり、芝増上寺で永井尚長を斬り殺した内藤忠勝のこと。

北原白秋姦通事件  余滴

2006-10-18 20:59:11 | 小説
 新宿ゴールデン街に昔、「お和の店」というバーがあった。店のマッチは漫画家の小島功が無償でデザインしたもので、ここに集う客たちは漫画家、物書き、映画・TV製作の関係者、あるいは落語家といった人種だった。映画監督の浦山桐郎が真っ赤な顔をして「おーいお和」といって戸口で叫ぶような店だった、これで時代がわかるだろう。20代後半の私は、ふとしたきっかけでこの店に通っていて、いつもカウンターの隅でひとり店の雰囲気を楽しんでいた。常連客の一部からは、ママのお和さんの弟だと勘違いされてもいた。ある晩、この店で今は亡きY・T氏と鉢合わせした。すれちがうように席を立った私に「へー、こんな店で呑んでるんだ」と氏は言い、にっと笑った。後日ママは、「Tちゃん驚いてたよ、こんなところで親戚に会うとは思っても見なかったって」と言い、「ということはなに?あんたも白秋と血縁関係があるの?」と訊いた。Y・T氏は白秋の甥にあたる人だった。母親が白秋の妹の家子で、白秋の妻の俊子の三重の実家で一時期を過ごしたこともある女性だった。お和さんはそのことを知っていて、私もまた北原家に縁のあるものかと訊いたのである。「いや」と私はあわてた。「全然関係ない…」と口ごもっていたら、お和さんはそれ以上追及してこなかった。そういうママさんだった。
 そんなことがなくても、北原白秋という人は私にはずっと気になる存在だった。それでいてなかなか白秋を精読しようという気分に浸れなかった。詩人の草野心平氏は80才を過ぎるまで白秋は読むまいと心に決めていたという。おこがましいけれど私には草野氏の気持ちがよく理解できる。できるというものの、そのわけは、いわくいい難い。ただ、このほど白秋全集に目を通し、草野氏と同じ感想を抱いたのも事実だ。それは「若い文学の友よ、どうか白秋を読んでくれ」ということだ。

北原白秋姦通事件  12

2006-10-17 22:21:39 | 小説
 橘という学生は、白秋夫妻が三浦三崎の洋館に住んでいた頃に出入りしていた人物であるらしい。おそらくは文学青年であったはずだ。俊子が白秋より一足先に父島から帰ったおりの過ちだ。魔がさしたのである。身も心も傷ついていた彼女には、つかのまの愉悦が必要だったかもしれない。愉悦のはてに、どんな報いが待っているのか、考えるのもおっくうだったに違いない。女のさがの浅ましさと決めつけるには哀しすぎはしないか。ひとは四六時中、正気でありつづけることは難しい。奈落とわかっていながら、ひとときの愉楽に身を任せて落ちてゆくときもある。とりわけ、生きているのが辛くやるせないときには。
 白秋も俊子も若すぎた。白秋には汚辱にまみれても俊子を愛しつづけることができなかった。崩壊した自尊心を救うことが、俊子への愛より上回ったのである。だから彼は俊子を離別した。
 その白秋はのちに二度目の結婚相手からも姦通されている。ところが二度目の妻の姦通に対しては、いくらか寛容な態度をみせるのである。俊子における辛い学習の成果かもしれない。女というものがわかってくるのだった。
 それにしても俊子と松下長平の間に生れた幼女のことが、ずっと私は気になっていた。白秋の書簡集を読んでいて、その幼女は松下家に引き取られていたとわかった。くみ子と呼ばれていた。もし松下長平が死にでもし、くみ子の養育に支障を来たすならば、白秋は自分の娘として育ててもよいと書いてある文面に出会い、救われるような気分になった。白秋はたくさんの童謡を書いている。三好達治などは白秋の詩や歌よりも童謡が一番と評価しているほどだ。その童謡を書いているとき、くみ子のことが白秋の胸をよぎらなかったわけはない。ひそかに彼は俊子の生んだ幼女をあやすような心持で童謡を創ったのではないのか。

