小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

琳瑞暗殺の謎 4

2013-01-11 15:05:16 | 小説
 高橋(伊勢守)泥舟は、30歳の時に琳瑞と出会っている。琳瑞は彼より5歳年長だったから、35歳であった。
 以来ふたりは親しく付き合ってきたようにみえる。
 泥舟が琳瑞に出した手紙の宛名では「静 慈兄」とか「静岳師父」といった表記がある。まことにへりくだっているのだが、もともと泥舟は仏教嫌いで、坊主と話をするのも嫌というような人間だった。泥舟遺稿で自らそう語っている。
 これは事実であったろうと思う。泥舟の談話には誇張や虚言の多かったことは、たとえば山岡鉄舟の弟子であった小倉鉄樹が『山岡鉄舟正伝 おれの師匠』(島津書房)でも暴露している。鉄舟夫人になっていた泥舟の妹からも、前言との違いをやりこめられる泥舟のエピソードがあったりする。
 というわけで泥舟談話は資料として鵜呑みするのは危険である。
 琳瑞が襲われたあの夜、泥舟といったい何を話し込んでいたのか。泥舟の一方的な証言しかないから、真相はわからない。
 一般に政局について話し合っていて激論になったと伝えられているが、ほんとうだろうか。
 ともあれ泥舟宅からの帰り道に泥舟の門弟に襲われたということは厳然たる事実であり、ふたりの刺客は泥舟宅にいたのかもしれない。彼らは泥舟と琳瑞のやりとりを隣室かどこかで聞いていて、琳瑞抹殺の必要性ありと判断したのかもしれない。
 刺客のふたりに琳瑞に対する私怨のあったふしはない。では公憤か。
 幕臣の刺客には公武合体派であった琳瑞が気に入らなかったのか。あるいは勤王僧で倒幕思想の持ち主と見なされ、今後の言動を封じるために殺す必要があったのか。そういうふうにみなす後世の論者は多い。
 ちょっと待ってくれと言わざるをえない。
 琳瑞の暗殺日はいつであったか。
 慶応3年10月18日である。その4日前の14日には将軍慶喜は上表して大政を奉還している。政局はひとつの決着をみており、一寒僧を抹殺してもどうしようもないところに来ているのだ。
 断じて思想的なテロリズムではない。なにかの秘密を抹殺するために琳瑞を殺そうとした。その秘密には、4年前の清河八郎暗殺事件がからんでいる、と私には思われる。(続く)

琳瑞暗殺の謎 3

2013-01-09 11:26:29 | 小説
 琳瑞は桑折(福島県伊達郡)の無能寺で17歳の時に剃髪していた。だから僧としての彼の本籍は桑折無能寺だった。その無能寺から、彼のいわば法弟ともいうべき良慶が、琳瑞の凶報に接して、後始末のために江戸に駆けつけている。
 11月21日付で、良慶が琳瑞の兄の細谷与左衛門とその子恒太郎(琳瑞からみれば甥)に宛てた手紙がある。
 事件の様子を簡潔にではあるが書送っており、2人の刺客の名も明記している。なにより暗殺の夜の当事者である斉藤安之助を見舞って、金と菓子を贈ったと書いてあるから、斉藤青年(注)から事件当夜の様子を聞き取れたのであろう。
 だが手紙の末尾には、こんな文言が書きつけられている。
「当一家にも必他言無用に御座候。此方にても病死の積ニ御座候。尚一家中には偽書を以て御披露被下ハゝ難有奉存候」
 つまり良慶は病死だという偽の手紙も同封していたらしい気の使いようである。
 さて琳瑞本葬の11月晦日、甥の細谷恒太郎が江戸小石川に到着した。恒太郎は琳瑞より11歳年少であったから、このとき27歳である。
 彼は、琳瑞暗殺の黒幕を高橋泥舟だと疑った。
 彼にそうささやく者もいたからである。
 父宛の手紙に書いている。
「扠て高橋伊勢守甚不評由、承彼大奸成者ニ相見申候」
 泥舟に疑惑の目が向けられていて、彼の評判がはなはだ悪い。いろいろ聞くにつけて彼が大奸物のように思われる、と言っているのである。
 琳瑞暗殺は、高橋泥舟の「使嗾するところ」と当時の風評を書き残した漢学者の綿引東海のような人物もいるから、表向きは病死にしても、暗殺の事実は隠蔽しようがなかったようである。
 そして、風評はあながち間違っていなかったのではないかと思われる。(続く)


