小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

雨紛々

2009-06-30 21:52:21 | 小説
 雨の日にお風呂に入るのが好き、という女性がいた。湯に浸るときの皮膚感覚がいつもと違うからだと言った。疎遠になって久しい。
「俺も歳とったなと思う。このごろ漢詩が心に沁みる」といった友人がいた。もうずいぶんとご無沙汰している。
 ふいに彼女と彼がセットになって、小さな疼きのようになって思い出されたのは、雨のせいだろうか。
 雨の情景を詠んだ漢詩で、好きなのがある。
 杜牧の『清明』である。

 清明の時節 雨紛紛
 路上の行人 魂を絶たんと欲す
 借問す 酒家は何れの処にかある
 牧童遥かに指さす 杏花の村

 雨にうたれて、すっかり心のめいった旅人が、酒でも飲まなければやりきれなくなって、牛飼いの子に酒場のありかを尋ねた。あっちの村まで行かなきゃないよと、牛飼いの指さす方向には一面に杏の花が雨にけぶっていた、という詩である。
「魂を絶たんと欲す」という、つまり死にたくなるほどだという大げさな表現がよく効いている。そして読者の視覚に、救いのように杏の花が映ずるのである。
 漢詩は若い頃から嫌いではなかった。私が、ああ、この詩は良いなと思うのは、だいたいが杜牧のものだった。杜甫でもなく李白でもなくである。
 さて、雨紛々、彼女と彼の消息を、いま私は知らない。
「魂を絶たんと欲す」ほどでもないが、軽い欝状態が続いていて、気力が萎えていたのだが、回復しつつある。こういうときには漢詩が癒しになる。
 ベトナムの故ホーチミン大統領は、蒋介石の軍に捕えられ、獄舎につながれたとき、杜牧の『清明』のパロディを作っている。
 
 清明の時節 雨紛紛
 籠裏の囚人 魂を絶たんと欲す
 借問す 自由は何れの処にかある
 衛兵遥かに指さす 弁公の門

 ホーチミンも杜牧の詩が好きだったらしい。
 

韓国の前方後円墳と任那日本府

2009-06-25 15:39:03 | 小説
 空から見ると鍵穴のようなかたちをした前方後円墳は、日本固有の墓制だと私などは学校で教わってきた。なんのことはない、1980年代以降、韓国で相次いで前方後円墳が発見されている。栄山江流域で13基が確認されているのだ。
 この韓国の前方後円墳の被葬者については、在地首長(倭人ではない)説と倭人説のふたつがあって、倭人説についても倭からの移住者説と倭系半島人説がある。いずれにせよ、日韓の学者たちは韓半島に倭人の古墳のあることに内心とまどっているように思われる。
 そのとまどいの根っこにあるのは、現代の国民国家意識である。古代においては、韓国も日本もなかった。現代の国境概念や国籍の概念を古代にスライドさせようとするから、話が妙にややこしくなるのである。
 韓半島の南部には倭人の居住地があった。そのことはたとえば、魏志倭人伝にも明記されていた。だから在地首長(倭人の)説でいいわけである。もとより、これは侵略史観などとは無縁の提言だとご理解いただきたい。
 韓国における前方後円墳の発見は、「任那日本府」問題にも関連づけられて種々論議を呼んでいるが、ここでも話はこじれているようだ。
 任那とは伽耶のことであるが、前方後円墳はまさにその伽耶地域に築造されているからだ。「日本府」という表記から、まだわが国が対外的に「日本」という国号を用いてない時期に「任那日本府」が存在したわけがないという説がある。私は、あったと思っている。ただしその「日本」の意味するところは、国家としての「日本」ではないと解釈している。
 伽耶は東西を百済と新羅にはさまれ、南は海をへだてて日本列島に面した小国の連合体であった。半島の南海岸一帯に位置する「下伽耶」と呼ばれる地域に、『日本書紀』には「久磋国」と表記される小国が登場する。クサである。
 さて「日下」と書いて「クサカ」と読む。「日」は「クサ」であった。「日本」という意味は「もとは日(クサ)」と解釈すべきだというのが私見である。「任那日本府」はだから「任那もとクサ府」なのではないか。
 魏志倭人伝には倭国の北岸は半島の「狗邪韓国」であると記されてあった。古代では、「サ」と「ヤ」は通音するから、この「狗邪」が「クサ」ではないかというのも私見である。
 確かなことがひとつある。韓半島に存在する前方後円墳という鍵穴に、ぴたりと合う鍵は、偏狭なナショナリズムから自由にならなければ、韓国製でも日本製でも作れないということだ。
 

