小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

いろは丸の売主は?

2010-10-30 20:47:18 | 小説
「郎女迷々日録 幕末東西」というブログをたちあげている松山在住の郎女さんから、いろは丸関係の地元の史料のコピーを何点か送っていただいた。そのひとつに澄田恭一氏の「大洲藩『いろは丸』異聞~『大洲藩史料』からの考察~」があった。
 論文の冒頭で平成15年1月12日付の愛媛新聞の記事が紹介されている。以下、記事の一部。
「…『大洲藩史料』に、賠償金は大洲に全額支払われていたとする記述があることが、元高校教諭澄田恭一さんの指摘で分かった。賠償金の行方をめぐっては、土佐の海援隊に横取りされて、大洲藩には渡らなかったなどの諸説があり、愛媛大学の内田九州男教授(日本近世史)は『有力な史料が加わった』と話している」
 この記事の存在をはじめて知ったけれど、ちょっと戸惑いに似た意外感にうたれた。平成15年にもなって、なんでこんなことが話題になるのだろうという思いがしたのである。
「わたし自身、四国の大洲を訪れて調べてみたが、7万両のうち4万2000両は大洲藩に支払われた、と見ていいと思う(『旧大洲藩史』ほか)」と坂本藤良氏が中公新書『幕末維新の経済人』に書いたのは、昭和59年である。だから大洲藩史の記述は、地元では周知のことと、私は思い込んでいたのである。どうやらそうではなかったらしい。
 いずれにせよ澄田氏の論文は、いろは丸研究史のコンパクトな概説書としては、よくまとまっており、教えられるところが少なくなかった。ところが、いろは丸研究史をたどればたどるほど謎が増えてくる。
 たとえば大洲藩史料では、いろは丸の売主はオランダ人アデリアンとなっていて、長崎商人有田彦兵衛なる人物もからんでくるが、長州藩士に同姓同名の人物がいて、一瞬はっとしたりする。アデリアンは土佐関係の史料ではベルギー人となっているが、別の史料ではイギリス人だったりする。大洲藩の洪福丸と土佐藩の横笛の売主に関しては、たしかにアデリアンであるが、さて、いろは丸の大洲藩への売主は通説のボードイン、新説のロウレイロ、それにアデリアンと三候補あるわけだ。この3者の関係をどう解きほぐすか。
 坂本氏ではないが、ほんとうに大洲へ調べにいかなくてはならない。
 

いろは丸代替船の謎

2010-10-25 17:05:13 | 小説
 慶応3年(1867)6月6日、龍馬と岩崎弥太郎は大洲藩士玉井俊次郎を訪問している。いろは丸事件に関する話合いのためだった。
 龍馬らは、沈没したいろは丸の代替船の購入をすすめ、斡旋したようである。
 5日後の6月11日、Julius Adrian商会から土佐藩は帆船横笛を1万3千両で購入している。Adrianつまりアデリアンは「ベルギー国士」とされているが明治3年には長崎のデンマーク代理領事となった人物だ。ともあれアデリアンと買請話をまとめたのは9日であったようだ。
 ところが慶応3年6月付けで、別の覚書が「奉行所文書中にある」と書くのは『岩崎弥太郎伝』(岩崎家伝奇刊行会編集・東京大学出版会)である。そしてこう推測している。
「それには買主伊豫大洲藩(加藤家)請人松平土佐守内出崎海援隊隊長才谷楳太郎と見える。(略)土佐藩はこの船を代償として大洲藩へ渡そうとしたが、大洲藩が現金を欲して辞退したので、土佐藩船として買入れたのではなからうか」
 結局、大洲藩が、いろは丸のいわば代替として購入したのは洪福丸という船で、偶然にも横笛と同じアデアリンからの購入である。代価は1万2千両で6回の分割払い。横笛よりは安い。排水・積載量235トン。横笛の265トンよりはやや小型であった。
 ちなみに、この大洲藩の洪福丸の末路については諸説があるが、明治3年3月函館の小林重吉が購入し、万通丸と改称したという説に信憑性があると考えるものである。
 さて、横笛という船の存在が有名になったのは、慶応3年7月6日に起きたイカルス号事件であった。横笛の乗組員である海援隊隊士にイカルス号のイギリス人水夫二人を殺害したという嫌疑がかけられたのであった。いまイカルス号事件については詳述しないが、長崎運上所で行われた9月3日の取調べでは、龍馬は横笛は大洲藩の買入れた船であると供述している。
 アーネスト・サトウが、では大洲藩の旗を掲げたことがあるのか、と質すと、龍馬はこう答えている。
「大洲藩の玉江(玉井俊次郎のこと)が買った船であるけれど、まだ藩主の認可を得ていないので大洲の旗をあげることができない。それゆえ玉江より私が預かって土佐の旗を掲げている」
 いったい、どういうことか。
 なんだかどうも大洲の船舶購入については、すっきりとした史料がなく、こんがらかるばかりなのだ。もしかしたら横笛と洪福丸は同じ船なのかと私も思いかけた瞬間があった。横笛の原名はシーボルン(セイボルンとも)、洪福丸の原名はよくわからない。
 鷲田小彌太『坂本竜馬の野望』(PHP研究所)を立ち読みしたら、鷲田氏は大洲の洪福丸を龍馬が横笛として自前の船のように使っていて、けしからんといったニュアンスの文章を書いていた。洪福丸と横笛同一船説なのである。こういう誤解が生じかねないのが、いろは丸代替船の謎である。
 機会があれば、いちど大洲に行って、じっくり調べたみたいと思っている。
 

