小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

真相・浪士組結成と清河八郎 完

2016-07-11 12:14:32 | 小説
タイミングのいいことに、この年8月、次のような朝命が出されていた。「諸大名ならびに諸藩士、浪人等正義の徒の幕譴を蒙れる者を大赦せよ」というものである。「幕譴」つまり幕府のあやまちによって、というのは井伊政権のことを指しているのだろうが、清河八郎自身、この大赦令の実行に期待をかけていた。
 12月26日、幕府は大赦の令を下し、志士の罪あるものを許した。清河八郎に連座して獄中にあった八郎の弟熊三郎と池田徳太郎を放免した。これを知った清河八郎は翌文久3年正月、浪士取扱の者に自訴し、宥免をかちとった。
 むろんお叱りをうけたが、浪士取扱の松平上総介(主税助)と鵜殿鳩翁に身柄を引き渡されたのであった。。
 浪士取扱の下の浪士取締役には山岡鉄太郎がいた。だが、これまでの関係から八郎の方が兄貴分である。事情を知らない浪士たちから見れば無役の清河八郎の立場の方が上にみえたかもしれない。
 2月8日、募集に応じた浪士およそ250人が江戸小石川の伝通院に集合、京をめざして出発した。
 八郎は隊列の中にはいない。自由人のように「時には先方に、時には後方にはるか離れて歩いて行く」(小山松勝一郎『清河八郎』)

 さて切れ切れに書いてきたけれど、清河八郎が浪士組結成の主導者でないことはご理解いただけたのではないだろうか。
 よく清河八郎を「新選組の生みの親」(新選組の母体が浪士組だから)などと評する人がいるが、事実を歪めたおかしな言い方なのである。もともと新選組は、浪士組に叛いて離反したグループなのである。
 清河八郎を新選組人気に結びつけるのは弊害しかない。むろん彼を顕彰したことにもならず、むしろ実像を歪めるばかりである。彼の顕彰には別の切り口が必要なのだ。私の言いたかったのは、このことである。(完)

真相・浪士組結成と清河八郎 3

2016-07-10 13:40:14 | 小説
 松平主税助は徳川家康の六男忠輝の七代の孫という名族であった。名は忠敏。文久3年正月には上総介に昇格改称するから、主税助時代のことも上総介と回想されることもある。
 ともあれ格式は大名の上の主税助と一介の浪士清河八郎の建白とでは、うけとる側の重みだって違うのである。
 この年、文久2年の夏以降、いわゆる尊攘激派の浪士たちの動きが活発化し、攘夷問題に悩んでいた幕府を困らせていた。できもしない攘夷をひそかに朝廷に約束していたからである。
 主税助は建白書に「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計」少しも早く、彼らを幕府側に引き付け、天下の人心を幕府に帰一させなければならない、と書いている。
 そして、来春上洛する将軍の警護にあたらせれば、諸藩はじめ京、大坂の人心もあらたまるだろうと。(ちなみに清河八郎の建白には、上洛する将軍の警護などという具体的な提言はない)
 さて、浪士徴募の、手っ取り早い方法として、剣術の道場主に声をかけるのは効率的である。しかし、主税助は宮和田光胤に断られてしまった。
 ここで主税助の胸中に清河八郎の存在が大きくなる。清河八郎も道場主であった。主税助の講武所仲間である山岡鉄太郎は、清河の主宰する虎尾の会に属していたし、山岡を通じて清河八郎のことはよく聞かされている。
 しかも主税助が幕府から受け取った浪士募集の達文には、「尽忠報国」の志が篤ければ、既往の罪を免ずることもあるとされていた。
清河八郎を「お尋ね者」でなくすればよい。

真相・浪士組結成と清河八郎 2

2016-07-09 12:42:27 | 小説
 松平主税助は、光胤採用については、政治総裁松平春嶽と老中板倉勝静にも話して内諾を得ているからというふうに光胤を口説いたらしい。
 しかし光胤は、12月13日、飯田町に仮住まいの主税助の「屋敷へ参り馳走ニなりし上同務等を断り候」と日記に書いている。
 浪士取扱の話を断ったのである。
 別の個所で光胤は、主税助のことを「此人、佐幕乃人ニテ光胤等と同志にあらす」と評しているから、しょせん幕臣という身分を脱しきれない主税助を見限っていたのであろう。

