小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

平成の攘夷

2011-01-30 21:41:25 | 読書
 1968年の学生運動の本質は「攘夷を果たすことのできなかった志士たちの末裔による自己処罰の劇」であったと、肺腑をえぐるような卓見を、内田樹が『志士の末裔』(『武道的思考』所収)という論考に書いている。
 もう学生ではなかったけれど、あの時代の熱気と無縁でなかったもののひとりとして、意識下に沈めていた情念を掘り起こされたような気分に領されて、私は次のような箇所に傍線をほどこしていた。

〈明治維新以来、日本の若者が「熱く」なるのは「ナショナリズム」(それも「アメリカがらみ」)と相場が決まっている。〉

〈68年のナショナリズムに火を点けたのは「べトナム」である。インドシナの水田を焼くナパーム弾など世界最強の軍事大国の世界最先端のテクノロジーと前近代的な兵器で戦うベトナムの農民たちのうちに、私たちは「ペリーの黒船を撃ち払う志士たち」や「本土決戦」の(果たされなかった幻を見たのである。私たち日本人が出来なかったことを貧しいアジアの小国の人々が現に実行している。その日本人はベトナム戦争の後方基地を提供し、その軍需で潤っていた(朝鮮戦争のときもそうだった。私たちはアジアの同胞の血で経済成長を購ったのである)。その「恥」の感覚が1968年の若者たちの闘争の本質的な動機だったと私は思っている。〉

〈だから、全共闘運動が最終的には官憲の手を煩わせるまでもなく、「内ゲバ」という互いに喉笛を掻き切り合うような「相対死」のかたちで終熄したのは「自罰のプロセス」としては当然だとも言えるのである。〉

「志士の末裔」としての「恥」の感覚を、あの学生運動の本質ととらえると、なるほど一種すてばちだった、あの時代の熱気の正体がよくわかるのである。
 さて、ひるがえって現代、この国の宰相はアメリカの戦略であるTPPへの参加を「平成の開国」と標榜している。順序が違うのではないか。いまむしろ標榜すべきは静かなる「平成の攘夷」ではないのか。私たちがほんとうに志士の末裔であるならばだ。
武道的思考 (筑摩選書)
内田 樹
筑摩書房

グレッグ・ルッカの新シリーズ第一作を読む

2011-01-26 11:22:57 | 読書
 小説には二種類ある。身につまされる小説と我を忘れさせてくれる小説の二つだといったのは平野謙であった。
 その身につまされる小説を読まなくなって久しい。実人生で、じゅうぶん身につまされることがらに遭遇しているのだから、さらにその上に小説という架空世界で身につまされることもあるまい、という気分だし、昨今の小説に、わがことのように読めそうな小説が見当たらないからである。
 ざっくり言えば、「身につまされる小説」はいわゆる純文学ということになるが、私は純文学は昭和で終ったと思っている。読まずに何を言うのかと反論されそうだが、齢を重ねれば、それぐらいの嗅覚ははたらくのである。平成の純文学というもののイメージは結べない。
 さてグレッグ・ルッカという1970年生れの現代のハードボイルド作家の私はフアンである。我を忘れさせてくれる小説の優れた書き手だ。ボディガードのアティカス・シリーズはすべて読んでいたが、未読だった新シリーズの第一作をこのほど読んだ。『天使は容赦なく殺す』(佐々田雅子訳・文芸春秋)。思わせぶりな邦題だが、原題は「ゼントルマンズ・ゲーム」。イギリスのSIS特殊作戦部特務課の主席特務官が主人公なのだが、なんとこれが女性なのである。
 テロリストの精神的支柱となる人物の暗殺指令を実行したら、国際政治学上の力学のはざまで、自分の組織からも裏切られ、孤独な脱出をはかる物語であった。読んでいるさなかにロシア空港の自爆テロのニュースがあり、小説の自爆テロ場面と妙にシンクロしたのだが、ともかく細部の描写に元手のかかったエンターテイメントなのだ。
 彼の小説は迫真のアクションシーンが話題になるが、ほんとうは全編に通底するパセティックなやるせなさが魅力だと思う。ヒーローないしヒロインに読者の感情を移入させる仕掛けに時間をかけて、いったん読者が没入するや後半を一気に読ませ、後味に悲哀の余韻をただよわせる小説とでも評すればいいのだろうか。
天使は容赦なく殺す
グレッグ ルッカ
文藝春秋

村上春樹訳・チャンドラー『リトル・シスター』を読む

2011-01-16 20:54:39 | 読書
 チャンドラーを再読する気分は、懐かしのメロディのムード歌謡を聴くようなおもむきが私にはある。清水俊二訳の『かわいい女』を最初に読んだのは、いつのことだったか思い出せないが、たぶん半世紀ほど昔のはずだ。
 このほど村上春樹訳でタイトルを原題に準じた『リトル・シスター』(早川書房)を読んで、われながら驚いたのは、懐かしのメロディがいっさい蘇ってこなかったことだ。というか、プロットも登場人物の印象もまったく忘却のかなたにあったのである。はじめて読む小説と変りなかった。
 村上春樹が『かわいい女』という既訳のタイトルを捨てたことにも、だから何の違和感も感じなかった。いや、『かわいい女』という邦題をおかしいと感じなかった昔の私の幼稚性を思い知らされた。こんなしたたかな悪女のどこが「かわいい」か。
 ところでチャンドラー自身、この作品を毛嫌いしていたようだが、そのわけはよくわかる。はっきり言ってしまえば、失敗作なのである。
 プロットが性急で、錯綜としすぎて、読者を混乱におとしいれる。おそらく昔の私は、プロットの全容を把握できていず、作品の印象を記憶の引き出しに仕舞い忘れていたのだ。
 村上春樹はしかし、この作品に愛着があるという。その理由をリトル・シスターとされる女性がよく描かれているからだとしている。それだけだろうか。もっと別の理由がありそうな気がする。この作品は、たとえば、もうちょっとプロットを整理して俺ならこう書きたいと思わせるところがままある。つまり物書きの創作意欲を妙に刺激するのである。
 だいたい村上春樹は、これでチャンドラーの翻訳三冊目であるけれど、彼を突き動かす翻訳のモチベーションのひとつに、自身の創作欲の起爆剤にしたいという狙いがあるのではないか、と私はひそかに思ってきた。
 チャンドラーの文体のダンディズムは、真似のできるものではないけれど、せめてカッコいい文章が書きたい、と私も切実に思う。
「部屋は突然、落としたケーキのような重い静寂に包まれた。私は水中を歩むみたいにその沈黙をかきわけ、部屋を出た」(244ページ)
 しかし私には、こんな文章は思いつかない。
リトル・シスター
レイモンド チャンドラー
早川書房