小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬暗殺の日の南座の演目

2008-03-30 21:28:15 | 小説
 慶応3年11月15日、上洛していた土佐藩士の寺村左膳道成は、早朝より歌舞伎見物を楽しんでいた。6人の仲間と一緒である。その観劇の帰り道に、事件の一報を聞いた。
 事件とはいうまでもなく坂本龍馬暗殺事件である。正確にいえば、龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われた事件のことである。
 寺村左膳の当日の日記を、読みやすく書き換えて引用する。

「朝7ッ時寺田同道ほか5人ばかり召し連れ、四条の芝居見物に参る。自分、芝居見物はじめてなり。(中略)随分面白し。夜5時に済み、近喜まで帰るところ留守より家来あわてたる様にて注進あり、(後略)」

 ここで事件の顛末を聞いた、というのが日記の内容である。
「近喜」というのは加茂とうふで有名な店のことだと思われるが、つまり芝居小屋から夕食ないし夜の宴席に移ろうとしたやさきに、事件のことを聞いているわけだ。
 龍馬の暗殺時刻を夜9時とか、10時とか遅い時間と思い込んでいる方が多いが、寺村左膳の日記は、事件が宵の口の出来事であったと明らかにしている。朝から開演された歌舞伎は日没には終わるのである。(電気という舞台照明のない幕末には、夜の興業にはリスクがあった)
 さて寺村らは、いったいどんな芝居を鑑賞していたのか、ずっと気にはなっていた(終演時間を計算するためにもである)が、このほどあっけなく演目を知ることができ長年の胸のつかえがおりた。そのことを書きつけておきたい。
 慶応3年11月の「京南側芝居」つまり寺村らの行った南座の演目は次のようなものであった。伊原敏郎『歌舞伎年表』第7巻(岩波書店)による。
 「傾城飛馬始」(けいせいひめはじめ)
 「花筏情水棹」(はないかだなさけのみさお)
 「石切梶原」
 「皿屋敷」
 である。現代の歌舞伎公演では昼の部3幕、夜の部3幕というのがふつうだが、当時は開演時間が早いから4幕あったのであろう。 
 寺村左膳は「ずいぶん面白かった」と記しているいるが、大政奉還建白書に連署した者のひとりである彼にとっては、たぶん「石切梶原」などがいちばん気に入ったのではないかと私は勝手に推測している。

(この稿は、当ブログの左サイドにある「ブックマーク」の「龍馬は誰に殺されのたか」の補遺のようなものです)  

女囚慕情 久子と松陰  完

2008-03-26 21:46:04 | 小説
 松陰の死ぬ安政6年に話を戻す。
 江戸に送られ、7月から始まった幕吏の訊問の要点はふたつあった。ひとつは梅田雲浜との政治的謀議、いまひとつは幕政批判の落し文の作者ではないかという嫌疑であった。ふたつとも濡れ衣だった。だから松陰は余裕をもって釈明した。そのまま終われば、なんということもなかったのに、松陰は自ら老中の間部下総守詮勝の襲撃計画の存在を打ち明けてしまうのであった。
 このことが公儀に対する不敬となって、死罪を宣告されたのである。10月27日朝、伝馬町の獄舎で処刑された。
「オッチョコチョイ」と評したのは藤田省三氏(前掲『吉田松陰』解説)である。藤田氏は「失敗の歴史こそが彼の成功であった」とも書く。さらに松陰の生涯を、あたかも「ギクシャク」というキーワードで語ろうとしている。氏の解説文には、「ギクシャク」という語が五回も出てくるのである。たとえば「目的と手段のギクシャクした喰い違い」とか「松陰のギクシャクした行動様式」というふうにである。
 たしかにオッチョコチョイといわれても仕方のない面もあるが、しかしそこが松陰の人間的魅力なのである。「善か悪か懸念せずに愛すること、ナタナエル、君に情熱を教えよう」といったのはジイドである。松陰を読みながら、そのジイドの『地の糧』をなぜか場違いに思い出してしまうのはなぜだろう。
 たぶん、松陰は思想の人というよりむしろ情熱の人ではなかったのか。
 もっとも艶聞はきかない。
 30年という短い生涯で、松陰が心をふるわせた女性は、おそらく高洲久子ただひとりである。
 あの別れの日、久子は松陰になにか心にしみるひと言を告げたのである。そのひと言を胸に刻んで檻輿に揺られたのである。

