小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

道真怨霊  1

2006-05-31 15:50:25 | 小説
 童謡『通りゃんせ』は不思議な歌である。天神様の細道(たぶん参道)を七五三のお祝いでお札を納めに行くという情景まではいいとして、
 行きはよいよい 帰りは恐い
 恐いながらも 通りゃんせ
とはなにごとか。なぜ帰りは恐いのか。
 ところで、この歌の発祥地は埼玉県川越市にある三芳野神社であり、歌碑も立っていることを、このほどはじめて知った。なんでもこの神社は城内にあったため、お参りをすませると見張り番の者にそそくさと追い立てられ、そのことが「帰りは恐い」という表現になったと解釈されているらしい。
 そうだろうか。
 全国各地にある天神様の社が、なぜか落雷の多いところにあるという記述をかって読んだことがある。それらしき本を書棚から漁ってみたが、見当たらないし、どういう本であったか思い出せないけれど、いずれにせよ、私は「帰りは恐い」という歌詞の意味するところは落雷の警告だと、ながい間思い込んできた。行きは天気がよくても、帰りには突然の雷雨があったりするから要注意だよ、とそんなふうに解釈していた。
 天神様とはむろん学問の神様菅原道真であることは誰もが知っているだろう。しかし、天神とは雷のことでもあった。天神様はもともと怨霊神であり、大災害をもたらす厄病神であった。そのことが忘れられていはしないか。

人斬り以蔵の「真実」  完

2006-05-29 16:21:13 | 小説
 さて、私はいわば以蔵生存説について、るる書いてきた。処刑されたのは以蔵の替え玉であって、岡田以蔵という男は慶応3年には江戸にいたという証言のほかに、なにかもっと強固な根拠はあるまいかと探しあぐねたが、史実をたどる道はぷつりと途絶えている。以蔵のその後は、もはや小説の世界で書くしかない。
さまざまに想像はたくましくできるのだが、蓋然性の高いのは、以蔵は外国に渡ったのではないかということだ。国内にいたならば、どこかに消息の痕跡があってもよさそうだからである。以蔵と同じく武市半平太の傘下にあった刺客が慶応年間にロンドンに出没している例もあるからである。その刺客とは、吉田東洋を暗殺した三人組のひとり、大石団蔵である。大石団蔵の消息には、私は以蔵その後のヒントが隠されているような気がしている。大石のことを書いて、この稿の最後としたい。
 東洋暗殺後、大石は薩摩に潜入、名も高見弥市(弥一)さらに松元誠一と変えた。ジョン万次郎が教授をしていた薩摩開成所の「第二等所生、蘭学専修」生17人の中に選ばれ、慶応元年5月にロンドンに留学している。あの森有礼と同じ下宿先だった。帰国後は薩摩藩校造士館の数学教師になっている。刺客にもこんな人生があったのである。
 以蔵を渡航させるとなると、やはりキーパーソンはジョン万次郎しかないとだけ、付記しておこう。
 蛇足ながら、土佐生まれの私が小学生の一時期過ごした二階家からは、鏡川と雁切橋が見渡せた。吉田東洋の首がさらされ、「以蔵」の首がさらされたすぐ傍に住んでいたことになる。雁切という意味はなんとなく聞かされていた。その雁切橋はいま紅葉橋と改名されていることを最近になって知った。橋の名を変えても歴史的事実を変えるわけにはいかない、と私などは思うけれど。

人斬り以蔵の「真実」  14

2006-05-28 18:43:01 | 小説
「以蔵」が着牢して間もない頃、武市半平太の獄舎の牢番がわざわざ「以蔵」の様子を見てきて、「歯のそったやっちゃ」などと半平太に告げている。この牢番のひとことで、半平太は着牢した囚人が以蔵に間違いないと確信したに違いない。以蔵はどうやら現代のタレントでいえば、明石家さんま的風貌の持ち主であったらしい。「歯のそった」男というのが以蔵の風貌をもっともよくあらわす特徴であったのであろう。
 半平太のいる南会所の獄舎は、帯屋町獄舎という別の呼び方もされる。これに対し「以蔵」の入れられた獄舎は山田町獄舎という。町名が違うほどの距離はあるわけで、担当の牢番もむろん別である。以蔵の様子を見に行って、わざわざ半平太に「歯のそったやっちゃ」と半平太にふきこむ牢番の言動は、私には作為的に思われる。
「以蔵」の首は牢内で落され、雁切河原にさらされた。外見がまるきり似ていなくては、さらしたかどうかはわからない。ただ、その処刑の「宣告文」のあて先となる本人認定の部分は、はからずも異様さを露呈している。こうなっているのだ。
「郷士岡田儀平倅同苗以蔵事、出奔無宿者鉄蔵、京師御構入墨者 以蔵」
 これでは以蔵事以蔵になってしまう。たんに岡田以蔵として処分すればすむものを「無宿者鉄蔵」などとあえて入れざるをえなかった。つまり、この人物が以蔵事鉄蔵だったといっているようなものだ。  