 狂歌が歌われた。

 松平主税助、浪士取扱仰せ付けられけれバ、
  此節は浪人どもが流行でちからを入れて奉行勤める

 むろん「ちから」に主税を掛けている。

 さて、ここで清河八郎の立場を確認しておかねばならない。彼は例の無礼討ち事件によって、幕府より指名手配されている、いわば「お尋ね者」である。
 その彼が、春嶽に上表するのは、彼の度胸の良さと文章家としての自信である。とはいえ、お尋ね者の建白を幕議にかけるわけはなく、浪士利用は松平主税助の建白によって実現したのである。いや、主税助の建白の黒幕が実は清河八郎であると言いたい人がいるかもしれないが、そんな気配や証拠はどこにもない。
 元新選組の永倉新八の回顧談などによって、清河八郎を判断してはいけない。永倉は大正まで生きたが、「真相と怪しげなことの両方を大量に伝えた」と著書『新選組』(岩波新書)に書いたのは松浦玲だった。

真相・浪士組結成と清河八郎 1

2016-07-08 10:14:55 | 小説
 清河八郎は生前からなにかと誤解されやすい人物であったが、いわゆる浪士組の誕生に関しては、いまなお発起人であるかのようにみなされる誤解が定説化されている。たとえば、Wikipediaの「浪士組」の項目には、こう記されている。

「もともとは尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、攘夷を断行する・浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)・文武に秀でたものを重用する(急務三策という)ことを条件に結成されたものだったため、腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織であった。最初の浪士取締役には、松平忠敏(上総介)・中条景昭・窪田鎮勝・山岡鉄太郎などが任じられる。」

 さて、記事中の「急務三策」(これとて真向から浪士徴募を提言したものではない)を清河八郎が松平春嶽に建白したのは、文久2年11月12日である。
 ものごとは冷静に時系列にながめてみればよい。
 清河の建白より、ほぼ一か月前の10月18日に浪士利用を幕府に提言した人物がいる。講武所剣術教授方松平主税助である。松平主税助の建白によって幕府は浪士徴募を決定し、まず松平主税助を12月9日に「浪士取扱」に任命し、10日後の19日、浪士徴募の命令を下している。松平主税助は、すでに浪士徴募の統括責任者として宮和田又左衛門光胤に白羽の矢を立て、10日には光胤に話をもちこんでいた。宮和田光胤は江戸日本橋近くのヘッツイ河岸に北辰一刀流の剣術道場を開いていたが、松平主税助とは平田篤胤の気吹舎における同門人で、かねて熟知の間柄だった。(続く)

赤松小三郎研究会にて講演の記事

2014-10-20 12:17:16 | 小説
 
朝日新聞10月18日付朝刊(都内版)の28面に写真のような記事が掲載された。
そうなのだ、21日に「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたか」と題して講演することになっている。四谷の某酒場で月一回開かれている幕末の勉強会のような雰囲気を想像して、軽い気持ちで講演をおひきうけしたのだが、なんだかおおがかりなことになってきた。

芭蕉『奥の細道』出発日の謎

2014-10-02 18:04:13 | 小説
暦の小の月のことを、子供の頃「にしむくさむらい」とおぼえた。2、4、6、9月と11月(士)で、「西向くさむらい」である。つまり私たちが慣れ親しんでいる暦では、小の月は固定化されているのだが、陰暦ではそうではなかった。年ごとに大小の月が違っていて、小の月も太陽暦のように30日以下ではなく29日以下であった。
 さて、元禄2年3月は小の月であった。3月は29日で終わっていた。
 ところが次のような記事がある。

 卅日(みそか) 日光山の麓に泊る。(以下文章が続く)


 記述者は松尾芭蕉である。
「おくのほそ道」の元禄2年3月30日というありえない日付の項である。
 実は旅の同行者の曽良の日記から、日光に泊ったのは、4月1日だったことがわかっている。それはそうだろう、3月30日という日付はないのだから。
 なにが言いたいかといえば、「おくのほそ道」における芭蕉の日付は、鵜呑みにしてはいけないということなのである。
 芭蕉は陸奥の国への旅立ちの日を、3月27日深川を発つと明記している。ところが曽良は3月20日と書いている。
 曽良の日記は、自分用の手控えで、人に見せるものではないし、嘘をつく必要もない。かたや芭蕉の「おくのほそ道」は、人に見せるための「作品」である。作為があって、日付を変えているのだ。
 芭蕉研究の第一人者の今栄蔵が『芭蕉年譜大成』で、曽良の日記のほうが誤記だとしているのを見て驚いたが、芭蕉にいれあげると目がくもるのであろう。
 芭蕉と曽良とで出発日が違うという謎は、ほんとうは「おくのほそ道」の謎を解き明かす最初の関門である。曽良の誤記だろうぐらいですまされる問題ではないのである。