   母(かわ)さま恋しと泣いたれば、
   どうでもねんねよ、お泊りよ。  (里ごころの一節)

   ちんちん千鳥は親ないか、親ないか、
   夜風に吹かれて川の上、川の上。 (ちんちん千鳥の一節) 
   

北原白秋姦通事件  11

2006-10-16 20:36:33 | 小説
 俊子の実家に出した白秋の手紙がある。日付は大正3年7月15日、福島塩子宛(俊子の母)の手紙の中で、白秋はある事実を告げている。
「…(俊子は)未だに人の妻女たる覚悟なくまたその務め何ひとつ尽くし不申す態度軽薄のため夫以外の男とも風聞たち我意暴慢益募り、女だてらに夫に離別を迫り、はては両親の面前にて茶碗箸を庭上にたゝきつけ候など、全く普通人間のする事ととは思はれず…云々」
 「夫以外の男とも風聞」がたったと、さすがに婉曲的に伝えているが、俊子は橘某という学生と情を通じたらしいのである。それにしても、修羅場の一端が垣間見える手紙である。
 父島から麻布に、俊子に遅れて帰った白秋は、そこで彼女の不倫を知ったのである。食事の席でそのことに話題が及ぶと、彼女は逆に居直るようにして茶碗を投げ捨て、「別れましょうよ」と言い放ったもののようだ。
『雀の卵』に白秋は書いている。「私が先の妻と別れた時、私は憤怒と侮蔑とに燃え上がりました」と。「ガタガタ慄へました」とも書いている。一般的には貧乏な生活に派手好みの俊子が耐えられなくなって離婚したとみなされ、こういう事情が背景にあったと理解している人は少ないような気がする。告訴沙汰になり、入獄まで経験して名声を汚し、かつ高額の示談金まで払って一緒になった女である。その女に裏切られたわけである。白秋の屈辱感と無念さを、ほんとうにわかりうる人はいかほどか。
 さて、ところで俊子のことである。彼女はいわば魔性の女であったろうか。性的にどこかだらしなく、もっとはっきりいえば淫蕩な女であったろうか。白秋に自ら離縁を迫ったというけれど、本心だったろうか。
 
 棄てられると外に罵りて泣く吾妹棄てられるは誰が事ぞ言へ

 いざ離縁となると、俊子は「棄てられる」とわめいたのである。

北原白秋姦通事件  10

2006-10-15 20:12:50 | 小説
 大正3年6月から7月の間に、もうひとつの姦通事件があったはずである。この頃のことを、3年後の大正6年に白秋はこう述懐している。
「我は貧し、貧しけれども、我をしてかく貧しからしめしは誰ぞ。而も世を棄て名を棄て、更に三界を流浪せしめしは誰ぞ。我もとより貧しかれども天命を知る。我が性玉の如し。我はこれ畢竟詩歌三昧の徒、清貧もとより
足る」
 意外となおざりにされているが、問題はこのあとに続く文章である。
「我は醒め妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我は心より畏れ、妻は心より淫る」
 で、以下次のように続く。「我父母の為に泣き、妻はわが父母を譏る。行道々、我高きにのぼらむと欲すれども妻は蒼穹の遥かなるを知らず。我深く涙垂るれども
妻は地上の悲しみを知らず。我は久遠の真理をたづね、妻は現世の虚栄に奔る。我深く妻を憫めども妻のために道を棄て、親を棄て、己を棄つる能はず。真実二途なし。乃ち心を決して相別る」(《哀傷篇結末》の詞書より)
 俊子を離婚した言い訳のような文章であるが、「妻は未だ痴情の恋に狂ふ」という箇所は、白秋との不倫の恋のことを指しているのではない。「未だ」という語に注目すべきなのである。
 俊子はこんどは白秋を裏切って、ある男と過ちを犯したのであった。つまり白秋はこんどは皮肉なことに、俊子の夫であった松下長平の立場に、おかれるのであった。