人斬り以蔵の「真実」  13

2006-05-27 21:19:41 | 小説
 なんども書くけれど以蔵の着牢は元治元年6月のことだった。その年の8月に最初の「以蔵」毒殺計画があった。が、不成功。二度目の毒殺案の浮上したのは翌年の慶応元年2月29日。(処刑はその年の閏5月)
 以蔵が病にでもなれば、薬と称して毒薬「天祥丸」を差し入れて始末しようという同志の提案に対して、病になるのを待つなどと悠長なことはいってられない、食事の中に毒をいれろと指示したのは半平太である。外部の同志が獄吏に「以蔵」の食べ物の好き嫌いを聞き出したりして準備した。ニンニクやネギなどは嫌いだが、そのほかの野菜類などなんでも食べる、という答えを聞き出している。(余談だが、これでは土佐名物の鰹のたたきは「以蔵」は食えないことになる。ネギもニンニクも入るからである。牢中のこの男、土佐人らしくない)結果として、毒殺計画は実行にまでいたらずに、結審の日を迎えてしまったというのが真相のようだ。
 さて、あらためて二度目の毒殺計画の日時に注目してみよう。「以蔵」が入牢して8ヶ月が経過している。この時点で、まだ彼を抹殺する必要があるということは、裏を返せば彼はまだ洗いざらし自白していないということになる。半平太には、まだ以蔵にしゃべられたら困ることがある、ということである。
 ともあれ通説の、以蔵は半平太が自分を毒殺しようとしたその酷薄さに衝撃をうけ、なにもかも自白してしまったという話は、すこぶるあやしいのである。
 

人斬り以蔵の「真実」  12

2006-05-26 15:13:10 | 小説
 さてここで土佐の逸材吉田東洋について触れておきたい。彼は凄腕の政治家だった。通称元吉、名は正秋、東洋は号である。吉田松陰の松下塾ほど全国的な知名度はないが、彼もまた一時期は家塾を開いたことがあって、その門下生には甥の後藤象二郎、岩崎弥太郎らがいる。板垣退助も彼の感化を強くうけたひとりだ。学才ともに高く、実行力に富み、藩主の信望を一身に集めて参政として土佐藩を牛耳った。その彼は公武合体論者であった。尊攘派の武市半平太にとっては目の上のこぶのような存在だったのである。
 文久3年4月8日、下城の途中で三人の刺客によって暗殺された。むろん、半平太の手の者、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助の三人である。以蔵はまったくこの暗殺とは無関係である。つまり、こと東洋暗殺に関しては以蔵を訊問してもなにも得られないことは、監察陣も先刻承知していたことであった。ただし、以蔵を収監していることは、半平太の問い落しには、心理的なプレッシャーもふくめて、監察陣の大いなる武器になったのである。
 事実、あせった半平太は「以蔵」こと無宿人鉄蔵の毒殺を獄中から指示したことは、よく知られている。それもわかっているだけで、二回。しかし、いずれも不首尾に終わった。

