小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

落ちた涙あるいは桜の精の物語  6

2006-03-31 15:21:36 | 小説
 天皇の見た夢では、サホ姫の落とした涙は「沙本の方」から来た暴雨となっていた。沙本つまり佐保である。
サホ姫は桜の精の佐保姫とかぎりなく同化しているのである。
 こんな古歌がある。

 散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき

 爛漫と咲き、はかなく散ってゆく桜の散華の美学あるいは無常観が、サホ姫の伝承にはある。
 桜の詩人、西行にはこんな歌がある。

 花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりけり

 桜の美しさは、私たちの心のなかに埋もれている無常観をよびおこすのだ。西行はそのことを「苦しかりけり」と詠ったのである。
 さて、サホ姫の悲劇には後日談がある。
 戦火に包まれた稲城の中で生まれた御子のことだ。この皇子は成人しても言葉を発しなかった。唖だったのである。異常な状況下で誕生し、実母の愛情にめぐまれなかったための心因性の障害であったのか。それとも、優生学上の問題であったのか。もし後者だとすると近親相姦によって誕生した子、つまり父親は天皇ではなく兄の子と考えられはしないか。
 サホ姫は、わが子だけは天皇の子として生かしたかったのではないのか。
 桜の咲く季節になると、私はそんなことを考える。伝承のかなたのサホ姫が真実を語ってくれるわけはないけれど。

 

     

落ちた涙あるいは桜の精の物語  5

2006-03-29 21:02:59 | 小説
 古来、秋をつかさどる女神は竜田姫とされ、春をつかさどるのは佐保姫とされてきた。竜田姫の象徴が紅葉ならば、佐保姫のそれは桜だった。ちなみに俳句の世界では「佐保姫」は春の季語である。与謝野晶子には「佐保姫」という歌集があり、島崎藤村には「佐保姫」という詩がある。
 なぜサホ姫は春の女神であり、桜の象徴であるのか。『古事記』のサホ姫はそこにどんなふうに影を落としているのだろうか。
 さて、話は八世紀に飛ぶ。悲劇の文人宰相長屋王は、その広大な邸宅を作宝楼と名づけていた。サホ楼の当て字である。庭園に松や桜を植え、花の盛りには宴をひらいた。貴族、文人たちのサロンになっていたのが作宝楼である。このサロンでのお花見が今日の花見の始まりではないかという人がいる。それはともかく、その長屋王は聖武天皇を呪詛した疑いをかけられる。そして六衛府の兵士に作宝楼を急襲され、一族とともに自害して死んだ。悲劇の宰相というゆえんだ。
 それにしても人はなぜ桜の樹の下に集い、その花を愛でたがるのだろうか。人あっていう。桜の美しさは諸悪を払う、と。いっさいの醜悪を浄化するその花の美しさゆえに桜に思いを寄せて、花見をするようになった、と。それにしては、桜の花のなんとあえかにはかなく哀しいことか。
 長屋王の邸宅は佐保にあった。佐保は奈良の古代からある地名であって、現在の奈良市の北方一帯の総称であったらしい。佐保山があり、佐保川がある。おそらく『古事記』のサホ姫伝承は、このあたりが発祥地だと思われる。


鉄幹晶子全集〈4〉常夏・佐保姫・相聞・女子のふみ

勉誠出版

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落ちた涙あるいは桜の精の物語  4

2006-03-28 18:33:33 | 小説
 サホ姫は、けれども夫の心を読んでいた。彼女は髪を剃り、かつらにした。三重の玉の緒(ブレスレット)を切れやすくして手にまいた。さらに酒で腐食させた衣装を身に着けて、御子を抱き、城の外に出る。姫奪回の使命を帯びた兵士たちは、まず御子を受け取り、姫をかすめとろうとする。(以下原文)

 即ちその御おやを握りき。ここにその御髪を握れば、御髪、おのずから落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣(みけし)を握れば、御衣すなわち破れつ。これをもちてその御子を取り獲て、その御おやを獲ざりき。

