小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

横井小楠を考える 7

2007-12-27 22:29:22 | 小説
 大巡察の古賀十郎の証拠探しの結果については、後まわしにしておこう。ぜひとも見ておかなければならない別の事件がある。『岩倉公実記』中の資料名でいえば、「賀陽宮御不審一件」である。
 横井小楠暗殺事件は、たんに一人の要人を抹殺したというだけでなく、実はもうひとつ別の側面を持っているからである。事件の黒幕は一石二鳥の手を打ったと思われるのである。
 賀陽宮(かやのみや)とは朝彦親王のことであるが、親王は幕末維新史のそれぞれの局面でさまざまな通称でよばれた。たとえば青蓮院宮、粟田宮、中川宮、獅子王院宮、尹宮(いんのみや)、久邇宮、むろん皆同一人物である。ちなみに昭和天皇の皇后は朝彦親王のお孫である。
 さて、その親王はいわゆる公武合体派の中心的人物だったが、孝明天皇の死をさかいに政治生命にかげりが生じ、王政復古のクーデタ後は失脚したも同然だった。
 その親王の邸を明治元年8月16日の明け方、突如、広島藩兵が包囲した。謀反の嫌疑である。王政復古政府を倒して徳川幕府再興を計画しているのではないか、そういう疑いである。
 親王を糾問したのは議定の徳大寺実則、刑法官判事の中島錫胤そして中島の上司で刑法官知事の大原重徳がいた。
 糾問側は親王が前田某に渡したという文書を証拠物件としておさえていたが、これが偽物だったから親王に簡単に否定されてしまう。困った徳大寺が使いを岩倉のもとに走らせ指示をあおいだ。
 岩倉はいらだった声で言う。「詮議はいいから、とにかく広島藩にお預けと申し渡せ」
 そして付け加えた。「あの御方がいては御維新の邪魔になる」
 親王は位と親王の称号をも剥奪され、朝彦王として即日広島に下った。京都からの強制追放だった。
 朝彦王が広島から京都へ戻ることの許されるのは明治3年閏10月20日である。
 つまり横井暗殺犯たちの処刑が終わってから、朝彦王は帰還を許されているのだ。もっとも、しばらくは他人との面会を禁じられていたらしく、新政府の警戒心はまだ完全にとけてはいない。
 さて横井暗殺犯たちと、朝彦親王に実は接点があった。

横井小楠を考える 6

2007-12-26 17:13:16 | 小説
 若江薫子という岩倉具視とも懇意な女性勤王家がいた。
 彼女は1月21日に逮捕者の減刑嘆願の建白書を刑法官に提出する。
 さて、その刑法官知事が大原重徳である。彼女は大原に私淑していたというから、いわば馴合いの嘆願書みたいなものだが、刺客たちを「報国赤心の者」とし、横井こそ「奸謀の者」と決めつけた。
  そしてこんどは大原重徳が岩倉具視に減刑の意見書を出す。
 大原もまた横井を「奸人」と決めつけて、だから刺客たちは「非常出格の寛典に処せられ候様至祈至祷」というわけである。
 司法のトップが逮捕者をかばうのであるから、ことは尋常ではない。
 たとえば吉川弘文館の人物叢書『横井小楠』の著者圭室諦成は、このため大原重徳を横井暗殺の黒幕だと断定している。大原重徳は尊攘派公家、あるいは王政復古派公家として著名で、小御所会議で山内容堂と論争した人物だといえば、思い出される人も多いだろう。
 ところで、もう一歩先に踏み込めるはずである。
 せっかく若江薫子ー大原重徳ー岩倉具視というラインが見えているのだ。
 結論を先に述べておくけれど、真の黒幕は岩倉具視だったと私は考えるものである。横井を新政府に招いたのは岩倉なのに、そんなわけはないだろうという反論の声が聞こえそうな気がするが、そのことについては後で書く。
 圭室諦成の次の箇所を引用して、先に進みたい。
「刺客の処刑は、反動派の策謀によって容易におこなわれなかったが、それをいっそう困難なものにしたのは、肝心の刑法官と弾正台の反動化であった。2年9月5日弾正台から、小楠はキリスト教信奉者で、国賊ともいうべき人物であるから、犯人の罪は一等を減ずべきであるという建議書がだされた。これに対して刑部大輔佐々木高行は、横井は開国論者ではあったが、キリスト教に関係した事実はない、たとえキリスト教徒であるにもせよ、国法をまげることはできない、と主張して圧力に屈しなかった」
 圭室は続けて、その日の佐々木の日記を紹介している。
「要路の人を暗殺せる者を助命とはなにごとぞ」と佐々木は憤怒していたのだった。
 しかし刑法官が刑部省になると、その刑部省は弾正台に横井を「奸人」だとする証拠を探して来いと命ずるのだから、ことはますます尋常ではない。大巡察の古賀十郎が横井の故郷熊本に派遣される。むろん横井の罪跡をさぐるためである。猶予は100日間だが、いわば証拠でっちあげの準備期間といえなくもない。
 なぜ、ここまでしなければいけないのか。 