北原白秋姦通事件  9

2006-10-12 22:30:05 | 小説
 結局のところ、もとはフランス人が使っていたという三崎向ヶ崎の洋館に北原一家のいたのは4ヶ月足らずだった。白秋と俊子を残して、他の者は東京に戻ったのである。弟の鉄雄の提案したとおり、白秋夫妻は両親、弟妹たちと別居状態になるのだが、これが9月のこと。
 さて、わけあって私はこの頃の白秋の年譜を詳しく点検してみた。
 10月には、ふたりは三崎二町谷の見桃寺に寄寓している。広い洋館は不経済だったのであろう。そして、暮れの12月には海外(かいと)というところの漁師のあばら家を借りている。明ければ大正3年である。2月(3月説もある)には白秋は俊子を連れて小笠原父島に渡る。俊子の病気(監獄で病んだ肺結核)療養のためということになっているが、なにかしら唐突な感の否めない行動である。
 しかもふたりは、ばらばらに離島するのだが、なぜか俊子のほうが先に帰っているのである。俊子は6月、白秋は7月に東京に戻り、麻布で北原一家はまたしても結合し、一つ屋根で暮らすことになる。せっかく別居できていたのに、葛藤を蒸し返すようなものだった。
 もっとも、以上のように年譜をたどってきても「事件」の影もかたちもうかがえない。ことがらは隠されているのだ。
 この稿のタイトルは「北原白秋姦通事件」である。だから、ここでいう「事件」というのも「姦通事件」である。既述してきたものと違う、もうひとつの姦通事件があったのだ。

北原白秋姦通事件  8

2006-10-11 20:51:04 | 小説
 男と女は恋愛関係においては、個としての男と女でいられる。しかし、結婚となれば別のものを背負った男と女として向き合わなければならない。「別のもの」にはさまざまな名がつけられるが、さしあたっては「しがらみ」といってもよい。白秋と俊子には、しがらみが多すぎた。
 三崎の家には、白秋の両親、それに弟の鉄雄、妹の家子が同居していた。その父と鉄雄は魚の仲買業に手を出すが、すぐに失敗する。莫大な負債を抱えている父には焦りがありすぎて、なにをやってもうまくいかないようなところがある。
 北原家は代々、藩の御用達をつとめた海産物商で、九州一円に知られた金満家だった。父の代には酒造業が主業になっていたが、明治34年3月の「沖端の大火」で仕込みを終えた酒倉を類焼し、これがもとで破産に追い込まれた。再建のために高利の金を導入して泥沼にはまり、いまなお国もとの債権者から追われていた。長男である白秋も連署した借金があり、その負債の残債はどうやら10万円。白秋が必死で原稿を書き、印税と合わせれば月収20円といった時代の10万円である。
 俊子はもとより貧しい家計のやりくりには不向きな女性だった。弟の鉄雄は両親と俊子の折り合いの悪さをみかねて、白秋夫妻に別居をすすめていた。「これでは兄さんの詩も出来ない。姉さんも辛い思いをするだけだ」というわけだ。生活苦がひとの心を荒廃させるのは、ありふれた光景といえばいえるが、白秋も俊子も感受性が強すぎた。白秋が父から「歌など作っていずに、車ひきでも土方でもやれ」と罵倒されたのも、この頃のことであろう。俊子は詩人白秋に惚れたのであって、車ひきなどになったら彼女の心が離れていくのは白秋がいちばんよく知っていた。

北原白秋姦通事件  7

2006-10-10 23:08:30 | 小説
 たんに事実を事実として書きつけるならば、白秋と俊子は大正2年5月に結婚している。俊子は外人バーのホステスから、もう一度人妻になるわけである。
 白秋の生家は破産し、この頃には両親も九州から逃げるようにして上京して白秋と同居していた。つまり俊子は白秋の父母と同居することになるわけだが、一家は三浦半島の港町、三崎町の向ヶ崎に移住する。城ヶ島を眼前にのぞむ洋館だった。
 