委奴とアイヌ

2009-06-23 05:32:43 | 小説
 坂本龍馬の妻のおりょうさんがアイヌ語を勉強していたという話は、前に『坂本龍馬の妻のアイヌ語辞典』(2008年11月の当ブログ)で書いた。ところで現代、アイヌ語を勉強されている女性、いやひとはどのぐらいいるだろう。まず極めて少ないだろうと思われる。
 アイヌ語を定義すれば「日本の言語のひとつ」となるが、日本の方言のひとつとは誰も言わない。
 日本政府の同化政策と学校教育によって、アイヌのひとたちは日本語のみの使用を強要され、アイヌ語は実質的に亡んでしまった。(民族文化遺産としてアイヌ語を保存しようという運動はある)
 子供の頃、四国の地名にアイヌ語由来のものがあると聞かされて、四国生まれの私は不思議でならなかった。今では、不思議だとは思わない。アイヌはなんらかの歴史的事情で、南から北へ北へと移動した日本民族のひとつだからだ。
 アイヌの人たちが連れていたアイヌ犬は雪そりをひけないらしい。アイヌのひとたちと歴史を共有するアイヌ犬は、その遺伝子構成が台湾の在来犬で、山岳地方にいる高砂族の犬に似ているという。あるいは南中国起源とされるチャウチャウやパグに近いという。
 つまりアイヌのひとたちは、その刺青の風習といい、もともと南方系であったにもかかわわらず、北方に移動したのであった。
 その移動の理由はよくわからない。
 アイヌ語といわゆる和語には深い歴史的な関係があり、アイヌ語はあきらかに日本語の基層言語のひとつとして考えられるのに、言語学者たちによってそこのところが詳しく明らかにされていないと同じようにわからない。
 西暦57年、後漢の光武帝は列島のある国王に対して金印を贈った。18世紀になって、福岡県の志賀島で発見された金印には「漢委奴国王」と刻まれていた。漢の委奴国王と読むか、漢の倭(人偏がぬけていると解釈)の奴国王と読むか二説あって、ほぼ後者が定説になっている。九州にあった奴国の王に贈られたものであろうというわけだ。
 この「委奴」を「アイヌ」と読んではいけないのかと、あるとき思いついて、しばらく興奮したことがある。むろん、じゅうぶん検証しなければいけない思いつきではあるけれど、私には楽しい課題として残っている。

卑弥呼は漢字が読めた

2009-06-21 20:45:56 | 小説
 その女王の都の所在地が論議の的となる、いわゆる『魏志』倭人伝には、あまり注目さていないけれど、所在地問題とは別の興味ある記述がある。この中国の史書は、日本人と漢字をめぐる重要な史料として読めるし、読むべきなのである。
 まずは、『魏志』倭人伝からピックアップした次の箇所に目をこらしてみよう。
 
①「その年(239年)十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。(後略)」

②「正始元年(240年)、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、 倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、(中略)倭王、使いに因って上表し、詔恩を答謝す」

③「その六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ」

④「その八年(247年)…倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。(中略)相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告諭す」