横井小楠を考える 5

2007-12-25 23:49:46 | 小説
 上平主税の寓居が横井暗殺の謀議の場所であったことは確かだ。上平の素早い逮捕は、そのことがあらかじめ司直によって知られていたのではないかと思わせる。
 事件当日、上平と、前に名をあげた塩川広平のふたりが逮捕されているけれど、共同謀議の場にいた者たちは、実行犯よりも早く、つまり事件の3日後の8日には、ことごとく司直の手に落ちているのであった。もっとも中と金本のふたりは自首であった。
 では実行犯の5人(柳田を除くから5人である)はいつ逮捕されたか。
 津下四郎左衛門の自首が14日。上田と鹿島の逮捕されるのが16日。前岡は逃走すること1年半、逮捕されるのは明治3年7月であった。そして中井は逃げのびて、彼だけは逮捕されていない。その行方は不明である。
 逮捕された実行犯4人はいずれも、のちに梟首の刑を受けた。そして上平、大木(宮)、谷口は終身流罪、中と金本は禁固3年、塩川は禁固100日であった。
 さて、もっとも刑の軽い塩川広平という人物が非常に気にかかる。岩倉具視の息のかかった男なのである。
『勤皇家 塩川広平翁伝』(日吉明助編・広彰会)による(注)と、刑期を終えた塩川は岩倉を訪ねている。岩倉は歓迎し、すぐに東北13ヶ国の藩状内偵の仕事を与え、当座の手当以外にボーナスのようなものを与えている。
 なんのことはない、塩川は岩倉のスパイではないか。
 しかも岩倉は「時の警保長官大原(重徳)公に要請があって」過酷な仕打ちをしないようにと指図していたという。
 大原重徳はあとで意外な登場の仕方をする人物である。よく記憶しておいていただきたい。
 刺客たちは、はめられたと前に書いた。
 横井暗殺の逮捕者をめぐって、奇妙な展開がくりひろげられる。