路通という俳人

2014-08-24 12:05:08 | 小説
 芭蕉の「奥の細道」紀行の随伴者は、よく知られているように曽良であったが、実は当初に予定されていたのは路通であった。路通と曽良が入れ替わったのである。
 この路通には謎が多い。まず出身地に定説がない。美濃、京都、筑紫と諸説ある。本名は八十村与次右衛門とされているが、齋部(忌部)姓だともいう。いずれにせよ教養があって、三井寺育ちだったという説もある。
 元禄2年12月5日付で、芭蕉が大津の医者で俳人の尚白に宛てた手紙で、路通の俳句を紹介している。

  火桶抱(い)て をとがい臍(ほぞ)をかくしけり

 そして芭蕉は、「此作者は松もとにてつれづれ読みたる狂隠者。今我隣庵に有。俳作妙を得たり」と書きつけている。
「松もと」というのは現大津市の松本のことらしい。大津で徒然草の講義をしている狂隠者が路通だった。
 注目されるのは今は路通は江戸に出て、深川の芭蕉の隣に住んでいるという事実だ。
 芭蕉と路通の関係に、ただならぬものがあるように思われる。
 その路通を、なぜ奥の細道への同行者からはずしたのか、よくわからない。わからないことだらけだが、路通にかまけていると、私の小説『芭蕉の妻』執筆が先に進まない。ひとまず路通のことは棚上げしておこうと思う。けれども、あとで微妙に路通がからんできそうな予感がしている。

清河八郎暗殺前後 完

2014-07-28 15:35:53 | 小説
間延びした書き方になった。この稿を閉じることをはばむような気分に領されて、なぜそうなるか私自身がわからなかった。
 歴史の濃霧に閉じこめられて、動きがとれなくなることはあるけれど、それとも違う。霧は晴れているのに、動きたくないという気分に近かった。
 いずれにせよこの稿も終らなければならない。
 石坂の八郎暗殺現場への到着が早すぎる、と私は書いた。石坂は八郎が暗殺されたという知らせを受けてから、駆けつけたのではない。八郎が刺客に襲われると予想して、現場に行ったのである。そうであれば、早すぎるということもないわけだ。
 さて石坂は刺客のことを誰から聞いたか。その日、下城した高橋泥舟からである。(このことを含めて、これから述べることに確たる証拠はない。あくまで状況から推論した蓋然性の論証である)泥舟は、幕閣に、八郎らの小栗の拉致計画のあることを伝えたのである。幕府としては、その計画を阻止するために、刺客を送り込むのは泥舟にはよくわかっていた。わかっていて、伝えたのである。
 八郎暗殺の契機をつくったのは、泥舟なのである。思えば、八郎の逃亡生活のきっかけを作ったのが、例の無礼討ち事件ではなく、ほんとうは山岡鉄舟の幕府への密告であった。
 こうしてみると泥舟ファミリーは、清河八郎に、贖罪の念を抱きながら、明治を生きなければならなかったはずである。
 琳瑞の泥舟の弟子による暗殺の謎も、もはや解ける。琳瑞は、八郎暗殺の日の泥舟の言動を知り、泥舟を詰問したのである。それを聞いていた弟子ふたりが、泥舟の名誉保全のために、琳瑞を殺したのである。

清河八郎暗殺前後 17

2014-06-16 10:27:10 | 小説
 八郎が暗殺される12日前即ち文久3年4月1日、金子與三郎が八郎に宛てた手紙がある。
 ふたりの関係を知る上でも貴重な手紙であるが、今年3月に刊行された庄内町史資料集第2号『清河八郎関係書簡 二』所収の「読み下し文」全文を以下に引用する。


「書中を以って申し上げ候、然らば、新井式部 親病死に付き、在所へ引き戻し申し度由、尤も、同人帰府前、拙寓右住所より追々迎いの人参り申し候、右に付き山岡君へ御談し下され。明朝にも帰郷致し候様、御取り計り下され候、委細は同人よりお聞取り下され候、
 一昨日は御尋ね下され謝奉り候、山岡君へよろしく御伝晤下され候様願い奉り候、明日は多分参上仕り候積りに御座候
                           頓首拝