 中国つまり魏の国王は、卑弥呼にたびたび「詔書」を送っていることがわかる。むろん漢文で書かれた文書である。卑弥呼が漢字を読めなかったら、何の意味もない行為になるけれど、もとより、女王は解読しているから、たびたびの詔書となるのである。
 注目すべきは④の引用箇所だ。卑弥呼はクナ国の男王と不仲で、争いごとになったときに紛争解決策を依頼というか、仲裁を申し入れたようだ。そこで「サイソウエンシ」という肩書きの張政という役人が派遣され、「檄」をもって告諭したという事実が記されている。
「檄」は漢字で書かれた文章である。相手側のクナ国の男王も当然、檄の漢文が読めなければ効果はなく、むろん内容は理解できたのである。
 こうしてみると三世紀の支配者層は、漢字が読めたのである。漢字が日本に輸入されたのは5~6世紀であるなどという教科書的知識によって目を曇らせてはいけない。
 加藤徹『漢字の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(光文社新書)に次のような箇所がある。
「…三世紀当時の日本列島に、まだ漢字文化は根付いていなかったとするほうが適切である。『魏志倭人伝』に出てくる地名・人名の漢字は、中国人か、あるいは朝鮮民族の祖先が当てた『他称』であろう」
 そうは言い切れないだろう。②の引用箇所から、卑弥呼が上表文を提出していることがわかる。当然ながら、卑弥呼の署名があったはずだ。まさしくサインは「卑弥呼」であった可能性は否定できない。卑字の「卑」を名前に刻んでいるから。他称であろうというのはいかがであろうか。
 倭人が自分たちの国の倭国の名が、いい意味をもっていないと気づくのは、このときからまだ400年以上、後のことだったではないか。

再び『日本語が亡びるとき』について

2009-06-16 16:57:49 | 読書
「今地球に六千ぐらいの言葉があるといわれているが、そのうちの八割以上が今世紀の末までには絶滅するであろうと予測されている」
 水村美苗『日本語が亡びるとき』の第1章に書きつけられている言葉である。誤解のないように、すぐに言っておかなければならないが、水村氏は日本語絶滅論者ではない。
 さて、揚げ足をとるようだが、実は世界に存在する言語の総数は定かではない。調査が行き届いていないせいもあって、信頼できる数値はないのである。
 ディビット・クリスタル『消滅する言語』(斎藤兆史・三谷裕美訳 中公新書)によれば、D・クリスタル自身は、それでも基準値を定めなくては論議にならないから、6000プラスマイナス1000を2000年の時点で仮定している。水村氏の数値もこの範疇だ。
 クリスタルの著書で知ったことをついでに紹介しておくと、オランダ語にも危機感を抱いている人がいるようだ。孫引きになるが、以下はヨハン・ファン・ホールデの言葉。
「オランダ語は短中期的に消滅の危機にはないが、使用する領域を失う危険性がある。最終的にはただの口語的な言語になり、家で家族と話すには──つまり自分の感情を表すには──適してはいるものの、人生の重大事(仕事、金、科学、技術)を語るためには使わない言語になる可能性がある」
 これは水村氏が日本語に抱く危機感に近い。
 クリスタルの訳者である斎藤兆史氏は「訳者あとがき」で、こう書いている。
「いまの日本人は、世界の大言語の一つである日本語を母語としながら、これからの時代、英語ができなければ生きていけないとの危機感にさいなまれ、自ら進んでクリスタルが提唱するような、どこにも成功例のない大規模な二重語併用状態をを作り上げようと躍起になっている。もしかしたら、一億を越す話者を持ちながら、すでに日本語自体が危機言語になっているかもしれない」
 これは国民全員がバイリンガルになる必要はないという水村氏の主張とぴったり合っている。
 水村氏の本はそのタイトルが刺激的であるゆえか、ずいぶんと誤解されており、事大主義のにおいがするなどという方もおられたが、政府の公文書のカタカナ表記の「コンプライアンス」を揶揄する氏のどこが事大主義だろう。氏は英語が世界に共通語としての地位を築きつつある時代に、日本語に自信を持てといっているのである。だからといって、日本語に過大な期待は寄せていないのである。
 水村氏の現状認識とは対照的に、日本は経済大国なのだから、当然、言語情報大国として他国に影響を及ぼすことが可能だとする考え方がある。日本語は国際語になりうる、あるいはすべきだという立場だ。これは、期待するほうが無理である。「言語は海軍と陸軍を持つ方言だ」という有名な定義がある。言語の普及は、それは消滅と反対のことがらであるが、軍事侵攻と密接な関係があった。さきゆき日本の軍事侵攻は、ありえないからである。
 追記すれば、私が長谷川教授を能天気な学者だと言ったのは、ここのところが教授にはわかっていないからである。 