(注)栗谷川虹『白墓の声 横井小楠暗殺事件の深層』(新人物往来社)よりの孫引きである。 なお「時の警保長官」というのは「時の刑法官知事」の意味であろう。

横井小楠を考える 4

2007-12-23 19:47:00 | 小説
 事件のその夜、丸太町のいわゆる十津川屯所で上平主税(かみだいらちから)が逮捕されている。通説では、暗殺の立案者だとされる人物だ。
 上平は十津川出身の医者であったが、この頃は尊攘派の志士といったほうがよいだろう。十津川の郷中総代として京都御所を警備する十津川親兵を統率した経歴の持主だった。
 刺客のうち、前岡と中井のふたりは十津川郷士であり、上平の寓居(そこが十津川屯所と呼ばれていた)に身を寄せていたのである。
 横井暗殺の実行犯とは別に、上平のほかに次の者たちが逮捕された。
 和泉の儒医の中瑞雲斎、岡山の医者の宮太柱(当時の変名は大木主水)公卿の広幡忠礼の家来の谷口豹斎、儒者の金本謙蔵、神官を父に持つ塩川広平。
 ちなみに嫌疑をかけられた者は30名ほどいたらしい。
 ところで、上平らの逮捕は、刺客のひとり柳田直蔵の自供によって芋づる式に行われたというのが通説である。
 柳田は当時25才、大和郡山藩のもと足軽だった。例の斬奸状を懐にしていた男である。横井小楠の警護の者に斬りつけられ重傷を負っていた。遠くまで逃げきれずに、ある民家の雪隠にひそんだものの観念して、そこの裏庭で喉を突いて自害をはかった。だが、死ねなかったのである。
 喉を突いたというところに注目しよう。
 調書によれば「咽喉気管の上 巾一寸二分深さ七分ばかり」の疵で、しかも左腕は骨まで切れ、背中にも深手を浴びていていた。事件後7日まで生きていたらしいが、彼からその日のうちに、仲間たちの名を聞き出せたというのは、かなり疑わしい。満足に言葉を発することはできなかったはずだ。
 では、なぜ上平は早々と逮捕されたのか。この時点で残る刺客5人はまだ捕まってはいない。
 5人の人相書きが出されるのは事件後10日目であった。
 なにか、おかしくはないか。 

横井小楠を考える 3

2007-12-21 17:11:47 | 小説
 小楠こと横井平四郎が新政府に登用されたのは、明治元年4月である。4月23日に徴士参与、閏4月12日に制度局判事、そして21日に新官制による参与となった。
 そして「従四位下」に叙せられた。出身地の熊本では、藩主の世子細川護久が同じ「従四位下」であった。なんと、知行も召し上げられ士席(籍)も剥奪され蟄居していた男が、一挙に大名と肩を並べたのである。
 横井小楠の事件の一報が熊本に届いたとき、歓声をあげて喜んだ者たちがいたという。横井に対する反感は、故郷にもあった。
 横井の拝命した参与には、ほかに鹿児島の大久保利通、小松帯刀、山口の木戸孝允、広沢真臣、高知の後藤象二郎、福岡孝弟、佐賀の福島種臣、福井の由利公正がいた。計9人である。
 ところが横井は、大久保や木戸ほど参与としての役割をはたしていない。なにしろ暗殺されるまでに、政務についたのは実質4か月ほどでしかない。一時は重体になるほどの病気でひきこもっていた日々のほうが多かったからだ。
 参与になる前から、つまり上京以前に淋病にかかっており、本人はそのせいだと思っていたようだが、横井の病は腎臓と膀胱の結核だったという説がある。
 そんなわけで、外部に反感をかうような建言もないし、目立った政治活動そのものができていないのである。不思議ではないか。その横井を刺客たちはなぜ標的にせねばならなかったのか。
 彼が凶刀に倒れると、洛中に落書きがあった。
 そのひとつ。
「まっすぐに行けばよいのに平四郎、横井ゆくから首がころり」
 さらに
「よこい(横井)ばる奴こそ天はのがさんよ(参与)、さても見苦しい(四位)今日の死にやう」
 この悪意に満ちた諧謔は、しかしそれなりの教養のある人物の手になるものと容易に推測がつく。
 早くも世論を誘導しようという意図の明らかな落書きである。事情のわからぬ者に「横井は殺されて当然の悪いやつ」といういうイメージを植えつけようとしているのだ。
 刺客たちの背後に、ただならぬものが潜んでいるのである。 
 

 