 四月一日                               」 


 一昨日はせっかく訪問してくれたのに留守にしてすまなかった、とあるように、日頃から八郎が金子の家を行き来していたことがわかる。
 さらに「山岡君へよろしく」とあるように、金子が山岡鉄太郎(鉄舟)と交流のあったこともわかる。
 あるどころではない、この手紙に出てくる新井式部は、浪士組の一員であった。「浪士組名簿」の5番組に、その名がある。山城国(京都)出身の、まだ18歳の若者であるけれど、どうやら金子が面倒をみていたらしい。
 ここでの金子は、あたかも浪士組の後援者のような立場で、新井の親が病死したので京都に帰らせてやりたい、その旨、山岡にも伝えてくれと八郎に頼んでいるのであった。
 この浪士組後援者のような金子の立場を、鉄舟の義兄の高橋泥舟が知らないはずはない、と思うが、泥舟のあの冷たい金子評はなんだろう。
 ともあれ八郎暗殺の真相の焦点をぼかすために、泥舟は姑息な談話を残しすぎた。                               

清河八郎暗殺前後 16

2014-05-16 14:53:31 | 小説
 八郎の遺体の懐中から、「五百人の連判帳」を取り出して、自分が回収したと主張する石坂であるけれど、『官武通紀』は、これとまったく違うことを記録している。
 八郎は、たしかに連判帳らしきものを懐中にしていた。だがそこに記録されている姓名は28名。その28名の名簿を「取上、直ちに御目付へ訴訟仕候者有之、夫より俄に御吟味」となって、翌14日に記載人物が吟味対象になったと記しているのだ。 もとより、こちらのほうが実情を伝えている。石坂以前に「連判帳」はすでに役人の手にわたっていたのである。
 それはそうだろう、殺害された人物の身元を確認するためにも、まず、いの一番に懐中のものが探られるはずだ。番人に囲まれていた八郎の遺体に、まだ懐中物が残っているほうがおかしいのである。
 あえて、連判帳がまだあった、などとうそぶく石坂には、どこかに恩を売りたかった仲間でもいたのだろう。それにしても28人を500人とは、話をおおげさにしたものである。500人の連判帳があったとしたら、それだけで八郎の懐中はふくらんでいたのではないだろうか。
『官武通紀』には、なお注目すべき記述がある。添え書きのように小さい文字になっているのだが、以下のような文言である。
「金子與三郎其説を承り驚愕、篤と説得仕候得共、更に聞入不申由」
 つまり、清河八郎が暗殺されたという一報に驚愕し、「ばかな、そんなことはありえない」と否定し、誰かが「いや風体その他から間違いない」と説得しても、まだ「信じられない」と聞入れようとしない金子の様子が記されているのである。八郎暗殺後の金子については、とかく暗殺関与者というバイアスのかかった見方をされているが、案外こちらの金子のほうが真実の金子かもしれない。(続く) 

