沈没したいろは丸の艦代と積荷を弁償することになった紀州藩は、当然のことながら相手側の要求する艦代が妥当かどうか判定しなければならない。最良の方法は大洲藩に船を売った売主に売価を確認することである。
紀州藩の岩橋轍輔が会った売主はオランダ人ボードインであった。ポルトガル人ロウレイロではないのである。
一級史料である『南紀徳川史』には、いろは丸賠償額の詳細や賠償の交渉過程を示す文書が収録されている。慶応3年11月11日付の「衝突一件金子差引尻畢竟(岩橋轍輔出張処分したる畢竟書也)」にも売主を前提とした「ボーディン」あるいは「ボーディン商会」の名が明記されている。注目すべきは、この文書の「原注」であって、次のような文言がある。
「…しかして元いろは丸を大洲藩へ売りたるボーディンへ直接談判(略)…したるは轍輔手腕の敏活によりしなり」
ごらんのとおり岩橋はボードインと直接会っているのである。
しかも大洲藩は船代を全額支払っていなかったので、残債を紀州藩が肩代わりするということで、岩橋は残債を値切ると同時に、結果的に土佐藩および大洲藩に支払う賠償額総額を減らしたのであった。
『南紀徳川史』の「伊呂波丸代価土藩より申出候目録写」によれば、船代は4万ドル(新発見の購入契約書と合致している)で、慶応2年の購入時に大洲藩が支払った金額は売価の2割の8000ドル。内金にすぎなかった。残額3万2000ドルは慶応3年以降3年分割(当然利子がつく)の契約だったことがわかる。
このことは土佐藩はむろん大洲藩から聞かされたわけで、そして紀州藩にすればボードインとの直接確認事項であり、さらに「いろは丸事件」の賠償問題の仲裁役を頼まれた薩摩の五代才助も確認(紀州藩に提出した覚書がある)したことがらである。 つまり今回発見された「購入契約書」のように、大洲藩は全額を一括決済していないのである。もしも一括決済していたならば、内金分しか賠償してもらえないような結論を呑むわけがないではないか。
さらにいえば、この事件に薩摩の五代才助がからんでいることが重要である。五代はこの船のことをよく知っていたからだ。
いろは丸の原名は、よく言われるように「アビソ号」ではなく、「Sarah」であることは前に述べた。実は「いろは丸」に先行する和名があった。「安行丸」である。1863年(文久3年)、ティルビィ組合から薩摩藩がSarahを買って、安行丸と名付けていたのだ。売買代金は7万5000ドルであった。しかし薩摩藩は艦船大型化政策をとったため、通報艦レベルの安行丸を慶応2年1月に売却していた。その売却先が従来ボードインとみなされていたが、どうやらロウレイロであったらしい。
薩摩藩がロウレイロに売却したとすれば、ロウレイロがボードインに所有権を移転させたと考えるしかなく、一時ロウレイロに船の所有権があったときに作成され、履行されなかった契約書が今回の発見文書ではないかと思われる。
ちなみにボードインはアルベルト・J・ボードインのことであり、幕末から明治にかけて日本の医学教育に貢献したアントニウス・F・ボードインの弟である。彼は兄より早くオランダ貿易会社社員として安政5年(1858)に来日し、オランダ領事を兼任、明治7年に帰国後も駐蘭日本公使館の書記官をつとめるなど日本との関係を長く続けた。薩摩の三邦丸、土佐の胡蝶丸(龍馬も乗船)も元英国船であるが、いずれもボードインが販売した船であった。
紀州藩の岩橋轍輔が会った売主はオランダ人ボードインであった。ポルトガル人ロウレイロではないのである。
一級史料である『南紀徳川史』には、いろは丸賠償額の詳細や賠償の交渉過程を示す文書が収録されている。慶応3年11月11日付の「衝突一件金子差引尻畢竟(岩橋轍輔出張処分したる畢竟書也)」にも売主を前提とした「ボーディン」あるいは「ボーディン商会」の名が明記されている。注目すべきは、この文書の「原注」であって、次のような文言がある。
「…しかして元いろは丸を大洲藩へ売りたるボーディンへ直接談判(略)…したるは轍輔手腕の敏活によりしなり」
ごらんのとおり岩橋はボードインと直接会っているのである。
しかも大洲藩は船代を全額支払っていなかったので、残債を紀州藩が肩代わりするということで、岩橋は残債を値切ると同時に、結果的に土佐藩および大洲藩に支払う賠償額総額を減らしたのであった。
『南紀徳川史』の「伊呂波丸代価土藩より申出候目録写」によれば、船代は4万ドル(新発見の購入契約書と合致している)で、慶応2年の購入時に大洲藩が支払った金額は売価の2割の8000ドル。内金にすぎなかった。残額3万2000ドルは慶応3年以降3年分割(当然利子がつく)の契約だったことがわかる。
このことは土佐藩はむろん大洲藩から聞かされたわけで、そして紀州藩にすればボードインとの直接確認事項であり、さらに「いろは丸事件」の賠償問題の仲裁役を頼まれた薩摩の五代才助も確認(紀州藩に提出した覚書がある)したことがらである。 つまり今回発見された「購入契約書」のように、大洲藩は全額を一括決済していないのである。もしも一括決済していたならば、内金分しか賠償してもらえないような結論を呑むわけがないではないか。
さらにいえば、この事件に薩摩の五代才助がからんでいることが重要である。五代はこの船のことをよく知っていたからだ。
いろは丸の原名は、よく言われるように「アビソ号」ではなく、「Sarah」であることは前に述べた。実は「いろは丸」に先行する和名があった。「安行丸」である。1863年(文久3年)、ティルビィ組合から薩摩藩がSarahを買って、安行丸と名付けていたのだ。売買代金は7万5000ドルであった。しかし薩摩藩は艦船大型化政策をとったため、通報艦レベルの安行丸を慶応2年1月に売却していた。その売却先が従来ボードインとみなされていたが、どうやらロウレイロであったらしい。
薩摩藩がロウレイロに売却したとすれば、ロウレイロがボードインに所有権を移転させたと考えるしかなく、一時ロウレイロに船の所有権があったときに作成され、履行されなかった契約書が今回の発見文書ではないかと思われる。
ちなみにボードインはアルベルト・J・ボードインのことであり、幕末から明治にかけて日本の医学教育に貢献したアントニウス・F・ボードインの弟である。彼は兄より早くオランダ貿易会社社員として安政5年(1858)に来日し、オランダ領事を兼任、明治7年に帰国後も駐蘭日本公使館の書記官をつとめるなど日本との関係を長く続けた。薩摩の三邦丸、土佐の胡蝶丸(龍馬も乗船)も元英国船であるが、いずれもボードインが販売した船であった。