小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

いろは丸新史料の謎  2

2010-07-28 16:46:36 | 小説
 沈没したいろは丸の艦代と積荷を弁償することになった紀州藩は、当然のことながら相手側の要求する艦代が妥当かどうか判定しなければならない。最良の方法は大洲藩に船を売った売主に売価を確認することである。
 紀州藩の岩橋轍輔が会った売主はオランダ人ボードインであった。ポルトガル人ロウレイロではないのである。
 一級史料である『南紀徳川史』には、いろは丸賠償額の詳細や賠償の交渉過程を示す文書が収録されている。慶応3年11月11日付の「衝突一件金子差引尻畢竟(岩橋轍輔出張処分したる畢竟書也)」にも売主を前提とした「ボーディン」あるいは「ボーディン商会」の名が明記されている。注目すべきは、この文書の「原注」であって、次のような文言がある。
「…しかして元いろは丸を大洲藩へ売りたるボーディンへ直接談判(略)…したるは轍輔手腕の敏活によりしなり」
 ごらんのとおり岩橋はボードインと直接会っているのである。
 しかも大洲藩は船代を全額支払っていなかったので、残債を紀州藩が肩代わりするということで、岩橋は残債を値切ると同時に、結果的に土佐藩および大洲藩に支払う賠償額総額を減らしたのであった。
『南紀徳川史』の「伊呂波丸代価土藩より申出候目録写」によれば、船代は4万ドル(新発見の購入契約書と合致している)で、慶応2年の購入時に大洲藩が支払った金額は売価の2割の8000ドル。内金にすぎなかった。残額3万2000ドルは慶応3年以降3年分割(当然利子がつく)の契約だったことがわかる。
 このことは土佐藩はむろん大洲藩から聞かされたわけで、そして紀州藩にすればボードインとの直接確認事項であり、さらに「いろは丸事件」の賠償問題の仲裁役を頼まれた薩摩の五代才助も確認(紀州藩に提出した覚書がある)したことがらである。 つまり今回発見された「購入契約書」のように、大洲藩は全額を一括決済していないのである。もしも一括決済していたならば、内金分しか賠償してもらえないような結論を呑むわけがないではないか。
 さらにいえば、この事件に薩摩の五代才助がからんでいることが重要である。五代はこの船のことをよく知っていたからだ。
 いろは丸の原名は、よく言われるように「アビソ号」ではなく、「Sarah」であることは前に述べた。実は「いろは丸」に先行する和名があった。「安行丸」である。1863年(文久3年)、ティルビィ組合から薩摩藩がSarahを買って、安行丸と名付けていたのだ。売買代金は7万5000ドルであった。しかし薩摩藩は艦船大型化政策をとったため、通報艦レベルの安行丸を慶応2年1月に売却していた。その売却先が従来ボードインとみなされていたが、どうやらロウレイロであったらしい。
 薩摩藩がロウレイロに売却したとすれば、ロウレイロがボードインに所有権を移転させたと考えるしかなく、一時ロウレイロに船の所有権があったときに作成され、履行されなかった契約書が今回の発見文書ではないかと思われる。
 ちなみにボードインはアルベルト・J・ボードインのことであり、幕末から明治にかけて日本の医学教育に貢献したアントニウス・F・ボードインの弟である。彼は兄より早くオランダ貿易会社社員として安政5年(1858)に来日し、オランダ領事を兼任、明治7年に帰国後も駐蘭日本公使館の書記官をつとめるなど日本との関係を長く続けた。薩摩の三邦丸、土佐の胡蝶丸(龍馬も乗船)も元英国船であるが、いずれもボードインが販売した船であった。

いろは丸新史料の謎  1

2010-07-26 15:30:19 | 小説
まずは今年4月24日付の「産経ニュース」の記事にお目をとおしていただきたい。見出しは『龍馬ゆかりの「いろは丸」、実はポルトガル人から購入 愛媛・大洲歴史探訪館』である。

〈 坂本龍馬が中心となり結成した海援隊が運航していた蒸気船「いろは丸」について、同船を所有していた大洲藩(愛媛県大洲市)が、これまで定説とされていたオランダ人ではなく、ポルトガル人から購入していたことが、当時の購入契約書から明らかになった。23日、愛媛県大洲市の「大洲歴史探訪館」が発表した。