 一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす)

 鳴いて血を吐くホトトギスという。しかし一声は久子、松陰の句の郭公は無声のホトトギスである。忘れはしないと覚悟を述べて黙って耐えたホトトギスである。
 余談ながら、正岡子規の「子規」もホトトギスのことである。松陰の字(あざな)の「子義」にも、だからもともとホトトギスの意味が通底しているとも言える。


主要参考文献:田中彰『松陰と女囚と明治維新』(NHKブックス)

女囚慕情 久子と松陰 5

2008-03-25 22:32:37 | 小説
 平成15年11月20日付朝日新聞朝刊(山口総合版)に、次のような見出しの記事が載った。
「松陰の『恋人』高須久子 想い茶わんに刻む」
 松陰の教え子で、後に長崎造船所の初代所長も務めた萩藩士渡邊蒿蔵の遺品の中から、久子の歌を刻んだ茶わん(写真)がみつかったという記事である。歌は次のようなものだ。

 木のめつむ そてニおちくる 一聲ニ よをうち山の 本とゝき須かも 
 (木の芽摘む 袖に落ちくる 一声に 世を撃ち山の ほととぎすかも)

 末尾に「久子 69才」とはっきり刻まれている。ということは松陰の死から27年経っている。けれども久子の松陰への慕情は決して色褪せていない。世を撃った男として、ますます忘れ難くなっているように思われる。
 なぜ渡邊の遺品の中にこの茶碗があったのか詳しいことはわかっていないようだが、松陰の教え子と久子が交流を続けていたことはたしからしい。
 久子の歌には、あきらかに「一声をいかで忘れん ほととぎす」という松陰の句が鮮烈に意識されているのだが、どうして忘れることがあろうかと絶唱した松陰亡き後、忘れることのなかったのは久子のほうであった。

女囚慕情 久子と松陰 4 

2008-03-24 22:51:42 | 小説
 久子が松陰との再会を、またしても囚人同士というかたちで果たしたとき、どんな感懐を抱いたか、うかがい知ることのできる史料はない。
 けれども再会は、ふたたびの別離を意味していた。
 松陰の檻輿が萩を発って江戸に向かう日が、ふたりの永訣の日となった。
 久子は詠んでいる。

 手のとはぬ雲に樗(おうち)の咲く日かな

「手のとはぬ」つまり手の届かぬ人になろうとしている松陰に、久子は餞別として、現代風にいえばハンカチを贈った。
 松陰は書いている。
「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ」と。そして歌った。

 箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてふき清めてん

 続けて「高須うしに申上ぐるとて」と書いて、句を添えた。

 一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす)

「ほととぎす」は松陰その人である。「いかで忘れん」という強烈な語句に、血を吐くような思いがこめられている。
 松陰の短歌で、私の好きな歌もやはり「ほととぎす」が歌われている。

 鳴かずては誰れかきかなん郭公さみだれ暗く降りつづくよは

 こちらの短歌のほうには諦めに似た寂しさがある。それは「一声をいかで忘れん」という句を対置することによって、いっそう哀しいのである。
 岩波書店『日本思想体系』54巻『吉田松陰』の解説で、藤田省三氏は松陰の短歌を三首あげている。氏が松陰の精髄とみなす短歌なのだが、その中でも、この歌が一番だと述べていた。藤田氏の解説は、全集解説としては異例の辛口であるが、この歌はやはり気に入られているようである。 

女囚慕情 久子と松陰 3

2008-03-23 20:34:48 | 小説
 松陰は実は野山獄には二度入獄している。
 安政2年12月15日には、いったんは出獄して生家で蟄居の身となったのだが、安政5年12月26日に再入獄しているのであった。安政5年は松下村塾が最盛期となる年で、高まる松陰の幕府批判と不穏な挙動から、藩は二度目の野山獄送りを決めたのである。
 再獄されて8日後に父宛に出した手紙で、松陰はこう書いている。
「…獄居と家居と大異なきなり、獄中旧同囚四名、又一二の吟詩友あり、安閑中の一楽なり」
 獄中生活が家での生活とたいして変わりないというとおり、囚人たちの交流もかなり自由であったらしい。借牢というかたちの囚人が多かったせいであろう。身内が藩に願い出ての禁錮が借牢であるが、高須久子がまさにそうであった。
 その久子は、手紙の中の「吟詩友」のひとりである。再獄はふたりの再会でもあった。
 安政2年の秋、獄中における「短歌行」では、「酒と茶に徒然しのぶ草の庵」と松陰が詠み、つづけて久子が「谷の流の水の清らか」とつけていた。