横井小楠を考える 2

2007-12-19 18:01:00 | 小説
 横井小楠を襲った刺客は6人。
 上田立夫
 中井刀根男(刀禰尾)
 津下四郎左衛門(土屋延雄)
 前岡力雄
 柳田直蔵
 鹿島又之允
 である。
 さて、森鴎外の読者ならば、先刻承知の名前がある。
 津下(つげ)である。鴎外に『津下四郎左衛門』という作品がある。この刺客の息子の津下正高からの聞き書きという形をとった小説だ。
 ちなみに正高は、鴎外の弟の東京帝国大学の同級生だった。事件のあった明治2年はまだ6才だったから、長じてから暗殺犯として処刑された父の足跡を調べ、それを鴎外に話したのである。
 作品は大正4年の『中央公論』4月号に発表されたが、そのことによって鴎外は新たな情報を読者から得たようである。のちに大幅に加筆している。鴎外はどうやら事件の黒幕ともいうべき存在に気づいたようである。ただし、そのことは示唆するだけにとどめている。
 横井小楠暗殺事件は、たぶん鴎外が想像した以上に根が深い。刺客たちは、ある意味ではめられているのだ。
 かれらの、というより柳田直蔵が所持していた斬奸状によれば、天誅の理由は、なんとも納得しがたいものである。
「今般夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんとす」「売国の姦」というのだ。
 儒学者の横井小楠がキリスト教の布教に注力したなどという事実はない。刺客たちは横井という人物の実態をなにも知らず、あたかも誰かに洗脳された如く行動してしまっている。狂信的な一個人のテロリストの犯行ならともかく、実行犯6人というのだから、そう考えざるをえない。
 もとより斬奸状には書けぬ理由があった。 

横井小楠を考える 1

2007-12-18 21:02:09 | 小説
 明治2年正月5日の京都は薄曇りで、ひどく寒い日だった。その日の昼下がり、京都御所内にあった太政官を退出し、帰路についた参与(現代ならば大臣か)が暗殺された。
 横井小楠である。
「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲とだ」
 と勝海舟に言わしめた、あの横井小楠である。
 海舟の言葉は『氷川清話』にあって有名なのであるが、そこで海舟は、こうも語っている。
「横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配して居た…」
 つまり海舟は横井小楠を思想家と認め、逆に西郷は思想の人というより行動の人と認めていたことになる。
『氷川清話』には小楠について語る場面がいくつかあるが、海舟は彼の狷介さをよく理解していたように思われる。
「小楠は」と海舟はいう。「毎日芸者や幇間を相手に遊興して、人に面会するのも、一日に一人二人会ふと、もはや疲労したと言って断るなど、平生我儘一辺に暮して居た。だから春嶽公に用ゐられても、また内閣へ出ても、一々政治を議するなどは、うるさかっただらうヨ。かういふ風だから、小楠のよい弟子といったら、安場保和一人くらゐのものだらう。つまり小楠は、覚られ難い人物サ」
 その「覚られがたい人物」横井小楠と、暗殺犯について考えてみようと思う。

注:『氷川清話』は江藤淳・松浦玲編「講談社学術文庫」版を参照。もっとも良質な『氷川清話』である。

幕末の「怪外人」平松武兵衛  補遺

2007-12-15 19:43:14 | 小説
 白井隆一郎『榎本武揚から世界史が見える』(PHP新書)の第3章「理想の島」に「怪商シュネル」という項目のあることを、このほど知った。むろんスネルのことである。
 白石氏によれば、1865年に横浜外国奉行所に提出されたカフェの開設許可申請書の提出者がプロイセン領事館書記官のスネルだったそうである。
 白石氏はこうも書いている。
〈司馬遼太郎の『峠』に描かれた「スネル」は、長岡藩の家老・河井継之助との友情に生きる魅惑的な人物である。しかし、この人物がとてつもなく摩訶不思議な存在に見えるのは、シュネには弟がおり、どちらを指すのかその識別が困難な場合が多々あるからである。〉
 さらにこうも書いている。
〈ヘンリーにはお葉と呼ばれる妻がおり、二人の間には後々、英名でフランシスとメアリーと伝えられる二人の娘がいた。その年齢から逆算すると、シュネルは遅くとも1861年には来日しており、、横浜最古のドイツ住民の一人ということになる。〉
 1861年には横浜で搾乳を業とし、牛乳を売っていたのだから、たしかに来日はもっと早い時期を想定しなければならないだろう。ただ、ヘンリーの日本人妻や娘の件については、白石氏がどのような史料にもとづいて記述されているのか、私にはよくわからない。

