外務省のホームページに「竹島問題」に関する政府見解が開示されている。日韓の領土問題がくすぶり続ける竹島であるが、その「竹島の認知」という項目は、次のような文章で始まる。
〈現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます〉
さて、あまりよく知られていないが、幕末、坂本龍馬は「竹島」開拓をめざしていた。小美濃清明氏の『坂本龍馬と竹島開拓』(新人物往来社)は、そのことについての丹念な検証の書であるが、はやばやと種明かしをすれば、龍馬のめざした「竹島」は、現在問題になっている竹島ではなく、鬱陵島のことであった。
ところがその鬱陵島については、幕府は元禄9年(1696)の時点で、渡海禁止令を出していた。朝鮮領と認めていたからである。もっとも、これは鳥取藩にだけ通知されていたから、その後も鬱陵島に渡る者が多く、天保8年(1837)に全国的に二回目の渡海禁止令を出している。
どうやら龍馬は、鬱陵島が朝鮮領と認定されていることを知らなかったらしい。龍馬の「竹島開拓」計画は、鬱陵島に渡ろうとした例のいろは丸の沈没で、出鼻をくじかれたまま挫折した。彼が殺されずに生きていて、開拓計画をすすめていれば当然領土問題に突き当たったはずだ。なにか痛々しい龍馬の夢の残滓をみるような気分になるのが、小美濃氏の論文である。
それにつけても、鬱陵島が、かって竹島と呼ばれたことは、話をとてもややこしくしている。幕府が鬱陵島の帰属を日本にはないと認めた件は「竹島一件」と称されている。だから早とちりな人は、現在の竹島も幕府は朝鮮領として認めていたなどと言い出すのである。
〈現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます〉
さて、あまりよく知られていないが、幕末、坂本龍馬は「竹島」開拓をめざしていた。小美濃清明氏の『坂本龍馬と竹島開拓』(新人物往来社)は、そのことについての丹念な検証の書であるが、はやばやと種明かしをすれば、龍馬のめざした「竹島」は、現在問題になっている竹島ではなく、鬱陵島のことであった。
ところがその鬱陵島については、幕府は元禄9年(1696)の時点で、渡海禁止令を出していた。朝鮮領と認めていたからである。もっとも、これは鳥取藩にだけ通知されていたから、その後も鬱陵島に渡る者が多く、天保8年(1837)に全国的に二回目の渡海禁止令を出している。
どうやら龍馬は、鬱陵島が朝鮮領と認定されていることを知らなかったらしい。龍馬の「竹島開拓」計画は、鬱陵島に渡ろうとした例のいろは丸の沈没で、出鼻をくじかれたまま挫折した。彼が殺されずに生きていて、開拓計画をすすめていれば当然領土問題に突き当たったはずだ。なにか痛々しい龍馬の夢の残滓をみるような気分になるのが、小美濃氏の論文である。
それにつけても、鬱陵島が、かって竹島と呼ばれたことは、話をとてもややこしくしている。幕府が鬱陵島の帰属を日本にはないと認めた件は「竹島一件」と称されている。だから早とちりな人は、現在の竹島も幕府は朝鮮領として認めていたなどと言い出すのである。