村上春樹『1Q84』を読む

2009-06-13 21:31:30 | 読書
 面白い。月並みだが、あるいは陳腐な言い方だがなどと断るまでもなく、つまり、はばかりなく面白いといえる小説だ。 上・下巻(BOOK1とBOOK2)それぞれ24章ずつ、計48章で完結する。
 おお、このヒロイン、必殺仕事人ではないかと驚かされたりして、上巻はミステリアスなエンターティメントとして展開する。
 いや、ただのエンターティメントであるはずがない、という徴候は上巻の18章にある。
 ジョージ・オーウェルの小説『1984年』にビッグ・ブラザーという独裁者が登場したことが読者に知らされる。スターリニズムの寓話化だったビッグ・ブラザーに対して『1Q84』には「リトル・ピープル」が登場するのだが、まだ読者にはなんのことかさっぱりわからない。
 いわゆるムラカミ・ワールドの世界と陥穽に、読者がひきずりこまれるというか落ちこむのは、下巻の13章からである。読者はじゅうぶんに伏線という毒を食っているから、しびれたまま、もう後戻りはできない。
 ヒロインが殺そうとしているカルト集団の以下の教祖のセリフあたりから、眩惑の世界にいやおうとなく読者は誘われる。
「…君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。どちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実を隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかない」
 切ない結末が用意されている。
 私はこの小説が舞台劇であってくれたら、カーテンコールで、またあのヒロインに会えるのにと妙な思いにとらわれた。会えるのはヒロインではなく女優ではないかというなかれ。ともかくヒロインだ。
 小説は高速道路の渋滞に遭遇し、高速道路上でタクシーからヒロインが降りるところから始まる。(たいへんな伏線である)
 さて、直接この小説とは関係ないが、私は梅田望夫の『ウェブ時代をゆく』(ちくま新書)のある章を思い起こしていた。〈「高速道路」と「けものみち」〉という章があったのだ。ひとは渋滞の高速道路を降りて、けものみちを歩けるか。
 梅田望夫はシリコンバレーで学んだという英語を紹介していた。

in the right place at the right time

 正しいときに正しい場所にいる。
 
 1984年、私たちは正しい場所にいたか。いや、今現在、正しい時にいるといえるだろうか。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  完

2009-06-11 00:23:18 | 小説
 大町桂月は鉄幹と同じ落合直文の門下生だった。ふたりは、もとより親交があった。
 その桂月の晶子に対する論難は過激にエスカレートする。
「…晶子の詩を検ずれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるもの也」
 とまで言うのであった。
 桂月はやや政治色の強い雑誌『太陽』の文芸時評を足場に、そして晶子は『明星』誌上で反論するのだが、匿名子なども巻き込んで、ジャーナリズムの大きな話題になった。
 結局、鉄幹は桂月を訪ねて、文芸至上主義の立場から直接に晶子を擁護した。イデオロギー的な詩ではないと弁明し、なんとなく桂月の矛先をかわしたのであった。
 鉄幹は桂月にかっての自分を見たはずである。しかし、彼は昔の彼ならず、鉄幹は変貌していた。あるいは転向していたといっていいかもしれない。
 晶子は鉄幹にとって三人目の妻だった。明治33年の夏に初めて出会って、34年には結婚しているが、妻子ある身の不倫の恋と世間に騒がれて、誹謗中傷を乗り越えての結婚だった。護るべきはイデオロギーよりも妻のほうだった。小林秀雄の言葉を借りれば、女は男の成熟する場所だった。
 5歳年下の鳳晶子と知り合って間もない頃の鉄幹に、こんな歌がある。