 天皇の落胆は大きかった。玉作りに八つ当たりして、その私有地を没収したというエピソードが語られているほどだ。切れやすいブレスレットなど作るな、というわけだ。それは枝葉末節のことだが、サホヒコはついに殺される。そしてサホ姫も死ぬ。彼女はサホヒコに殉じて自殺したような書き方だ。彼女の母性は、いったいどこへいったのか。愛を交わしたふたりの男のはざまで、彼女は女として死んだ。母としては生きなかった。
 落ちた涙で始まる悲劇は、流した涙で泉に変身するギリシャ神話のインセスト物語に似ている。太陽神アポロンの孫娘ビュブリスは兄のカウノスを慕った。許されぬ恋だった。その慕情の激しさゆえに流した涙で泉になったのだ。
 あるいは万葉集の桜児伝説を思い出させる。昔、ふたりの男がひとりの娘の愛を得るため生死をかけて争った。娘はふたりの争いを止めるためには、自分がこの世から姿を消せばよいと考え、林に入って樹に首をつって死んだ。ふたりの男はそれぞれ血の涙を流して、次のような歌を詠んで、彼女を偲んだ。

 春さらば 挿頭(かざし)にせむと わが思ひし 桜の花は 散りにけるかも

 妹が名に かけたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや毎年(としのはに)に

 桜の精霊のような娘だった。いや、美しい女人そのもが桜の精霊のように思われていたのだ。
 さて、サホ姫もまた桜の精ではなかったのか。
 サホというその名に秘密がありはしないか。
        
 

落ちた涙あるいは桜の精の物語  3

2006-03-27 20:28:16 | 小説
 憤怒のほむらに嫉妬という油がそそがれたのである。サホヒコの稲城を包囲した皇軍は、しかしそれ以上攻めることができなくなる。いつのまにか、サホ姫が稲城に入ってしまったからである。女心は揺れにゆれていて、男たちは先を読むことができない。
 サホ姫は懐妊していた。それも臨月だった。天皇にすれば、サホ姫もろとも稲城を壊滅させることができないのである。膠着状態の続くうち、サホ姫は御子を産む。以下、原文の格調を生かすことにする。

 故、その御子を出して、稲城の外に置きて、天皇にもうさしめたまひつらく、「もしこの御子を、天皇の御子と思ほしめさば、治めたまふべし」とまをさしめたまひき。ここに天皇のりたまひしく「その兄を怨みつれども、なほその后を愛しむにえ忍びず」
 
 生まれた子を、「もし天皇の御子と思うなら」とはいわずもがなのセリフではないか。不倫の子かもしれない、という疑念を、天皇が抱くことをサホ姫は知っているのである。
 天皇は御子もさることながら、サホ姫にたいする未練がある。なんとしてでも彼女を取りかえしたい。一計を案じた。
 戦士の中から力が強く動作の敏捷な者を選び、いわば特殊部隊を編成する。サホ姫奪回のチャンスは、御子の受け渡しの時にしかない。

落ちた涙あるいは桜の精の物語  2

2006-03-26 23:19:50 | 小説
「ほんとうに俺を愛しているならば」と兄は妹に言った。「天皇を殺せ。そして俺とおまえとで天下を治めよう」 
 兄の名はサホヒコ。祖父は開化天皇とされているから、皇位継承について血統的な問題はない。しかし、妹に天皇謀殺をそそのかした兄の真意には、最高の権力を手に入れたいという意図とは別のものがあったのではないか。そうでなければ、妹のおのれに対する愛の確認の必要がない。
 ひとりの女をめぐるふたりの男がいるのだ。いや、ふたりの男の愛に迷うひとりの女がいると言い換えたほうがよいかもしれない。しかもたんなる三角関係ではない。近親相姦がからんでいるのだ。
 サホ姫はなぜ兄のたくらみを明かしてしまったのだろうか。彼女は兄には兄のほうを愛しているといい、夫には兄を裏切ったのだから夫のほうをより愛しているといったようなものだ。つまり、結果的には彼女が夫と兄を争わせるのだ。
「吾はほとほとに欺かえつるかも」と天皇の嘆きの言葉を『古事記』は書きつけている。誰にだまされていたのか、妻にか、義兄にか。むろん『古事記』は近親相姦の事実をそれとあからさまに書いているわけではない。だが、話の展開がそのことを語っている。
 天皇はただちにに軍を興した。サホヒコを討つためである。 