清河八郎暗殺前後 15

2014-04-18 12:20:35 | 小説
 八郎の暗殺された文久3年4月13日は、現行歴に換算すれば1863年5月30日である。
 暗殺された時刻は『官武通紀』に「夕七ツ時頃」と記し、増戸武兵衛の談話では「七ツ頃、即ち今の午後四時頃」、泥舟も「薄暮」と語った。
 七ツ頃というのは確からしい。しかし、増戸の「今の午後四時頃」というのは、筆録者の付けたしではないだろうか。
 1863年5月30日の江戸の「日の入り」は午後6時50分であった。すると、この日の7ツという時刻は午後5時頃に相当しそうである。つまり、八郎が暗殺されてから日没まで1時間50分しかない。
 暗殺現場の一の橋から石坂の宿舎のある馬喰町の井筒屋までは、およそ6キロ。ふつうに歩けば1時間15分かかる。なにが言いたいかというと、石坂に知らせた者も急ぎ、石坂も急いだとしても、石坂の現場到着は日没後になるのではないだろうか、ということだ。
 だが『石坂翁小伝』には、暗くなって到着した様子はない。
「……一の橋の所に苞を冠せてサウして番人が居る。即ち有馬と松平と両家から出て厳重に取締って居ります。近寄って見やうと思っても近寄せませぬ」
 石坂は、屍は拙者の仇であるから、一太刀恨ましてくれろと、抜刀して八郎の死骸に近づく。
「私の心配なのは五百人の連判帳夫れが幕吏の手に渡ったならば五百人皆尋ねられますから夫れを取りたいのが第一の望む所で懐中に手を入れて見ますと今の五百人の連判帳がチャンとありましたから夫れを第一に自分の懐中に収めて、さうして首を斬って二寸程着いて居りましたのを落して夫れを八郎の羽織に包んで夫れから自分の付属の者に此首を小石川の山岡鐡太郎の所まで持って行け、(略)」
 と指示したと述べている。
 よく石坂本人が八郎の首を持ち帰ったと書かれる評伝があるけれど、この石坂談話によると、別人が持ち帰っているのである。
 もとより石坂の関心は、八郎の首の奪回ではなかった。彼が気にしていたのは、「連判帳」であった。
 その朝の八郎と石坂の会話を思い出していただきたい。
 八郎は金子の家に同志徴募の件で行くと言っていた。だから、八郎は金子に見せる連判帳を持参しているはずと石坂は思ったのである。

清河八郎暗殺前後 14

2014-04-08 16:30:58 | 小説
さて、泥舟は八郎暗殺の様子について次のように述べている。

「(金子の家から)薄暮正明大酔して坐に堪へず、漸くにして辞し去り、帰途芝赤羽を過る時、佐々木只三郎に邂逅し、互いに一礼を表す、正明痛く頭を下げて礼をなす、忽ち魁偉の一男子、正明の後に現はれ、大喝一声電光一閃の間に、倐忽として正明の肩背を斫る、事不意なるを以て、正明刀を抜くに遑なく、惜乎終に斃る、是れ実に速見又四郎なり、其他永井某、高久某も亦之に與り、事成るを見て遁逃す」(『泥舟遺稿』)

 すすめられた駕籠を断って、歩いて帰ると言ったらしい八郎だから、大酔していたなどというのも泥舟一流の誇張であるが、前にあらわれた佐々木に挨拶するところを、後ろから迫った刺客に斬られたというのは、増戸武兵衛が目撃した傷の状況とも合致している。
 おそらく「一向二裏」という赤穂浪士も使った戦術に、八郎ははまったのである。正面の相手に気を取られているときに、後ろの二人の敵に斬られたのであろう。
 ところで泥舟はもとより目撃者ではない。では誰からこの様子を聞いたのであろうか。刺客たちからか。その可能性もあるが、私は別の人間から聞いたと推測している。石坂周造である。
 石坂周造の『石坂翁小伝』に、こう書かれている。

「清川(ママ)八郎が赤羽橋で暗殺されたと云ふことを仄に聴くや否や其の時分は人力と云ふものはございませぬで急ぐ時には四手駕籠、是に乗って飛ばして……」

 誰かが急いで告げにきたのならば、石坂はその人物名を忘れることはないだろうし、「仄に聴くや」などという微妙な言い方をしなくてすんだはずだ。石坂は現場近くにいたことを隠そうとしているとしか思えない。
 馬喰町の石坂の宿舎で一報を聞き、一の橋の現場へ駆けつけたにしては、石坂の到着はあまりにも早すぎるのである。
 大川周明は『清河八郎』で、「石坂周造は、馬を駆って飛ぶが如く現場に駆け付けた」と書いているが、そう書きたくなる気持ちもわからないではない。しかし石坂に伝えた者の所要時間もあるわけだから、石坂の到着はどっちにしたって早すぎるのである。