 清らかな夏木のかげにやすらへど 人ぞいふらん花に迷ふと

 懸香(かけこう)のかをはらひたき我れもかな とはれてはぢる軒の風蘭
 
 一筋に風の中行く蛍かな ほのかに薫る池の荷(はす)の葉

 上記3首、いずれも松陰の久子を意識した歌である。
 もはや隠しようはない。松陰はほのかにではあるとしても、久子という花に迷っているのである。
 その安政2年12月、松陰がいったん野山獄を出獄するときに、久子の詠んだ句がある。
 
 鴨(?もしかして鴫)立ってあと淋しさの夜明かな

 鴨であれ鴫(しぎ)であれ、松陰の隠喩である。鴫だと思いたい。
 松陰のあざなの「子義」の意味が隠されているからである。おそらく久子は西行の次の歌を知っていた。

 心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮 

女囚慕情 久子と松陰  2

2008-03-22 23:17:43 | 小説
 言うまでもないが、吉田松陰の下獄は海外渡航を企てた国事犯としてであった。
 その年の3月27日、下田沖に停泊しているアメリカの「黒船」ミシシッピ号に小舟でたどり着き、渡航の希望を伝えたのであった。ところが「黒船」艦隊の司令長官ぺリーが載っている旗艦ポーハタン号に行けと追いかえされ、ふたたび小舟を漕いでポーハタン号に乗り込んだはいいが、密航者を連れてゆくわけにはいかないと断られる。日本政府の許可を受けろと言われて、松陰らは断念するしかなかったのである。
 松陰らは下田で自首し、唐丸駕籠で江戸に送られ、伝馬町の牢に入れられた。
松陰はしかし牢内では早い時期に牢名主に次ぐ地位を獲得しているから、さほど苦しい目にはあっていないようである。
 これが野山獄入牢の松陰の事情だ。
 野山獄における獄中生活は江戸よりさらに恵まれていた。
 食べ物と生活の必需品は囚人側でまかなうことになっていたが、ということは差し入れ自由なのである。松陰の兄の梅太郎が衣食すべてを用意し、たとえば冬場の寒いときには布団の上に敷く熊の毛皮まで差し入れている。ある意味、至れりつくせりの囚人生活なのである。
 そういう環境で女囚久子との交流が始まるのであった。
 さてここで松陰の風貌について書いておきたい。
 松陰の肖像画は、松塾生の杉浦松洞の写生したものがあり、これは松陰自身も似ていると言ったそうだが、なにしろあまりにも老成した人物画像だ。これを見て、30才で死んだ人の肖像画だと思える人がはたして何人いるだろうか。
 松陰の風貌については、いろんな記録が残されているが、それらを総合すると、イメージぴったりのタレントがいる。スマップの草剛である。たとえば下田踏海のおり、松陰が8日間滞在した岡村屋主人惣吉の回想によれば、眼は細く光り、眦(まなじり)はきりりとつり上がり、鼻梁は高く隆起し、両頬はこけていたとある。まさに草剛ではないか、と私は思ったのである。
 松陰吉田寅次郎、字(あざな)は子義である。
 もしかしたら、松陰は自分のあざなも久子に教えたかもしれない。そのことは、あとで久子の和歌の解釈でとりあげることになる。