 ポルトガル語で書かれた契約書には、慶応2(1866)年9月、ポルトガル人のロウレイロから大洲公代理人、元郡奉行の国島六左衛門が購入したと記されていた。

 いろは丸が慶応3年4月に紀州藩の軍艦と衝突した「いろは丸事件」の際には、「オランダ人から購入した」という話が流布し、それが定説化していた。

 契約書は東京都内に住む個人が所有。翻訳した東京大学史料編纂所の岡美穂子助教は「定説を覆す史料だと思います」と話した。

 当時は、外国船の購入主体は藩に限られていたが、契約書に名前のあった国島六左衛門が後に切腹していることから、岡助教は幕府の許可を得ずに個人名義で購入したため、責任を取らされた可能性もあると指摘している。

 清水裕市長は「この契約書を契機にさまざまな研究が進められ、新たな事実が出てくるのでは」と期待を寄せていた。〉

 各紙に同様の記事が掲載されていたが、私はなんとなく腑に落ちない思いがしていた。このほどブログの記事の単行本化が進んでいて、ゲラの中に、今年1月から2月にかけて書いた「龍馬・いろは丸の謎」があった。当然、新発見のこの「購入契約書」には言及していない。腑に落ちないと思っていた、この新史料と向き合わねばならなくなった。
 大洲歴史探訪館に展示されている現物の写真を見たけれど、藩主加藤遠江守と三家老の署名捺印には違和感をおぼえた。素人目にも4人の署名が同一人物によるものとしか思えない。三家老のうち二人は加藤姓であり、藩主の「加藤」と二家老の「加藤」はまるで同じ筆跡である。
 ともあれ「契約書」と従来の定説との大きな相違は、次の二点である。
1)売買契約相手はオランダ人ボードインではなくポルトガル領事ロウレイロだった。
2)売買代金4万メキシコパタカは契約時に全額支払われた。
 ちなみに大洲藩の契約当事者(契約書の乙)は国島六左衛門で、契約日は慶応2年8月14日(契約書上は西暦の日付で1866年9月22日)となっている。
 さて、藩主や家老の署名があって全額決済されているのならば、この慶応2年の12月に国島六左衛門はなぜ自殺したのだろう。新史料発見のニュースを知って、とっさに思ったのはそのことだった。Twitterで私は「それなら国島六左衛門は死ぬことはなかった。この史料、精査が必要だ」と呟いたものだ。
 さらに売買代金の4万メキシコパタカ(ドルと同じ)は、当時の日本円で1万両に相当するという発表には、いささか憤慨した。岡助教がそう言ったのだろうか。もしそうなら、いかなる為替レートを使って換算したのかご教示いただきたい。こういう数字は結構一人歩きして、ほらやっぱり1万両の船を龍馬は何万両とふっかけて賠償金をせしめたのだ、というような風説を形成しやすいのである。
 当時、100ドルは77両2分であったとする実例がある。4万ドルというのは、まさに3万1000両なのである。(注:4分で1両)1万両でこの船は買えない。
この船は、3年前の1863年には7万5000ドルだった。もともと英国船籍であって、建造地は英国グリーノックであった。鉄製蒸気スクリュー艦で排水・積載量161トン。船の原名は「Sarah」。よく諸本に書かれているように「アビソ号」ではない。私も鵜呑みにしていて、アビソ号としていたが、前のブログを訂正した。なんのことはない、Avisoであるならば、固有名詞ではなく、「通報艦」の意味であると気づいた。
 司馬遼太郎『竜馬がゆく』に次のような場面がある。

〈船尾に、美女の彫像がついている。航海安全の守り神だという。
「これは何だ」
と、国島が、売り手のボードウィンにきくと、
「アビソという名の美女です。私は、このアビソに守られて長い航海をした」
とこの異人は言い、そのアビソに別れの接吻を投げ、大げさな身ぶりで泣く真似をしてみせた。〉

 司馬さんのネタ本は豊川渉の『いろは丸終始顛末』である。売り手がこの船で長い航海をしたわけはないが、通報艦を意味するアビソが、どこかで美女に変容したらしい。いずれにせよ司馬さんも、いろは丸の売主はボードインという定説は踏まえたのである。ボードインで正しい、と思う。なぜか。(この稿続く)

