小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

哀しきテロリスト -8-

2005-08-30 23:39:59 | 小説
室田義文は伊藤が狙撃されたとき、いちはやく彼の体を支えることのできる距離にいた。アン・ジュングンは伊藤博文の素顔を知らなかったので、むしろこのとき62才だった室田を伊藤と間違えたふしがある。わずか10歩の距離で自分に銃口をむけたアン・ジュングンを室田はしっかりと目撃し、小さい男だなととっさの印象を抱いているのである。
 伊藤が倒れた後、彼を抱き起こすようにして、息のある間はずっと手を握っていた。だから、駆けつけた医師が伊藤の服を脱がして銃創を調べた際も、当然間近で医師とともにその創口を見たのであった。
『室田義文翁譚』という書物の原文を当たったわけではなく、孫引きになるけれど、室田の重要な回想を、以下に引用する。
「安重根といふ犯人に擬された男は、あの儀杖兵の間からピストルを突き出してゐた小さな朝鮮人のことだらうか、と言ふことであった。若しさうだとすると、重大なる疑点が生じてくる。と言ふのは、伊藤がうけた右肩から斜下への傷である。
(略)
『犯人は安重根ではない。』
(略)
 それを裏づけるものは、伊藤がうけた弾痕である。それは決して安重根の持ってゐたピストルの弾丸ではなく、仏蘭西の騎馬銃の弾丸であった。」
 おかしなことに、伊藤に命中した3発の弾丸は彼の体内から取り出された形跡がない。というより、体を傷つけないために摘出しなかったなどという医師の発言がある。そんなことがあるだろうか。摘出されたからこそ、室田は仏蘭西の騎馬銃の弾だと断言できたのではないのか。
 アン・ジュングンは室田を伊藤と誤認して銃を発射、それがことごとく伊藤に命中したというのは不自然である。だいいち室田が被弾していないのはなぜだ。アン・ジュングンは言われているほど拳銃の名手であったのだろうか。 

哀しきテロリスト -7-

2005-08-29 21:00:19 | 小説
 萬朝報のいう「時局」のキーワードは、日韓併合であった。
「伊藤侯の優柔不断」とあるとおり、伊藤博文は日韓併合に消極的だった。このため日韓併合の即時断行を主張するわが国の軍部や右翼にとっては、伊藤は好ましからざる人物となっていた。伊藤を狙うのは、なにもアン・ジュングンら韓国の民族運動家ばかりではなかったのである。
 右翼といえば、頭山満の玄洋社など右翼団体はなかば公然と伊藤暗殺をいうようになっていた。とりわけ、右翼の大御所杉山茂丸が伊藤暗殺に関与したことを、たとえば上垣外憲一氏(著書『暗殺・伊藤博文』ちくま新書)や大野芳氏ら最近の研究者たちは強く疑っている。たしかにアン・ジュングンは日本の右翼のシンジケートにうまくはめられたのだが、むろん真の黒幕は伊藤博文の政敵である現役の政治家だったはずだ。
 伊藤暗殺は巧妙に計算されており、なにより二重狙撃という念の入れようだった。 
そうなのだ。テロリストはアン・ジュングンひとりではなかった。別の狙撃者が用意されていて、アン・ジュングンの狙撃と同時に伊藤を狙撃しているのだ。
 暗殺現場に居合わせた室田義文の証言が重要である。室田は釜山総領事やメキシコ公使をつとめた人物で、貴族院議員。このとき、伊藤に随行していた。
 室田は、伊藤はハルピン駅の二階の食堂からフランスの騎馬銃(注:カービン銃)で撃たれたと証言したのである。ブローニング社の拳銃ではないのだ。