人斬り以蔵の「真実」  11

2006-05-25 21:15:05 | 小説
 勝海舟の慶応元年6月26日の日記にこうある。「聞く、土州にて、武市半平太之徒五・四人、死を申付けられる」
「五・四人」とは妙な書き方だが、半平太と同日に死罪となったのは以蔵、岡本次郎、村田忠三郎、久松喜代馬の4人ということになっている。半平太を含めれば5人、含めなければ4人だから、あまりこだわらないほうがいいだろうか。しかし、かって自分の危難を救ってくれた以蔵のことに何も触れないそっけなさが気になる。
 ところで私には疑念が雲のようにわいてきた半平太断罪の「宣告文」を以下に掲げる。(読みやすい表記に変えてある)
「武市半平太 右は去る酉年(文久元年)以来、天下の形勢に乗じ、ひそかに党与を結び、人心扇動の基本を醸造し、爾来、京師において高貴の御方へ用意ならざる儀しばしば申上げ、はたまたご隠居(山内容堂)様へたびたび不届きの儀申上げ候ことども、すべて臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を紛紊し、言語同断、重々不届きの至り、きっとご不快に思召され、厳科に処せられるべきはずのところ、御慈悲をもって、切腹これを仰付けられる」
 なんという抽象的な判決文。具体的な罪の箇条はなにもない。
 以蔵がなにもかも自白していれば、もっと事細かに半平太の罪状をあげつらうことができたはずなのに、それができていない。こんな罪状ならば、そもそも以蔵の自白など必要ないともいえる。
 藩庁はほんとうは半平太に吉田東洋暗殺の指示を白状させたかった。吉田東洋暗殺犯を追っていた下横目(現在の刑事)井上佐一郎を殺害したのが以蔵らであったから、井上殺しからたどって吉田東洋暗殺の罪を暴きたかったのだが、取調べ側はそのことに成功していない。ということは、藩庁は以蔵からかんじんな事は聞き出せていないということになるのではないか。
 

人斬り以蔵の「真実」  10

2006-05-24 19:04:50 | 小説
 およそ家伝のたぐいには記憶違いや、代々の口伝の過程で、最初の話が変容することはよく見受けられる。中浜家における寿々の口伝にも明らかに間違った話になっているケースはある。
 それは以蔵のあとの万次郎のボディガードを団野源之進としていることだ。団野源之進は嘉永7年の昔に89才の高齢で没した剣客であった。万次郎の護衛者となるには時代がずれる人物だ。 
 それゆえ、中浜家の口伝は以蔵の話もしかり、あまり信用がおけないと断定する人が出てくるかもしれない。
 しかし団野源之進は万次郎の妻、鉄の父親であった。つまり寿々からみれば祖父である。寿々が自分のおじいちゃんの消息を知らぬわけはなく、団野の門下生が護衛に当たったという話が、伝言ゲームよろしく寿々→中浜某→某→中浜博と語りつがれていくうちに「門下生」が脱落したものと思われる。
 ところで団野源之進といえば、幕末の剣聖とうたわれた直心影流の男谷精一郎の師であった。その男谷は勝海舟の従兄弟であった。
 海舟と万次郎の接点はここにもあるわけで、海舟が以蔵を万次郎の護衛につけたという中浜家口伝の信憑性は、かえって高まると私は思う。

人斬り以蔵の「真実」  9

2006-05-23 21:43:17 | 小説
 先に以蔵がジョン万次郎を刺客から救った話を紹介した。江戸は谷中の墓地での出来事だった。 
 さてこのエピソードはいったいいつの時点のことであったのか。
 万次郎が自身で墓を設計し発注した江戸在勤中のことであったから、日時の特定はきわめて容易である。
「明治も間近な慶応の末、万次郎は自身で墓の設計をした。それは幅広で上部が円形のアメリカ式の墓で、高さも2メートル程あった。図面を石屋に渡して作らせ、時々彼はそのできばえを見に行った」(中浜博氏の前掲書)
 それはなんと慶応3年のことなのである。
 打ち首になって、とっくの昔に死んだはずの以蔵が万次郎のボディガードをしているのだ。 
 このことを、どう解釈すればよいのか。
 以前にこのエピソードのくだりを読んだとき、私はこのエピソードの持つ重大な意味合いに、まったく気づかなかった。こんなにも堂々と死んだはずの人間の活躍するエピソードなどとは思いも至らなかったのである。
 
(注:万次郎の墓、つまり中浜家の墓は現在雑司が谷にあって、仏式の墓石である。これをもって谷中の墓地の話はおかしいというわけにはいかない。大正9年に谷中の仏心寺から現在の雑司が谷に移っているからである)