10月刊行本の「あとがき」

2010-07-10 19:37:39 | 小説
 10月上旬刊行予定の本の題名は『司馬さん、そこは違います』になりそうだ。なりそうだというのは無責任だが、なにもかも出版社側にお任せなのである。だいたいブログに書き散らした歴史エッセイを、編集者の福島茂喜さんが再構成して、一冊の本になるように体裁を整えて下さったのである。私はなにもせずに事態が進行している。せめて、短くても「あとがき」ぐらいは書かなくてはバチがあたりそうだから、書いた。以下の文章がそれである。題名と平仄をあわせておこうという、我ながら姑息な「あとがき」になった。短かすぎるから、実際には加筆するかもしれない。

「ある人間が死ぬ。時間がたつ。時間がたてばたつほど、高い視点からその人物と人生を鳥瞰することができる。いわゆる歴史小説を書く面白さはそこにある」
『歴史と小説』(集英社文庫)所収の『歴史小説と私』というエッセイで、司馬遼太郎はこう発言している。同じことを、こうも述べている。「つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。同じ水平面上でその人を見るより別なおもしろさがある」
 私が司馬さんに感じる微妙な違和感の淵源はこういうところにある。  歴史という時間の流れを強引に空間の概念に置き換えて、高みに立てば立つほど歴史的事実が眺めやすくなるとは、私には思えない。
ある歴史上の人物を現代という視点から頭越しに覗き込むよりも、彼のいた時間にさかのぼって、水平面上で、肩を寄せ合うように並んで歩きたい、できうればそっと彼の心に横すべりでしのびこみたいと考えるものだからである。
 もっとも歴史的事実にさかのぼることが可能ということには陥穽がある。歴史には、ある一定の方向性がある、と私たちに錯覚させからである。一直線にさかのぼれても一直線に進むような法則性など歴史にはない。つまり、なんとか史観などという概念で総括できるほど歴史は単純ではない。
だからこそ歴史という「物語」はおもしろいのであり、たえず誰かが検証し、新しい語彙で語り続けなければならないのである。

『月琴を弾く女 お龍がゆく』余録

2010-07-05 21:04:59 | 小説
…京都弁について

 私は高知の生まれであるから、作中人物の土佐弁にはなんの苦労もいらなかったが、困ったのは京都弁であった。京都に住んだこともなく、知合いに京都人もいなかった。京都弁の陰翳がよくわからないのに、ヒロインのお龍さんはもとより寺田屋お登勢に京都弁の会話をさせなくてはならない。さてどうするか。
 京都弁で書かれた女流詩人の詩集を読み込んで、いかにも京都らしい方言や、雰囲気のある言回しをピックアップし、簡単な語彙ノートのようなものを作って、日がな一日眺めていた。
 そしてそこから、作中人物に喋らせる会話をあらかじめ選んだ。つまり作中人物のセリフを京都弁に変換するのではなく、はじめに典型的な京都弁ありきで、それをしゃべる場面を設定するという方法をとった。楽しい作業だった。

…新撰組という表記について

 一般的な表記は「新選組」であるけれど、あえて「新撰組」としたのは、こちらの表記のほうが正しいと主張したいわけではない。新撰組生き残りの永倉新八に敬意を表したからにすぎない。永倉の語り残した記録は『新撰組顛末記』となっているからである。さらに言えば、新撰組と関係の浅からぬ西村兼文編述・馬場文英補訂の『新撰組始末記』も「新撰組」と表記しているからである。

…月琴の演奏について

 月琴の演奏については、横須賀龍馬会の月琴部の演奏を、いつの年だったか京浜大津のお龍さんの墓前祭の帰りに聴いたことがあった。月琴という楽器はなんでも弾けそうだという確信は、この演奏を聴いたおかげである。
 原口泉氏の近著『お龍と龍馬 蜜月の三ヶ月』(東邦出版)に、お龍と月琴に触れた記述があって、そこで『月琴を弾く女 お龍がゆく』のことが紹介されていた。自分の小説の題名が思いがけないところに引用されていて、すこしびっくりすると同時に嬉しかった。
table>月琴を弾く女―お龍がゆく (幻冬舎時代小説文庫)
鏡川 伊一郎
幻冬舎

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