落ちた涙あるいは桜の精の物語  1

2006-03-25 22:06:55 | 小説
 女の柔らかな膝枕で、うたた寝をしていた男は異様な夢を見た。錦色の小さな蛇が首にまとわりつき、にわかに天が曇って、ぱらぱらと雨が降り雨粒が顔を叩いたのである。
 はっと目覚めて身を起こし、呟いた。「妙な夢を見た」
 男はいま見た夢の内容を女に告げながら、自分の頬が実際に濡れていることに驚いた。手で顔をぬぐった。そして、ゆっくりと女の顔をのぞきこむようにして、女の目がうるんでいることに気づいた。
 男にはわかった。女の目から落ちた涙が自分の顔を雨だれのごとく濡らしたのだと。
 女は言った。「できなかった」と。「あなたの首を刺そうと三度、この小刀をふりかざしましたが、できなかった・・・」
 女の手には紐小刀が握られていた。
 またしても男にはわかった。その紐小刀が小さな蛇の象徴であったことに。
「なぜ」と男は訊いた。「なぜわたしを刺そうとした」
「兄です」と女は言った。「兄がそうしろと」
 なぜ?こんどは声にならなかった。しかしすぐに男の胸に黒い雲のような疑念がわいてきた。
 女の目は、まっすぐに男の視線をとらえて覚悟を決めているようだった。
「兄はわたしに、夫であるあなたか兄かのどちらかを選べと言いました。ほんとに愛しているのは兄なのか夫なのかと」
「で、なんと答えた」
「兄です、と」
 
 落ちた涙が悲劇の始まりだった。どこかギリシャ悲劇の骨格を彷彿させるこの物語は『古事記』のなかにある。
 男は垂仁天皇、女は皇后サホ姫である。話は『日本書紀』にもある。しかし、その文学性において『古事記』は『日本書紀』をはるかに圧倒しており、以後、日本書紀における説話は無視することにする。
古事記 (上) 全訳注 講談社学術文庫 207

講談社

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謎の人 サヤカ  15

2006-03-21 18:10:33 | 小説
 あまり知られていないことだが、戦国時代の中世においては半島と日本間で、交易それもいわゆる私貿易が盛んだった。朝鮮の綿布は戦陣における保温性が高く評価され、これを入手するための交易といった側面がある。日本からは赤色染料の蘇木、胡椒、あるいは銅、硫黄などの鉱物が見返り品だった。
 紀州の雑賀衆が交易の民でもあったことは前にも記した。若きサヤカは交易船に便乗して半島の地を踏んだことがあったと私は推測するのである。
 秀吉の紀州攻めで壊滅状態となった雑賀を離れ、九州で傭兵となっていたサヤカにとっては、朝鮮出兵はまさに文字通り渡りに船だった。彼は慕情の国に渡ったのである。その半島に寄せる慕情の主体をなしていたのは異性の存在でもあったと類推したら、あまりにも通俗的なドラマ仕立てのようになるだろうか。
 サヤカに半島に思いを寄せた女性がいたという史料は、むろんあるわけではない。しかし私には彼が30才のときに結婚した現地の女性が気になる。なんと慶尚道晋州の豪族の娘である。30才といえば、サヤカが半島に渡って8年後になる。その間、朝鮮で傭兵の部隊長的な地位にあって、二度の軍功をあげ、金海の金氏という姓を賜わるわけだが、とはいえ、降倭からいきなり豪族の娘と結婚というなりゆきに、私は常ならざるものを感じるのだ。ほんとうは、その豪族とも昔からの知り合いで、娘とも面識があったのではないか、その娘こそサヤカの初恋の人ではなかったのか。そんな楽しい空想を私はめぐらすのである。
『承政院日記』という朝鮮の史料がある。その史料のサヤカを評した言葉を紹介して、この稿を閉じよう。
サヤカは「人となりは、胆勇であったばかりでなく、性質が恭謹であった」 
 

謎の人 サヤカ  14

2006-03-19 23:07:25 | 小説
『慕夏堂文集』は後世のサヤカの子孫の手になるもので、誇張が多いとは前にも延べた。引用した「暁諭書:民に説き諭す言葉」も、むろん22才のサヤカの言葉そのもではない。たぶんサヤカならこう言ったであろうと、サヤカの6代目に当たる金漢祚が書いたものであろう。当然、潤色がある。あたかもサヤカに儒教の知識があり、それゆえ儒教の国、朝鮮に憧れたというくだりなどは創作であり、これでかえって話がややこしくなり、偽書説に力を与えてしまった。
 しかし、この文章のコアをなすのは、まぎれもなくサヤカの精神というべきものである。サヤカが朝鮮に熱い憧憬と慕情を抱いていたというのは真実であって、子孫への伝承として、その理由はともかく、語り継がれてきたものと思われる。
 さて、憧れるからには、朝鮮についてあらかじめ、なにがしか知っていなければならない。儒教がキーワードにならないことは多くの史家が主張し、司馬遼太郎も論じた。では、サヤカはなぜ朝鮮に憧れたのか。あらたに問いを発しなければならない。
 私はサヤカが半島に来たのは初めてではなかった、と考えている。おそらく20才まえに、サヤカは朝鮮に来たことがあったのだ。だからこそ、再訪の念やみがたかった国だったのだ、と。 