女囚慕情 久子と松陰 1

2008-03-20 09:52:45 | 小説
 嘉永は、「安政の大獄」で有名な安政の前の年号であるけれど、その嘉永3年頃、長州の萩城下は土原(ひじはら)馬場丁に、はやり歌にはまってしまった女がいた。馬廻組の藩士の未亡人だった。
 史料には「高洲久」と記録されているが、もっぱら「高須久子」として語られる女性であるから、ここでも高須久子としておこう。
 彼女は三味線に打ちこみ、趣味が高じて、しだいに京唄、ちょんがれ節などのはやり歌などに耽溺するようになった。そして地元の芸能人ともいえる三味線弾きの弥八と勇吉を贔屓にするようになった。
 彼らを自宅に呼び寄せ、忍び弾きをさせ、ときには夕食を与え、寝酒もふるまって家に泊めることもあった。ふたりの男は、叔父と甥の間柄だったらしいが、被差別民であった。
 武士の未亡人が民を家に泊めるという行為は、彼らと色情のかかわりがあると見られても仕方のない大胆なことだった。困惑した親類一同が久子を提訴した。
 高須久子は、嘉永6年2月5日、「野山獄」という獄舎に入れられている。罪状の主たるものは、被差別民を平人同様に扱ったというものであった。そういう時代である。
 ところで野山獄というのは、もと野山清右衛門という藩士の住んでいた場所であったからそう呼ばれているのだが、小さな中庭をはさんで北側に6室、南側に6室、計12室の獄房があった。
 安政元年10月24日、この野山獄に、幕府から自藩幽閉を命ぜられた吉田松陰が、江戸から送られてきた。
 野山獄には11人の囚人がいたが、その中に紅一点で高須久子がいた。在獄2年である。
 このとき、高須久子37才。
 吉田松陰25才。ちょうど久子よりひとまわり年下だった。

吉本隆明が語る幕末の思想

2008-03-18 05:39:21 | 読書
 思いがけない場所で思いがけないものに出会ったような気分といえば、いくらか近いだろうか。吉本隆明の近著『日本語のゆくえ』(光文社)を読んでいたら、彼が幕末維新の思想について言及していた。めったにないことであるから、その概要を紹介しておこうと思う。
 東京工業大学(吉本の母校)の学生を対象にした講演録をまとめた著書であるから、以下のように話し言葉になっている。

「ぼくが長いあいだ疑問に思っていたのは、幕末から明治維新にかけて、どうして本居宣長などの国学系統の思想が維新の原動力になったのかということでした。なぜ『尊皇攘夷』のような古い思想が主体になって日本の近代革命がはじまったのか、そのあたりの意味がどうもわからなかった。
 江戸時代、幕府の学問や思想、あるいは論理や倫理の主体は周知のとおり朱子学でした。儒教ですね。それは国学なんかよりはるかに進んだ論理と倫理をもっていたからです。それにもかかわらず、明治の近代革命の主体として使われたのは、徳川時代にはさほど勢力もなかったし盛んでもなかった国学系統の理念だった。それが尊皇攘夷イデオロギーの重要な要素になっていたわけです。それはいったいなぜなのか」

 たしかに幕末の草莽の志士たちの中には、たとえば真木和泉など神官が多く、彼らのバックボーンは国学であった。坂本龍馬なども「学問はない男」と当時評されたこともあるが、その「学問」は儒学であり、漢学のことであった。龍馬は漢詩は不得手だったかもしれないが、和歌は詠んだのである。
 吉本隆明は、国学が「自意識」として近代革命の理念として使われたと考え、「そうした自意識のはたらきで国学は儒学に対して独立的になっていく。そこで国学というものが明治維新の革命原理みたいになったのではないか」としている。
 徳川幕府の公文書がみな漢字で書かれ、儒学者の荻生徂徠などが「物茂卿」という中国風の名前をつけて得意がっていたのに対して、本居宣長には「日本というのはそんなものじゃないんだよ」という「自意識」があったと、吉本はいうのである。
 ここで語られる「自意識」には吉本流の独特な陰翳がまとわりついているので、著書全体の文脈で感得していただくほかないが、もとより外圧でめざめたナショナリズムというような表層的なものではない。 

