小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬と竹島問題

2009-04-28 14:00:29 | 読書
 外務省のホームページに「竹島問題」に関する政府見解が開示されている。日韓の領土問題がくすぶり続ける竹島であるが、その「竹島の認知」という項目は、次のような文章で始まる。

〈現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます〉

 さて、あまりよく知られていないが、幕末、坂本龍馬は「竹島」開拓をめざしていた。小美濃清明氏の『坂本龍馬と竹島開拓』(新人物往来社)は、そのことについての丹念な検証の書であるが、はやばやと種明かしをすれば、龍馬のめざした「竹島」は、現在問題になっている竹島ではなく、鬱陵島のことであった。
 ところがその鬱陵島については、幕府は元禄9年(1696)の時点で、渡海禁止令を出していた。朝鮮領と認めていたからである。もっとも、これは鳥取藩にだけ通知されていたから、その後も鬱陵島に渡る者が多く、天保8年(1837)に全国的に二回目の渡海禁止令を出している。
 どうやら龍馬は、鬱陵島が朝鮮領と認定されていることを知らなかったらしい。龍馬の「竹島開拓」計画は、鬱陵島に渡ろうとした例のいろは丸の沈没で、出鼻をくじかれたまま挫折した。彼が殺されずに生きていて、開拓計画をすすめていれば当然領土問題に突き当たったはずだ。なにか痛々しい龍馬の夢の残滓をみるような気分になるのが、小美濃氏の論文である。
 それにつけても、鬱陵島が、かって竹島と呼ばれたことは、話をとてもややこしくしている。幕府が鬱陵島の帰属を日本にはないと認めた件は「竹島一件」と称されている。だから早とちりな人は、現在の竹島も幕府は朝鮮領として認めていたなどと言い出すのである。

「さよなら、愛しい人」*を読む

2009-04-23 20:37:10 | 読書
 清水俊二訳『さらば愛しき女よ』が翻訳されたのは1956年である。その翻訳を、いつ読んだのか。いずれにせよ何十年も前であることは確かだ。作中人物のムースー・マロイは「大鹿マロイ」と記憶していたが、こんどの村上春樹訳は「へら鹿マロイ」となっていた。
 村上春樹訳を読めば、ストーリーを当然思い出すだろうとタカをくくっていたら大間違いだった。初めて読む小説と同じで、展開は予想がつかず、はらはらどきどきしながら、どんでん返しの面白さを堪能した。
 これでは清水訳と村上訳の違いなど語る資格はないけれど、村上春樹がチャンドラーの翻訳にこだわる秘密のいったんが少しわかるような気がした。チャンドラーを読むと、創作意欲をそそられるのである。あのダンディズムな文章に接すると、自分もおしゃれをしたくなるのである。
 まだ少年の頃、たとえば任侠映画を観ると、なぜか劇中のヒーローが憑依したような気分になって、眉をしかめて映画館の暗がりから表に出る時の歩き方まで変わっていた。大人になって、ちょっとそれに似た感覚を読後に味わうのがチャンドラーなのである。
 あらためて比喩のたくみな作家だと感銘をうけたが、それは清水訳も村上訳でも差異はないだろう。たとえば作中人物の「目」についての形容例。

〈彼の目には淡い輝きが見えた。ほこりっぽい廊下の遠くから差してくるような微かな光だった〉

〈なにより彼の目は朝露のように明るかった〉

〈目の前で人がライオンに食いちぎられているのをみても、ぴくりとも乱れない目だ。瞼を切り取られた人が手脚を縛られ、灼熱の太陽に焼かれて泣き叫んでいるのを見ても、毛ほども動じない目だ〉
 
 最後の引用例などは、ふつう「残忍な目」と一言ですますようなところを、そうしないのがチャンドラーなのである。
 ところでタイトル、なぜ「さらば愛しき女よ」ではなく「さよなら、愛しい人」なのか。この新訳のタイトルは、真犯人と、この小説の含蓄をもっともよくあらわしている改変なのだが、ネタばれになるから、それを明かすのはやめておこう。

*レイモンド・チャンドラー・村上春樹訳『さよなら、愛しい人』(早川書房)