謎の人 サヤカ  13

2006-03-17 20:24:52 | 小説
 朝鮮の民、つまり非戦闘要員たる老人や子供を気遣った小西行長の真情を、しかし朝鮮は理解しなかった。おそらく偽情報と決めつけたのであろう、民衆に避難させなかったのである。
 ところで、小西行長とは立場は違うものの同じように老人や子供に思いをはせたサヤカの言葉がある。『慕夏堂文集』で、朝鮮の民にサヤカが呼びかけた文章だ。
 長い引用になるけれど止むを得ない。省略しがたい熱いものが感じられる文章だからだ。
「おお、この国の全ての国民よ、これを読み安心せよ、動揺し逃げ惑うには及ばない。今私はたとえ他国の先鋒将であっても、日本を発つ前から既に、私はこの国を討ちはしないと、心に誓っていた。それは、長い間朝鮮の文物を慕い続け、行って直に見ることが悲願であり、この国の教えに浸ってみたいという一途な思慕と憧憬の情は一時たりとも離れることがなかったからだ。いざ加藤清正の先鋒に選ばれて、鉾を差し軍を従えこの地に来はしたが、私は到底礼と義の国を侵すことはできず、中華の国を害することはできない。もし、一人たりとも害するなら、私の平素からの信念に背くことになるばかりか、天罰を受けるであろう。私にどうしてその様なことが出来ようか。あなた達は私を侵略するために来た異邦者と思わないでほしい。老人を安心させ子供を保護して、耕す者は畠へ行き、市場へ行くものは市場へ行け。私をこの国の人と同じように扱い、隠れたり避けたりせず、働く手を休めずに、安心して田畑を耕し、書を読んで、上は王と親を敬い、下は妻子を扶養せよ。そして、私の軍の中の一人でも横暴な振る舞いや略奪や不品行を行なえば、直ちに私に告げてほしい。もしそんな者があれば軍律により処刑するであろう。安心し動揺せず、私の真実を受け入れてほしい」
 サヤカ、このとき22才の青年だった。

謎の人 サヤカ  12

2006-03-16 18:47:08 | 小説
 第二次朝鮮侵略においては、いわゆる降倭が続出する。とりわけ加藤清正軍からの脱走者が多い。
「清正、大いに士卒の心を失し、軍人の日本へ逃亡する者、日に百に以って数う、兵勢甚孤なり」
 と朝鮮王朝実録が伝えるほどだ。士卒の心はなぜ離れたのか。おそらく怯懦ゆえではないはずだ。
 大河内秀元の日記によれば、秀吉は「尽く彼国人を殺し、彼国を空地となさん」と朝鮮人皆殺し作戦を指示したとある。そして朝鮮人の鼻をそぎ、首級に代えて塩漬けにし日本に送れと言った。皆殺しであるから、対象は朝鮮の民間人も含まれるのだ。加藤清正は家臣に一人当たり三つの鼻をノルマとして課した。暴虐のむごさに耐えられなくなった戦士もいて、当然である。しょせん「大義のない戦」である。出兵の意味さえ理解できていない者もいて、兵士たちのモチベーションは低いのである。さらに、秀吉の政権に反撥ないし怨念を抱く者も相当数いたと思われる。だから、たんに脱走というよりも朝鮮側に寝返るという挙にも出るわけである。
 軍勢をひきいる小西行長自身、裏切り行為といえることをしている。機密情報を朝鮮側に漏らしているのだ。再侵攻に際し、事前に家臣を通じて慶尚右兵使の金応瑞に自軍および加藤軍の進路を教えたのであった。進路に当たる地方の老人子供をあらかじめ非難させよ、また稲などは早めに刈っておけ、戦いは山城で応戦せよと伝えているというのだ。彼がキリシタン大名であったゆえんが、こんなところにあらわれていると評すべきか。


(前回のブログに、紹介した本の画像を追加しておきました。アマゾンアフィリエイト始めましたので、よろしくお願い申し上げます)