人斬り以蔵の「真実」  8

2006-05-22 17:27:09 | 小説
 武市半平太が逮捕され入牢したのは文久3年(1863年)9月21日のことであった。無宿人鉄蔵が土佐の獄舎に着牢したのが元治元年(1864年)6月14日。この間ほぼ9ヵ月、藩庁は半平太の訊問に手を焼いていたはずだ。以蔵は半平太糾問の生き証人として、のどから手が出るほど欲しかった人物だ。京都六角の獄舎にいた無宿人鉄蔵が以蔵であるならば、即刻引き取ってあたりまえではないか。それをそうしなかったのはなぜだ。以蔵に良く似ているが違う男ではなかったのか。しかし、藩庁側に知恵者がいた。この男、以蔵として使える、と。
 京都で以蔵を拘束し、土佐の獄舎に送るという情報はことさらリークされ、半平太の同志が早くも密書を発し、獄中にある者にも、ない者にも大きな動揺を与えた。以蔵の替え玉だと誰も疑いもしなかった。以蔵の自白によって同志が次々に逮捕され、拷問死あるいは拷問に耐え切れずに新たに半平太を裏切る者が続いた、という通説には、仔細に見ればおかしなところが随分ある。以蔵と誰も直接対決したという記録がないのである。以蔵が拷問にかけられているという悲鳴、あるいは牢番の語る以蔵の様子だけが間接的に残っている。牢番が曲者である。半平太らの外部の連絡をひそかにかって、いかにも味方のようにみせかける牢番が実は藩庁の逆スパイだったりする。
 かって半平太が中国・九州方面に武芸修行に以蔵とともに随行させた久松喜代馬なども早い時期の自白組で、以蔵が語らなくても久松の自白内容を以蔵のものにすることもできたのであった。
 さて、なぜ私は以蔵替え玉説を強弁するのか、もはや手の内を明かしておこう。以蔵こと鉄蔵は慶応元年閏5月11日、牢内で打ち首となった。ところが不思議なことに慶応3年に以蔵が生きていたという証言があるからである。
 以蔵は江戸にいた。

人斬り以蔵の「真実」  7

2006-05-21 22:58:37 | 小説
 文久3年8月18日の政変は、それまで京都の政局の主導権を握っていた尊攘派の運命を一変させた。薩摩藩と会津藩が組んでクーデターを起こし、公武合体派が政局の主導権を奪ったのである。土佐勤王党は尊攘派であったから、ここから藩の勤王党弾圧が始まる。危険を感じた党員たちは相次いで脱藩した。このときの脱藩者の中には、龍馬の盟友のあの中岡慎太郎がおり、彼は長州に逃れた。
 同時代の一級史料、海舟日記に、こんな記述がある。

「聞く、土州にても武市半平太之輩逼塞せられ、其党憤激、大に動揺す、且寄合私語する者は必らす捕へられ又打殺さる、ゆへに過激暴論之徒長州江脱走する者今三十人計り、また此地に潜居する徒を厳に捕らへ、或は帰国を申渡すと云」(文久3年10月12日付)

 岡田以蔵が8・18の政変後にどこにいて何をしていたかは、ほんとうはよくわからない。通説では脱藩し京にとどまったが、身を持ち崩し強盗まがいの事件を起こして京都町奉行所の役人に捕縛されたことになっている。
 その捕縛された人物は無宿者鉄蔵と名のった。「土佐の無宿者」といったかもしれない。あるいは土佐の岡田以蔵に似ていると気づいた役人がいたかもしれない。ともあれ土佐藩邸に連絡が入って、藩の下横目が六角の獄舎に検分に行った。  
 その結果は、土佐藩にかかわりのない人物ということになっている。このとき、なぜか鉄蔵を岡田以蔵と認めず、土佐藩邸はその身柄すら引き取らなかったのである。
 京都お構えとなって獄舎から出たあとで、あらためて土佐藩はこの人物を拘束したのだが、私にはここのところが腑に落ちない。鉄蔵はほんとうに岡田以蔵だったのか。