  ひんがしに愚かなる国ひとつあり いくさに勝ちて世に侮らる

 日清戦争に勝利した日本そのものを皮肉っているのである。あるいは、かって朝鮮王妃暗殺に加担しようとした自分自身を総括しているのである。
 さいわい蛮行や愚かなる行為に実際に手を汚すことはなかった。ほとんど僥倖のようなものである。
 そのことは日本の文学にとっても僥倖だった。
 私はまだ十代の頃、鉄幹の次の歌が好きだった。

 われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子

 いまはとても気恥ずかしくて、こんな歌を好きとはいえない。けれども鉄幹ばりの歌を作って自己慰安にふけっていたあの頃を総括できているかといえば、少しこころもとない。
 閔妃のことが現在の韓国でどのように語り継がれているか、そのことにも言及しようかと予定していたが、やめた。偏狭的ナショナリズムのざらついた感触にふれざるを得ないと思ったからだ。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  18

2009-06-09 22:57:10 | 小説
 高宗がロシア公使館に移って、政治を行うということは、朝鮮の独立国家としての尊厳を自ら放棄したのと同じだった。朝鮮における利権のほとんどがロシアに移ったということなのだ。
 高宗を奪還すべく、鉄幹らは2ヶ月待った。
 しかし、高宗はロシア公使館から出る気配はなかった。鉄幹らの計画がロシア側に洩れていたのかも知れない。張り込みの忍耐と緊張は、そう長くは続かない。結局、鉄幹は、この計画を中止した。
 3月には落合直文から帰国をうながす電報が届いた。これを受けて、4月中旬には鉄幹は日本に帰っている。ある種の虚脱感にとらわれたようだ。彼の心境に変化があらわれる。政治にうつつを抜かしていた自分に少し嫌気がさして、あらためて文学者としての自覚がよみがえるのだ。

 筆とりて、あらバあるべき おのが身を、太刀にかへてと、何おもひけむ

 自分の本分は太刀ではなく筆をとることではないのか。なにをやっているのだ、俺は。そんな自嘲ぎみな歌を詠んだ。のちに「当時の思想言動の粗野浅薄を悔ゆる所多し」と回顧している。
 ところで、これまで概略的に述べた半島の情況からも、閔妃暗殺事件が日露戦争の序曲になったことは、おわかりいただけると思う。
 1904年2月、日露戦争勃発。明治37年である。与謝野鉄幹は31歳になっている。
 戦争勃発の7ヵ月後の雑誌『明星』に「君死にたまふこと勿れ」という詩が掲載された。作者はむろん与謝野晶子である。旅順口包囲軍の中にある弟を嘆いた詩だ。

 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大みこヽろの深ければ
 もとよりいかで思(おぼ)されむ

 かって政治家志望だった文芸評論家大町桂月は、詩のこういう箇所にいち早く反応した。「世を害するはかかる思想なり」と厳しく批判したのだった。
 おそらく朝鮮にいた頃の鉄幹が言いそうなことを桂月が言うのである。
 鉄幹はどんな立場をとったのか。 