龍馬の姪の謎 完

2008-03-13 22:51:16 | 小説
 龍馬に有名な言葉がある。
「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候」
 これは文久3年6月29日、姉の乙女にあてた手紙の中の一節である。
 孤児園の園母になって社会事業に尽した菊栄に次のような言葉がある。
「私の仕事は社会のどん底を掃除する役目でございます。いわば社会のどぶさらへでございます(略)私の手しほにかけた子どもは、まだ大臣になった子も、富豪になった子もございません。けれども三百人の私の子どもが、一人も犯罪を行はず、よき社会人として、大工、理髪師、樽職人、百姓、電車の運転手などそれぞれ御国のために働いていることは、私のこよなき喜びでございます。(略)この博愛園なども、もっともっと、子どもらのために改善されなくてはなりません。いかに惨めであろうとも、御国の宝なるこの子どもらとともに生活しつつ、祈りつつ、努力してゆこうと存じます」(『三十余年の懐古』)
「日本の洗濯」といい、「社会のどぶさらへ」といい、このふたり、よく似た言葉を使う。
 菊栄はもしかしたら、母の乙女からよく聞かされていたのではないだろうか。
「おまんのおんちゃん(叔父さん)は、この国をいっぺん洗濯せなぁいかんいうて、いっつも言うちょったわね」とでも。
 かりに、菊栄が乙女の実の娘でなくて龍馬と血のつながりがないとしても、彼女の精神の中には龍馬が息づいていることは確かだ。
 岡上菊栄は正真正銘、坂本龍馬の姪だと、私は思う。 

龍馬の姪の謎 6

2008-03-12 22:02:16 | 小説
 さて、ふたつの文章がある。
 ひとつめ。「坂本家の墓所近くに岡上家の墓所があり、その中に公文婦喜の石碑が立っている。明治四十五年五月十九日没、享年七十七歳」(土居晴夫『坂本龍馬とその一族』新人物往来社)
 ふたつめ。「婦喜は明治四十四年四月十九日に亡くなった。ところが、その五月二十二日の土曜新聞に左記のこんな死亡広告が載ったのである」(武井優『龍馬の姪 岡上菊栄の生涯』鳥影社)
 かたや墓碑、かたや新聞の死亡広告に準拠していながら、なぜ婦喜の死亡年月日がこうも異なるのであろうか。おそらく死亡年は武井氏の明治44年が正しく、死亡月日は土居氏の5月19日が正しいのではと推測しているが、問題は武井氏のいう「左記のこんな広告」の文面である。
「岡上婦喜 儀 久々病気處養生不相叶十九日午前七時死去候旨御知ラセ申上候 廿二日五午后三時鷹匠街住宅出棺 親戚」
となっていて、「栄吾養母 菊栄母」と婦喜の名の下に小文字で列記されているのだ。
 栄吾は菊栄の夫である。だから義母と書くところを「養母」としているが、この広告はあきらかに婦喜が菊栄の母だとしているのだ。
 ところが岡上家でこの死亡広告を出したものが見当たらないという奇妙な広告である。さらに土居氏も紹介しているように婦喜の墓碑銘は「公文婦喜」であった。婦喜は岡上に入籍せず、生涯を公文婦喜で閉じたのだった。だから「岡上婦喜」という死亡広告はありえないのである。
 なぜこのような広告が出されたのか。
 考えられることはひとつしかない。菊栄は坂本家と血のつながる人物ではないとアピールしたかった者が出したのだ。武井優氏もそう考えている。
 そのことは、かえって菊栄が乙女の子であることを物語っているように思われる。後世の史家は新聞の死亡広告にだまされてはいけない。

龍馬の姪の謎 5

2008-03-11 20:52:34 | 小説
 乙女の離婚の理由も、その時期もほんとうはよくわからない。岡上家における妻妾同居という状況に耐えられなくなったという説が有力で、それが菊栄は婦喜の子であるという見方と一致している。
 乙女の気性からすれば、同じ屋根の下に妾がいれば、追い出してしまうだろうと私などは思うが、なぜか妻妾同居説はそうは考えないらしい。
 離婚の時期については、慶応3年と元冶2年の二説があって、こちらもとまどうばかりだが、不思議なのは離婚後も乙女は岡上家と相変わらず行き来しているという事実だ。
 実際、菊栄は明治8年に樹庵の兄の家に引き取られるまでは、乙女に養育されている。坂本家と岡上家が至近の距離にあったことが幸いしているわけだが、樹庵もまた夜な夜な乙女のもとに通っていたという菊栄の証言もある。(貴司山治の聞き取り)
 いったいこれはどう解釈すればよいのか。
 なにかの理由で、乙女と樹庵はいわゆる偽装離婚をしたのではないのか。そんな気がしてならない。
 岡上家の子孫に伝えられているのは、龍馬の脱藩が関係しているという推測だ。岡上家の先祖は山内一豊の侍医であり、樹庵は八代目(もっとも婿養子)だった。藩公の侍医の家柄の者が脱藩者の姉を妻にしていることに遠慮があっての乙女の離退。
 たしかに一理あるが、私にはもっと別の理由があったように思えてならない。樹庵という号が気になっていた。ジュアン、彼は長崎で医学の修業時代にキリスト教と出会っていたのではないのか。宗教がらみの問題がからんでいるのではないか。とはいえ、それはいまのところ私の思いつきにしかすぎない。
 菊栄は生涯、自分の母は乙女と信じ、婦喜実母説には耳を貸さなかった。婦喜もまた菊栄には奉公人として仕え続けた。前述のように、政江という樹庵の子を生んだ後もである。政江を菊栄の妹というより奉公人の娘として扱った。菊栄が外出するとなると、政江に「イトさんの履物を」と命じて揃えさせたという。
 もしも菊栄が婦喜の実子なら、せつない話である。 