哀しきテロリスト -6-

2005-08-28 09:12:00 | 小説
 アン・ジュングンの使用した拳銃はベルギー製のFNブローニングであった。このピストルのメーカーはいまも存在している。だから、シリアルナンバーの記録は残されている。 
 彼が凶器とした拳銃の製造番号は262336。前掲の大野芳氏の機転から、この拳銃の素性が判明しているのである。販売年月日は1906年9月8日、どうやらロシア軍部に大量に一括納入されたピストルの中のひとつであるらしい。つまり、銃器販売店で売られているようなものとは違うのである。当時、憲兵はウラジオストックの銃器店をしらみつぶしに調査し、拳銃の入手経路を探ったが、成果を得られなかった。得られなかったはずである。売り物ではなかったのだから。
 ということは、この拳銃は盗品の可能性を別にすれば、ロシア軍とコネのある者しか入手できない代物といえるのではないか。事件直後、この拳銃はロシア人ミハイロフが用意したという情報があった。この情報は正しかったと思われる。
 ミハイロフ、この男は退役中佐で、大東共報社を経営していた。ロシア軍部と強いつながりを維持したまま、ジャーナリズムの世界の住人になっているという人物だ。ジャーナリズムの人間がテロリストの凶器を用意するだろうか、という今日的な疑問は通用しない。この時代の過激なジャーナリズムは日本にもあった。
 たとえば、萬朝報の明治36年11月11日付けの記事のなかの一節。
「時局の遷延 伊藤侯の優柔不断に基づくとせば先づ彼を打撃して国運発展の犠牲と為すも已む可からざるに非ずや」
 伊藤博文を「打撃」して犠牲者にしても仕方ないと言っているのだ。新聞が暗殺を示唆しているといっても過言ではない。

哀しきテロリスト -5-

2005-08-26 00:18:01 | 小説
「少しでも歴史の知識がある人ならば、安重根の主張がどれほど根拠のない嘘かわかるだろう」さらにいう。「伊藤博文が天皇を騙したり、天皇の父を殺したりしたなどの主張も事実に反するものだが、まるで安重根自身が日本国民であるかのように日本の心配をしているのだからおかしい。このように安重根の主張は一貫性もなく事実誤認に基づき韓国人なのか日本人なのか、そのアイデンティティーも曖昧である」
 さらに言及して、韓国人キム氏が「韓国」を情けないと自虐的に分析する。「このような無理な主張と理由のない怨恨に取りつかれて、東洋の生んだ偉大な政治家を殺害した守旧反動主義者を、韓国では唯一無二の愛国者であり偉人のように教えているのだから、情けない限りだ」(扶桑社刊『親日派のための弁明2 英雄の虚像、日帝の実像』より)
 すべてが同感できる文章ではないが、アン・ジュングンが韓国人か日本人かわからなくなるというくだりは、別の意味でまさしくそうだと思う。彼は日韓の枠組みを越えて、東洋人という立場でものを考えようとしたところがある。そこのところで日本の心配もし、その一途さに日本人に逆に人気があるのだ。日本人ならアン・ジュングンには憎しみの感情あるのみで、彼に心酔するとは何事かと韓国の人は不思議に思うらしいが、このあたりの感情のすれ違いは、そのまま日韓の歴史認識のずれを象徴していると言えるかもしれない。
 キム・ワンソプ氏は「新しい歴史教科書をつくる会」のシンポジュウムに出席した際、パネラーが「安重根を個人的に尊敬している」と発言したことに衝撃をうけたと述べているが、たぶん普通の韓国人ならば理解しがたいこととうけとめるだろう。
 さて、少し遠回りをした。アン・ジュングンがテロリストであったという事実は変らない。それも、刺客として行動するように巨きな手に巧妙にはめられた哀しきテロリストだったように思われる。彼の使った凶器、拳銃の件に戻ってみよう。