清河八郎暗殺前後 13

2014-03-28 14:45:53 | 小説
 上之山藩(上山藩と表記されるのが一般的である)は、現在の山形県上山市周辺を領有した藩で、金子は八郎と出羽国という郷里を同じくした間柄でもあった。
 その金子は泥舟のいうように「純正無二の佐幕家」ではなかった。むしろ朝廷に軸足をおいた公武合体論者であった。泥舟は金子のことを、よく知らなかったか、あるいは知っていて、わざとこういう決めつけをしたのである。
 ところで上山藩士の増戸武兵衛の史談会における発言は、金子の八郎暗殺関与の傍証のように扱われることが多いが、増戸の談話にはバイアスがかかっていると見たほうがよさそうである。
 なにしろ泥舟にしろ増戸の談話にしろ、金子や佐々木の死後のものである。死人に口なし、言いたい放題のことが言えるのである。
 増戸は、暗殺された直後の八郎の遺体を目撃していた。
「……七つ頃即ち今の午後四時頃に、表門の方で人殺があると云ふから出てみた。一ノ橋を渡って一間か二間ほど行きますと、立派な侍が前に倒れて、首が右に落ちかゝって転げて居ました。其の様子は左の方の後ろから横に斬られたものと見えて、左の肩先一二寸程かけて、右の方首筋の半ば過ぎまで。美事に切られて居ります。其上に腮の下辺に更に一刀痕あります。多分倒れた後で一刀を浴せかけたものと見えます。(略)右の手に鉄扇を持って居りましたと見え、右の手を伸べて其側に棄てゝありました。髪は総髪でありました。
 其処に大勢寄って、誰だらうと言ふて居るうちに、中村平助と云ふ者が、此は清河八郎のやうであると申しました。(略)清河ならば金子の友人である。金子に行って聞けば判らうと思ふて、中村等四五名と屋敷に戻り金子に聞くと、それは清河に相違ない、今朝から私を訪ね、午食を共にし酒も飲み、色々談話の末帰ったのである。惜しい事をした残念である……帰る時に、此節刺客が油断ならぬから、駕籠を傭はぬかと言っても、白昼そんな心配はないと言ふて出かけたが、惜しいこ事をしたと金子は申された」
 この金子の言葉を額面通りうけとらず、増戸は金子の暗殺関与を疑ったのであった。その理由に、金子が目付の杉浦と昵懇であり、杉浦に金子を紹介したのが佐々木だと聞かされたからだと語っている。

清河八郎暗殺前後 12

2014-03-27 16:01:16 | 小説
 泥舟によれば、浪士取締役の佐々木只三郎らの誣言(ないことをあることのように嘘を言うこと)を信じて、金子与三郎は八郎暗殺に加担した、という。「討幕の密謀」というのが誣言の中身である。
『泥舟遺稿』には、こう述べられている。
「……誣ゆるに正明が討幕の密謀既に成り、其期将に近きにありと告ぐ、金子は純誠無二の佐幕家なり、之を聞て怫然として怒り、乱賊の奴輩茲に至る、決して恕す可きものにあらず、之を鎮する須らく正明を除くに如かず、之れを為す其謀将に如何とするか、佐々木曰く、正明を君が家に招き、大いに酒食を侑めよ、我輩正明が帰途を要して、之を暗殺せん」
 泥舟はさらに、この前段で、佐々木は誣告によって閣老監察などを籠絡し、八郎の暗殺許可をとっていたと述べている。なぜなら佐々木は八郎に私怨を抱いていたからだと。
 佐々木は立場上は八郎より上なのに、「正明に及ばざること遠し、是を以て時々凌辱を加へられて憤懣に堪えず」「正明を忌むこと久し」と言っているのだ。男の嫉妬のようなものが、佐々木にあって、それが八郎暗殺に向かわせたとでも言いたげである。
 佐々木のことはさておき、金子与三郎のことである。
 金子はかねてより八郎と昵懇だったし、八郎の思想信条はよく知っている人物だった。八郎も金子を信頼し、自分の「著述もの」をすべて金子に預けていた。
 そのことは暗殺される前日に八郎が父の雷山に宛てた手紙にも書いている。「著述ものは羽州上之山城主松平山城守殿御守金子与三郎にあつけ置候間、上之山官庫に納め置筈に御座候」
 自分の信条を綴った著作を金子に託していたのである。そういう間柄であった。だから金子は佐々木などより、はるかに八郎のことは知っている。佐々木の誣言などに短絡的に反応するわけはないのである。
 八郎が暗殺される前のことであるが、金子はある日、小笠原閣老の屋敷に行って、小笠原の重役多賀隼人に、次のような質問を発していた。
「実は清河八郎を暗殺しようという者がいるらしいが、どう思われるか」そして「幕府の御家人のようだが……」とも語っている。
 この質問を発したことを金子の供をした上之山藩士増戸武兵衛が語っている。(史談会速記録)
 金子が泥舟のいうような暗殺当事者だったら、こんな質問はしないだろう。泥舟はなぜこんなつくり話をしなければならないのか。