  深みどり海はろばろし吾が母よここは牢獄にあらざりにけり

 白秋は移り住んだ当初こそ、新しい生活のはじまりに喜びの歌をうたったけれど、檻のない牢獄もあるということにまだ気づいていない。私たちは知っている。ここで生れた哀しい詩のあることを、だ。
  
  雨はふるふる、城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる。
  雨は真珠か、夜明けの霧か
  それともわたしの忍び泣き。

 やるせない哀調をおびた詩だが、実際、忍び泣きするような生活が待っていた。後年、白秋はこんな歌を詠んでいる。三浦半島での生活によほど傷ついている証拠である。

 相模のや三浦三崎の事思へばけふも涙のながれながるる

 いったい、白秋と俊子のいわば新婚生活はどうなっていたのか。

北原白秋姦通事件  6

2006-10-09 21:03:49 | 小説
 明治という時代は終り、大正になったその年の冬、横浜の外人ホテルのバーにリリーという名のホステスがいた。店に出始めて半年たらずに売れっ子となって、バーのママに特定の外人客の愛人になってはどうかとすすめられたりしている。そのコケティッシュな性格がホステスという稼業に向いていたのかもしれない。
 リリーだから、日本名の源氏名にすれば、百合子になる。だから、いっとき疎遠になった男に手紙を出して、百合子という宛名で返信をねだった。
 男の心が揺れた。一度ならず死の淵を覗き、もう彼女とは会うまいと心に決めていた男の心が乱れた。
 リリーは俊子である。告訴沙汰のあと、さすがに世間体もあって、ふたりは逢瀬を重ねることもなくて、そうこうするうちに白秋は俊子の消息を見失っていた。それでよいと心のどこかで納得し始めていた矢先だった。
 男と女の修羅場は終ったのではなかった。むしろ、これから始まるのだった。
 横浜の石川大丸谷37番地渋沢方い住んでいた俊子宛に白秋の手紙が届くようになる。
 大正2年1月にリリーこと百合子、つまり福島俊子宛(福島は俊子の旧姓)の手紙で、白秋は「あなたとの怪しい愉楽を思い出す」とまで書いている。
「…ああ自分たちの昔のゆめ、たった半年前の事だが千年も経ったような気がする。もう一度あのゆめを取りかへしたい…」

北原白秋姦通事件  5

2006-10-05 17:07:00 | 小説
 さてところで、白秋と俊子が姦通罪に相当する関係になった時期については二説がある。どうでもいいようなことだが、明治45年の春に性愛の関係を持ったというのが通説。つまりふたりは知り合って一年半はプラトニックだったというもの。いまひとつは、いやそれは不自然で、明治44年の夏には男女の関係になっていたという説(西本秋夫説)。
 白秋の歌を写していてひらめいたことがある。両説とも違っているのではないか、ということだ。春や夏という季節ではない。ふたりが結ばれたのは冬だったはずだ。前に引用した歌では、雪がふっているではないか。さらに次のような歌がある。

 チョコレート嗅ぎて君待つ雪の夜は湯沸(サモワル)の湯気も静こころなし
                 (注:原文のチョコレートは漢字表記)

 この歌もまた「雪の夜」である。歌集『桐の花』所収の歌だから、「君」とは俊子にほかならない。おそらく明治44年の歳末に、ふたりは一夜を明かす仲になったと私は推測する。
 ともあれ苦しい恋だった。姦通罪で起訴され、「文芸の汚辱」と罵られ、世間の指弾をあびた白秋は、その精神的な打撃から自殺まで考える。俊子は獄中で肺結核にかかるが、白秋は心を病むのであった。
「野晒(ノザラシ)」という詩がある。
  