【注】斉藤の様子は、こう綴られている。「当人大丈夫に相成申候。両手は少々の疵に御座候。耳の上、頭より目の際に至るまで、壱疵大きく御座候」
名うての剣客と評されたふたりの刺客相手に闘って、彼だけが生存している奇妙さについては、あとで推論を述べる。

琳瑞暗殺の謎 2

2013-01-07 11:35:52 | 小説
 よく知られているように小石川伝通院は徳川家康の生母於大の方の法名伝通院をそのまま寺名にしている。このことからもわかるように徳川家の香華院であった。住職は登城し、城内の御白書院で老中列席の上、将軍から直々に住職を拝命された。年賀式には将軍に単独拝謁できて年頭の挨拶を述べることができたという。そういう寺である。
 ところで琳瑞の暗殺犯のふたりは旗本と御家人の身分であった。松岡が旗本の家柄である。だから伝通院側としては、事件を表向きにしては面倒な事になるという思惑がはたらいたらしい。
 あくまでも表向きは琳瑞は病死ということで処理した。
 そして事件の翌日の10月19日には早くも松岡・塚田両家と伝通院側とで「内済一札之事」(写真)という示談書のようなものが取り交わされている。
 つまり互いに真相究明は放棄しようと言っているのと同じである。
 これでいいのか。いいはずがない。琳瑞の身内、あるいは彼の法弟たちにすれば、なおさらである。(続く)

琳瑞暗殺の謎 1

2013-01-05 20:44:04 | 小説
 幕末、小石川の伝通院山内の処静院(しょじょういん)に琳瑞(りんずい)という和上がいた。
 処静院というのは、いわば僧たちの教育施設で、その教官が琳瑞である。浄土宗の用語で言えば伝通院の本律道場が処静院であり、律師が琳瑞なのである。
 処静院を任されるほど卓越した僧であった琳瑞は、出羽国村山郡谷地の細矢与左衛門の6男であった。幼名は房蔵。天保元年の生れである。
 出羽出身で天保元年生まれといえば、清河八郎とまったく同じであるが、その清河八郎と琳瑞の人生にはただならぬ接点があった。最大の共通点はふたりとも暗殺されたということである。
 慶応3年10月18日の深夜、琳瑞は高橋泥舟宅から処静院に帰る途中で襲われた。
 泥舟宅から伝通院までは、現代の町名でいえば小石川5丁目から小石川3丁目に帰るようなものだから、距離的にはたいしたことはない。刺客のあらわれた場所は三百間坂で、もう少しで処静院に帰り着こうかというあたりだった。
 白い絹布の綿入れに草茶色の袈裟をかけ念仏を唱えながら歩いていた和上を、ふたりの刺客が襲っている。ひとりは井戸丙九郎、いまひとりは塚田求。井戸は松岡丙九郎ともいい、あの清河八郎の虎尾の会のメンバーであった松岡万の弟である。塚田のまたの名は広井求馬。ふたりとも高橋泥舟の門弟であったから、事件は奇妙な様相を帯びている。
 和上には斎藤安之助という20歳の青年が提灯を持って供をしていた。泥舟の家来であり、この夜、泥舟が琳瑞を送らせるために付けたのである。
 たぶん、ふたりの刺客にすれば、この斎藤青年のことは眼中にないにひとしかった。
 いきなり躍り出た塚田が和上を後ろから斬りつける。その一刀で和上は倒れ、塚田は和上の首級をとろうとしたが、襲撃に気づいて抜刀した斎藤青年によって右腕を斬られた。こんどは松岡が斎藤青年に斬りかかるが、彼も斎藤の逆襲で右の鬢を斬られて、いったんは闇の中に遁走する。しかし戻って和上の首をはねようとしたところを、その行動を先読みして物陰に隠れていた斎藤青年と斬りあいとなって、深手を負って逃げた。
 琳瑞も死ぬが、刺客の塚田も翌日には死に、松岡も七日後には死ぬ。なぜ琳瑞が狙われたのかわからぬままである。そして事件は伝通院側と刺客側とで早々に奇妙な決着の仕方をみせた。だから当時からこの事件の真相を解明しようとするものはいなかった。(続く)

【注】琳瑞の実家の細矢は時代によっては細谷となる。