新選組・大石鍬次郎ミステリー  完

2007-12-08 21:31:46 | 小説
 大石鍬次郎は、新選組が五兵衛新田に駐屯した際に脱走していた。三井丑之助と市村房之助も一緒である。その脱走3人組について、菊地明氏は『新選組全史 下』(新人物往来社)に、こう書いている。
〈その後、市村は出身地の大垣に帰郷するが、三井は降伏して薩摩軍に加わり、大石はその三井によって捕えられ、伊東甲子太郎殺害の罪で刑死を遂げることとなる。〉
 誠実な新選組研究者である菊地明氏は、大石の罪状をきちんとおさえておられる。
 ところで大石が新選組を脱走したのは慶応4年(明治元年)4月以前のことで、捕縛されたのは明治2年7月以前のこととわかるが、具体的な時期を特定できる史料はない。
 脱走から捕縛までの1年余の大石の生活実態も不明である。これが大石鍬次郎ミステリーのその2である。
 そして処刑されたのは明治3年10月10日とされているが、さきに紹介した公文録の内容からすれば、処刑までにずいぶん日数がかかりすぎている気もしないではない。これが大石鍬次郎ミステリーのその3である。
 ともあれ大石鍬次郎は龍馬暗殺犯として処刑されたわけではないことを強調しておこう。龍馬暗殺の嫌疑もあり、いったんは彼自身が自白したということから、処刑理由もそうだと短絡的に解釈するのは、木をみて森を見ていないのである。
 ついでながら、近藤勇の処刑についても、あたかも罪状は龍馬殺害だとするかのごとき俗説がある。公文書(注)に明記されているのは、官軍への抵抗であって、龍馬とのからみは一切ない。
 ところが、ある歴史作家などは、こういう俗説に汚染されていて、土佐藩とりわけ谷干城は近藤勇を龍馬の復讐の対象として処刑させたし、龍馬暗殺は新選組の仕業だと決めつけていたから無実の大石も処刑させたというような発言をする。そして今井信郎が見廻組 の関与を公表した『近畿評論』の記事を谷が反駁したのは、暗殺犯が新選組でないとすると近藤勇処刑の根拠が崩れて困るからだというような論法になる。
 誤解に誤解を積み重ねたら、こういう悪意のような思い込みが生成されるのである。
 谷が今井を売名の徒と決めつけたとか、「かみついた」とかしか評価できないのは谷の今井信郎実歴談に関する講演内容を虚心坦懐に読んでない証拠である。谷の講演を虚心坦懐に読めなかった今井信郎のお孫さんに皆右へならえでは困ったものである。

注:初出で「公文録」としたのは「公文書」の誤り。太政官作成の公文書で「東北征伐始末十・賊徒処分」に「元新選組近藤勇甲武両州問ニ於テ官軍ニ抗セシ科ニ依リ梟首ニ処ス」がある。
 
 

新選組・大石鍬次郎ミステリー  5

2007-12-05 21:26:51 | 小説
 さて、大石鍬次郎である。
 刑部省口書では彼の年齢は32才となっている。人生はまだ半ばにすぎず、前途を絶望するには若すぎる年齢だ。その彼がなぜ、いったんは龍馬暗殺を認めたのであろうか。加納道之助ら薩摩藩サイドの訊問が想像を絶する厳しさだったと理解するしかない。ちなみに子母沢寛に『人斬り鍬次郎』(『新選組物語』所収)なる小説がある。加納の拷問後に斬首されたことになっていて、史実を無視した創作の好例である。子母沢寛の新選組関係著作を鵜呑みにしてはいけない。
 それにしても、薩摩藩サイドは大石を龍馬暗殺犯のひとりとして仕立て上げることに、なぜこれほど執拗になるのであろうか。なにか龍馬暗殺は新選組の仕業だと世間に思い込ませたい事情があるのかと疑いたくなるほどだ。表題を大石鍬次郎ミステリーとしたゆえんである。
 その大石は、実は横井小楠の暗殺に関しても嫌疑をかけられたようである。明治2年の公文録『横井刺客処刑始末』に、唐突のように大石鍬次郎の名が登場するのだ。
 該当箇所を以下に写す。(画像参照)