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  17

2009-06-08 22:48:53 | 小説
 閔妃暗殺の1ヵ月後には、現在の大田(テジョン)で抗日義兵が蜂起した。「乙未義兵」と呼ばれる騒乱だが、それは各地に広がりを見せ、地方官吏を処断して、日本軍と衝突した。
 そんなおり、王の高宗を拉致して新政府を立て、親日政権を打倒しようという動きがあった。11月の末に起きた春生門事件である。
 この事件には、ロシアとアメリカの外交官、宣教師などが加担していた。王妃暗殺の現場にいた軍事教官ダイも加わっていた。結局は失敗に終わるのだが、これは親露派とロシアの巻き返しだった。失敗に終ったから、ロシアとしては日本に弱みを見せたことになった。
 ロシアは挽回策を練っていた。翌年2月11日、ロシアの打った手は、王宮から高宗をロシア公使館に移転させるという奇策だった。ロシア側は高宗に、あなたも暗殺されますぞと吹き込み、彼の恐怖心を利用した。
 高宗はその日早暁、女装して隣室の大院君にも気づかれずに寝殿を出て、門で待機していたロシア兵50人に護衛されてロシア公館に入った。
 三浦の後任の小村公使は、「天子を奪われたから、もう万事おしまいだ」と嘆いたという。
 朝鮮における日露の立場が逆転したのであった。
 高宗は、その日のうちに親日派内閣の閣僚の捕殺令を下すのである。逆賊だというわけだ。
 総理大臣の金弘集は、逮捕されて警務庁に行く途中、群集によって撲殺された。
 与謝野鉄幹は、このニュースを、馬で仁川に行く途中に聞いている。
 彼は怒りとともに決意する。
 ロシアから朝鮮国王を取り戻す、と。
「今一度親日派の韓人たちのために頽勢を挽回しようと決意し、少数の同志を集め」と『東西南北』に書いている。
 高宗が公使館からいずれ近くの明礼宮に移るだろうという噂をたよりにした。そのとき宮の付近に放火して、混乱に乗じて高宗を奪い、逆に日本公使館に届けようという計画だった。
 明礼宮付近の朝鮮家屋を借り、放火用の石油を幾十箱か用意して機会を窺った。同志は20人いた。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  16

2009-06-07 15:42:10 | 小説
 宇品埠頭に姿をあらわした鉄幹ら被告48人は、しかし熱烈な歓声で迎えられた。あたかも凱旋将軍を迎えるような光景が展開したらしい。閔妃暗殺を快挙としてとらえる世論が形成されていたのである。
 与謝野鉄幹はすぐに釈放された。予審判事の取り調べで、事件当日のアリバイが認められたからである。しかし広島にとどまり他の被告たちへの差し入れなどをしていたらしい。
 もっとも全員が3ヶ月半にわたる審理の末、無罪となったのである。罪名は「凶徒嘯集と謀殺」であったが、「証拠不十分」というのが広島地方裁判所の判決だった。
 元公使三浦は釈放された日、地元有志の歓迎会に招かれたと回想している。「それから汽車で帰ったが、沿道至る処、多人数群集して、万歳々々の声を浴びせ掛けるやうな事であった」(小谷保太郎編『觀樹将軍回顧録』政教社)
 こういうわけで、おそらく被告たち全員、犯罪者意識は希薄だったように思われる。
 さて、鉄幹のことである。
 なぜか彼は事件のほとぼりさめやらぬ明治28年12月、また韓国に渡る。ついでに言えば、この時点では「諸友」はまだ監獄にいる。彼らが釈放されたのは翌明治29年1月20日であった。
 商売をしたくなったとも、親日派の内閣のもとで働こうとしたとも、断片的には矛盾した発言をしているが、事件の秘密裏な後始末に行ったのではないのかと、私は疑っている。
 明治29年2月、与謝野鉄幹は実際に、ある政治行動を起こそうとする。同志20名とである。同志がいるのである。
 この行動計画は放棄されて、5月末に帰国するのであるが、そのことを述べるためには、閔妃暗殺後の朝鮮の混乱についておさらいしなくてはならない。 

