小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

数学教師になった「暗殺犯」  2

2009-03-30 22:26:58 | 小説
 武市半平太が大石ら3人に吉田東洋暗殺を命じた経緯について詳述するいとまはないけれど、土佐の藩論を尊王攘夷でまとめるためには、要するに公武合体論者の吉田東洋は邪魔だったのである。
 吉田東洋を斬ったのは安岡であり、首を切りとったのは那須であるという記録はあるが、大石の働きはさほど鮮明ではない。彼はどうやら吉田東洋のお供の若党を追い払うのに精一杯ではなかったかと思われる。
 いずれにせよ、3人は京都に逃れた。まず長州藩邸に潜伏、つぎに薩摩屋敷に移った。那須と安岡は翌年、天誅組の大和義挙に参加、那須は戦死し、安岡は負傷して捕縛され、処刑された。
 大石団蔵だけは、なぜか薩摩屋敷に20ヶ月の間、潜伏し続け、やがて奈良原喜八郎(繁)の庇護を受け、奈良原家の養子になって、島津家家臣となった。そして高見弥一と姓名を変えたのであった。
 再度ちなみにと書くけれど、奈良原喜八郎は兄とともに生麦事件でリチャードソンを斬りつけたとして取沙汰される人物である。
 さて、大石団蔵あらため高見弥一が薩摩藩のイギリス留学生に選ばれたのは、薩摩開成所での蘭学の成績がよほど優秀だったからであろう。
 ロンドンでは、ユニバーシティ・カレッジの化学教授であったグレン博士の家に下宿した。同宿者は、あの森有礼であった。ふたりはグレン博士から英語の手ほどきをうけた。
 であるからして、大石は当然、ユニバーシティ・カレッジに入学したとされているが、永国淳哉氏の調査(注)によれば、彼の入学は確認できなかったという。永国氏は別の留学体験を想像しているらしいが、ともあれ現在のロンドン大学(University College of London)の中庭にある石碑には、高見弥一の名が刻まれている。平成5年に、日英友好協会・日英文化記念クラブその他の有志が文久3年と慶応元年にそれぞれ同校に留学した日本人24名の名を刻んだ記念碑なのである。

(注)永国淳哉『土佐藩留学生異聞』(土佐出版社)に、氏が同校を訪問調査した経緯が書かれている。

数学教師になった「暗殺犯」  1

2009-03-28 19:25:49 | 小説
 新人物往来社の『別冊歴史読本・世界を見た幕末維新の英雄たち』に「1865年(元治2年)薩摩藩イギリス留学生」という項目がある。
そこに「渡航者ファイル」が付されていて、「高見弥一」のファイルは次のように記されている。

 ①1834~?
 ②土佐藩士・開成所学生
 薩摩藩留学生となった土佐藩士。天保5年生まれ。慶応元年(1865) 3月、薩摩藩で勉学中に留学生として選ばれる(松元誠一と変名)。帰国後の消息不明。

 消息不明って、それはないだろう、と思わず心の中でつぶやいた。
「別冊歴史読本」は関心のあるテーマが特集されていると、コンパクトな参考書として重宝し、この号も2007年4月の刊行だが、つい最近買い求めたものである。
 このファイルは、おそらく、この項目の執筆者である犬塚孝明氏(鹿児島純心女子大学教授)以外のスタッフ(あるいは編集者)が作成したものであろうが、ちょっとした手間暇かければ、高見弥一の本名も、その後の消息も、没年もわかったはずである。
 高見弥一の本名は、大石団蔵である。
土佐藩の重臣、吉田東洋の暗殺犯のひとりとして知られる、あの大石団蔵なのである。ちなみに後藤象二郎は吉田東洋の甥であった。
 吉田東洋は文久2年(1862)4月8日の小雨降る夜、若き藩主の山内豊範に日本外史を進講し下城の途中、3人の刺客に襲撃されて絶命した。刺客は、武市半平太の命をうけた那須信吾、安岡嘉助と大石の3人だった。
 3人は切りとった東洋の首を同志の河野万寿弥に渡し、そのまま国抜けをした。脱藩したのである。またちなみにと書くけれど、安岡嘉助の血縁につながる作家がいる。安岡章太郎である。