龍馬の姪の謎 4

2008-03-10 21:42:46 | 小説
 公文婦喜は18才のとき、岡上家の奉公人になっている。安芸郡唐浜の漁師の娘で、早くに両親を亡くし、満足な教育も受けていず、読み書きはできなかったらしい。
 阿井景子氏はこう書いている。
「婦喜の年令はわからぬが、嘉永6年18才で岡上家に奉公したとすれば、天保7年生まれで、乙女より一歳年下になる」(『龍馬と八人の女性』)
 岡上家に奉公した年は嘉永5年説もある。つまり天保6年の生まれで龍馬と同い年だったとする説だ。いずれにせよ、阿井氏の勘違いかそれとも誤植か、乙女より「一歳年下」というのはありえない。乙女は天保3年生まれだから、彼女より3才か4才年下の女性だった。
 婦喜は岡上家に乙女より5年ほど前から住みついていたことになるが、そこから邪推も生まれている。樹庵は乙女と再婚する前から、婦喜とただならぬ関係にあったのではないのか、というわけだ。
 しかし、もしそうであるならば、岡上家と目と鼻の先にある坂本家でそのことを察知できていたのではなかろうか。そんなところに乙女がわざわざ後妻に行くわけはないと思われる。
 ただし、樹庵は乙女と離婚したのちに、婦喜に手をつけた。樹庵と婦喜の間に明治3年、政江という女の子が生まれている。
 菊栄は乙女の子ではないとする説を主張する者には、まことに都合のよい状況ではある。
 ところで樹庵と乙女はいつ離婚したのか。そして、離婚の原因はなんだったのか。

龍馬の姪の謎 3

2008-03-08 19:15:26 | 小説
 龍馬が乙女姉さんにあてた慶応3年6月24日付の手紙がある。(正確には、宛名は姉上様とおやべ様連名の書簡)
 この頃の乙女の様子をうかがうことのできる貴重な手紙だ。
 どうやら乙女は女だてらに国事に奔走したいと、龍馬に訴えていたようである。短銃も斡旋しろと言っていたらしい。こうした要求を龍馬が困惑しながら、たしなめているのである。
「御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこく(他国)に出かけ候つもりのよし。右ハ私が(異)論があります」
 と書き、じゅんじゅんと戒めている。そして、どうしても出国したいというのなら、近く自分が土佐に行ってから長崎に連れて行くから、それまで待っていてほしいと伝えている。
 慶応3年6月といえば、乙女は妊婦であらねばならない。菊栄を身ごもっていて7か月のはずだ。つまり菊栄が慶応3年9月生まれならばである。まさか妊娠を「病気」とはいわないだろうし、どう考えても乙女の様子は妊婦のそれではない。
 だからである。この龍馬の手紙は菊栄が乙女の子ではないという傍証とみなされる。だが、菊栄が慶応3年以前に生まれているならば、話は違ってくるのである。
 ところで、菊栄がおりょうと出会ったとき2才か3才であったという供述は、貴司山冶(きし・やまじ)が昭和になって菊栄から聞き出したものである。(貴司山治『妻お龍その後』歴史読本・昭和42年2月号)貴司は徳島生まれのプロレタリア文学の作家であった。昭和27年には『坂本龍馬 黎明日本の先駆』(偕成社)という著述もあり、菊枝に直接面談した者として、この部分は信頼に足るレポートだと思う。学術的に史料価値を云々されたら、いささか弱いところのあるのは否めないものの、菊栄の言葉は事実だと思われるのである。ついでに引用すれば「私がお龍さんの部屋に行って遊んでいると、母が下からよび立てるようになり、お龍さんのところへ行ってはいけないらしいことを、私も何となくカンづくようになりました」という菊枝の言葉も紹介され、当時の坂本家の見取り図も聞き出しているからである。
 さて、菊栄は乙女の子ではないとする説は、もとより別の母を名指している。公文婦喜という女性である。