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  15

2009-06-04 23:49:08 | 小説
 王宮に乱入した実行部隊は、日本守備隊および公使館警察と朝鮮の訓練隊、それに日本の民間人の混成だった。
 ほんとうはまだ夜の明けきらぬ4時半頃の決行を予定していたが、混成部隊ゆえに合流に手間取り、夜明けの決行となった。
 したがって、彼らの姿、たとえば洋服に日本刀を差した格好などは、しっかりと目撃されている。王宮に滞在していたアメリカ人で侍衛隊の軍事教官だったダイ、ロシア人技師のサバチンらの目撃証言がある。そんなわけで日本人の関与は列強の駐韓公使がすべて知るところとなった。
 三浦公使は、大院君と訓練隊によるクーデターに見せかけようとしたのだが、それは不可能となったのである。
 事態を重視した日本政府は、小村寿太郎(政務局長)を公使に新任し、安藤謙介検事正とともに事情聴取のため派遣した。
 三浦をはじめ公使館関係者、日本守備隊隊長の楠瀬幸彦中佐らは10月末までに全員帰国となった。召喚である。軍事法廷に送られた軍人を除く三浦公使以下48名が、広島で投獄された。
 その48人の中に与謝野鉄幹がいた。
「…広島に護送せらるゝ者と、船を同じうして、仁川を発し、宇品に向かふ。船中無聊、諸友みな、詩趣に托して興を遣る」(『東西南北』)
 それはそうだろう、言論人が多かったのだから、おおいに詩を吟じ、歌を詠んだのであろう。
 鉄幹の歌がある。

 罪なくて、召さるゝもまた、風流や。ひとやの月ハ、如何にてるらむ

 鉄幹は参加していなかったから、「罪なくて」とはたしかに言えるけれども、心情は「諸友」と同じだったはずである。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  15

2009-06-03 23:34:15 | 小説
 訓練隊は日本軍将校によって育成された軍隊であった。だからこそ、閔妃はこの軍隊を解散させようとしたのであったが、その訓練隊が日本守備隊と合流し、さらにいわゆる浪人たち日本の民間人と徒党を組んで、王宮の光化門を突破しようとしたのは、10月8日の明け方5時を少し過ぎた頃だった。
 どうもよくわからないのは、王宮直属の軍隊である侍衛隊の脆弱さである。光化門では6名ないし8名の侍衛隊軍人が銃撃戦で死んだとされるが、その門を突破されたとしても、王や閔妃の寝殿をなぜ守りきれなかったのか。激しい抵抗の様子がなく、あっけなく敗退しているのである。13年前にも閔妃は暗殺されそうになっていたではないか。危機管理は忘れられていたのだろうか。
 それはともかく、閔妃を誰が直接に殺害したのかは定かではない。いずれにせよ徒党を組んでの蛮行であった。この日、王宮を襲撃したすべての者たちは蛮行にくみしたということにおいてかわりはない。
 現場にいた漢城新報の編集長小早川秀雄は書いている。
「殺害された閔后は、今しがた、寝床より抜け出たもののごとく推測され上・下の白い寝衣は、胸部と両腕を露出したまま倒れていた。体のどの部分であったか、多量の鮮血が流れ出ていた。しかしその姿体は優雅で、二十五・六の若さにみえ、そのあどけなさは、永遠の夢に耽っているようであった。その人形のような繊細な手が、八道(朝鮮全道)を翻弄し、群豪を駕御したとは、考えられないものがあった。室内には、一人の侍者もなく、遺骸を守る近親のものさえない。凄惨な光景であった」(『閔后殺害事件の真相』)
 閔妃の死に関して、一部に猟奇的な説がある。死体を焼く前の話なのだが、この小早川証言のように「永遠の夢に耽っている」ような王妃であるならば、そのままなにごともなく横たえられていたのだと信じたい。
 すくなくとも、知性も感性もある人間が現場にいたのであるからだ。
 また、小早川の記述から、まだ息のあるうちに王妃を焼いたなどという説(マッケンジー『朝鮮の悲劇』)は、嘘であることがわかると付言しておこう。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  14