哀しきテロリスト -4-

2005-08-25 00:16:42 | 小説
 アン・ジュングンが伊藤博文の罪悪としてあげた15項目を、あらためて以下に引用しておこう。
 第一、1867年、大日本明治天皇陛下父親太皇帝陛下弑殺の大逆不道の事。
 第二、1894年、人を使って韓国騎兵を皇居に突入、大韓皇后陛下惨殺の事。(注:実際は1895年)
 第三、1905年、兵力を以て大韓皇室に突入。皇帝陛下に五ヶ条の条約を強制 した事。
 第四、1907年、さらに加えて兵力突入。韓国皇室抜剣して脅かし七ヶ条の条 約を強制した後、大韓皇帝陛下を譲位させた事。
 第五、韓国内の山林、川沢、鉱山、鉄道、漁業、農商工等業すべてを奪った事。
 第六、いわゆる第一銀行券使用を勧めて混乱を犯し、国の財政を枯渇せしめた  事。
 第七、国債1千三百万元を韓国に負わせた事。
 第八、韓国内地学校の教科書を没収焼火、内外国新聞に伝えず人民などを騙した 事。
 第九、韓国内地で幾多の義士が蜂起。国権の回復を望む者を暴徒と称してある者 は銃で、ある者は絞めて殺戮。甚だしきは義士の遺族、親戚にいたる全員におよ ぶも絶えず。奢戮者(注:誤字)は、十余万人に当たる事。
 第十、韓国青年の外国遊学を禁止した事。
 第十一、いわゆる韓国政府大臣五賊七賊等、一進会の輩と締結。韓人が日本の保 護を望んでいる云々の事。
 第十二、1909年、更に五ヶ条の条約を強制した事。
 第十三、韓国三千里の国土を日本の属邦となさんと宣言せし事 。
 第十四、韓国1905年より都に安日なく、二千万の生霊、声を天に振り上げて 哭く。殺戮絶えず。砲声弾雨いまに到ってやまず。然し独り伊藤は、韓国は太平 を以て無事と上は明治天皇 を欺いた事。
 第十五、此東洋平和の永続を破傷し、幾万々人種は将に未だ滅亡を免れない事。
 さて、この項目について現代の韓国の作家キム・ワンソプ氏はこんなふうに語っている。(次回に続く)

哀しきテロリスト -3-

2005-08-24 01:08:08 | 小説
 アン・ジュングンは旅順の獄舎で、典獄に紙と鉛筆を求め伊藤博文狙撃の理由書のようなものを書き残している。さらに15項目の「伊藤博文の罪悪」をあげている。そのうち14項目は韓国に対する伊藤の所業をあげつらったものだが、注目すべきは異質な第一項目の文言である。
「1867年、大日本明治天皇陛下父親太皇帝陛下弑殺の大逆不道のこと」
 となっているのだ。つまり、伊藤は孝明天皇を弑殺したと指摘しているのである。
 さて、孝明天皇の死には不可解なところがあり、岩倉具視らによる毒殺説がある。しかし、当時軽輩だった伊藤が関与できるわけはなく、この一事をもってしてもアン・ジュングンは伊藤のことを全て誤解しているというのが、これまでの論調であった。しかし、はたしてそうか。
 伊藤博文が直接刀を使って、孝明天皇を弑殺したという驚くべき説が一部に伝えられているのである。明治初年に長崎市稲佐で青年学校を開いた渡辺平左衛門という人物がいる。幕末には1万3千石の大坂城定番だった人だが、徳川慶喜の命で孝明天皇の死の真相を調査したらしい。その結果、実行犯は伊藤だとして、そのことを青年学校の生徒たちにも話していたと言うから、事実と信じた人はかなりの数にのぼるのではないだろうか。
 一冊のある意味では奇書といえる本がある。『明治維新の生贄ー誰が孝明天皇を殺したか〈長州忍者外伝〉』(新国民社・平成10年刊)鹿島、宮崎鉄雄、松重正の3氏の共著だが、このなかの宮崎鉄雄氏が実は渡辺平左衛門の子息であって、氏はずばり伊藤の孝明天皇暗殺場面を描写している。もとより、口伝や聞き書きがベースになっており、話の信憑性となると私にはまるごと受け入れかねるところがある。引用もとてもじゃないが、はばかれる。
 それはともあれ、おそらくアン・ジュングンは、この渡辺説を知っていたというか聞かされていたと思われる。そしてその話を信じたのである。この話を彼に吹き込んだのは誰だ。日本人以外にありえないではないか。「天皇を暗殺したような人物だぞ。そんな人物こそ殺されて当然ではないか」誰かが彼にそうささやいたのか、それとも彼がそう判断したのか。
 

