慶応3年11月15日、上洛していた土佐藩士の寺村左膳道成は、早朝より歌舞伎見物を楽しんでいた。6人の仲間と一緒である。その観劇の帰り道に、事件の一報を聞いた。
事件とはいうまでもなく坂本龍馬暗殺事件である。正確にいえば、龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われた事件のことである。
寺村左膳の当日の日記を、読みやすく書き換えて引用する。
「朝7ッ時寺田同道ほか5人ばかり召し連れ、四条の芝居見物に参る。自分、芝居見物はじめてなり。(中略)随分面白し。夜5時に済み、近喜まで帰るところ留守より家来あわてたる様にて注進あり、(後略)」
ここで事件の顛末を聞いた、というのが日記の内容である。
「近喜」というのは加茂とうふで有名な店のことだと思われるが、つまり芝居小屋から夕食ないし夜の宴席に移ろうとしたやさきに、事件のことを聞いているわけだ。
龍馬の暗殺時刻を夜9時とか、10時とか遅い時間と思い込んでいる方が多いが、寺村左膳の日記は、事件が宵の口の出来事であったと明らかにしている。朝から開演された歌舞伎は日没には終わるのである。(電気という舞台照明のない幕末には、夜の興業にはリスクがあった)
さて寺村らは、いったいどんな芝居を鑑賞していたのか、ずっと気にはなっていた(終演時間を計算するためにもである)が、このほどあっけなく演目を知ることができ長年の胸のつかえがおりた。そのことを書きつけておきたい。
慶応3年11月の「京南側芝居」つまり寺村らの行った南座の演目は次のようなものであった。伊原敏郎『歌舞伎年表』第7巻(岩波書店)による。
「傾城飛馬始」(けいせいひめはじめ)
「花筏情水棹」(はないかだなさけのみさお)
「石切梶原」
「皿屋敷」
である。現代の歌舞伎公演では昼の部3幕、夜の部3幕というのがふつうだが、当時は開演時間が早いから4幕あったのであろう。
寺村左膳は「ずいぶん面白かった」と記しているいるが、大政奉還建白書に連署した者のひとりである彼にとっては、たぶん「石切梶原」などがいちばん気に入ったのではないかと私は勝手に推測している。
(この稿は、当ブログの左サイドにある「ブックマーク」の「龍馬は誰に殺されのたか」の補遺のようなものです)
事件とはいうまでもなく坂本龍馬暗殺事件である。正確にいえば、龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われた事件のことである。
寺村左膳の当日の日記を、読みやすく書き換えて引用する。
「朝7ッ時寺田同道ほか5人ばかり召し連れ、四条の芝居見物に参る。自分、芝居見物はじめてなり。(中略)随分面白し。夜5時に済み、近喜まで帰るところ留守より家来あわてたる様にて注進あり、(後略)」
ここで事件の顛末を聞いた、というのが日記の内容である。
「近喜」というのは加茂とうふで有名な店のことだと思われるが、つまり芝居小屋から夕食ないし夜の宴席に移ろうとしたやさきに、事件のことを聞いているわけだ。
龍馬の暗殺時刻を夜9時とか、10時とか遅い時間と思い込んでいる方が多いが、寺村左膳の日記は、事件が宵の口の出来事であったと明らかにしている。朝から開演された歌舞伎は日没には終わるのである。(電気という舞台照明のない幕末には、夜の興業にはリスクがあった)
さて寺村らは、いったいどんな芝居を鑑賞していたのか、ずっと気にはなっていた(終演時間を計算するためにもである)が、このほどあっけなく演目を知ることができ長年の胸のつかえがおりた。そのことを書きつけておきたい。
慶応3年11月の「京南側芝居」つまり寺村らの行った南座の演目は次のようなものであった。伊原敏郎『歌舞伎年表』第7巻(岩波書店)による。
「傾城飛馬始」(けいせいひめはじめ)
「花筏情水棹」(はないかだなさけのみさお)
「石切梶原」
「皿屋敷」
である。現代の歌舞伎公演では昼の部3幕、夜の部3幕というのがふつうだが、当時は開演時間が早いから4幕あったのであろう。
寺村左膳は「ずいぶん面白かった」と記しているいるが、大政奉還建白書に連署した者のひとりである彼にとっては、たぶん「石切梶原」などがいちばん気に入ったのではないかと私は勝手に推測している。
(この稿は、当ブログの左サイドにある「ブックマーク」の「龍馬は誰に殺されのたか」の補遺のようなものです)