磯田道史『龍馬史』を読む

2010-10-21 18:24:33 | 読書
 磯田道史『龍馬史』(文藝春秋)を、ほぼ半分まで読んだところで放置していたのを、このほど読了した。
 読み通す気力に欠けた一因は、文体の「です・ます調」にある。若年の頃の私は、文芸批評家を対象にした評論を書いていたが、最大の標的は「です・ます調」の鬱然たる大家、中村光夫だった。まず、あの「です・ます調」の慇懃無礼な断定口調が嫌いだった。たぶん磯田氏の文章に同じような匂いをかぎとったからであろう、と思い当たった。
 もっとも磯田氏の文章には、ときおり「である調」が顔を出すというほころびもあってご愛嬌であるが、平易に語るために採用した文体であるにしても、その文体で語る内容つまり複雑な幕末史が平易に単純化されるわけではないのである。
 正直、もっと手応えのある論考を期待していたが、粗雑な決めつけの目立つ本であった。
 たとえば、いろは丸事件に関して磯田氏は「龍馬はおそらく日本史上『最大のアタリ屋』といってもいいでしょう」と書きつけている。賠償交渉は龍馬の「はったり」というわけだが、賠償交渉の仔細な検証をした形跡はこの著者にはない。2ちゃんねるのスレッドではあるまいに「最大のアタリ屋」とは、品のない表現である。
 さらに粗雑という点では、谷干城に関する事項でも俗説まみれである。
「下総流山で新撰組局長の近藤勇を捕えた際に谷は、龍馬暗殺の罪で斬首することを強硬に主張し、そのためもあって近藤は、武士であったのにもかかわらず切腹ではなく斬首されています」
 これはほとんど虚偽記載である。詳しくは拙稿「谷干城は誤解されていないか」(ブックマークの自薦ブログ参照)をお読みいただきたい。
 本の第2章は「龍馬暗殺に謎なし」である。「龍馬暗殺は、会津藩が見廻組に命じて行った、政治的暗殺であった」(185ページ)というのが磯田氏の答えであり、薩摩あるいは土佐、紀州などの黒幕説はありえないというお立場である。
 見廻組が公務として行った殺害ならば、暗殺にはならないのだから、「政治的暗殺」というのはおかしいのだが、ではなぜ見廻組は殺害結果を復命してないのだろうか。今井、渡辺両名がなにか悪事でもなしたように事件当日、こそこそと身をひそめていたのはなぜだろうか。残念ながらこの本で謎はすこしも解明されていないのである。
 磯田氏は謎解きに挑戦したはずだが、謎を解けなかったから、謎はないことにしたのではないか。認知的不協和があれば、知的負荷を軽くするための協和をはかるという、レオン・フェスティンガーの理論にあてはまりそうな気が、私にはする。

【旧稿再掲】大谷真紀子 小論

2010-10-15 05:16:06 | 読書
[1]