哀しきテロリスト -2-

2005-08-23 04:21:02 | 小説
 文久2年12月21日の夜、後の博文こと伊藤俊輔は塙次郎の屋敷近くの物陰で塙の帰宅を待ち伏せ、彼の姿を認めるや躍り出て斬りつけた。
 塙次郎は盲目の学者として有名な塙保己一の息子で、父と同じく国学者だった。翌朝、いわば犯行声明書というべき捨て札がたてられたが、それによると塙次郎の暗殺理由は「恐れ多くも、いわゆる旧記を取り調べ候段、大逆の至りなり。これにより昨夜三番町に於て、天誅を加えるものなり」(表記は読みやすく変えている)とある。
 たしかに塙次郎は幕府の御用学者ではあるが、こんなことで暗殺されては可哀想というものである。天皇の故事を調べ始めようとしたにすぎないのだ。
 この国学者暗殺は、しかも長州藩内で伊藤自らが志願していた。伊藤はさらに翌年の1月には高槻藩士宇野東桜の斬殺に加担している。宇野が幕府の密偵だからという理由で殺しているが、究明もせずにいきなり斬っているから、ほんとに密偵だったかどうかはよくわからないとされている。
 もうひとつ付け加えれば長井雅楽の暗殺未遂もあるが、伊藤博文が若い頃はテロリストだったと書いたわけが、これでおわかり頂けるだろう。光彩を放つ明治の政治家にも、こういうダーティーな部分があったのである。ここのところに目をつぶって、ただもう偉人とあがめまつるわけにはいかぬのである。
 伊藤は自らがテロリストとしての過去があったから、自身の身辺警護には極端に神経質だった。その彼がやんぬるかな、テロリストの銃弾に倒れたのであった。

哀しきテロリスト -1-

2005-08-21 16:28:43 | 小説
 わが国最初の首相である伊藤博文は、明治42年(1909年)10月26日、ハルピン駅頭においてテロリストの銃弾3発をあびて死んだ。
 テロリストの拳銃からは6発が発射されている。残る3発は、現場にいた森秘書と川上総領事のそれぞれ腕と肩を貫いた2発と田中清次郎満鉄理事の足首を貫通した一発だ。田中満鉄理事の足首を貫き靴の中に残った弾丸は、ある経緯があって東京の憲政記念館に秘蔵されている。
 この弾丸とテロリストの拳銃の検証をしたノンフィクション作家の大野芳氏は、このテロリストの背後関係にただならぬものがあると示唆している。大野氏の著作『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』(新潮社)は、この弾丸と拳銃の検証が最も衝撃的な箇所であって、これを終章近くではなく、なぜ冒頭に持ってこなかったのだろうと私などは思う。たんなるミステリーならば終章であっと驚く仕掛けがあって当然だが、ノンフィクションは逆ではないか。あっと驚く事実の提示があって、そこからさらなる事実の解明が始まるのではないのか。
 それはともあれ、テロリストは韓国の民族運動家安重根(アン・ジュングン)であった。韓国では、愛国の義士としていまも多くの韓国民の尊敬を集めているらしい。そしてそのことを知る日本人はそんなに多くはないだろう。
 日本では、アン・ジュングンは知る人ぞ知るといった存在なのだが、なぜか彼を好きだと言う声が多い。不人気なのはむしろお札の肖像にもなった伊藤博文のほうではないか、と思われるほどだ。私もまた逮捕後のアン・ジュングンの言動を知り、あるいは刑務所内で書いた揮毫をみるにつけ、このテロリストが粗野なテロリストではないと認識した。一方、伊藤博文は好き嫌いの好みで言えば以前から私は好きではなかった。なにせ時代が時代であったかも知れないけれど、伊藤博文自身が若かりし頃はテロリストだった。