 …大石鍬次郎ハ前罪ノ事ニ而関係無之事故前後ヲ不論草々引出シ行刑可致旨申出候ニ付即答同意則引出シ候処又々(略)大声ニテ呼唱候故前同断相進候処処刑人申立候ニハ伊藤甲子太郎儀ニ付テノ事ニテハ決シテ伏罪不在候段申張候ニ付…
 
 要するに、大石は横井暗殺には無関係であるけれど、「処刑人」として確定しているのだから、早々と刑を実行するべく本人に申し渡ししたら、大石が大声で不服を唱えたということである。その罪状は「伊藤(東)甲子太郎」に関すること、つまり伊東殺害の罪ということが、ここで明らかである。
 それなのに大石は龍馬殺害の冤罪で処刑されたという俗説がある。あるというより、俗説の流布に手を貸す論者が今もいる。
 龍馬暗殺あるいは横井小楠暗殺などの余罪に関しては大石は無関係と、もとより刑部省は承知した上で、彼を断罪しているのである。ものごとは正しく見るべきである。

新選組・大石鍬次郎ミステリー  4

2007-12-04 11:58:13 | 小説
 ここで少し兵部省と刑部省という昔の官制について述べておこう。 
 旧名称は軍務官であった兵部省は、明治5年には廃止されて陸軍省と海軍省になっているが、警察管轄の権限もあった。ただし司法省の設置によって、その権限は失われている。その司法省の前身が刑部省であった。
 大石鍬次郎の取り調べに関しては、官制改正(前にも記したが明治2年7月)直前の刑法官や軍務官の段階から刑部省、兵部省の時代にまたがっている。けれども、ややこしくなるので刑部省と兵部省ということで統一して話をすすめることとする。
 兵部省では、大石鍬次郎の弁明にもとづき、箱館降伏人であった元新選組隊士の相馬主殿(かずえ)や横倉甚五郎からも事情聴取していた。
 相馬、横倉両人とも龍馬暗殺に新選組は関与していないと弁明し、とりわけ相馬は、犯行は見廻組と聞いていると話した。彼らもまた大石鍬次郎の証言を裏付けたのであった。
 今井信郎が兵部省の牢(江戸城和田倉門前)に入って来たのは明治2年11月18日である。そのことは先に同じ牢にいた大鳥圭介の日記によって確認できる。
 大鳥と今井はかなり親密な間柄になった(ならざるをえない状況ともいえる)ようで、大鳥は牢内で今井に英語を教えたという。今井もまた龍馬暗殺の一件で取り調べをうけたことや、暗殺時の状況を大鳥に逐一語ったのであろう。
 のちに宮内省の『殉難録稿』で龍馬暗殺について書かねばならず、取材に行き詰まっていた外崎覚は、大鳥圭介にたどりつき、彼から直接話を聞いている。
 大鳥は近江屋の二階に上がったのは、今井信郎ほか2人だと外崎に明かしている。今井は、自分がたんなる見張り役ではなかったことは、大鳥には打ち明けていたのであった。
 ちなみに外崎はもと軍務官の副知官事であった長岡護美にも取材しているが、「僕はよく知らん」と答えられ、いっこうに要領をえなかったと回顧している。長岡子爵にしてみれば、もともと龍馬の暗殺犯のことなど、どうでもいいことだったかもしれない。