村上春樹のチャンドラー論

2009-03-25 21:56:09 | 読書
 村上春樹の新訳によるチャンドラーの『ロング・グッドバイ』(早川書房)の廉価版が、いま書店に並んでいる。清水俊二訳の『長いお別れ』を愛読したものとすれば、村上春樹訳を読むことには妙なためらいがあって、2年前に刊行されたハードカバー版は手に触れることもしなかった。
 ところがこのたびの軽装版の帯には「訳者あとがき90枚収録」とあるではないか。これはしたり、なぜ早く手にとって読まなかったのかと後悔したけれど、その思いは読了後にいっそう濃いものとなった。
 この「訳者あとがき」は、その枚数もすでにして「あとがき」などという範疇を超えているが、立派なチャンドラー論なのである。そして村上春樹のチャンドラーに対するオマージュなのであった。
 村上春樹は言う。「チャンドラーは近代文学のおちいりがちな袋小路を脱するためのルートを、ミステリというサブ・ジャンルの中で個人的に発見し、その普遍的な可能性を世界に提示することに成功した」と。
 これはもう最大の讃辞というべきである。ノーベル文学賞にもっとも近いといわれる村上春樹が、チャンドラーに小説技法という面でも深甚な影響を受けたと告白しているのである。言われてみると、なるほどと思い当たる点があり、村上春樹とチャンドラーという組み合わせが意外でなくなったのは私だけであろうか。
『ロング・グッドバイ』を、「…本当の意味での魂の交流の物語であり、人と人との自発的な相互理解の物語であり、人の抱く美しい幻想と、それがいやおうなくもたらすことになる深い幻滅の物語なのだ」と読み解く村上春樹に、私はむしろ感動した。
 われらが主人公フィリップ・マーロウについては村上春樹はこう書いている。「 寡黙で、タフで、頑固で、機知に富み、孤独で、やくざで、ロマンチックなマーロウ」
 この形容語順のリズミカルな調子に滲むパセティックな文章の味わいが、「訳者あとがき」に漂う心地よさである。
 あとがきだけでも読む価値があると、ミクシィの日記に書いたら、いわゆるマイミクさんのおひとりに感謝された。

薩摩藩の贋金づくり  完

2009-03-17 19:21:39 | 小説
 さて、いったい幾らぐらいの天保通宝が薩摩藩によって偽造されたのか。どうやら290万両という莫大な額であるらしい。藩の鋳造責任者であった市来四郎が、その金額を日記に記しているからである。
 その薩摩の天保通宝は広島、大坂、京都などで確認されているように、だから相当な範囲に出回ったのである。
 ところで、贋金の原材料、主なものは銅であるけれど、それをいかにして入手したのか。むろん銅の産地から正規に入手したのものもあるが、実は驚くべき方法がとられている。
 お寺の梵鐘に目をつけたのである。
 本土の薩摩・大隈・日向三州のほか諸島々、琉球の寺から梵鐘を取り上げて鋳つぶしたのであった。梵鐘ばかりではない、銅製の仏器、錫釜なども徴集して、贋金の材料に使った。
 話は飛ぶが、明治初年、廃仏毀釈の運動がひきおこされ、各地で寺の破壊など大混乱を来たした。なかでも薩摩における運動の激しさはよく知られている。たとえば、ウイキペディアで「廃仏毀釈」を検索すると、次のような一節にお目にかかることになる。

「廃仏毀釈が徹底的に行われた薩摩藩では寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。その内の3分の1はその後軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵にまわされたと言われることもある」

 しかしである。なんのことはない、贋金づくりのための梵鐘鋳つぶしが、すでにして廃仏毀釈だったではないか。
 そのことを書きつけて、この稿を終りたい。



【参考文献】原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・皆村武一『鹿児島県の歴史』(山川出版社)
中村明蔵『薩摩 民衆支配の構造』(南報新社)