よさこい節のヒロイン

2005-08-12 19:51:28 | 小説
 土佐のはりまや橋は、JR高知駅からすぐ南、高知港桟橋にいたる路面電車通りと市内を東西に走る路面電車の交差点近くにある。東京でいえばさしずめ銀座4丁目の交差点のようなところだが、橋近くには今でも珊瑚細工の店が数軒ある。
〈土佐の高知のはりまや橋で坊さんカンザシ買うを見た〉
と、よさこい節にあるけれど、むろんいまも簪だって売られている。元歌は〈おかしなことよな播磨屋橋で坊さんカンザシ買いよった〉であったが、明治の中頃に今のような歌詞になったらしい。歌は幕末の実話にもとづいている。禁断の恋の物語だ。
 ヒロインの名は、おうま。安政2年(1855年)五台山竹林寺の脇寺の僧純信と恋におちいり、ふたりして国を出奔、香川の琴平まで逃げのびたが、追跡の役人に捕えられ、高知城下に連れ戻された。関所を破った二人は、三日間さらし者にされ、4ヶ月の入牢ののち純信は土佐追放、おうまは城下追放となった。純信はおうまとの仲が寺に発覚して、本寺に預かりの身となっていたのが恋心やみがたく、おうまと駆け落ちしたのだった。
 おうまはこのとき17才。純信は37才。二人を取り調べた役人はおうまに問うている。「親子ほども歳が違う。しかも坊主に惚れるとはどうしたことか」と。
 おうまは「坊さんは子供の頃から好きだった。歳の違いなぞ人が何と言うてもかまわん」と悪びれなかったという。
 優秀な僧に戒律を破らせるほど魅力的だったおうまとは、いったいどんな女だったのか。
 城外追放のとき、土佐の男どもがひと目見ようと大騒ぎしたらしい。彼女にちらりと見られると、のめり込みそうになったという若者が多かったという。よほど蠱惑的な眼差しをしていたのであろう。私が、ん?と思ったのは、彼女の髪が茶色っぽくて、色白という記述に出会ったときだ。もしかしたら、過去に土佐沖に漂着したスペイン人の血が流れているのではないのか。そう、とっさに感じたのである。
 しかし、まだ検証のいとまがない。
 彼女はその後、別の男と結婚して明治の時代を生き、東京で死んでいる。彼女の眠るお寺もわかってはいるのだけれど。

寺田屋おとせの死

2005-08-07 22:06:43 | 小説
寺田屋おとせ、いうまでもなく幕末の侠女である。京都伏見の船宿寺田屋の女主人で、坂本龍馬の妻おりょうさんの養母にもなった。龍馬のみならず多くの志士たちの面倒をみ、捨て子を育てた。激動の維新史を生きた女性で、明治10年に急死した。その死に、実は若干の疑問を抱いている。
 たった一晩の患いで死んでいるのだ。おりしも、西郷隆盛は鹿児島の城山で官軍の攻撃をうけて苦戦しているさなかだった。奇妙な暗合である。坂本龍馬にゆかりの人物が、ほぼ同時期に死ぬのである。
 おとせの遺体は珍しいことに土葬にはされず火葬にされ、土地の人が驚いたと言う話が残っている。コロリで死んだからという。ほんとうだろうか。ひょっとして、おとせも暗殺されたのではないか、そんな気がするのだ。いまのところ証拠となる材料をつかんでいるわけではなく、私の空想の域にすぎないけれど、なぜ暗殺されたかといえば、おとせが龍馬の日記を持っていたからである。おりょうさんがおとせに渡したと言う日記が行方不明だ。日記には、おそらく新政府の高官にとっては不都合な内容が記されていた。だから日記もろともおとせは抹殺されたのではないのか。ここのところを脹らます事ができれば、幕末ミステリーが一冊書ける。
 明治の終わり頃になって、寺田屋に突如として御下賜金が与えられている。日露戦争の頃に、皇后陛下が坂本龍馬の夢を見たことが話題になった。そのことに端を発して寺田屋が見直されたのである。龍馬暗殺の仕掛け人たちは、この頃になって、後ろめたい思いにかられ、その結果が御下賜金、というわけだ。
 