人斬り以蔵の「真実」  6

2006-05-20 12:54:36 | 小説
 後世の史家が抱く岡田以蔵のイメージは、ほとんど武市半平太の獄中における以蔵評によってなりたっている。半平太の獄中闘争の手段のひとつとして、自分と以蔵との関係を薄める必要があった。だから、故意に以蔵を悪しざまに評し、そんな奴とは関係がないと言わねばならなかった。
 たとえば、土佐の大目付野中太内と半平太の「本間精一郎殺害事件」をめぐる審問ではこんなやりとりがあった。
 以蔵が半平太の指示で本間精一郎を殺したと追求する野中に対し、半平太は答える。
「以蔵は若年のときより世話をいたした者でござるが、とかく心・行い正しからず、たびたび義絶のことも考え申した。しかるに親より何度もたのまれそうろうゆえ、ただ親を気の毒に思い、そのままに及んでいたものでござる。しかれども本間殺害のころはもはやさっぱり見捨ておりしなり」続けて「私の指図というのは以蔵の虚言で、以蔵と対決するもじつに恥ずかしく、そのせつ以蔵を見限りしは関係者や親しい者にお尋ね下され。以蔵がウソを言うか私がウソを申すか、深くご監察くださればわかり申す」
 大目付はニヤリと笑ったという。
「うまく言いぬける」そして言った。
「義を断たぬうちに心中において見限るとは、あなたに似合わぬ口上ではござらぬか。筋がたちますまい」
 義絶せぬうちに見限ればそれこそ義に反するではないかと攻めたのである。(松岡司『武市半平太伝 月と影と』新人物往来社刊を参照)
 薩摩の藤井良節と半平太との談合で本間抹殺が決断され、薩摩の「人斬り」田中新兵衛と以蔵が組んで実行した暗殺である。虚言を弄しているのは半平太のほうである。であるならば以蔵は「心・行いは正しからず」というのもウソではないのか。あるいは大割引をして聞かねばならぬ人物評価なのだ。
 いまひとつ。入牢していた半平太のもとに以蔵着牢の知らせが届いたとき、半平太が家族に宛てた手紙の一節が有名である。
「誠にあのようなアホウは、早く死んでくればよけれど、あまあまお国へもどり誠に言いようもなき奴、さぞやさぞや親が嘆くと思い候」(表記は読みやすく変えてある)
 松岡司氏はその著書に書いている。「あほう云々が、その節操のなさゆえ同志を大獄に引きずり込むおそれから出た表現であるのはいうまでもない」
 おおかたの以蔵観は右へ習えである。しかしこれは以蔵着牢にあせった半平太のたぶんに感情的な手紙である。捕まったことがアホウと言っているのであって、アホウな以蔵が捕まったというニュアンスではないと思う。政局が激変した文久3年に、長州の久坂玄瑞が土佐に帰る半平太を、自ら求めて死地に赴くものだといましめ、長州への亡命を勧めたのに、結局土佐に帰って逮捕された半平太こそ、おめおめ国に帰ったアホウだと、私などは思う。半平太だって、そのことは分っているはずだ、だから自嘲をこめて以蔵をアホウと呼んだ。そう思いたい。

 

人斬り以蔵の「真実」  5

2006-05-19 16:42:43 | 小説
 以蔵が武市半平太の道場に入門したのは16才のときであった。ここで小野派一刀流を学んだ。そして18才のとき江戸に出て、桃井春蔵道場で鏡心明智流を学ぶ。師の武市半平太が藩の臨時御用で江戸出張となったとき随行したのである。安政3年のことであった。築地の土佐藩中屋敷に寄宿したが、おりもおり坂本龍馬も江戸に来ており、同宿となった。龍馬は千葉道場に通っていたことは有名であるが、道場こそ違え、ふたりは親交を深めていたらしい。
 ほぼ1年余にわたる江戸での修行を終え、土佐に帰国、万延元年には武市の武芸修行に随行して、こんどは中国・九州地方を巡る。武市の数ある門弟のなかから3名の随行員のひとりに選ばれているのである。しかも武市がその年の暮れには帰国したのに対し、以蔵は翌年の3月まで豊後岡藩の堀道場に残った。ここで学んだのが直指流。
 以上が以蔵の剣の修行歴である。「自己流の暗殺剣」などと語弊のある評価をうけるいわれはないのである。おそらく時代が違って生まれていたならば、岡田以蔵はまちがいなく剣豪として名をなしていたに違いない。
 ちなみに江戸での武市半平太は京橋あさり河岸にあった桃井塾の士学館の塾監をつとめ、門弟の風紀を厳しく取り締まったことで知られている。そんな師のかたわらにいたのだから、以蔵が酒色におぼれるというようなこともありえなかった。

人斬り以蔵の「真実」  4

2006-05-18 20:41:26 | 小説
 さて、周知のように司馬遼太郎に『人斬り以蔵』という短編小説がある。その主人公はあくまで司馬さんの創出した以蔵であって、史実と間違えてはいけない。新潮文庫の解説で作品『人斬り以蔵』について、尾崎秀樹はこんなふうに書いている。
「以蔵は土佐藩の足軽の出身で、もとより剣術など習える身分ではなかった。その彼が自己流の暗殺剣法をあみだし、土佐勤王党の武市半平太に見出され、“人斬り”と怖れられるほどの殺し屋として動乱の渦中に暗躍するようになるのも、いわばその時代のせいであった。しかし彼はいつも足軽出身だという身分の問題からくる劣等感を捨てることができず、武市の走狗となって人斬りに専念するのも、すべてはこの劣等感からの脱出をはかるためであった」
 作家の尻馬に乗って、軽はずみなことを書き付けたものである。
 岡田以蔵の実家は父方も母方も土佐の香美郡南部の富裕な郷士の家である。嘉永6年といえば、以蔵15才のときであるが、西洋砲術と近代兵学を学ぶため徳弘孝蔵に入門している。現代でいえば有名塾や予備校に通ったようなもので、そういう教育費を支出できる余裕のある家庭の子息だったのである。ちなみに以蔵は坂本龍馬より三才年下であるが、徳弘塾への入門は年齢的にも時代的にも龍馬より早い。龍馬が徳弘塾に入門したのは、安政6年、25才のときであった。
 以蔵の父は思うところあって足軽格も得ていたが、その足軽格を長男の以蔵が継いでいたわけで、以蔵の弟は郷士のままであった。というより、岡田家はもともと郷士なのである。
 

