清河八郎の妻のお蓮さんについて大川周明はこう述べている。
「蓮は羽前東田川郡熊井出村の医師の女、養家の悪漢の為に鶴岡の娼家に売られたものである。八郎自ら記して曰く『吾れ野妾を遊里に挙ぐ、郷里頗る之を議する者あり。余が意は其色に耽似に非ず、其の賢貞を挙げるなり、亦何ぞ其の由って出づる所を究めんや。遂に蓮を以て名づく。蓋し意あるなり』と。」(『清河八郎』)
この箇所は、のちの清河八郎研究家が大いに注目したところであって、引用し、あるいは孫引きし、今日では養家の悪漢説も定説化している。
ところがこの養家のことは、現在鶴岡市内の大山の転目木(ぐるめき)と場所はわかっているものの、なんという家か明らかにされていなかった。
小山松勝一郎の『お蓮』(新人物往来社『幕末の女』所収)には、このような記述がある。
「…養父という人は、明治になってから〈ぶりきや〉(注・原文は傍点が付されているが、カッコに入れた)となったが、何のわけがあったのか、塩酸を飲んで自殺し、その家は絶えてしまったという」
小山松氏といえば、定評ある清河八郎研究家である。なるほど、家が絶えてしまったのなら、養家については調べようがないな、と私も諦めていた。
ところが、お蓮さん一族の後裔の菅原善一さんがこのほど養家の後裔の方を探しだして面接し、その方の連絡先を教えて下さった。
私もとりあえず電話取材させていただいたが、家は絶えていなかったと確信した。
小山松氏が、どういうソースをもとに前記の文章を記したかわからないが、「ブリキ屋」をしたことはなく、ずっと農家であったということで、倒産した酒造業者の連帯保証人になったため、裕福だった家がにわかに困窮したという話であった。大山は酒処であった。
それでわかるのだ。お蓮さんは養家の窮状を救うために苦海に身を沈めたのだと。それでこそ八郎の「其の賢貞を挙げる」という文章が生きてくるではないか。遊女の賢貞という言葉に違和感があったが、養家のためにあえてそうした、そういう女であるから八郎が惚れたと理解すれば納得がいくのである。
ちなみに大川周明の引用する文章は『自叙録』にあると一部の研究者は書くけれど、『自叙録』にはない。このことについては、当ブログの「清河八郎・素描」1及び2(昨年11月17日、18日)でも言及し、その時点では私も出典を把握していなかった。実は『潜中紀事』の中にある文章であった。清河八郎の菩提寺歓喜寺の住職柳川泰善さんからご教示いただいた。全編漢文なものだから『潜中紀事』の通読を、後まわしにしていたことを、いま後悔している。
「蓮は羽前東田川郡熊井出村の医師の女、養家の悪漢の為に鶴岡の娼家に売られたものである。八郎自ら記して曰く『吾れ野妾を遊里に挙ぐ、郷里頗る之を議する者あり。余が意は其色に耽似に非ず、其の賢貞を挙げるなり、亦何ぞ其の由って出づる所を究めんや。遂に蓮を以て名づく。蓋し意あるなり』と。」(『清河八郎』)
この箇所は、のちの清河八郎研究家が大いに注目したところであって、引用し、あるいは孫引きし、今日では養家の悪漢説も定説化している。
ところがこの養家のことは、現在鶴岡市内の大山の転目木(ぐるめき)と場所はわかっているものの、なんという家か明らかにされていなかった。
小山松勝一郎の『お蓮』(新人物往来社『幕末の女』所収)には、このような記述がある。
「…養父という人は、明治になってから〈ぶりきや〉(注・原文は傍点が付されているが、カッコに入れた)となったが、何のわけがあったのか、塩酸を飲んで自殺し、その家は絶えてしまったという」
小山松氏といえば、定評ある清河八郎研究家である。なるほど、家が絶えてしまったのなら、養家については調べようがないな、と私も諦めていた。
ところが、お蓮さん一族の後裔の菅原善一さんがこのほど養家の後裔の方を探しだして面接し、その方の連絡先を教えて下さった。
私もとりあえず電話取材させていただいたが、家は絶えていなかったと確信した。
小山松氏が、どういうソースをもとに前記の文章を記したかわからないが、「ブリキ屋」をしたことはなく、ずっと農家であったということで、倒産した酒造業者の連帯保証人になったため、裕福だった家がにわかに困窮したという話であった。大山は酒処であった。
それでわかるのだ。お蓮さんは養家の窮状を救うために苦海に身を沈めたのだと。それでこそ八郎の「其の賢貞を挙げる」という文章が生きてくるではないか。遊女の賢貞という言葉に違和感があったが、養家のためにあえてそうした、そういう女であるから八郎が惚れたと理解すれば納得がいくのである。
ちなみに大川周明の引用する文章は『自叙録』にあると一部の研究者は書くけれど、『自叙録』にはない。このことについては、当ブログの「清河八郎・素描」1及び2(昨年11月17日、18日)でも言及し、その時点では私も出典を把握していなかった。実は『潜中紀事』の中にある文章であった。清河八郎の菩提寺歓喜寺の住職柳川泰善さんからご教示いただいた。全編漢文なものだから『潜中紀事』の通読を、後まわしにしていたことを、いま後悔している。