謎の人 サヤカ  11

2006-03-15 18:42:20 | 小説
 陸戦では快進撃を続けた日本軍も、海戦では、惨憺たる有様だった。東洋のネルソンとうたわれた海将・李舜臣(イ・スンシン)ひきいる水軍に連戦連敗、制海権を奪われ、後続部隊が予定通り上陸できなくなっていた。小西行長らは孤立した恰好となり、しかも明が朝鮮に援軍を派遣したので、戦いの先行きは読めなくなってしまった。というよりきわめて暗いものとなる。秀吉の狙いはもとより明征服であって、朝鮮はその足がかりであったが、結果的には明と和平交渉を進めるほかなくなるのだ。
 ところが、この和平外交が破綻する。今も昔も日本は外交下手に変りはない。
 慶長2年(1597年)2月末、秀吉は朝鮮再派兵を決意、今度は明制服というより、朝鮮そのものを敵視した行動だ。戦いは凄惨な様相をおびはじめるが、その年の11月、慶尚南道宜寧で秀吉軍と朝鮮・明合同軍が激突、この戦いにサヤカが参戦していた。サヤカは他の降倭らと共にはたらき、朝鮮人捕虜100名ほどの奪回に成功しているのだ。日本兵一名を斬ったことも記録されている。さらに日本兵から「鳥銃」2挺を奪ったらしい。
 注目すべきはサヤカが役職名「僉知」の肩書き付きで記録されていることだ。彼はすでに、たんなる一兵卒ではなかった。

(注:李舜臣を小説化した金薫『孤将』を拉致事件の当事者のあの蓮池薫さんが翻訳、出版されている)
 
孤将

新潮社

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謎の人 サヤカ  10

2006-03-13 22:13:37 | 小説
 さて、『朝鮮王朝実録』に散見するサヤカ以外の降倭の名を目についただけでも以下にあげてみる。
 也汝文 (やえもん=矢衛門 か)
 俊沙  ( ? )
 孫時老 (まごじろう=孫次郎か)
 沙古汝武(さくえもん=作衛門か)
 要叱其 (よしち=与七か)
 念之  (ねんし?)
 延時老 (えんじろう=延次郎か)
 呂余文 (ろえもん?)
 実はもうひとり、あれっという名の人物がいた。それは沙白○という日本人だ。○は丘と鳥が組み合わさった文字。ともかく沙也可と同じ「沙」ではじまる人名だ。沙はやはり姓であろうか、と一瞬意表をつかれた思いがしたが、いずれの人名もフルネームらしくないから、たんに「さ」の音を写しただけであろう。それにしても、なんと読むのかこの三文字は。 
 ○に当たる字は、手元にある漢和辞典にもない。この字、Windowsのアクセサリーの中にある「外字エディタ」で作ってみたが、外字はもとより自分用であるから、このブログに反映できない。
それはともかく、さらに越後がいる。この人物が岡本越後守である。サヤカと越後は別々に出てくるから、前にも記したようにサヤカは岡本越後守と同一人物という説に私は同意しないのである。
 では、サヤカが朝鮮側の戦士として登場する場面をみてみよう。
  
  
  

謎の人 サヤカ  9

2006-03-12 17:49:42 | 小説
 朝鮮王朝の脅威となったのは、秀吉軍の保有する鉄砲であった。フロイスも書いている。「日本人は高麗人の想像だにせざりし鉄砲を有し、城壁を囲みければ、高麗人はその射撃の面に立つことかなわず」と。
 朝鮮にも火砲はあったが武器としての能力は劣っていたので、あくまで弓矢主体で戦い、あれよあれよという間に劣勢となった。
 皮肉なことに、朝鮮国王宣祖は二年前に日本から鉄砲を贈られていた。国王に鉄砲を献上したのは、ほかならぬ今は攻め手となっている対馬の宗義智であった。その頃は宗と朝鮮国王は友好的な関係にあったのである。その二年前、鉄砲の威力に国王は気づくべきであった。朝鮮では「鳥銃」と呼ばれた献上の火縄銃を国王はただ軍器寺に保管、大事にしまったに過ぎなかった。その銃をモデルに研究も開発もしなかったのである。朝鮮王朝の危機管理の欠如ぶりは史家がひとしく言及するところだが、それはこんなところにもあらわれているのだ。
 いわゆる文禄・慶長の役は年号がふたつにまたがり、途中停戦時期はあるものの7年の長きにわたって、半島の陸と海で続いた戦争である。秀吉軍の侵攻後一年ほど経って、朝鮮では「今後は軍士は鉄丸を習うべきである」という兵曹の上申があり、大臣が賛意を示すという状態だった。国王はやっと日本の銃と火薬の製法に重要な関心を持つようになった。手っ取り早く捕虜とした日本人から銃の取り扱いそのほかを教わるのが早道として、降倭懐柔策を打ち出すのであった。
「凶狡にして制止できない降倭以外は殺さず、他国の技を伝習せよ」という命令が下った。捕虜は殺すな、むしろ厚遇せよというわけだ。
 自ら投降したサヤカなどが、いかなる処遇をうけたか、察しがつくというものである。