新選組・大石鍬次郎ミステリー  3

2007-12-02 16:02:40 | 小説
…その節、伊豆太郎(加納道之助)より相尋ね候には、京師において土州藩坂本龍馬殺害におよび候も、私共の所業にこれあるべく、その証は場所に新選組原田佐之助差料の刀鞘落しこれあり、その上、勇捕縛の節、白状に及ぶの旨、申し聞き候えども、右はかねがね勇咄(はなし)には坂本龍馬討ち取り候ものは見廻り組今井信郎、高橋某等少人数にて、豪勇の龍馬刺留め候義は感賞いたすべくなど、おりおり酒席にて組頭のもの等へ噺候を脇聞きいたし候えども、右のとおり呪縛候上は即座に刎首いたさるべくと覚悟いたし候につき、右様の申し訳は致し候も、誓言と存じられ、私所業の趣、申し答え置きところ、はからずも同月中兵部省へ御引渡しにて…

 以上が「一橋家来大石捨次郎倅 元新選組大石鍬次郎口上」の抜粋である。
 どうやら加納は、近藤勇も龍馬殺害は新選組によるものと白状しているぞと、大石にカマをかけたようである。
 しかし、大石は龍馬をしとめたのは今井信郎ら見廻組と聞かされていたから、必死に弁明したものの、加納らには聞き入れられなかったのである。「誓言」とあるのは「虚言」のことであろうから、嘘をつくなと詰られたのであろう。結局、拷問を逃れるため、加納らの言いなりに虚偽の自白をしたというわけだ。
 さて見廻組の実行犯について、大石がフルネームで記憶していたのは今井だけで、高橋某、さらに兵部省口書では海野某ほか一名としているが、おりもおり、大石が名指ししたその今井信郎は箱館降伏人として兵部省の手中にあった。
 今井信郎の取り調べが始まり、今井は見廻組が龍馬を殺害したことを認めるのであった。ただし、自分は見張り役だったから直接手を下してはいない、と言い逃れている。
 いずれにせよ、大石が兵部省でも尋問されたのは、今井から供述を引き出すためだったと思われる。
 これで、大石の供述は龍馬暗殺に関しては裏が取れ、無実は立証されたことになった。

新選組・大石鍬次郎ミステリー  2

2007-12-01 12:43:09 | 小説
 阿部の発言からわかることは、この明治33年という時点で、元御陵衛士たちは龍馬暗殺犯は大石ら新選組によるものと、まだ思い込んでいたということだ。
 それにしても、阿部らは執拗に大石を捜索し捕縛しようとしたことがわかるが、もとより彼ら御陵衛士たちに龍馬暗殺犯を追う義務はないし、龍馬に義理立てするいわれもない。ひとえに新選組によって惨殺された伊東甲子太郎と油小路事件で死んだ仲間たちの報復というのが内なる動機である。
 もっとも阿部が、大石のことを「前に坂本龍馬を撃った者」と断定して語っているのは、いったんは大石自身がそう自供したからであった。
 大石自供の事情をうかがえる史料は、兵部省口書つまり大石の調書である。大石はこう述べている。
 
 …せんだって薩藩加納伊豆太郎(道之助)に召し捕られ候節、私ども暗殺に及び候段、申し立て候えども、これはまったく、かの薩の拷問を逃れ候ためにて、実は前に申し上げ候とおりに御座候。…

 大石は「薩の拷問」を逃れるために、いったんは龍馬暗殺を自供し、あとでひるがえしたのであった。
 加納らは大石を捕縛し、大石の罪状を重くするためにも龍馬暗殺という余罪を付加し、刑法局(官)に突き出したわけであるが、明治2年7月8日、刑法官は官制改革によって刑部省になった。
 その刑部省で、大石は龍馬暗殺に関しては無実であり、龍馬暗殺に関与したのは見廻組の今井信郎らと聞いていると弁明したのである。
 ここで新政府の司直は、はじめて龍馬暗殺の関与者として今井信郎の名を知るのあった。
 大石は、刑部省および兵部省でそれぞれ取り調べを受けているが、兵部省口書の「実は前に申し上げ候」という弁明は、刑部省での方が詳しい。
 次に刑部省口書における大石の口上を見てみよう。

(追記)兵部省と刑部省の取り調べの前後関係に思い違いがあったので、初出の文章を訂正した。