   ためらいて買わず出で来ぬ新訳本エーリッヒ・フロム『愛するということ』

 書店でふと手にした本のページを開いたら、こんな歌が目に飛び込んできた。この歌にひかれて、私はためらわずに、この本を買った。『花と爆弾 大谷真紀子歌集』である。
 かって、エーリッヒ・フロムを追いかけるようにして読んだ日々があった。このドイツ生まれの社会心理学者の著作は、今から思えばフロイトとマルクスを口当たりよく薄めた思想書だったように思われる。いま手元にある紀伊国屋書店発行の『愛するということ』の奥付けを見ると1975年9月の40刷版で、初版は1959年1月となっている。この当時、この本はこんなに読まれたのであり、たしか世界的ベストセラーと喧伝された。手元にあるのは私にとっては二冊目のもので、たぶん初版に近い段階で最初に買った本は、その頃、苦しい恋愛をしていた女性に進呈したのであった。すっかり忘れていたそんな遠い日のことを思い出させてくれたのが、この歌だった。
 この歌の作者は、あの当時フロムの『愛するということ』を読んだことがあり、あらためて新訳本に興味を抱き、結局買わなかったのか。それとも、いい大人が『愛するということ』などというタイトルの本を買うことに照れくささをおぼえたのか。どちらにもとれるような歌ではあるけれど、歌の気分はすごくよくわかる。私自身、新訳本の存在は知らなかったが、書店でいったんは手にとっても買わずに出てきただろう。愛について思弁的になるには年をとりすぎた。ほんとうは生身の人間を愛すれば、人はいつも愛について学ばなければいけないのだけれど、そのことに年齢は関係はないのだけれど、分別という世俗の手垢にまみれたものが、愛についての思弁をためらわせるのである。
 さて、歌集のことだ。初めて知る歌人の本で、何の予備知識もなかったけれど、一気に読んだ。少しく私小説的にも読める歌集で、なんとなく歌人の生活環境がほのみえる。良妻賢母ぶりが想像できるけれども、そこからはみ出しそうになる危うい感情をもてあましているようなところがある。フロムの本にふと惹かれるような揺らめく心理を歌うのがうまい。秀逸な一首がある。歌集の題名にもちなんだ歌だ。

   野に捨て置かれし不発弾ひとつ錆びゆけり春には春の花に埋もれて

五七五七七の定型を破っているのだが、それが気にならない。気にならないどころか、ある種の切迫感が別のリズム感を生んでいる。ごく普通の市民生活を送っている主婦であるらしい歌人の心の中に不発弾のようなものがあるのである。フロムの『愛するということ』を買おうか買うまいか、ためらったこの歌人に、私はかって苦しい恋をしていた女人の面影を重ねたのであった。

[2]

短歌は音数律そのものに悲劇的な傾向性がふくまれている、といったのは吉本隆明である。
人間は幸せな状況だから歌うというより、ある種絶望的の淵にあるような状況のほうが、より「ウタを歌いたくなる」といったのは音楽文化人類学者のクルト・ザックスである。これらの言葉は、ウタの発生の淵源に触れているように思われる。

 短歌というものを、文学としてではなく、むしろ音楽とのアナロジーで考えてみたいというモチーフを抱きつづけていた。20代の頃、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を読んだとき、私はしきりにハンスリックの『音楽美論』を思い浮かべていて、そのことは私の処女評論『吉本隆明』にも書きつけている。当時も今もおそらくハンスリックなどあまり読まれてはいないと思うけれど、音楽にまるで無知なくせに、岩波文庫のそんな本を読んでいたのだ。短歌の五七五七七という韻律は、なぜ私たちの琴線にふれるのか。この韻律はなぜ発生したのか。古代韓国に郷歌(ヒアンカ)というのがあって、この韻律とわが短歌との類似性にびっくりし、日韓古代史にのめりこんで文学修行が横道にそれたものの、いつも短歌のことが気になっていたのであった。

 さて、音楽には「倍音」という概念がある。人が楽器を演奏して作り出す音とシンセサイザーで作り出す音とでは決定的な差がある。前者には倍音があるが、後者には倍音がないからである。倍音は実際には人の耳には聞こえないのに、存在する音である。だから私たちは倍音は聞くというより感じているのだ。この倍音、短歌の解釈にも使えそうな気がする。黙読するにせよ音読するにせよ、私たちはすぐれた短歌に出会ったとき、その歌に内在する倍音のようなものを感じているのではないだろうか。
 大谷真紀子さんから、私が未読だった第一歌集『海人族』をご恵送いただき、その歌集を読んでいて、ふと倍音の概念に思いが至った。それはたぶん、大谷さんご自身が、ひとはなぜ短歌を詠み、ひとはなぜ短歌に感動するかという原初的な問いに自覚的な歌人であるからだろう。私自身の永年のモチーフが触発される嬉しい読書体験になった。ちなみに大谷さんの『海人族』は圧倒的な「女うた」である。こんな歌があった。

   かがまりて花を拾えば千年も万年のちも おみなと思う