謎の人 サヤカ  8

2006-03-11 14:02:13 | 小説
 文禄元年4月12日(朝鮮暦13日)、その日、対馬は晴れていた。半島に侵攻する秀吉軍一番隊すなわち小西行長、宗義智らの軍勢は兵船700余隻をつらねて、辰の刻、対馬大浦を発って、夕刻釜山浦に至った。翌13日の早朝、釜山鎮城に総攻撃をかけた。戦うこと4時間、城は落ちた。朝鮮側は、一番隊の鉄砲攻撃に屈したのである。
 余勢をかって一番隊は慶尚道の東莱城を襲った。守るは宋象賢(ソン・サンヒョン)。実は攻める側の宗家はソン・サンヒョンとは親しい間柄だった。ひそかに彼を逃がそうとしたが、彼自身が応じなかった。扇に「孤城月暈り、大鎮救わず。君臣の義重く、父子の恩軽し」と父宛の辞世をしたため戦死した。もともと「戦わば則ち戦え、戦わずんば、則ち道を仮せ」という一番隊の要求に「戦死するは易し、道を仮すは難し」と答えた彼であった。
 その後、一番隊は破竹の勢いで諸城を攻撃、4月27日には半島中部の要衝たる忠州を陥れ、ソウルに迫ろうとした。
 二番隊の加藤清正らの軍勢は一番隊に5日遅れて4月17日釜山に上陸、慶尚道を前進、慶州へと兵を進めた。サヤカの寝返りはこの頃のこととなる。
 サヤカは「慶尚兵使臣朴晋(パクジン)に帰付」と『慕夏堂文集』は書くからである。サヤカについては誰もが投降とか降倭とか表現するけれど、言葉のイメージが事実を暗示している。もしも兵3000人を連れての寝返りならば、それは投降などというなまやさしいものではなく、大規模な叛乱ではないか。けれども誰もサヤカを叛乱者と声高に言うものがいない。むろん二番隊に叛乱の気配などなく、4月28日には忠州で一番隊に合流、5月2日には共にソウルに入っているのだ。

謎の人 サヤカ  7

2006-03-09 18:55:01 | 小説
 司馬氏の文章につられて、うっかり『慕夏堂記』と書いてしまったが、正しくは『慕夏堂文集』である。日韓併合の頃、著名な歴史家によって偽書と決めつけられた。しかし、サヤカのことはこの史料以外に『朝鮮王朝宜祖実録』などによって、実在が確認されている。朝鮮王朝から官職を受け、慕夏堂の号も受けた。壬申倭乱後も女真の侵攻の警備、朝鮮国内のイグアルの反乱、あるいは清軍との戦いで軍功を立て、朝鮮王朝に貢献した。だから、日本にあったときも、ひとかどの武将であったとしなければ釣り合いが取れないという意識が、おそらく『慕夏堂文集』の誇張につながっている。
 しかし鉄砲のことに詳しく、火薬の調合法など弾丸の製法にも精通してとなると、指揮官というより実務的な技能者をイメージするほうが順当ではないか。彼は特異な戦士であったはずだ。
 サヤカは加藤清正の家来、岡本越後守(阿蘇宮越後守)あるいは九州糸島の原田五郎衛門信種ではないかという説がある。これらの説を私はとらない。名もない傭兵であって、なんのさしつかえがあるだろうか。彼は母国を捨て、名を捨てたのである。雑賀の者という誇りをのぞいては、だ。雑賀つまりサヤカである。
 ちなみに私はサヤカを鈴木孫一の嫡男とする見方にもくみしない。同じ雑賀の著名人物ならば、むしろ傭兵隊長として活躍した佐竹伊賀守の二代目としたほうが小説的には面白いと思う。伊賀守は私称であるが「伊賀」と略されていた。大陸に渡った日本人は姓をよく一字名にした。たとえば小野妹子は「小」と名のった。佐竹は「佐」になる。佐伊賀つまり語呂合わせ的には、サヤカになる。