  死ナムトスレバイヨイヨニ
  命恋シクナリニケリ、
  身ヲ野晒ニナシハテテ、
  マコトノ涙イマゾ知ル。

  人妻ユヱニヒトノミチ
  汚シハテタルワレナレバ、
  トメテトマラヌ煩悩ノ
  罪ノヤミヂニフミマヨフ。

 この詩はおよそ白秋らしくない。その、らしくなさの向こう側に白秋の憔悴がほの見える。  
   

北原白秋姦通事件  4

2006-10-04 21:56:25 | 小説
 示談金目当てだったという見方がある。なにはともあれ、松下長平は300円という大金を手に入れて、告訴を取り下げたからである。
 示談の交渉には白秋の弟鉄雄があたった。浜町の「山月」という待合で、鉄雄は松下長平に金を渡し、かわりに告訴取り下げの書類に署名させた。さらに俊子の離婚書類にもサインさせている。公判は8月10日に開かれたが、告訴取り下げによって当然ながら白秋は免訴、姦通罪の適用をまぬがれた。
 松下長平が提示した300円という金額は当時としては大金であった。実家が明治42年末に破産していた北原家にとっては、追い討ちをかけるような金策になった。鉄雄がどんな思いで金をかき集めたか想像にかたくない。
 ところで、松下長平はほんとうにそんな大金が欲しかったのか。私には、金目当てというより白秋をどこまでも苦しめてやろうという魂胆がみえて仕方がない。示談の調停に中央新聞の俳壇の選者であった篠原温亭が動いている。松下の知己である。おそらく松下長平という写真家は文芸の方面にも関心浅からぬ人物であったはずだ。新進気鋭の詩人あるいは歌人として頭角をあらわし得意の絶頂にあった白秋に、はげしい妬心を抱いたのではないのか。妻に対する嫉妬というよりも、男としての敵愾心が上回ったような気がするのだ。
 いずれにせよ、白秋は放免になった。

 監獄いでてぢっと顫(ふる)へて噛む林檎林檎さくさく身に染みわたる

 この歌を詠んだとき、白秋は俊子と夜を明かした日のことを、あきらかに思い出している。キーワードは林檎である。

 君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 しみじみと良い歌だと思う。エデンの園の禁断の木の実のイメージ、林檎がおそらく無意識に詩人の胸に宿っている。

北原白秋姦通事件  3

2006-10-03 21:08:06 | 小説
 ところで白秋が俊子のいる松下家の隣に住んだのは、わずか5ヵ月間だった。そこが引っ越し魔たるゆえんで、9月に越してきて翌年(明治44年)の2月には、京橋区木挽町1-52番地二葉館に移っているからである。だから、25才の詩人と22才の人妻が心を通わせたのは、この5ヶ月間の出来事ということになる。
 夫から虐待されていた俊子の境遇に白秋が同情し、それがいつしか愛に変わったということであろうか。同時代人であった夏目漱石の言葉が思い出される。「可哀相だた惚れたてことよ」たしかPity is loveを漱石が訳すと、そんな言葉になったのだ。
 その5ヶ月の間に、つまり隣り合わせて互いに住んでいた時期に、ふたりが肉体関係におちいったというわけではないらしい。そういう下地ができたといえばいえるということだ。世間というものはおかしなものである。あるいはこの時代ならば法律というものはおかしなものである。肉体を交えるよりも、男と女は心理的にもっと淫靡な関係を結びうるということに、世間も法もあえて気づいていない。だが、このふたりは若すぎた。おあつらえどおり姦通罪を犯した。しかし、その時期はほんとうは定かではない。
 俊子の夫の長平は、俊子に離婚を宣告していた。だから俊子は白秋のもとに走ったのである。そのことを待っていたかのようにして、松下長平は白秋を告訴した。離婚はまだ成立していないから姦通罪にあたる、というわけだ。銀座のバーのホステスで当時としては珍しいハーフの愛人を囲っていた松下長平は、およそ妻を寝取られた善良な夫ではなかった。むしろ、妻が白秋のもとに走るなら歓迎すべき状況だった。しからば、なぜ告訴したのか。