私の三島由紀夫体験 7

2005-08-04 16:38:48 | 読書
 平成になって間もない年、もと楯の会に所属していたと言う人物に会った。私の知り合いが、その人の仕事を手伝うことになっったのがきっかけだった。おだやかな物腰の紳士だったが、なんと言えばいいだろう、修羅場をくぐってきた人間だけがもつ独特な雰囲気をただよわせていて、静かだが腹の据わった男という印象だった。
 その土地(東京隣接県)のネオン街で、彼はやくざにからまれたことがあったらしい。ところがからんだ奴の兄貴分らしい男が血相変えてひきとめ、黙礼して連れ去ったという。兄貴分らしい男が彼の素性を知っていたかどうかはわからない。ただ、知り合いによれば、公安の尾行がついている人物に喧嘩を売ってはまずいと思ったか、只者ではないと思ったのでしょうよ、とのことだった。「なにせこの人には公安がはりついていますから」
 それにしても、まだ公安の尾行対象か、と私は驚いたけれど、当の本人は、そんな話を目の前でされても、にこやかに笑うばかりで、寡黙であった。
 彼は私を忘れがたい視線でみつめた。自分と同じ匂いをもつ人間を見つけたというようなシンパシーのこもった視線。そしてそのことを私が感じとっていることも承知しているという目。私たちを結びつけているのは三島由紀夫という存在だった。
 知り合いは、「三島由紀夫論、書かないのですか?」と私をあおったけれど、「いや、どうも書けそうにない。あえて書こうとすると、三島さんのアラ探しや悪口を書きそうになる」と私は答えた。そのとき彼の表情がふと動いた。わかりますよ、とてもよくわかりますよ、とその目が語っていた。彼は市ヶ谷に行けなかった残留組の楯の会会員だった。
 いつか気負いなく本格的な三島由紀夫論が書けるだろうか、と自分に問うてみても、いまだにいささか心もとない。

                     (この稿終わる)  

私の三島由紀夫体験 6

2005-08-03 19:57:30 | 読書
 もはや自明のことだが、文学を捨てようと捨てまいと、いずれにせよ生きている限り、わたしたちはこの現実との何らかの関係を断ち切ることができない。現実と文学のいずれにも与したくないと書いている三島由紀夫の言葉にはあの自死が象徴されている。与したくないと言っても、最終的にはこの現実に与していたという事実の認識に、三島由紀夫は耐えられなかったのではないだろうか。おそらく三島由紀夫は、文学と現実を素朴に混同しなかったかわりに、この二つの世界をあまりにも截然と分断しすぎたのであった。ともあれ三島由紀夫は、自己の〈書く〉ことへの執着の源泉を、言い換えれば表現の衝迫を、文学と現実との「対立・緊張」にあるとしているけれども、表現の必然的な契機ということについて、彼は洞察を誤っていたように、わたしには思われる。対立と緊張は現実と文学にはでなく、本質的には自己と現実の関係に求めるべきものだ。人を表現の世界へと促がすものは、ただこの現実との違和感があれば充分ではなかったのか。

 以上が『この執着はなぜ』で、三島由紀夫に言及した部分である。評論のタイトルは吉本隆明の詩から拝借している。

〈この執着は真昼間なぜ見すぎ世すぎをはなれないか?
 そしてすべての思想は夕刻とおくとおく飛翔してしまうか?
 わたしは仕事をおえてかえり
 それからひとつの世界にはいるまでに
 日ごと千里も魂を遊行させなければならない〉
      (吉本隆明「この執着はなぜ」より)