なぜ書くか

2009-04-19 22:08:41 | 小説
 たぶん水村美苗さんの著書を読んだ余韻のせいだろう。自分の若い頃に書いた評論のことを思い出していた。
 昭和の時代であるけれども、あの頃はまだ日本文学の運命には、たくさんの夢を託していたはずだった。平野謙が『昭和文学の可能性』などというタイトルの新書を岩波書店から出していた頃だ。
 その平野謙の岩波新書の最終章には私の本名近藤功での小論「私小説は滅びたか」も取り上げられているが、そんなこんなを思い出していたのである。
「昭和文学」という概念は私にはたしかな手触りで理解できるが、「平成文学」となると、イメージが結べない。
 平成の小説家たちが、〈書く〉ということについて、どれほど自覚的であるかもわからない。
 小説家たちは〈なぜ書くか〉、それはかって私にとっては大きな命題だった。昭和46年11月号の『三田文学』に寄稿した小論を紹介させていただく。御手数ですが以下をクリックして、ファイルをダウンロードしてお読みいただけると幸いである。
表現の論理ーなぜ書くか

 (蛇足)自分の寄稿した雑誌が手元に一冊もないので、国会図書館でコピーしてきたものをPDF化したもの。ご承知のように国会図書館での複写は専門の業者が行っているけれど、このコピーはちょっと歪んでいたりする。

水村美苗『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』を読む

2009-04-18 23:24:45 | 読書
 水村美苗『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)をやっと読了した。
 少し読んでは本を閉じ、日をおいて続きを読むという具合で、ずいぶんと日数のかかった読書になった。著者の筆致は軽快で、けっして読みにくい文章ではない。しかし、語られる内容がずしりと重いのである。
 読書はどこか潜水に似ていると常々思っているが、息苦しくなる前に、早々と息継ぎのために浮上を繰り返すような読書体験だった。内田樹氏が自身のブログで、この本を「肺腑を抉られるような慨世の書」と評されていたが、まことにそのとおりなのである。
 水村美苗は書いている。「この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。(略)少なくとも日本文学が『文学』という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりで思っている人たち向けて書かれているのである」
 書名から、予断を抱いてはいけない。安易な日本語滅亡論のたぐいではない。たとえば埼玉大学の長谷川三千子教授は、廃刊間近の『諸君』5月号に『水村美苗「日本語衰亡論」への疑問』という論文を寄稿している。しかし「日本語衰亡論」という言葉でもすくいとれるような内容ではない。 長谷川論文の結語はこうである。
「…私は、水村さんと手を取り合って嘆かうとは思はない。私は、彼女の手を引っぱって、さあ、日本語はこれからよ!いざ!逆襲!と鬨の声あげたいと思ふのです」
 能天気な学者である。「逆襲」などという語を使うところを見ると、それなりの危機感を抱いているらしいが、これでは水村美苗をなにも理解していないと同じだ。水村美苗は、「話し言葉」としての日本語が亡びると言っているわけではなく、「書き言葉」(つまり読まれる言葉)としての日本語の運命を憂えているのである。言葉というものを「話し言葉」を中心に考える弊害について、水村美苗はイヤというほど訴えているのに、そこのところが長谷川教授には届いてないらしい。
 ところで漱石の『三四郎』について、水村美苗は意外な切り口からの解釈を披露している。こんな『三四郎』の読み方があったのかと、目から鱗の落ちるような思いだった。

数学教師になった「暗殺犯」  完

2009-04-08 22:37:45 | 小説
 高見弥一の享年が53歳だとすると、吉田東洋暗殺時の彼の年齢は18歳ということになる。すると、その人物像は大幅な改変を迫られることになると思うのは私だけであろうか。
 さらにロンドン留学時、彼だけが30歳代で、他の留学生たちが20歳前後と若かったため、なんとなく浮いたような存在だったというイメージをも変えなければならない。
 吉田東洋暗殺の4年後にロンドンにいるわけだから、22歳で留学ということになるではないか。同じ屋根の下で寝食を共にした森金之丞(有礼)は18歳。18歳と22歳ならば、もっと親密な交流があってよさそうなものである。
 大石団蔵は土佐の野市町の出身だが、その野市町の町史を編纂したこともある郷土史家の吉田萬作は、ロンドン到着時の大石の年齢を35歳だったとしている。(永国氏の著作で知った)
 となると、とても享年は53歳とはいえない。66歳で亡くなったという説が妥当なような気がするのだ。前にも書いたように、吉田萬作は大石のお孫さんと接触し、写真まで入手された郷土史家であり、その研究に私としては信を置きたい。
 ところで明治22年2月11日、文部大臣森有礼は永田町官邸玄関で刺客に刺され、翌12日死去した。その凶報を、高見弥一はどんな思いで聞いたのであろうか。犯人は山口県士族の若い男で、「森有礼暗殺主意書」を懐中にしていた。
 犯人に、かっての自分を重ねるようにして、やるせない苦い思いに襲われたのか。それとも、薩摩の子爵海江田信義のように「さも有るべきことなり」と森の事件に冷たい態度をとったのであろうか。
 いずれにせよ、吉田東洋暗殺とロンドン留学時のふたつながらの過去が、薩摩の高見弥一と名を変えた大石団蔵の胸に去来したはずである。 