薩摩藩の贋金づくり  2

2009-03-14 14:17:23 | 小説
 文久2年(1862)3月、かねて薩摩藩が申請していた「琉球通宝」の鋳造許可が幕府よりおりた。
 琉球救済の名目なのだが、3年間という期限付きで、むろん領内のみで通用させるという制限のある通貨だった。
 琉球通宝は写真でご覧いただくとわかるとおり、天保通宝と同型で重さも20.6グラムとそっくりである。(銅をメインとした錫と鉛の合金)
 薩摩藩は磯の浜に鋳造局を設置して、文久2年12月22日から鋳造を開始している。
 実は島津斉彬の時代に、島津家秘蔵の茶釜のレプリカを作って将軍家に献上したいと言って、茶釜鋳物師を呼び寄せていた。それも天保通宝の鋳造のノウハウを知る鋳物師をである。
 琉球通宝を天保通宝に切り替えて鋳造することは、鋳型の文字の「琉球」を「天保」に変えるだけだから、いともたやすいことだった。
 さて、文久3年7月には、いわゆる生麦事件に端を発した薩英戦争があった。薩摩とイギリスの講和が成立したのは、その年の11月である。
 薩摩がイギリスに2万5000ポンド(6万333両余)支払うことで妥結したのだが、現金は幕府から借りた。(この金はその後幕府に返却されていない)
 薩英戦争は、またしても薩摩藩の財政に深甚な影響をもたらしたのだが、これを契機に天保通宝の偽造がはじまるのである。
 以下は滝澤武雄・西脇康編『日本史小百科 貨幣』(東京堂出版)からの引用である。
「銭貨は富裕商人の願い出ををうけて幕府の公認した銭座で鋳造されたが、天保通宝は金座、文久永宝は金座管轄の鋳銭定座と、銀座管轄の銭座で造られた。
 なおこれら幕府直轄の機関のほかに、幕府からの特別の許可を得て、藩営の銭座で造られたものもある。仙台藩の仙台通宝(撫角銭)、薩摩藩の琉球通宝などがその例で、これらは領内限りの通用と制限されていたが、実際には領外に流出し、通用した。特に薩摩藩の場合琉球通宝と称して、天保通宝の偽銭を作り、領外に売出し、薩英戦争による被害復興に当てたと言われている」

薩摩藩の贋金づくり  1

2009-03-13 22:05:24 | 小説
 文政10年(1827)の薩摩藩の負債額は500万両あった。
 その20年前の文化4年(1807)の負債額は126万両であった。すでにこのとき財政改革案をめぐって、ひと悶着あったりした。案というのが、幕府に15万両借用と参勤交代の15年間免除を願い出ようというようなものだったからである。提案をうけた藩主は烈火の如く怒ったらしい。
 藩財政は慢性赤字で推移し、逼迫の度合いをますます強め、企業ならば倒産寸前だった。
 唐物貿易で利益をあげていた調所広郷が財政改革主任に抜擢され、そこで彼が採用した藩再建手法のひとつが、なんと借金の250年賦払いだった。
 500万両の負債を、元金だけで利息は付けずに250年かかって償還するという無茶苦茶な話で、債権者の商人からは借用証文をとりあげて借入高を記した通帳だけを渡した。
 さすがに債権者たちは、この強引さに腹を立てて幕府に訴えたけれど、そこは抜け目のない調所、幕府に10万両の鼻薬を効かせて債権者たちの不満を封じ込めた。
 調所はさらに密貿易も拡大し、かなりの収益を藩にもたらしたが、「密」貿易ゆえに、こちらの実態というか具体的な数字はよくわからない。
 いずれにせよ、薩摩藩は軍事費に巨額の資金を投入できる藩になるのだが、こんどはその軍事費のエスカレートで、財政難を来たすようになる。
 新しい財源が必要となるわけだが、ここで手を染めたのが、贋金づくりだった。
 偽造されたのは天保銭だった。

久住真也『幕末の将軍』を読む

2009-03-04 23:13:58 | 読書
 久住真也『幕末の将軍』(講談社選書メチエ)の表紙には、束帯姿の凛々しい人物の画像がかざられている。徳川家の旧臣の川村清雄が明治になって描いた家茂像である。生前の徳川家茂を知る人が、驚くほどよく似ていると評価している絵だそうだ。それにしても徳川本家(家茂)と水戸徳川家(慶喜)では、顔立ちがまるで違うんですな。
 本のタイトルからは、慶喜の写真などが表紙をかざってもよさそうに思うけれど、読めば、なるほど表紙は家茂でなければならぬと納得できる。この書はいわば徳川家茂論でもあるのだ。
 著者の思いは、次の文章によくあらわれている。

〈考えてみれば、「幕末の徳川将軍」について、我々はどれだけのことを知っているだろうか。多くの人々は、慶喜の活躍を思い描くであろう。しかし「幕末」のはじまりをぺりー来航前後におけば、十二代家慶から十四代家茂まで、慶喜以前に三人の将軍がいる。その治世の合計は約二十九年、慶喜の将軍としての活動は、わづか一年に満たない。そのような慶喜を知ることで、我々は「幕末の徳川将軍」を知っているという、ある種の錯覚に陥っていないだろうか。〉