人斬り以蔵の「真実」  3

2006-05-16 20:57:25 | 小説
 さてところで海舟『氷川清話』のことである。海舟の以蔵に対する言葉はおかしくはないか。自分を襲った刺客を斬った以蔵に、人を殺すのはよくないなどといってのける侍がいるだろうか。以蔵は正当防衛以上の行為をしているわけではない。
『氷川清話』は海舟が明治25年以降に新聞記者に語った話を吉川某がまとめたものである。講談社学術文庫『氷川清話』の編者となった松浦玲氏はこう述べている。「流布本『氷川清話』について私は、勝海舟があんなことを喋る筈が無いという疑いを長く持っていた」そのとおり吉川某の勝手なアレンジの目立つのが『氷川清話』である。
 おそらく粗野な人斬り以蔵という悪名の定着した明治だからこそ、海舟が以蔵をたしなめたなどという話がデッチあげられているのだ。
 正真正銘の海舟日記文久3年2月5日に注目すべき記述がある。
「龍馬・近藤・新宮・岡田・黒木等御船に来る。云、岡田星之助悪意有之間、撃つへき之義決せり」
 たんに岡田と姓のみ記しているのは以蔵のことである。龍馬らも加わって、岡田星之助という鳥取藩士の暗殺謀議の報告を海舟は受けているのである。むろん実行役は以蔵であった。海舟が以蔵に「人を殺しむのをたしなんではいけない」というようなことはいえないのである。このとき星之助暗殺を黙認した立場の海舟としてはである。
 つまり以蔵に対する負のイメージから潤色されたのが『氷川清話』のなかの海舟の言葉なのだ。

人斬り以蔵の「真実」  2

2006-05-15 22:42:19 | 小説
 とりあえず先を急いで、次に以蔵がジョン万次郎を救った場面に移ろう。万次郎の娘の寿々の口伝として中浜家に伝わる話である。エピソードは中浜博『私のジョン万次郎』(小学館)にある。(ちなみに中浜博氏は万次郎4代目直系)こちらの方は少し潤色してみる。

 万次郎は生前に谷中に墓地を求め、自分の墓を作った。彼が漂流しアメリカに渡ったあと、故郷ではむろん彼は死んだものとみなされ、墓もつくられていた。とはいえ一本の棒杭に名を刻んだものにすぎなかった。帰郷して、そのわが墓標のみじめさを目にしたときから、万次郎は生前に立派な自分の墓を作ろうと思っていたのである。
 アメリカ式の墓を自ら設計し墓石屋に発注、その寿墓が出来上がった日、谷中を訪れた万次郎を複数の刺客が襲った。
 墓地で万次郎を4人の刺客が取り囲んだのである。
「国賊」と叫びながら斬りかかる刺客に、はっと身を引いた万次郎は、火の玉が赤く燃え上がり回転するのを見た。血しぶきだった。万次郎を護衛していた以蔵が、刺客ふたりをまたたくまに斬っていた。残る2人の刺客は、おびえたように刀をかまえていたが、やがて脱兎のごとく逃出した。
「先生」と以蔵はいった。「まだあちらの墓のうしろにふたりいる。動いてはいけませんよ。墓を背にまっすぐ立っていてください」
 それから笑みを浮かべるようにしてつけくわえた。「ピストルは使っては駄目ですよ」
 墓石だらけのところで、弾がはねかえる心配をしたのである。
 ややあって、残る刺客がばたばたと逃げ去った。
 万次郎はのちにこのときのことを述懐し「命のやりとりの間によく冷静に私に忠告できたものよのう。それにしても、あいつには背中に眼がある」と感嘆した。
 万次郎のボディガードを以蔵に命じたのは海舟であった、と中浜家では聞かされている。