注:3月10日加筆訂正。貴司山治の『妻お龍その後』の掲載された「歴史読本」を「昭和43年1月号」としていたが、42年2月号が正しい。
土居晴夫『坂本龍馬とその一族』(新人物往来社)では文中でも巻末の文献資料でも貴司の文章は「昭和43年1月号」に掲載となっているが、これも誤り。

龍馬の姪の謎 2

2008-03-07 22:03:43 | 小説
 菊栄に、龍馬の妻おりょうに関する思い出話がある。

「母(乙女)はお龍さんがくると、得意の一絃琴をおしえたり、お龍さんは自分で刺繍などして、私はよくそれを見に行き、しまいにはそばで刺繍のマネごとなどしてをして遊びましたが、その時私は二つか三つでした。その幼い印象では、お龍さんは色の白い派手な美人でしたが、とてもやさしい人でした。母にも姉さん姉さんと、しきりに親しみうやまっていたように思います」

 さて、おりょうが土佐高知城下通町に入ったのは慶応4年3月末であった。そしてその年の初夏には坂本家を出て、妹婿の千屋寅之助の実家である土佐の芸西村和食(わじき)に身を寄せている。
 おりょうが坂本家にいたのは、わずか三か月ほどだったが、その間の彼女の思い出を菊栄は語っているのである。
 くどいようだが慶応4年3月末から7月頃までの間の思い出である。
 菊栄の誕生日が慶応3年9月5日だとすれば、菊栄は生後7か月からせいぜい10か月、一才未満のはずだ。そんな幼児の記憶でありうるはずのない情景が語られているのだ。
 もっとも記憶そのものは他者(たとえば乙女)から聞かされた情景をいつのまにか自分の記憶として蓄積することはある。それにしても菊栄がおりょうと会ったのを2、3才の頃としているのは、物心ついてからの記憶と認識しているからである。
 戸籍簿は正しいのか、という疑問をもう一度発しておこう。
 もしも菊栄が慶応3年以前の生まれで、彼女の証言どおり、このとき満で2、3才だとすれば、乙女実母説にとっては俄然有利となるのである。

龍馬の姪の謎 1

2008-03-06 21:10:06 | 小説
 龍馬の姉乙女を母とする女性が、昭和22年12月24日に亡くなっている。
 岡上菊栄である。
 まだ児童福祉法のなかった時代、孤児施設の園母となって活躍した女性だ。
「乙女を母とする」という妙な書き方をして、乙女の娘とあっさり書かなかったのにはわけがある。菊栄は乙女の実の子ではないという説があるからである。あるというより、むしろ定説化している。
 たとえば阿井景子『龍馬と八人の女性』(戎光祥出版)の「乙女」の章では、菊栄は乙女の夫と奉公人の女性との不倫の子となっている。そして、そのことが乙女と夫との離婚原因だったと書いてある。
 はたしてそうか。岡上菊栄は、龍馬の姪とはいえない女性なのか。
 有名な「乙女姉さん」のことから話をはじめなくてはならない。
 乙女は天保3年(1832)1月1日生まれだとされている。龍馬より3才年上だった。
「坂本のお仁王さま」といわれたぐらいの大女で、近視で髪も薄かったらしい。そのせいであるいは結婚が遅かったのかもしれないが、16才年上の医者の後妻になった。相手の名は岡上新甫(おかのうえしんすけ)、号を樹庵という。
 ふたりの結婚がいつのことだったか、正確に知ることのできる史料はない。安政5年(1858)に赦太郎という長男が生まれているので、安政4年ないし3年頃の結婚であろうと推測されている。ちなみにこの長男は病弱で14才で死んでいる。
 さて菊栄は、戸籍簿によれば慶応3年(1867)9月5日生まれとなっている。
 慶応3年といえば、龍馬の死ぬ年であるが、それはさておき、この戸籍簿ほんとうに正しいのだろうか。