 たしかに、そう言われればそのとおりなのだ。私なども、この本で、はじめて家茂という人物のイメージを明確に把握することができた。そして、いままで家茂をさほど魅力的と思っていなかった不明を恥じた。
 勝海舟が家茂のことを語るときに涙ぐみそうになるという話は、おおげさでもなんでもないんだ、と納得。

最後の将軍の弟  完

2009-03-02 17:36:21 | 小説
 戸定邸は、昭武のいわば遁世の家だったということだ。

  とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし

 この西行の歌を「さびしさをあるじなるべし」と解釈したのは芭蕉であった。戸定邸にただよう雰囲気は、遁世者の家のさびしさなのだ。どんなに部屋数が多く、おおぜいの家族や従者に囲まれていたとしても、昭武にとっては、ここは遁世の場所だったのである。
 若くしてヨーロッパを見、アメリカを見、じゅうぶんに国際感覚を身につけ、しかももしかしたら将軍になっていたかもしれない青年が、政局の動乱から離脱してたんなる趣味人として逼塞した場所だったのだ。
 昭武は狩猟と釣りと、製陶と写真を趣味とした。これは兄の慶喜もまったく同じであった。感性もよく似ていたこの兄弟の仲のよさは、よく人の知るところである。
 戸定邸の庭先で慶喜と昭武の子供たちの遊ぶ様子を撮った写真が残されている。彼の写真は、その構図がすべてみごとである。
 江戸川の帆船を現在の葛飾区柴又から撮影した写真がある。その写真は、かって仏文日記に描いた香港のスケッチと驚くほど構図が似ているが、彼はその構図になるまで辛抱強く待ち続けて撮ったという。あきらかに、少年の頃のスケッチを意識しているのだ。
 戸定邸の部屋からは江戸川をのぞむこともできた。彼はあるいはそこに彷彿としてセーヌの流れを見ていたのかもしれない。
 明治43年7月3日、彼は病死した。享年58歳。
 最後の将軍だった兄の慶喜より3年早く、この世を去った。

最後の将軍の弟  24

2009-03-01 19:35:30 | 小説
 廃藩置県後の昭武の公務で、特記すべきことがらは三つある。
 まず明治7年9月に陸軍戸山学校に出仕、陸軍少尉に任官したこと。戸山学校は、現在の新宿区戸山にあった陸軍の幹部養成所であった。たぶん昭武がフランスで学んだ体育の知識が買われたのであろう。彼は、乗馬やジム通いに明け暮れていたからだ。
 次に明治9年、アメリカ独立記念大博覧会御用掛りとなって渡米。むろん戸山学校の職務を離脱してのことだが、この起用もパリ万博の経験者であるがゆえとわかる。
 3番目は麝香間(じゃこうのま)伺候役。これは天皇の相談役というか話し相手として、定期的に皇居に行くという名誉職で、無報酬であった。これが明治14年のこと。
 昭武はアメリカ大博覧会の御用掛を務めた年に、再度ヨーロッパに渡ったのであった。そして、フランスであの旧師ヴィレットと再会した。ヴィレットの世話でエコール・モンジュに入学、こんどは私費で再留学したのである。帰国したのが明治14年、麝香間伺候とつながるのである。
 昭武、まだ28歳である。
 その2年後に甥の篤敬に家督を譲って隠居の身となるけれど、まだ30歳である。
 明治17年、かねて狩猟のためにたびたび訪れていた千葉県松戸の戸定(とじょう)の地に屋敷を建て、移り住んだ。
 この屋敷は現存していて、「戸定邸」として一般公開されている。(昭和26年に徳川家より松戸市に寄付)木造平屋建て一部二階建ての建物は延668㎡。20以上の部屋数がある。
 常磐線松戸駅の喧噪を抜けて、徒歩10分ほどの高台にある戸定邸を訪れた冬のある日、私はこの屋敷にただよう寂寥感に、いぶかしさを覚えた。人けがないわけではなかった。高校生の男女らのグループが見学に来ていて、部屋から部屋へ移動していたからだ。意図的に装飾を廃した建物のデザインの質朴さゆえだろうか、いや違う、なぜだろう、このもの寂しさの感覚は、と自問自答していた。
 そして思いあたった。