 *この稿は次回で終了。

 

私の三島由紀夫体験 5

2005-08-02 23:25:01 | 読書
《しかし、その二種の現実のいずれにも最終的に与せず、その二種の現実の対立・緊張にのみ創作衝動の泉を見出す、私のような作家にとっては、書くことは、非現実の霊感にとらわれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいわゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいずれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるという自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづけることができない。選択とは、簡単に言えば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、ということであり、その際どい選択の保留のおいてのみ私は書きつづけているのであり、ある瞬間の自由の確認によって、はじめて「保留」が決定され、その保留がすなわち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、私は到底耐えられない》
 ここには悲しい二元論がある。表現の世界と日常の世界、言い換えれば文学と現実を「二種の現実」と規定したとき、たぶん三島由紀夫はとりかえしのつかぬ誤りをおかしたのである。わたしたちにとって、「現実」とはつねにただ一つしか実在せず、人は二つの現実を生きることができない。もっとはっきり言えば現実を生きていなくて非現実の世界に生きることはできない。わたしたちがこうして現に生きているところの日常、これがただひとつの現実であり、これに対し〈書く〉という世界は言わば幻想の領域に属しているが、それとて現実とはまったく無縁の世界であるということができない。なぜなら〈書く〉と言う世界は、あくまでこの現実から疎外された観念の世界の別名にほかならず、ほんとうは、どこまでいってもこの現実からの手かせ足かせをはずすことはできないからである。
 文学という想像力の世界は、一見すると観念の自由自在な世界のように思われる。しかし、こうした精神の自由をわたしたちの視えないところで保証しているのは、実はこの現実における精神の不自由さかもしれないのである。だから、文学を捨てるか、現実を捨てるかといった二者択一的な命題は、ほんとうは何ほどのことでもないのだ。もともと現実を捨てて、文学だけをとるということはわたしたちには不可能だからである。まして捨てられるものならば、文学など捨ててしまってもよいではないか。

(抜粋の引用はあと一回続きます) 

私の三島由紀夫体験 4

2005-08-02 08:14:08 | 読書
昭和47年、『三田文学』4月号に、『この執着はなぜ』という評論を発表したとき、私は副題を「文学と日常について」とした。以下はこの評論の中の文章の抜粋であるが、これを書くことによって、あるいはこんなかたちで私は三島由紀夫に訣れを告げたような気がする。

 多くの文学者たちの悲劇は、この表現の世界と日常の世界との葛藤を、強引に癒着させたところに始まっている。たとえば病にたおれたバルザックが、かって自分が小説の中に登場させた架空の医者を呼べといったという逸話には、いたましいものがある。バルザックは文学と日常の世界を混同した。三島由紀夫は未完のエッセイ『小説とは何か』で、この逸話に触れてこう書いている。
《作家はしばしばこの二種の現実を混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとっては重要な方法論、人生と芸術に関するもっとも本質的な方法論であった。故意の混同から芸術的感興を生み出す作家もいるが、私にとって書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張から生まれてくる。そしてこの対立と緊張が、今度の長編を書いている間ほど、過度に高まったことはなかった》
 ここで「今度の長編」とあるのは、言うまでもなく『豊饒の海』のことである。この長編小説を書きあげたとき、三島由紀夫はあの異常な死を選んだ。「二種の現実」を混同しないことが自己の文学の方法論であるとした三島由紀夫にも、残念なことに〈書く〉という世界と日常の世界との相克が視えていなかった。三島由紀夫はさらに書いている。(引用続く)


(この抜粋は、かなり長く続きます。なお『この執着はなぜ』は三島論というわけではありません。この評論はむしろ吉本隆明論資料として『現代詩手帖』に再録されています。私にすれば吉本論でもないのですが。なお執筆時は本名です)