2009-06-02 22:19:13 | 小説
 ところで与謝野鉄幹が、閔妃暗殺の決行日を11月上旬と思い込んでいたことは、前に紹介した。
 もしかしたら複数の暗殺計画があったのかもしれないが、これは回想時点における鉄幹のたんなる思い違いかもしれない。
 たしかに当初の決行予定日と実際の決行日は違っていた。ただし二日早まったにすぎないのだ。なぜか。
 以下に金両基編著『韓国の歴史を知るための66章』(明石書店)から参照してみよう。
「新しく赴任した三浦梧楼公使は、日本人の浪人たちを動員して明成皇后(閔妃)を暗殺する計画を立て、それを十月十日に決行する段取りにしていた。十月二日ごろ、あらかじめ各責任者に行動指針を通達して役割分担を決め、柴四郎、安達謙蔵らが浪人を動員し、岡本柳之助は大院君を担当することになった。十月十日の決行時には、朝鮮軍の訓練隊の解散に乗じて、大院君と訓練隊のクーデターにみせかけることにしていた。ところが状況が変わったのである。七日の明け方二時に訓練隊に解散命令が下されたため、決行日が急遽八日明け方に繰り上げられたのであった」
 さて、ここで新しく出てきた人名「柴四郎」について触れておかねばならない。あるいは東海散士という筆名のほうが有名かもしれない柴四朗(郎ではない)は、『佳人之奇遇』の著者である。ハーバード大学とペンシルバニア大学の両大学で学んだ最高のインテリであった。浪人を動員などと書かれると、なんだかならず者の親玉みたいな印象を与えかねないが、そうではない。そもそも浪人というのが先に書いた天佑侠系の人たちであったはずだ。ならず者などいなかった。なにより言論人たちが参加していたことは前にも書いた。
 さらに金両基編著の前掲記述にやや不満があるとすれば、閔妃暗殺には朝鮮の訓練隊が、見せかけではなく実際に加わっていたことが明記されていないことだ。訓練隊には閔妃の例の朴内務大臣に対する処置に不満を抱く者たちが多かった。
 だから事件の一報が届いたとき、日本では訓練隊の決起だろうとする見方をする者もいたのである。

与謝野鉄幹と朝鮮王妃暗殺  13

2009-06-01 23:45:42 | 小説
 話は前後するけれども、日清戦争の直前の1894年7月に、日本は景福宮を占領、このときも大院君を担ぎ出して「摂政」とし、金弘集を総理大臣とする親日派政権を樹立させていた。
 その親日派閣僚を、閔妃は親露派中心の人物に交代させるのであった。
 要約すれば、そういう簡単な記述になる。しかし、この間の事情は、なかなかに起伏があって、かつ複雑、陰謀うずまく朝鮮政府といった感がある。
 たとえば1895年8月には第三次金弘集内閣が成立している。わずか一年余で、第三次なのである。そして第三次では、親露派の第一人者が閣僚入りし、重要なポストを占めているのだ。
 さて、三浦公使が赴任したのは、その年つまり明治28年の9月であった。
 与謝野鉄幹は書いている。「時に、王妃閔氏の専横、日に加はり、日本党の勢力、頓に地に墜つ」(『東西南北』)
 王妃のことは、当時の日本の新聞ジャーナリズムが自明の前提のように伝えていたが、例をひとつあげれば時事新報の7月9日付の記事。
「王妃政権を恢復せんと欲し、近来その党を集め陰かに計画しつつあるは既に伝ふる所なれば朴内務を捕縛せんとするが如きは、けだしこの陰謀を実地に施すの第一着手ならんか…」
 ご覧のとおり「既に伝ふる」ところなのである。鉄幹もこうした記事には熱心に目をとおしていたはずである。
 ちなみに記事中の「朴内務」とあるのは、閔派と対立した内務大臣の朴泳孝のことである。謀反の疑いで逮捕されそうになったが、危ういところで逃れたらしい。