小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

谷干城は誤解されていないか  6

2007-04-05 16:13:54 | 小説
 さらに子母澤寛はこう書いていた。「この私記には有馬副参謀の命によって、単に勇護送の任を尽くした自藩の上田楠次を、捕縛の殊勲者と述べているなど事実の誤謬も多いので…云々」
 谷は上田を「捕縛の殊勲者」などと述べてはいないのに、これはもう子母澤寛のいいがかりである。
 上田がたんなる護送役でないことは、薩摩藩士平田九十郎の当時の日記が証明している。平田は4月4日、本営に帰る途中で上田と逢った。すると、
「上田曰く、下総国流山に賊屯集を聞き、官兵を向けしに大久保大和なる者出で来たりしにより、召し連れ来れり、これ近藤勇なる由、これにより吾藩へ加納、武河と云ふ元新選組の両士罷りあり候由、その両士を誘因し来たって、近藤にてありやなしやを見究めくれべしとの事」(『平田宗高従軍日記』)
 上田も大久保大和の正体に気付いていたのだが、そのことを近藤にさとられないように談笑などしながら、板橋まで確認のため連れてきたのだった。
 谷が述べているのも、平田が当日の日記に記した事柄と変わりはなかった。それを、いかにも谷が自藩びいきで、事実を曲げて伝えるような人間だと印象づけようとするのは、ほとんど作家の悪意としかいいようがない。
 事実の誤謬は、作家のほうにある。たとえば『新選組遺聞』の別の箇所では「事実香川敬三は、参謀という職ではなかった。総督府のお旗扱という徳川幕府でいうと御旗奉行の下役のような仕事であったようである」と書いているが、もとより香川敬三は参謀であった。
 その香川と谷を、作家は近藤勇断首の張本人だと決めつけた。これも以後、定説のようになった。近藤の断首は、香川や谷のかかわりのないところで決まったにもかかわらずだ。
 近藤を厳罰に処せと言ったのは、ほんとうは徳川の目付である。近藤勇はいわば味方から見捨てられたのだ。


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1 コメント

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この人物は最重要人物ですね (浜かもめ)
2015-03-10 06:02:54
いきなりのコメント失礼します。
私は最近、「日本史」というものそのものに疑念をいだき、やおら教科書の読み直しのような事を始めておりまして、そうこうしてここ最近特に、今まで定説のように吹聴されていた様々な「史実」とやらが大嘘の連呼が数珠つなぎされたものである事を知り愕然としておる者です。

その上で、この谷干城という人物は極めて重要な仕事を現実に成したキーパーソンであることがわかってきまして、その上であえて隠されてしまった人らしい事、残念でなりません。

明治、日本というクニが侵略国家化していくうえで西郷と近藤という右翼の二大アイドルを討った男ということで、受けが悪かったのでしょうね。貴重なお話、ありがとうございました。
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