数学教師になった「暗殺犯」  4

2009-04-05 17:40:25 | 小説
 最初に引用した『別冊歴史読本』の「渡航者ファイル」では、高見弥一の生没年は、
 ①1834~?
 となっていた。生年は判明しているが没年不明。ところがこれはまったく逆である。没年はわかっているが、生年に諸説があって、むしろ
 ①?~1896
 とすべきであった。
『別冊歴史読本』と同じ新人物往来社発行の『幕末維新人名事典』では、大石団蔵は1837年生まれとなっている。内外アソシエーツ㈱の『新訂増補 海を越えた日本人名事典』(2005年7月刊)では、1833年生まれとなっている。さらに1831年生まれとする説もある。
 それぞれ、享年は60歳、63歳、64歳、66歳と異なってくるわけだが、いずれにせよ、60歳代で没したという点では共通している。
 ところが享年53歳説があるのである。しかも墓石に、そう刻まれていたという記事を、私もネット検索中に目にした。「若き薩摩の群像を完成させる会」(注)も53歳死亡説である。こうなると、話はいささかややこしくなるではないか。
 某日、桜がまだ三分咲きぐらいの東京都下の多摩霊園に私は初めて足を踏みいれてみた。高見弥一つまり大石団蔵が、そこに眠っているからである。高見弥一は鹿児島市草牟田の墓地から、昭和2年に多摩霊園に改葬されたという。
 京王線多摩霊園駅からタクシーで霊園正門まで行ったのだが、これは間違いだった。めざす霊園22区は、反対側の門から入るべきだったのである。広大な霊園の中を、てくてく歩きながら、いささか心細くなりかけたころに高見家の墓地を見つけることができた。
 高見弥一単独の墓石はなく、「高見家之墓」という石碑の裏には、「昭和九年十一月 高見長恒建之」とあるだけだった。
 鹿児島市の墓石には享年が刻まれていたのかもしれないなあ、と思いつつ私は帰路についたけれど、少しも無駄骨をしたという気はしなかった。自分で予想したとおりの結果だったからである。

(注)趣意書

数学教師になった「暗殺犯」  3

2009-04-01 15:19:41 | 小説
 ロンドンで、到着後1か月半ほどして他の留学生仲間7人と一緒に撮影した大石団蔵の写真(尚古集成館蔵)がある。前列に4人、後列に4人、もちろん皆洋服姿で、大石は後列左端に、心なしか物憂げな表情をして立っている。聡明さのうかがわれる風貌だが、しかし屈託ありげな印象を与える。
 大石の足跡をロンドンに追った永国淳哉氏は、ユニバーシティー・カレッジの図書館員ジャネット・バーシル女史に大石の写真(注)を見せている。すると女史は「暗殺者といわれてみれば、たしかに少し寂しそうな面影がありますね」と言ったそうだ。団体写真の中の大石に私が抱いた印象に近いと思われる。
 薩摩藩命は「運用測量機関修行」であったから、大石がロンドンで数学を学んだことは間違いない。帰国後、彼は数学の教師になった。鹿児島県立中学造士館(旧制七校の前身)で、数学を教えたのである。
 新政府は、このときの薩摩留学生たちを新帰朝者として厚遇したはずであり、実際に仲間の森有礼や鮫島誠蔵は新政府に出仕している。
 しかし、大石は、つまり高見弥一は地方の算数教師として、地味にその生涯を閉じた。故郷の土佐に帰ることもなくである。
 おそらく、吉田東洋暗殺に加担したという負い目のようなものが彼の生涯に陰影を落としているのだ。彼の心境をうかがえる日記とか史料はなく、人生そのものが寡黙にすぎた。
 明治29年(1896)2月28日、鹿児島市加治屋町で病没。享年を記さねばならないが、さて、ここで問題がある。
 

(注)函館在住の大石のお孫さんから、土佐の郷土史家吉田萬作氏が入手した貴重な写真と永国氏は書いている。1866年に撮ったもので、ロンドン・ワトキンス写真館で撮影したものらしい。残念ながら著書に写真の掲載はない。